歌姫


一、失踪

「次のニュースです。世界の歌姫と呼ばれている歌手、緒川夜詩江さんの行方は未だ分か
らないままとなっています。彼女の所属するレコード会社では…」

 私は彼女の行方を知っている。正確には、「もう一人の彼女」の居場所だ。「歌姫・緒川
夜詩江」はもう死んだのだと、彼女は言う。力なくそう呟いた女性は「小川好江」。歌と
言う彼女を包む服を捨てた、裸の彼女の姿である。
 私が初めて彼女に会った時、彼女はすでに「夜詩江」だった。素晴らしく澄んだ目は、
いつも明るく前向きだった。誰もが微笑むその笑顔は太陽を思わせた。そして何よりその
歌声は、くだらない恨みや憎しみの心など、全て拭い去ってくれるような印象を与えた。
お互い新人として初出演の歌番組に出た時、「この子には絶対勝てない。」と思った。でも
不思議な事に、彼女に嫉妬した事は一度もない。私自身、彼女のファンになってしまった
のだ。そして、彼女も私に心を開いてくれ、辛い時はよく相談に来た。しかし、今回の事
については一切答えようとはしない。ただ、居場所を教えてくれた事を考えれば、今でも
彼女はやはり私を信用してくれているのだろう。彼女の居場所を知る者は、私を含めて五
人もいない。

「私が映ってる。」
 ふとテレビに目をやると、夜詩江と私が並んで立っていた。あの、夜詩江と初めて会っ
た歌番組の映像だ。どうやら夜詩江のデビュー当時からの軌跡を追う特集らしい。
「デビュー曲からその圧倒的な表現力は存在し、売上は三百万枚を記録した。彼女の一番
の魅力は、聴く者の心にストレートに訴えかけるその表現力だろう。それに加え歌唱力、
包み込むような美声と、彼女はまさに非の打ち所のない歌手だったと言えよう。そして、
彼女を『世界の歌姫』にしたのは、デビュー翌年、彼女の歌声に惚れこんだアメリカの名
プロデューサー、ジョージ・スミスである。ジョージは…」
 夜詩江はアメリカ進出、そしてアジア、ヨーロッパと、世界に向けて売り出されて行く
事をとても喜んでいた。もちろん私もそう言う話があれば喜んで飛び付くだろう。だが、
彼女の場合は何かもっと違った意味合いを持っていたようにも思えた。それが何だったの
かは分からない。
「こうした彼女の活躍を影で支えていたのは、同期で歌手デビューした佐藤麻子だ。緒川
と佐藤はプライベートでも仲が良く…」
 私の事だ。私と夜詩江が仲の良い事はかなり知られているらしい。だから彼女が失踪し
た時、レコード会社の関係者やマスコミ、警察と、毎日様々な人が私の所へ押し寄せた。
失踪から三ヶ月が経つ今でも、その波は絶えない。だが、私を信用してそっと居場所を教
えてくれた彼女を裏切る訳にはいかなかった。携帯の番号も知っている。もちろん失踪前
も携帯は持っていたが、その当時の携帯は電源を切りっぱなしだ。他人名義で新しく手に
入れた携帯、これで私達は時折連絡を取っている。だが、私はあえて今までの番号と分け
て、自分の電話に登録している。二週間に一度の割合で電話をくれる「小川好江」と、も
う二度とかかる事もないかもしれない「緒川夜詩江」とにだ。

二、忘れ物

「お疲れ様でした。」
 今日は六ヶ月ぶりとなる新曲のレコーディングの日だった。いつもに比べれば大分スム
ーズに出来た方だろう。私は夜詩江と違い、それほどヒットした事はない。デビュー二年
目辺りにピークを迎え、三年半が過ぎた今はもう下り坂だ。ヒットランキングに食い込む
事はもうないかもしれない。こんな私でもやって行けるのは、社長に気に入られているか
らだろうと思う。私のレコード会社の社長は三田光治と言って、自分自身、かつては歌手
だった。しかし決して成功したとは言えない。そして彼は、「発掘」する側に身を置く事
にした。今度は大成功を収めた。日本の音楽会をリードするようなバンドや歌手を数多く
送り出している。私も彼に「発掘」された一人だ。しかし、私は成功だったとは言えない
だろう。それでも私を信じてくれている事は、もちろん嬉しいのだがそれ以上に申し訳な
かった。

