ROUND AND ROUND
〜迷路の扉〜

 暗い蒼空に遠吠えが響く。それは聴く者の心を凍てつかせるかのごとく、氷原を切り裂いて、長く、低く、哀しく・・・。
 陽が沈むまでのほんの僅かの時間に、女神(アテナ)の生命と地上の平和を賭けて、極寒の地アスガルドの厚い氷壁すら、粉々に砕け散るほどの死闘が繰り広げられたのは、つい先刻までのこと。
 今は、アスガルドの人々には馴染みの、肌を突き刺す北風と、それにもまれて氷のかけらが冷たく閉ざされた大地を転がっていく音が、争いのあとを無情な優しさで覆い隠していくだけだ。
 ――黒い獣はうずくまっていた。
 仲間から見捨てられ、獣と共に育ってきた、ひとりの青年の側に。
 淡い色の長い髪はアスガルドの風に凍てついて、鍛え上げられた身体もすっぽりと薄い氷に覆われたまま、青年は静かに横たわっている。
 狼たちを見つめるとき、黄金色に輝いた瞳も今は固く閉ざされて、暖かな仲間の求めに応じることもない。
 人としては不幸だったのかもしれぬ――。しかし、人々には忌み嫌われる獣たちと共に生きる彼の瞳は、確かにこのうえなく明るく輝いていたのに。
 その生命を終えてしまった抜け殻は、もう動くことはない。
 傷ついた狼たちもまた、息絶えた青年の側を一歩も離れず、凍てついていくのであろうに――。
◆     ◆     ◆
「なあ、紫龍」
 珍しく二人だけでとった夕食。
 いつもなら、瞬や氷河たちも一緒で、二人だけでとる機会など滅多にない。そして、そのあと、こうやって思い思いにくつろげることも。
「紫龍ってば」
 あの紫龍が、星矢の呼びかけに答えない。
 いつもの紫龍なら、人の言うことにはじっくりと耳を傾けてくれる。ましてや、仲間たちの中でも紫龍がいちばんかわいがっている星矢の言葉なら尚更のこと。
 しかし。今の紫龍は黒目がちの目を伏せ、じっと窓の外を見つめている。
「紫龍!」
 眉をひそめて、星矢が紫龍の肩に手をかける。一瞬、ぴくんと彼の肩が跳ね上がった。その勢いに思わず星矢も手を引っ込める。
「あ・・・あ、星矢か。すまん、何か用だったか・・・?」
 今度は星矢の方が答えずに、じいっと紫龍の顔を覗き込む。
「お・・・いおい星矢。一体どうしたっていうんだ・・・?」
 無意識のうちに目をそらして、紫龍は自分の頬が微かに熱くなっているのを自覚する。
 が、それにはまったくおかまいなしに紫龍をまっすぐに見つめたまま、星矢は両腕を組んだ。
「おかしい!絶対におかしい!」
 思い込んだら一直線!の星矢である。もう紫龍に人生相談でも始めそうな勢いで身を乗り出す。
 こうなっては紫龍もひとこと、ふたこと、口を割るしか逃れる術はない。
「なに・・・たいした事じゃない。ちょっと、ここしばらく夢見が悪くて――」
「夢見が悪い――?一体、どんな夢を見るのさ?」
 問われて、紫龍は眉を寄せる。
「いや・・・それが、よく覚えていないんだが・・・。とにかく、ひどくいやな気分になる」
「ふぅ・・・ん?」
 どんぐりまなこをますます大きく見開いて少し首をかしげた星矢は、年齢より幼く見えて、紫龍の強張った心をやんわりとほぐしてくれる。
 ようやく紫龍の口許にうっすらと笑みが浮かぶ。
「よし、決めた!」
「え・・・?何を・・・?」
 満面に笑みをたたえて星矢が答える。
「俺が紫龍の夢の番人をしてやる。今夜、一緒に寝ようぜ」
◆     ◆     ◆
 くーくーと気持ちよさそうに寝息をたてている星矢を苦笑まじりに見下ろして、紫龍はかすかに溜息をつく。
 ――いいか、紫龍。今夜は俺がついているからな。なんの心配もせずに寝てていいぞ。
 偉そうに宣言して紫龍のベッドに転がった星矢が眠るのには、ものの五分もかからない。
