二つの墓、二匹の竜

               一

 相国寺境内にある承天閣美術館は、本堂の脇の小径先にひっそりと立つ。
 塔頭の一つであった鹿苑寺金閣。その大きめの模型(十分の一ほど)が、
入ってすぐ右に折れたところにあった。その奥が、展示室になっている。
 当初、金閣を装ったとされる若冲の水墨障壁画は当時を再現する形で、
展示されている。
 一見無造作とも思える松の枝。若冲が描くと鶴もその枝にならいこうべを低
くたれ、くちばしは天を射る。葡萄の図。月夜の芭蕉の葉。そして、彼の表芸
である鶏。
 極めつけは丸と線だけの竹だ。言葉では、うまく表現できない。炎のように
舞い上がる線で立つ。ため息がもれてしまう。
 その障壁画(一部)の回りを、絵を眺めながら、拝観者は歩くことになる。
 図録を求めるとき、若冲のことを訊いてみた。
「この他に、資料はありませんか? 若冲のことを追っているのです」
「はあ」老人は、言い淀むと、いったん奥に入った。
 並んで、初老の婦人が顔を出した。
「その図録に若冲の説明が描いてありますので、それを読んでください」
 ガラス越しに幾つか質問をし、ついでに墓のことを訊いてみた。
「若冲には、二つの墓がありますよね。ここと、深草の石峰寺に」
「へえ、初めて聞きましたなあ、そないなことは。うちの(若冲の)墓は……」
 婦人は、パンフレットの図を指でさして、墓地の位置を教えてくれた。 
墓地を入ってすぐのところに、若冲の墓があった。

 左に「藤原定家」、中央に「足利義政」そして、右になんと「伊藤若冲」であ
る。『斗米庵若沖(ここではさんずい)居士墓』と記されていた。
 資料を読むと生前の墓とある。これは、いったんは永代供養のとりきめを
結んだ証であろう。絵画寄進の功績を評価されてのものと思われる。
法会の折りに掲げられる「動植彩絵」三十幅と釈迦三尊図を合わせた数も、
教典に由来をもっているそうだ。当時も京都中で大評判になったという。釈迦
三尊が、方丈中の間の北側に掛けられると、それを真ん中に、「動植彩絵」
十五幅ごとに対称のかたちで並んだと記録にある。
この絵は、その後、相国寺自体をも救うことになる。
 天明の大火は、火の回りが遅かったため建物内の宝物は難を逃れたそ
うだが、法堂(無畏堂)と勅使門だけを残し、すべては焼け落ちた。京都五山
の禅宗寺院を統括し、塔頭として金閣寺、銀閣寺をもしたがえていたという
この大本山相国寺も、壊滅的な痛手を受け、じょじょに衰退していったのだ。
 開山堂という名の本堂は文化四年に御所の旧構を移し、再建。しかしなが
ら、今なお山門は無く、法堂の前には、松の生えた幅の広い地面がまっすぐ
南に伸びるのみである。
 若冲の三十幅は、歴史を下って明治二十二年に当時の京都府知事の
斡旋で宮内庁に献上され、金一万という巨額の下附金を賜っている。これが
寺の復興資金に役だったのではないかと考えられている。
 さて、法堂の中に入ると、天井にまるく巨大な竜が舞う。『鳴き竜』である。
これがお目当ての一つだったので、荷物を置くとその場にねころんで、写して
みる。陶器のタイルを敷き詰めてある床は、ひんやりと冷たい。一人で貸し
切り状態だ。
 ノートを上に掲げて描くものだから、ボールペンはインクが出なくなる。ペン
をときどき下を向けて、イトミミズを描くようにしてインクを呼び戻してから、だま
しだまし竜をなぞっていく。同じ竜でいうと別寺の探幽作『八方にらみの竜』よ
りは、力づよい印象だ。光信は探幽のおじいちゃんだったと思うのでこの発言
は、許されたし。
 そのうち係りの人が来て、手を叩く位置や、運慶作の本尊を説明した。『鳴き
竜』についても、本に書いていない意外なことを言った。



「これは実は光信のものではないのです」
「え?」
「狩野派のものであることは間違いないのですが、この堂の再建が1602年
ですからね。この時、光信の本当の竜は、剥落していたのです」
「そうなのか。すると、あそこが頭ですね」
「そう言われています」
 私が、天井のしみのような部分をゆびで指してると、男は同意した。円の中
に収まるのではなく、光信の巨大な竜は、天井全体に浮かんでいたのだろうか。
「すると、若冲が見たのは、両方の竜ですね」
「そういうわけです」
 
