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「浮世絵」と聞くと、全裸の金髪娘が目を丸くして「oh! UTAMARO!」と叫んでいる姿を思いうかべてしまうところが、重ねてきた年輪と品性の乏しさを示しているな。 いや、一度はいわれてみたいものだが、いかんせん自分のもち物が……ジッと○○○を見る、というヤツだな。 いかん、いかん。下作な話になってしまった。 世界に名だたる「浮世絵」から、こんな連想しかできないとは、我ながらなさけない。 「浮世絵名品展」と銘打ったポスターを前に、しばし猿のごとく「反省」していたことであった。 姫路市立美術館で開催された「浮世絵名品展」は、ポーランドのクラクフ国立博物館に収蔵されている浮世絵の里帰り展示であるという。 この博物館の浮世絵は、フェリクス・ヤシェンスキーという収集家が寄贈したもので、約五千点の浮世絵版画がおさめられているというから、たいしたものである。 その中から、美人画で有名な喜多川歌麿 ( ! ) のめずらしい武者絵「源頼朝図」が発見されたという。この作品が出品されていたかどうかは、わからぬ。 なにせ、このことを知ったのは展覧会のあと、自身のあまりの無知さに絶望し、その淵からもどるために買いもとめた書物によってだからである。 何にせよ、予備知識はあればより楽しい、こともあるということかな。 さて、無知というか無垢 (ものは言い様である) な目で浮世絵を見ると、考えていたほど、「美術」という感じはしない。特別な物という感銘はうけないのである。 ことわっておくが、自慢ではないが、鑑賞眼はない。「梅は咲いたか」でも書いたとおり、小唄を子守歌代わりにしか使えぬ、無粋人である。耳も目も鑑賞力がないとすると、あとは触覚、味覚、嗅覚となるが、自信をもって鈍いといえる。なにしろ、ものぐさ太郎である。 まぁ、感銘をうけないのは、鈍い感性のものぐさ太郎としては、当然かも知れぬ。それに、思ったより浮世絵とは、遠くのものではない。けっこう、目にしているのだ。 切手の絵柄にもつかわれている。なんと、ものぐさ太郎のくせに、幼少のころ、切手を収集していたのである。 じつは、まだ切手は集めている。だが、さすがにものぐさ太郎で、気のむいたとき、偶然、めずらしい切手が手に入ったときのみにアルバムをひらくていどである。 それに、昔、読んだ本の挿し絵が浮世絵調であったのを、なつかしく思い出した。といって、それほどの年齢ではないのだが。 たまたま、中学の図書館にあった「南総里見八犬伝」が古かっただけのことである。 ご存じだろうか、その昔、NHKで「南総里見八犬伝」という人形劇を放映していたことを。いや、幼い胸をときめかせながら見入ったものだよ。 影響をうけやすい単純な性格のものぐさ太郎が、数年のちに、その原作本を見つけたとき、手にとらないということがあろうか。いや、ない。 意味のよくわからぬ言葉も多々あったが、けっこうおもしろく読んだことをおぼえておる。 あまりに身近にあると、その価値がわからぬこともあろう。自身の無粋、感性のなさをいいわけするわけではないが、いいわけすることになるが、浮世絵に感銘よりも親しみ、馴染み、悪くいえば、めずしくもないといったものを感じるのは、そうした記憶のせいかもしれぬ。 いや、こうしたことは誰にでもあるものだろう。だからこそ、浮世絵の海外流出といったことも、時代背景もあったであろうが、おこったのではないかと素人は考えるわけである。 もともと、浮世絵は大衆が買いもとめたものだから、今でいえばマンガ本のような意識だったのだろうか。 そういえば、「北斎漫画」も中国陶磁器の箱のなかから、詰め物として使われていたものがフランスで発見されたのであった。 そう知ると、なんと日本人には物を見る目がないのか、と思いたくなり、実際にそう言っている人を見かけたこともあるが、日常的にそれほど海外で評価される物に接していて、評価の基準が高くなっていると考えれば、日本人の目は肥えていたともいえるのではないかねぇ。 さて、今回の「浮世絵名品展」で、一番印象にのこったのは、「団扇絵 (うちわえ) 」であった。その名のとおり、団扇 (うちわ) に貼るもので、長方形の和紙に摺られた絵は、団扇のかたちである。これから切って貼りつけるものだ。 もともと団扇絵は消耗品のため、ほとんどのこっておらず、版元が控えのためにとっておいたものなどが、少数のこっているだけらしい。 なぜに印象にのこったかといえば、切って貼ってというものが、幼少の頃にとっていた学習雑誌のふろくを思いださせたためである。 ふろくに弱いのは、今もおなじである。キャンペーン商品につられて、いつもとはちがう銘柄のビールとウイスキーを、数日前に購入したばかりであった。 それにしても、今回、幼少の話がよくでてきた。もう年かねぇ、あ〜、昔はよかった。一日中、寝ていても問題なかったのぉ。 |