 その、あまりに幼い心遣いに、ほほえましさと、そしてかえって深い彼の思いやりを感じとることが出来る。――紫龍にしてみると、穏やかならぬ思いに、どちらかといえば眠気がふっとんでいくのだが。
 ――確かに今夜は、星矢が悪夢など退治してくれそうだな。
と、紫龍はひとりごちる。
 正直言って、ここしばらくは眠りに落ちるのが怖かった。意味もなく不安に駆られ、知らない間にかけがえのないものをこの両手からぽろぽろと落としていく喪失感に潰されそうになる。
 だが、今こうして星矢の安らかな寝顔を見ていると、恐れることなどないような気がしてくる。
「ありがとうよ、星矢」
◆     ◆     ◆
どんな闇の中にいても
自分がなにもかも失ったつもりでも
俺が俺であるかぎり
必ずお前がいてくれるから
何が見えないというのだろう
何を失ったというのだろう
俺が俺であるかぎり
必ずお前がいてくれるのに
◆     ◆     ◆
 「紫龍」
 星矢の見慣れた顔。大きな瞳がまっすぐに自分を見詰めている。
 ――違う。
「紫龍ってば」
 小首をかしげて訝しげに口を開く。
 ――違う。
 その栗色の瞳に自分の姿は映らない。自ら輝きを持たない瞳は星矢が星矢でないことをはっきりと物語っている。
「誰だ――?」
 押し殺した声の問いかけに、星矢の姿をしたものは、輝きのない目をにっこりと微笑ませる。
「なにバカなこと、言ってんだよ!?」
 何のためらいもなく、紫龍の腕をとろうと延ばした手を、紫龍はぴしりと払いのけた。
 彼に対してしてはならぬこと。
 何を許そうとも許せないこと。
 微笑さえ浮かべてそれをやってのける相手に、言いようもない怒りが湧き上がる。
「誰だッ!お前は」
 普段は声を荒げない紫龍の怒号。それに対する答えは――。
「!」
 一瞬の風と共に、紫龍のまわりの空間がズタズタに切り裂かれて宙に舞った。
「くそッ!」
 ゆらゆらと深緑の小宇宙が紫龍の身を包みだす。長い黒髪が水に抱かれたように妖しげにさまよい、揺れる前髪の間からのぞくその瞳は、深い蒼の輝きをたたえている。
 ――一体、何者だ!
 触れる者は何人たりとも許さない。星矢ならぬ星矢の幻影が彼の小宇宙を怒りにまかせて燃やしていた。
 が・・・。龍の鱗のように紫龍を覆った小宇宙をなんなく突き抜けて、その腕に自らの腕を絡める者がいる。
 熱く激しいが、明るくまっすぐな小宇宙。
「星矢――」
 他の者と見まちがうことはない、未来を見つめる希望に満ちた大きな瞳。
 今度こそ本当の天馬が龍の腕をしっかりと捕らえている。
「星矢、あぶな――」
 紫龍の口が開くのと、乾いた音と共に再び空間が切り刻まれたのとはほぼ同時。
 反射的に星矢の身を庇った紫龍の背にざっくりと赤い筋が走った。
「くッ!」
 敵の気配を察知して振り返ろうとした彼の身を、星矢の腕がしっかりと抑えて離さない。
「星矢!?」
 背後に敵の小宇宙。狙う獲物は、天馬に捕らえられた龍一匹。
 星矢の行動が理解できず、驚愕に眼を見開く紫龍を、星矢はいつものまっすぐな瞳で見据えるだけ。――その瞳はいつもよりほんの少し哀しげだったような気もするが。
 何かの砕け散るような音。自分の意識を、何者かが遠慮会釈なくかきまわしていく。
「や・・・め・・・・・・」
 目の前を稲妻が駆け抜け、耳鳴りを遠くに聞きながら、紫龍は身体中の力を失った。
◆     ◆     ◆
 「廬山昇龍覇――!」
 力強い拳がまわりの邪悪な気を吹きとばす。甲高い悲鳴と共に砕け散っていく影たち。
 もうどれくらい戦い続けているのだろう。
 いつまで戦い続けねばならないのだろう。
 倒しても倒しても、敵はいくらでも現れる。
 自分は言った何をやっているのだろう。
 くすくすと声を殺した笑いが漏れる。