                      二

伏見稲荷の近くにある深草の石峰寺にも足をのばす。 タクシーの運転手に行
き先をいうと、意外だという顔つきになった。
「たぶん、だあれもいないかもしれまへん」
「はあ」
「竹林がきれいやとは思いますが。地元の人はその折々の花を楽しむような
ものやからね」
「なるほど。たくさんの人で賑わうのは、今ならどこですか」
「菖蒲の下加茂やろね」
「私は偏屈だから、石を眺めたいもので」
「はあ」
 私は笑った。めあては、墓石と羅漢なのだ。『羅漢さん』の愛称で親しまれて
いるこの小寺は、ひっそりと隠れたようにあった。
 受付のところで若冲の名をあげて、墓の位置を聞いてみた。
「その本堂の脇の道を行って、すぐのところを右にゆけばお墓です。まっすぐ進ん
で山門をくくれば、裏山一帯に羅漢がございます」
 私はこれ幸いとばかりに、質問を畳みかけてみた。
「あのう、格天井の花弁図というのは本堂にあるんですか?」
「あ、違います。うちではなく今は東山の伸行寺にあるんやけど、私らが行っても
見せてくれません」
「見れない?」
「はい」
 これには正直落胆した。多彩な花々を直径30センチほどの円の中に168枚
描いたのは、84才の時とも85才ともいわれるのだが。まぼろしになってし
まった。画商をつうじてそちらに移ったという。
 若冲の妹のことについて質問すると、過去帳に基づき、その娘の名前について
も教えてくれた。妹は娘とともに若冲とこの寺で余生を過ごしたのだ。ほかに
若冲のことについて資料をもとめると、二種類の綴じたコピーを袋にいれてくださった。
「おいくらですか?」
「いただいてはおりません」
 礼を述べて、墓を探す。
 相国寺のそれと、寸分たがわぬ大きさと形であった。カコウ岩に彫り込まれた
字も大典のものである。しかし、前を向く字づらの面はきれいに磨いてあるが、
左右と背面はごつごつとしたままだ。そこだけが違う。



 ここに眠っているのだ、と思うとようやく会えた感激で胸が熱くなった。
 墓石のほかには、本人の遺言で、五尺ほどの長さに、筆の形をした砂岩の碑が
右側に立つ。碑文は儒学者貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰ならびに書である。
 『無相有相の間、千奇万変、宝光百出、けっき怪光、行雲流水の如く、とらえ
定めることのできないものを、筆に従って窮極を得る』とし、その至難の技をなし
遂げたと、若冲の努力をたたえている。有形無形のものの心をとらえ、表現した
というのだ。 
 山門の先の裏山一帯に羅漢がちりばめられていた。高齢の若冲が下絵をだし、
石工に彫らせたという。羅漢とは、釈迦の説法を聞き、世人より供養される者を
指す。ここでは若冲の構想により道にそって進むに従い、釈迦の誕生からさとりに
至る話の流れを羅漢ともに見届けられるように組み立てられているのだ。



 どの石像も素朴な形態と単純化された彫りである。印象として、ちょうど明日香村
の酒船石や猿石に通じるものがある。木漏れ陽の具合で、石の面は微妙な表情を
見せる。明らかに余技ではなく、命がけの静かな気力を感じる。
 若冲の死後三十年目の天保元年(1830)には石像たちも、大地震で倒壊し明治
以降はすっかり荒廃していたという。
 今のように整理し、小道をつけたのは先代の住職による。それまで、石彫は
一面の草におおわれ、倒れ、あるいは折れ、あるいは埋没し、あるいは心ない
ものが料亭などに持ち込んだものもあるという。その一つひとつの苔をはらい、
草を刈り、整えたことに頭がさがる思いだった。
 さて、晩年の若冲と大典の不仲をかんぐる資料もあったが、私はそうは思わ
ない。相国寺の窮乏を目のあたりにし、若冲は、己の永代供養の処遇を断った
のだと考える。大典を気遣い自分から身を引いたのだ。そして、ひっそりとした
石峰寺に住まわせてもらい、絵と羅漢の制作に集中した。大火や飢饉で
なくなった人たちを、祈るような気持ちで制作をしたのだろう。
 さて、若冲より三歳年下の大典は、若冲の四十九日法要を、仮の方丈となって
いた鹿苑院で行った後、相国寺百十三代住職のまま翌年にみずからの生を
まっとうしている。 

  (了)