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8.読点

 筒井康隆氏の「虚人たち」は泉鏡花賞を受賞したメタフィクションの傑作である。真っ向勝負の"メタフィクション"である所以は"全登場人物は己が虚構内存在であることを自覚している"という設定にあるのだが、この作品では他にも2つほどの実験が行われている。

 一つは"直線的クロノス的時間軸に沿って書く"ということで、確か筒井氏のコメントによると、1頁が約1分という設定だったはずだ。主人公の言動をリアルタイムに追って描くということになるわけで、彼が睡眠している間は頁も真っ白。何頁おきかに恐らくは夢を見ているのだろう、わけのわからん想念が飛び飛びに描写されるといった具合である。

 読者から出版社にクレームがつくのを恐れてのことだろうが、巻末には「本文中、空白及び活字欠落のページがあるのは作者の意図によるものです」との著者からの"おことわり"が付記されている。筒井氏のエッセイによると、雑誌掲載時にはこれ、業界初の冒険として編集者との間に随分やりとりがあったらしい。

 それはそれとして、本駄文の主題はもう一つの試みに関る。これにはまずやはり、「虚人たち」冒頭ほんの一部を引用させていただくのが一番だろう。

 今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。窓の外は晴れている。いや。曇っているかもしれないがその保証はない。なにしろ雨が降っているかもしれないくらいだから。それでもやっぱり晴れているのかもしれない。窓ガラスが時おり光るのは太陽の光なのかもしれないが横なぐりに吹きつけてくる雨滴が何かの灯火に照らされているのかもしれず雪明かりなのかもしれない。それどころか晴天と曇天と雨天がそんなことはあり得ないとする日常的思考を否定したり嘲笑したりするために数秒置きのくり返しを演じているのかもしれないではないか。そう考えてこそもしそれが雪明かりだとすれば雪明かりがちらつくなどという非日常性も納得できようというものだが彼はあいにくそんなことを納得する気すらない。

 ...ふぅ。もうおわかりだろうが、この作品には読点が一つも使われていないのである。中公文庫版で243枚という長丁場中、ただの一つも。さらにいうなら会話体の部分を除いて改行も一つもないのだが、この際それは措く。

 もう一作、氏の長篇中で未だに私の一押しである「虚構船団」でも、読点は極端に少ない。これも冒頭部分を引用。

 まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。針のつけ根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが自分ではそれを完全な円だと信じこんでいた。彼は両脚を屈伸できる中コンパスである。しかし彼が実際に両脚を屈伸させる場合は極めて少い。いつも脚を伸ばしたままだ。そのためには大コンパスがいるではないかというのが彼の理屈だったのだろう。その理屈を誰かが聞いたわけではないに関らず誰もがコンパスのその理屈を悟っていた。何が悲しくて自分がそのように猥褻ともいえる格好をしなくてはならないのかとコンパスは思っているのであろうと皆が信じていた。なぜかというとそもそもそんな必要はまったくないにかかわらずそのまったくない必要以上に彼は自分をスマートに見せかける努力を怠らなかったからだ。そのスマートに見せかけようとする行動の硬直性は彼の動作をかえって泥臭く見せた。スマートさに一部崩れた態度と身装なりが必要だということをあきらかにコンパスは知らなかった。さらにまた、そもそもなぜそのように見せかけるのかといえば彼は宇宙船の乗組員全員から自分が差別されているのではないかと常に疑っていたからだ。

 ...ぜぇぜぇ。出だしからこのペースで、やーっと読点一つである。それを言いたいがために長々と引用したわけだが、凄まじいものがある。ちなみにここでも、改行も極端に少ない(引用部分には改行なし、まだまだこの後延々と続く)。

 他の作家とも比べてみたくなったので、とりあえず手元の文庫本からランダムに11冊を選び、それぞれ本文が始まるページから20枚の間にどれだけ読点が打たれているかをカウントしてみた。

著者 書名 出版社 初出 読点
村上 龍 超電導ナイトクラブ 講談社文庫 1991 531
筒井 康隆 東海道戦争 中公文庫 1965 411
かんべむさし 38万人の仰天 中公文庫 1982 359
芦原 すなお 官能記 角川文庫 1996 332
立原 正秋 冬のかたみに 新潮文庫 1975 331
宮部 みゆき 火車 新潮文庫 1992 330
隆 慶一郎 鬼麿斬人剣 新潮文庫 1987 317
筒井 康隆 パプリカ 中公文庫 1993 208
山下 洋輔 ドバラダ門 新潮文庫 1990 177
筒井 康隆 虚構船団 新潮文庫 1984 36
筒井 康隆 虚人たち 中公文庫 1981 0