「それじゃ、麻子ちゃん、明日は雑誌の取材ね。それから夕方以降、『ミュージックモー
ド』の打ち合わせも入ったけど平気よね?」
「あ、はい、大丈夫です。それじゃ、お疲れ様でした。」
 マネージャーの永田ハルカさんも感じの良い人だ。ハルカさんは邦楽、洋楽を問わず、
音楽に関しては異常なまでに詳しい。私もそこそこ詳しいとは思っていたが、ハルカさん
はそれ以上で、深い話になると全くついて行けない。
「あ、待って。忘れてたわ。これって、あなたの?」
 見覚えのあるノートだった。中を開けると、一ページ目だけ少し書いてあって、他は真
っ白だ。下ろしたてのノートだろうか。この字は…、紛れもなく夜詩江の字だった。何度
も手紙を交換しているからすぐ分かる。でも、夜詩江のノートがどうしてこんな所にある
のだろう。
「これ…、どこにあったんですか?」
「さっきのスタジオよ。やっぱり麻子ちゃんの?」
「あ、はい、そうです。ありがとうございます。」
 私は咄嗟に嘘を付いてしまった。このノートをもっとちゃんと見たかったからだ。
「良かった、あそこのスタジオって結構管理がルーズだから、忘れ物とかすると、よくそ
のままになっちゃうみたいよ。気を付けてね。それじゃ、また明日。」
「はい、おやすみなさい。」
 とすると、夜詩江がここに来た時の忘れ物なのだろうか。確か失踪直前、彼女はレコー
ディングをしている。珍しく日本での録音で、確か場所は今日のスタジオだ。有り得ない
話しではない。とにかく家に帰って、中をゆっくり見てみようと思った。何か、このノー
トがひどく重要な物に思えたからだ。

三、メッセージ

 シャワーから出て、ふと携帯を見ると留守電が入っていた。着信記録は…、「小川好江」。
「もしもし、好江です。今日、レコーディングだっけ?お疲れ様。ちょっとしばらく連絡
取れそうもないの。また私から連絡するから…、ごめんね。」
 この三ヶ月で同じような事は何度かあった。彼女は苦しくなると全ての人との関係をシ
ャットアウトしようとする。こういう部分に関しては、少なからず昔からあった気がする。
そっとしておく事の大切さは、もう充分分かっていた。今は次の連絡を静かに待っている
べきだろう。
 ソファーに腰を下ろし、さっきのノートを開いて見た。たった四行、言葉が綴られてい
る。詩のフレーズのような感じだ。

『必ず太陽が昇るならば
 昨日がもう帰って来ないなら
 より道しても前に行くしかない
 だから彼女は待つ事をやめた』

 夜詩江も詩を書くが、これはどうも彼女の詞ではなさそうだ。彼女は詩に平仮名を多く
使う。彼女なら「必ず」は「かならず」、「待つ事」は「待つこと」と書くだろう。夜詩江
には、気に入った詩をノートに書く癖があった。それもいつも同じ詩を書いているらしい
のだが、私はそれを見た事はない。もしかしたら、これがその詩なのかもしれない。そう
思って、今度は声を出してもう一度読み直して見た。
「これは『歌詞』だ…。」
 直感的にそう思った。単独の『詩』と言うより、『歌詞』だと思った。でも、誰の何て
いう歌なのだろう。私には見覚えは全くなかった。ハルカさんなら分かるだろうか。明日、
聞いて見よう。
 それにしても、夜詩江はどうしてこの詞を書いているのだろう。詞を気に入ると言う事
は、どこか共感出来る部分があると言う事だろう。夜詩江は、何かを待っていたのだろう
か。だとすれば、何を待っていたのだろう。

四、小さな丸い好日 その一

 歌番組『ミュージックモード』の打ち合わせは予定より時間がかかってしまった。しか
し、久しぶりの歌番組だ。やはり歌番組の影響力は大きい。このチャンスをしっかり生か
そうと思う。今度の新曲の売上げ向上に繋がれば、三田社長やハルカさんへの恩返しにも
なる。
「それじゃ、今日もお疲れ様ね。また連絡入れるわね。」
「あ、ハルカさん、ちょっと待って下さい。ちょっと聞きたい事があるんですが…。この
詞って知りませんか?」
 私は昨日の、たった四行の詞を見せた。手帳に写して来たのだ。
「これ…、何か知ってるのよね…。でも…、なんだったかなあ…。ごめんね、ちょっと思
い出せない。どうしたの?」
「え、あ、いえ。ちょっと気になって…。すいません、そんな謝らないで下さい。」
「うん…、ごめんね。それじゃ、またね。おやすみ。」
「はい。お疲れ様でした。」

