★曲は「ゆりかごのうた」です★

 ある日のこと、職場の企画広報課のHさんから呼び出された。
「なんでしょうか?
 その人、こう言っちゃなんだが、どっちかっていうとあんまり笑顔も見せないし、命令口調だし、冗談も通じないし・・・で、いちのせは苦手だったのだ。
「はい、そこ座って」
 Hさんはおもむろに、地元では10軒に8軒がとっているといわれるローカル新聞を広げた。

「この『手鏡』って欄、読んだことある?」
 ちょうど2、3日前に興味ある題にひかれて読んだコラム。

「はあ、2、3回は読んだことありますけど」

「じゃあちょうどいい。君、これを書いてみよう」
「・・・は?」
 この話がきたのは確か夏コミ前。新刊の原稿に追われてたのと、職場も産休の人がいて、仕事の方も吐くほど忙しかったのとで、つい「これ以上〆切を増やさんでくれ
(^_^;)」と頭の中でさけんでしまったいちのせがそこにいた。
「今は書く人も増えたんで、だいたい月に1回程度だから楽なもんだよ」
「・・・へ?」
「新聞社から連絡がくると思うから。じゃ、よろしく」
「ちょっと待てーーー!!」(←声にならない叫び)
 その日のうちに新聞社のKさんが会いに来られましたが、彼女に「Hさんから役所らしくない文章を書く人だと聞いて」と言われて・・・ちょっと複雑。
 そう、いちのせの本職は公務員です。その中でも保健婦という職種。たいがいの人はどんな仕事だか知らないでしょ?資格としては看護婦の資格をとった上にもう1年専門学校へ行って、国家試験を受けて免許をもらってます。で、何をする人かといえば、市民の健康を守るための何でも屋。健康診査や予防接種、健康教室やら家庭訪問まで、企画・実施いたします。

 で、その活動のひとつとして、役所の出す広報誌に原稿を書いたりするんだけど、いちのせはお役所言葉が大ッ嫌いなので、キャッチフレーズをつけてみたり、なるたけわかりやすいことばをえらんでみたりはしていたんです。(お役所言葉が使えないだけだという話も・・・
(^_^;)
 妙にキャッチフレーズが受けてたらしい。(しかしうちの母には「変な文章!」と笑われたわ)

 とにかくなぜか企画広報課のHさんは評価してくれていたらしい。この日から半年にわたって、いちのせの〆切地獄が始まったのでした。

@ いまどきのまる子

・・・ねえ、これ何色?
「レッド」
 さすがいまどきの子供、色も英語で覚えているのかと、三歳になる近所の子を相手にちょっぴり感心。ところがグリーン、ブルー、イエロー、ピンク、ここまできてはたと気づく。TVのヒーローの名前に必ずついている色ばかりだったような気がするな。

 気をとりなおして、今度は絵本を開く。あらまあ、本いっぱいに大きなメロン。おいしそうね。よし、ひとつ食べちゃおう。ぱっくん。

「おばちゃん、本についているメロンは食べられないのよ」
 おちびさんのあきれかえった視線が、まっすぐに私に向けられている。ハイ、まったくその通り。言い返す言葉もございません。

 公民館いっぱいに響きわたる泣き声。子供たちには思いっきり嫌われる予防接種。痛がるあまり、お母さんに腕をもませもしない。若いお母さんは少しばかりもてあまし気味。

「まだ痛い?おかしいなあ、痛いのは窓の外に飛んで行っちゃったのに。ほらほら、あそこ!」
 目の前に立てた指で窓の外をさすと、ちょっぴりしゃくりあげながらも、とりあえずは泣き止んでくれる。

「痛いの、飛んでった?どこに?」
「ずーっとあっち。見えないかなあ」
 背のびまでして窓のむこうを探すけど、飛んでいった痛いのがみつかるはずもなく。

「見えないよ」
「おかしいね」
 きょとんと目を見開いたまま手を引かれて帰っていく子を見送って、いまどきのまる子ちゃんたちもまだまだかわいいものじゃないかと、胸をなでおろした次第。