 反射的にそちらに拳を向ける。ぱっと闇が飛び散った後に残ったのは、冷たい銀の長い髪と、同じ色の戦装束に身を包んだ若い女の姿。
「女――!?」
 あわてて拳を引っ込める。そのためらいに乗じて、まわりの影がわらわらと紫龍に襲いかかる。エメラルドに輝く小宇宙がその影を焼き払う。
 焼き尽くされて崩れ落ちていく闇を見ながら、再び女がくすくすと笑う。
「何がおかしい」
 肩で息をつきながら、紫龍はわけのわからぬいらだたしさに囚われていた。少女のくすくす笑いが妙にかんにさわる。
「君は誰だ。なぜこんなところにいる」
 口を開きながらも、襲いくる影を打ち払い続ける。
「あなたはなぜ戦っているのです?」
 つと、拳をふるう腕が止まる。
 もうどれくらい戦い続けているのだろう。
 いつまで戦い続けねばならないのだろう。
 倒しても倒しても、敵はいくらでも現れる。
 自分は一体何をやっているのだろう。
「俺達は女神を守り、この世の邪悪を打ち払い、地上に平和をもたらすために戦うのだ」
 少女がその白く細い腕をすっと天にかざす。
 途端に今まで紫龍に襲いかかっていた影たちはざっと音をたてて両脇に引き、小さな塊と化した。
 後は、少女の姿と同じ色の、目を射るような銀の光。
「教えてください」
 少女の凛とした声が響く。
「私たちの何が邪悪なのです。あなたたちと道こそ違え、私たちは私たちの正義を生きてきたのに。闇の世界にあっては闇が正義。銀の中にあっては金色こそが邪悪。私たちの平和な生活を引き裂いたのは、ほかならぬあなたたちではありませんか」
「それは違う!」
 銀色の光の中で、紫龍の放つ透き通った深緑の小宇宙が激しく揺らめく。
「真実は常にひとつ。正義もまたしかりだ。全ての人々が心のままに手を取って生きていくことの出来る世界、争いや悲しみのない世界をつくるために、俺達は戦うのだ。闇の中では闇が正義などと、それは光を得る努力をしないものの自己正当化にすぎん」
 哀しげな溜息がひとつ、それに呼応して闇たちもざわざわとうごめく。
◆     ◆     ◆
光があるからこそ
闇も存在するのだということを
光の中で生きたくとも
闇にとっては光そのものが死なのだということを
どんなに言葉をつくしても
闇の叫びは光の中には届かない
◆     ◆     ◆
 「この地上は女神のものだとでもいうわけだ。逆らう者は人ですらないと・・・」
「俺達は好んで戦っている訳ではない。地上の平和を守るために、やむをえぬ戦いをしているまでだ」
 闇の中からすすり泣きが聞こえる。幼い子供の頼りなげな声。
「見るがいい」
 少女の指し示す闇の中には、膝を抱えて背中を丸めた小さな子供。
「子供を人質にとるのか!?」
 いらえはない。すすり泣きに呼応して、紫龍の小宇宙が大きく燃え上がった。
「許さん!」
 銀の光の中、竜王が昇る。闇をめがけて一直線に。拳が子供のまわりの闇を粉々に打ち砕き、その緑の小宇宙でやさしく少年を抱きとったとき。
 振り向いた少年の顔は――。
「フェンリル――?」
 アスガルドでの戦いで、人を信ずることの出来ぬかれと戦った。早くに肉親の温もりを失った者同志、理解しあえる筈と説得したが、成し得なかった。
 そして、この拳によって帰らぬ人となった――。
 その彼が今ここにいるというのなら。もう一度わかりあえるチャンスがあるというのなら。今度こそ俺達は仲間になることが出来る。
 闇たちが紫龍に襲いかかる。小宇宙を燃やしそれらを打ち払うたびに、紫龍の腕の中でフェンリルが傷ついていくのが紫龍にはわからない。
「あ・・・う・・・」
 噛み殺したような嗚咽に気づいたときにはすでに遅い。
 幼いフェンリルは憎しみを剥き出しにした瞳で紫龍を睨み返し、彼の腕を振りほどいた。
「フェンリル!」