 電話がなったのは、家に帰り付く直前だった。
「麻子ちゃん、思い出したわよ。それ、aikoっていう歌手の曲。確か『小さな丸い好日』
っていうアルバムに入ってるわ。曲名は思い出せないんだけど…。」
 aikoという歌手は名前しか知らなかった。私が子供の頃流行っていた歌手だったと思う。
「そのアルバムって、持ってるんですか?」
「持ってるわよ。今度貸そうか?」
「今…、今貸してもらえませんか?」
 さすがに驚いたようだった。自分自身、迷惑なのは分かっていたのだが、少しでも早く
その曲に触れたかった。
「分かったわ。じゃ、今から車でそっちに向かうから。」
 快く答えてくれる。昔からハルカさんはこうだった。だからいつもつい甘えてしまう。
幸い私とハルカさんの家はそれ程遠くはない。しかし、打ち合わせが延びた事もあり、ハ
ルカさんの車が着いた頃には、外はもうすっかり明るくなっていた。
五、小さな丸い好日 その二

 アルバムを見てみると、十一曲入りの物だった。さっそく歌詞の掲載されているブクレ
ットを開き、例の詞を探す。一曲目…、違う。二曲目…、ここにもない。ここまで見ると、
かなり明るくポップな印象を受ける。あの詞から私が思い浮かべていたイメージとは、少
し違っていた。四曲目…、あった、これだ。あの詞はこの曲の冒頭部分だったのだ。曲名
は…、「歌姫」。すぐに再生して見る。静かなピアノからゆっくり始まる。次にドラムが入
り、続けて声が重なる。

『必ず太陽が昇るならば
 昨日がもう帰って来ないなら
 より道しても前に行くしかない
 だから彼女は待つ事をやめた
 あたしの小さな手ぬくい手は
 あなたを暖める為にある
 あたしの照れくさい言葉には
 傷つきやすいあなたの為にある

 「神様 あなたはいるのでしょうか?」』

 私は何度か繰り返し、この曲を聴いた。好江の、いや、夜詩江の姿を重ねながら。

六、好江の告白 その一

 好江から連絡が入った。伝えたい事がある、好江はそう言った。明後日は例の歌番組が
ある。だが今日ならまだ時間も取れる。私は彼女から聞いた場所まで車で飛ばした。そこ
は初めて聞く地名で、初めて見る類の場所だった。山の中にある小さな家だったが、どこ
か寂しげな雰囲気を持っていた。ここだけ世界が違うような、そんな空間だった。
「早かったね。」
 確かに思っていたより早く着けた。夜になると思っていたが、まだ夕方の五時を少し過
ぎた程度だ。
「うん、道、空いてたしね。ところで話しって?何かあったの?」
「うん…、麻子には全部話そうと思って…。」
 目が赤い。それにクマも出来ている。夕べは眠れなかったのだろうか。思い詰めたよう
な表情のまま、彼女は話し始めた。
「麻子にはね、いつも迷惑かけてばっかりだから、本当の事、ちゃんと話そうと思ったの。
私…、世界の歌姫なんて言われてきたけど、そんな事…、ない…。」
 かなり感情が昂ぶっているようだ。体が震えている。
「落ち付いて、ゆっくりでいいから。私、今日は時間あるから。ゆっくり話して。」
「うん、ありがとう…。私…、今までずっと、みんなのためになんて歌ってなかった。ず
っと…、一人のためだけに歌い続けてたの。それなのに…、世界の歌姫なんて言われて…。」
「一人って?」
「私の…、昔の恋人。私にとって最初の恋人で…、最後の恋人なの。他の人なんて愛せな
いから。でも…、いなくなっちゃったの…。」
 そう言うと彼女は泣き出してしまった。彼女がこれ以上話せないのは、誰の目から見て
も明らかだろう。
「好江、もういいよ。続きは明日にしよう。今日は私、ここに泊るよ。」
「え?でも、平気なの?明後日、ミュージックモードでしょ?」
「うん、久しぶりの生放送。でも明日は夕方までに戻れれば平気なの。だから大丈夫よ。」
「ありがとう…。新曲、私も早く聴きたいな。テレビ見るからね。」
「はは、照れちゃうな。がんばらないと。」
 私達は有り合わせで作った夕食をとり、九時ごろにはもう寝る事にした。蒲団の中で、
さっきの好江の言葉を思い出して見た。「いなくなった」と言うのはどう言う事なのだろ
う。ただ単に失恋と言うのとは違うように思えた。彼女が「待っていた」のはその恋人だ
ったのだろうか。そして、彼女はどうして歌手の道を選び、そして捨てようとしているの
だろうか。私は今まで、彼女と仲良くして来たが、本当は彼女の事を何も知らなかったの
かもしれない。彼女の歌声に魅了され、彼女の傷に気付いてやれなかったのではないだろ
うか。そう思うと悲しくなった。
七、好江の告白 その二