1990.10.16.「日本海新聞」掲載

A散髪屋さん

 所要で近所の散髪屋さんに行った。幼い頃には、そんじょそこらの男の子より短い髪の毛をしていたものだから、毎月のように散髪屋さんに通ったものだ。なぜだかバリカンが大嫌いで、あの音が聞こえるだけで人一倍大きな声でオンオン泣きだす私のために、散髪屋のおばさんはいつも赤いヘアピンだのピンクのリボンだのを用意しておいてくれた。もっともそういったものをつけていても、いつも私は男の子に間違われてばかりだったのだけれど。
 小学校の高学年にもなると、さすがの私も散髪屋さんではなく美容室などというところに行くようになったから、あれほど通った散髪屋さんからはすっかり足が遠のいてしまった。バリカンの音も、顔を剃ってもらうときのナマ暖かい石けんの泡も、それ以来ご縁がない。

 十数年ぶりの散髪屋さんは昔とちっとも変わっていなかった。大きな鏡に向かって椅子がひとつ、横には「消毒室」と書かれた古いガラス扉があり、白いタオルの山が透けて見えている。後ろには待ちあい席があって、マンガ雑誌なんかが置いてあったはずだけれど、今は新聞とスズムシの入ったガラスケースに変わっていたことぐらいが変化といえば変化。そういえば、全体的にずいぶん小さくなっているような気がしたけれども、それは私の方が大きくなってしまったからだし。

「変わってないね」と見まわす私に、おばさんは「そうでしょう」といたずらっぽく笑ってから一言ぽつんと。「店を新しくしたところで、私がやめたらこの商売も終わりだからね」。

1990.11.17.「日本海新聞」掲載

B使用前後

 使用後はハンドルを押して水を流して下さい・・・。職場のお手洗いに座ると、目の前にはこう書かれたプレートがはりつけられている。今時水洗トイレに水を流すことを知らない人も少なくなっただろうとは思うのだけれども、日に何度かは無意識のうちにご対面しているので、よそのお手洗いに入っても必ず注意書きを読んでしまうのが癖になってしまった。
 先日、岡山市内のあるデパートでやはりお手洗いに入ったところ、かすかな違和感が私を捕らえた(というほど大げさなことではないが)。目の前にはられたプレートには、こう書いてある・・・使用前後はハンドルを押して水を流して下さい。ここではたと気がついた。都会のトイレは使用後だけでなく、使用前にも水を流すものなのかしら、と。
 振り返ってみれば、音消しと称して個室に入っている間中水を流し続けるご婦人が確かに多いようだから、このプレートはまさに現実に即した注意書きなのかもしれない。
 そういえば、以前某テレビ番組で「もったいない物」特集とかをやっていて、スタジオの観客に自分がもったいないと思ったものには「もったいない!」と叫ばせるという企画があった。時間切れで捨てられていくハンバーガーなどには大声で「もったいない!」と叫んでいた女子大生たちが、女性がトイレに入った途端に流れる水の音には、一瞬の沈黙のあとにぼそぼそとしか声をあげなかったものだ。
 環境保護も資源の浪費防止も、女性の見栄の前には何のその・・・といったところかしら。ちなみに私もその一員なのだけれど。

1990.12.15.「日本海新聞」掲載

Cひとりごと

 TVから大学入試の話題が毎日のように流れ出すと、私も十年ばかり前に大騒ぎしていたのを思い出す。
 高校三年生の二学期まで、私は典型的ないい子ちゃんだった。先生のおっしゃることには首を横に振ることができない、そんな私が反旗をひるがえしたのは進路の最終決定をくだす段になってから。私の成績では希望する学部は絶対に無理だから、同じ大学の教育学部に志望変更してはどうかとすすめられたのがコトの始め。
 世の先生方には大変申し訳ないのだけれど、私は教師になる気はまったく無かったので、合格しても入る気のないところをいくらすすめられても、第一志望を変えるはずもない。手をかえ人をかえ説得を試みる教師陣にたまりかねて、ついに
「もう学校なんか行かない!」
と言いだすに至って、両親が助け舟を出してくれた。
「自分の将来なんだから、思う通りにしなさい」と。
 結局、第一志望の大学には落っこちて、第二の希望だった専門学校に進み、今は専門職として勤めている。何年か前、その担任の先生にばったり出会ったとき、先生も
「あのとき志望変更しなくてよかったと思うよ」
と言ってくださった。
 違う道を進んでいたら、もっと違う人生が開けていたのかな、と思うこともあるけれど、自信を持って言えるのは、別れ道に立ったときに自分で道を選ぶことができたから今の自分でいられるということ。後悔しても失敗しても、人のせいにはできないのだから。
 道を選ばせてくれた両親に感謝。そしてがんばれ、受験生!