 フェンリルはためらいもなく闇に向かって飛び込んで行く。
「ギング――!」
 闇はすっぽりとフェンリルを抱きとめた。光に傷ついた彼を慈しむように、もう光になど触れさせまいとするように、静かに闇が広がっていく。
◆     ◆     ◆
光があるからこそ
闇も存在するのだということを
光の中で生きたくとも
闇にとっては光そのものが死なのだということを
どんなに言葉をつくしても
闇の叫びは光の中には届かない
◆     ◆     ◆
 銀の少女の哀しげな声が、紫龍の心を追いたてる。
 ――せいぜいお前の信じる正義とやらのために戦うがいいさ。いつかお前たちの望む平和な世界が実現したとき、生あるものすべてが、お前たちを心の底から憎むだろうさ。
◆     ◆     ◆
 「星矢――」
 うなだれた少年の頭を、大きな手がぽん、と叩き、くしゃくしゃとかきまわす。
 ベッドの上で、疲れきったように眠り続ける紫龍の蒼ざめた顔をちら、と見遣って、一輝は星矢が自分の腕をつかむにまかせる。
「――見なきゃよかった」
 腕にすりよせた頬が濡れている。
「紫龍が苦しんでるのがわかってるのに、俺、なんにも出来やしねェ。一輝に頼んで紫龍の中でくすぶってるものをぶちまけさせたけど、かえって辛い思いをさせただけじゃないか。俺ってサイテー・・・」
「それは違うな」
 深みのあるゆっくりしたしゃべり方。
「紫龍!」
 思わず星矢が腰を浮かす。黒い瞳が星矢を見つけて微笑んでいた。
「頭で納得していても、心では納得しきれないことがある。自分でも知らないうちに苦しむだけくるしんで、それなのにちっとも自分自身は成長出来ないんだ」
 さしのべられた紫龍の手に、星矢の両手が添えられる。
「自分が何に苦しんでいるのかすら、わからなかった。でも、ようやくそれが見えた」
「だけど・・・」
 星矢の手に力がこもる。
「だけど、よけいに辛い思いをさせちまった。なんの手助けも出来ないのに、俺、紫龍に辛い思いばっかりさせて――」
 星矢に握られた紫龍の手がそっと上がって、人差し指で思いのほとばしる唇を制する。
「俺は龍星座、ドラゴン紫龍だ」
 彼の言葉はあくまでも穏やかである。
「俺は自分が何に苦しんでいたのか知った。あとは、自分の中で答えをつかみとっていくだけだ。聖闘士ならきっと、こんな壁くらい乗り越えてみせるさ」
「紫龍――」
 どんな苦しみも前向きに乗り越えていってしまう天馬の小宇宙。
「きっかけをくれたのはお前だ、星矢。心から礼を言う。――ありがとう」
◆     ◆     ◆
ああ 迷路の扉 この手に触れてくれ
ああ 心の壁よ 自由にさせてくれ
ROUND AND ROUND

■   ■   ■
 

きゃ〜!恥ずかしい。
 むっちゃ古い作品をお目にかけてしまいました。
 星矢放映中の1989年7月につくった本ですから(^_^;)。
 アスガルド編で妙に自分たちの掲げる「正義」にこだわって、何一つ相手を受け入れる余地のないブロンズたちにすごく反発を感じていたのです。おまけにゴッドウォリアーの中でいちばんお気に入りだったフェンリルが、「不幸比べ」のあげくに紫龍に倒されて、紫龍も「こんな奴、倒されて当然」みたいな態度だったので、よっぽどあんたの方が極悪人に見えるよ、と憤ってつくった物語でした。
 ので、起承転結がありません。
 いちのせが個人サークルを始めて初めてオフセットで出した本でもあります。
 実はこの本のイラストを描いてくれた香南ちゃんのあとがきマンガがめっちゃお気に入りなのだが、それは当時本を買ってくださった貴重な方への特典にしておきましょう。

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