「彼はね、すごいお金持ちの家の一人息子だったの。だから、最初から私なんて相応しく
なかったのかもしれない。」
 昨日とは違い、かなり落ち付いた様子でゆっくり話す。彼女の少女時代が苦労の連続だ
った事は前に聞いた事がある。元々貧しかった上に、母親はいなく、父親も滅多に帰って
来ないと言う暮らしを、なんと彼女は小学生の頃から送っていたのだ。世話をしてくれる
親戚もいなかった。友人も少なかったと言う。
「それでも彼は私を大切にしてくれて、いつかは一緒に暮らそうって言ってくれた。だけ
ど…、彼の家族は私との交際を許さなかったの。それでも私達は一緒にいようとしたんだ
けど、ある日私宛に彼のご両親から手紙が来て…、もう会わせないって、ちゃんと許婚も
いるからあなたみたいな人と交際させる訳にはいかないからって、そう書いてあって…。
結局それ以来、一回も彼に会ってないの。会えなくなっちゃったの。」
「会えなく、って…?」
「多分、ご両親が経営する会社の、海外の支社に回されたんだと思う。どこの国か、見当
も付かなかったけど。こっちから連絡取りたくても出来ないし、いくら待っても彼から連
絡も来なかった。私もその後引っ越しちゃったから、お互いもう、どこにいるかも分から
なくなっちゃって…。」
 そこまで話すと、好江は軽くため息をついてから冷めたコーヒーに手をやった。そして、
急に明るい口調になってこう続けた。
「その彼がね、きっかけなの。私が歌手になろうと思った。」
 彼女の笑顔は無理に作っているように見える。
「彼は私の歌声をすごく気に入ってくれてたの。絶対歌手になれるって、そう言ってくれ
てた。私は歌手になんてなろうともなれるとも思ってなかったから、ただ笑ってた。でも、
彼がいなくなった時、私がもし有名な歌手になれれば、彼が私を見つけてくれるって思っ
たの。世界中どこにいても気付いてくれるような歌手になろうって、そう思ったの。」
 なるほど、好江が世界進出を決めた時、必要以上に喜んでいるように見えたのはそう言
った理由があったのか。そして彼女のあの表現力は、皆に向けて歌うのではなく、ただ一
人を深く深く想いながら歌っていたからだったのだろう。
「でも…、もう歌う理由が無くなっちゃった…。」
「え?どういう事?」
「彼ね、死んでたの、ずっと前に。」
八、誰かの為に

 仕事場へ向かう車の中で、好江との会話を思い出していた。好江の彼は、やはりいなく
なった後海外に行っていた。厳しく管理される中、機をうかがい、急いで日本へ、いや、
好江の元へ戻ろうとしていたが、その際に慌てて飛び出した道で、不運にも彼は朽ちる事
となってしまったのだ。好江が夜詩江になる前の事だった。
 最近になるまで、好江はその事を聞かされていなかった。その知らせを持って来たのは、
数少ない彼女の当時の友人だった。そして彼女は、歌う意味を無くしたのだ。
「私、もう聴いて欲しい人もいないし、それにね、もうこれ以上皆を騙せないよ。」
「え?騙すって?」
「だって騙してるみたいでしょ?ただ一人のために歌い続けてたのに、世界の歌姫なんて
…。私、皆が思ってくれてるような人じゃないから…。」
「でもね、みんなはあなたを待っているのよ。」

 カーオーディオで「歌姫」を流して見る。彼女がこの曲を愛した理由が分かって来た気
がする。

『必ず太陽が昇るならば
 昨日がもう帰って来ないなら
 より道しても前に行くしかない
 だから彼女は待つ事をやめた』

 彼女は待つ事をやめ、歌う事を選んだのだ。しかし、もう彼女は歌わないのだろうか。
もう彼女は前に進まないのだろうか。私は、彼女に何かしてあげられないのだろうか。
九、歌姫

 ミュージックモードは毎週高視聴率をマークする番組だ。生放送であるため、その進行
には非常に細かいチェックがされる。遅れは命取りとなる。それは分かっている。私もこ
の番組は初めてではない。しかし、私は私の歌手生命を賭けてでも、今日はそれを壊すの
だ。私に出来る事、私にしか出来ない事をするために。