1991.1.21.「日本海新聞」掲載

D高校野球

 春は甲子園から・・・とか。今年も高校野球の話題が聞こえてくる。TVで受話器をとる校長先生とバンザイをする野球部員たちを見ていると、やっぱり素直に喜んであげるのが普通だよね、と考えこんでしまう。
 私の母校も在学中に二回甲子園出場を果たしたけれど、私自身はとうとう一度も応援には行かなかった。もともと野球が好きというわけではなかったし、ちょっとばかり野球部に対してはひねくれた感情を持っていたから。
 我が校は校内も下足のまま歩くようになっていて、おかげで放課後のろうかは砂だらけになる。それを毎日掃除するわけだが、ある雨の日のこと。三階から一階までの階段をようやく掃除し終わったなと思った瞬間、ユニホーム姿の野球少年たちが目の前を駆け抜けた。あとは階段に残る泥の山・・・。雨で外が走れないために、校舎内のろうかを走ってトレーニングしていたのだそうだ。
 おまけに掃除道具を片付けてクラブ活動に出てみると、弱小クラブの練習場は野球部の雨天練習場と化している。
 さわやかな汗と努力がトレードマークの野球少年くん。野球に打ち込んでいる姿はとっても素晴らしいし、見ていて気持ちがいい。けれど本当に素晴らしいのは、野球を通して鍛えた心と体を、まわりの人々に還元できること。甲子園というかくれみのに目の前をふさがれないで。『野球しか出来ない』人にはならないで。
 こんなことを書いていると、またひねくれた小言をついていると言われるんでしょうねぇ・・・。

1991.2.20.「日本海新聞」掲載

E子育てとリハビリ

 我が家には三毛猫がいる。よく子猫を産むので、お腹があいている暇がないんじゃないかと心配するのだが、本人(猫!?)はいたって元気。
 あるとき、もらい手も決まって乳離れを待つばかりの子猫が、外から侵入してきた野良猫にかまれるという『事件』がおきた。あわてて野良猫を追いはらったが、時すでに遅く、子猫の体は半身不随となっていた。動物の世界というのは厳しいもので、こうなると母猫は子猫を見向きもしない。子猫は死を待つばかりのように思われた。
 ここで登場するのが、二回ばかり前のお産で生まれてもらい手のないまま大きく育ち、しっかり我が家に居座ってしまったオスのトラ猫。
 子猫はなめてもらわなければ排泄も出来ないし、まひした半身のために動くことも出来ずに突っ伏したまま。それを兄猫が抱いて寝て、体中きれいになめてやる。母乳ばかりはオス猫ではどうにもならないので、母猫を押さえつけて飲ませたりもしたけれど、兄猫の子育てのおかげで子猫は生命をとりとめたのだ。
 子猫に元気が出てくると、兄猫は次に子猫を転がし始めた。ちょうど毛糸玉にじゃれるようにたたいたり、ひっくり返したり、けっこう遠慮なしに力を入れるので、子猫は部屋の中をあっちにコロコロ、こっちにコロコロ。すると、不思議や不思議!?何日かするうちに、まひした半身には力が戻り、ほどなく子猫はすっかり普通の子猫としてもらわれていった。向こうでは近所中の猫のボスになったとか。
 兄猫は、今も子育て中の母猫をのぞこうとしてはしかられている。

1991.3.「日本海新聞」掲載

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