「それでは、次は佐藤麻子さんです。スタンバイはよろしいようですね?では、歌ってい
ただきましょう。新曲の「追想」です。」
 バックバンドのメンバーと目配せをする。みんなもう覚悟は出来ているようだ。ほとん
ど全員がデビュー当時から一緒にがんばって来た顔ぶれだ。前の方を見るとスタッフが早
く始めるよう指示を出している。私は一呼吸置き、マイクを握り締めた。
「夜詩江、見てますか?みんながあなたを待ってるの。分かるでしょ?そして、誰よりあ
なたを待ってるのは…。」
 スタッフがざわついているのが分かる。その中の一人が立ち上がった。止められる?す
かさずピアノが入る。曲を始めてしまえば強行出来るかもしれないと言う、気休めのよう
な作戦だった。
「どう言う事だ?余計なMC入れた上に曲が違うじゃないか!チーフ、止めますよ、いい
ですね?」
「いや、いい、止めるな。この方が数字が稼げる。」
「夜詩江、あなたのために歌います。『歌姫』」

『必ず太陽が昇るならば
 昨日がもう帰って来ないなら
 より道しても前に行くしかない
 だから彼女は待つ事をやめた
 あたしの小さな手ぬくい手は
 あなたを暖める為にある
 あたしの照れくさい言葉には
 傷つきやすいあなたの為にある

 「神様 あなたはいるのでしょうか?」

 泣いて泣いても叫んでも届かない想い心ごと
 届けるが為に枯れるまで 彼女は歌う
 憂鬱な恋に混乱した欲望と頭を静めよ
 頬を赤らめて瞳を閉じて がんばれ歌姫

 幼く臆病な体でも
 大きく傷をおった背中でも
 ゆずれず胸にひそむ意思がある
 だからため息吸い直した
 
 「神様 あたしに笑ってみせて」

 泣いて泣いても叫んでも届かない想い心ごと
 届けるが為に枯れるまで 彼女は歌う
 おじけづいてた爪の先がありのままの文字をつづった
 ミツメテ コワシテ ダキシメテ あなたの所へ…

 泣いて泣いても叫んでも届かない想い心ごと
 届けるが為に枯れるまで 彼女は歌う
 憂鬱な恋に混乱した欲望と頭を静めよ
 頬を赤らめて瞳を閉じて がんばれ歌姫』
十、エピローグ

「それから楽屋に帰ってみるとね、携帯電話に着信があったんですよ。名前を見ると、『小
川夜詩江』って出てたんです。ええ、『好江』じゃなくて、『夜詩江』だったんです。私は
あの時、夜詩江の事だけを思って歌いました。夜詩江が彼を想って歌ったようにね。」
「それは確か、二十一世紀の始め頃の事でしたよね?」
 私より四回りは年下だと思われるアナウンサーが尋ねる。そう、あれはまだ今世紀に入
ったばかりの事だった。もう五十年近くが経つのか…。あの後復帰した夜詩江は、残念な
がら以前ほどの表現力は持っていなかった。しかしその綺麗な歌声は彼女が四二歳でこの
世を去るまで健在だった。病気を患いながらも死の直前まで歌い続けた彼女をそばで見て
来た私は、生涯歌い続けようと心に誓った。しかし、さすがに七十を過ぎた辺りから体力
的に辛くなって来た。そしていよいよ、明日が引退の日だ。
「私が七四歳と言う年までがんばって来られたのは夜詩江のおかげなんです。いつも夜詩
江の影に支えられてきました。そして、もちろん私の歌を聴いてくださった皆さんのお力
も大きな支えとなっていました。今の若い世代にも有望な歌手が沢山います。あとどれだ
け生きられるかは分かりませんが、残りの人生は彼らの成長を楽しんで行きたいと思って
います。」
「そうですか。今まで、本当にお疲れ様でした。明日は最後のコンサートですね?私も
行くので今からすごく楽しみにしてるんです。がんばって下さいね。それでは、今日は本
当にありがとうございました。今日のゲストは、歌手・佐藤麻子さんでした。」


「それでは、次のニュースです。歌手の佐藤麻子さんが、本日引退コンサート終了直後に
倒れ、すぐに病院に運ばれましたが間もなく死亡しました。七四歳でした。直接の死因は
まだ分かっておりません。佐藤さんは十九歳でデビュー以来…」