 (読点平均値:333)

 ま、当然ながら、文庫本とはいっても出版社及び版によって字体も違えばページあたりの字数も違うし、途中に会話体が入れば行半ばにして改行されてしまうし、まったく全然、科学的なデータではない。そのあたりは軽やかに言い逃げしておいて。

 「虚人たち」については勿論狂気の沙汰だが、「虚構船団」の少なさが異常なのも確かだろう(こんないい加減なサンプリングなんだから"検定しろ"って突っ込みだけはご容赦。データ及び前記引用を持って納得されたし)。

 恐ろしいのは、それで読み難さというものはまったく感じないということ(画面で見るとしんどいかもしれないが...そう思われた方は是非原文に当たってください)。さすがに引用のためキーボードを打っていると息が続かなくなるほどのことはあって、いかに筒井氏でも自然に出る文章ではなく、読点を省いた効果というのを明らかに狙った力業なのは確かだが(9年後の「パプリカ」はずっと穏当な数字)、それでいて不自然さとは遠い。"読点ナシ"を実行できる筆力ならではのことだろう。

 筒井氏の文体というのはものすごくリズミカルで、単語の羅列自体に躍動とメリハリがあるがために、あえて読点で区切らずとも文章それ自身の音韻でもって読めてしまうのだ。そのリズムに酔うことが筒井作品を読む魅力の一つでもあり、氏もそれを充分自覚の上であえて限界の極北に挑戦したのが「虚人たち」であり、"最低限に使う"という別の限界への挑戦が「虚構船団」だったのではないか。

 いくら"リズムの快感"といってもここまで極端になれば異化効果が強力に出てくるわけで、それが筒井氏の第一の狙いであることは言うまでもないけれど。

 他のサンプルについていうと村上龍氏が図抜けて多いが、氏の文体は会話体中で一切句点を使わず読点で押し切るという特異なモノなので、まあ別格だろう。芦原すなお氏がぴったり平均値。それより少ない立原、宮部、隆、山下の各氏についてはもとより、少し多めのかんべ氏にしても、私としては読んでいてまったく違和感がない。ま、手元にある以上どれも好きな作品であり、読む気が失せるような文体がないのも当然ではあるが。

 さてそこで「東海道戦争」だが、さすがの筒井氏もデビュー直後のこの作品でははっきり言って読点の濫用。内容、表現共に好きな作品なので苦にはならないようなものの、文体としては読んでいて少々辛い。一文中の論理構成その通りに律義に読点が打たれているので、読むリズムとしては寸断されてしまう。これも、ほんの触りだけを引用。

 裏の家のラジオの大きな音で、いつもよりは、だいぶ早く目が醒めた。おれの場合、原稿は夜でないと書けないから、早起きは三文以上の損になる。こんなに早く起きても何もすることがないもう一度寝よう寝ようとひとりごとをいって寝ようとしたが寝られない。そのうちに、放送局へ行けば原稿料をくれることを思い出して、のろのろと起き上がった。
 裏の家のラジオは、真空管が古いらしく、雑音がひどい。男アナがニュースらしいものをわめきちらしているが、何をいっているのかよくわからない。音楽ならともかく、ニュースをあんなにボリュームを上げて聞いたって、しかたないのにと思った。

 ...ね。第3センテンスに片鱗が現れてはいるものの、前二者に比べると"息継ぎが多すぎる"感は否めない。このあたり数字に現れている通りで、表に挙げた他の作家の作品と比べてもどうも不要な読点が多い。

 どちらかというと音読用の読点に近いか。息継ぎはしないまでも、ここに読点があると音読する上で抑揚がつけやすいだろうなという気はする。実際に上の引用を声に出してごらんなさい(いや、口の中でつぶやくだけでいいんだから)、納得いただけると思う。このあたり、筒井氏が役者出身(正確には役者の卵出身なのだが)であることと無関係ではないかもしれない。

 結局私は黙読するのだからして、頭の中でリズムが作れればそれでいい。引き写しているとよくわかるのだが、「虚人たち」「虚構船団」はさすがに打っていて息が続かず、さりとて「東海道戦争」では"くうぅ、笑犬楼(筒井氏の雅号というかハンドルというか...)大人の御作に対し畏れ多いことながら、わたしゃぁここでテンを打ちたくないぃ"となる。どちらが好みかははっきりしていて、読点が多すぎるのは受け付けられないのだ。

 以前ある人に勧められて柴田錬三郎氏の著作を一つ二つ読んでみたのだが、これがとんでもない読点の嵐。即刻手放してしまったので引用というわけにはいかないが、内容がどうであれ、あれはひどい。ファンの方には申し訳ないが、読点で稿料を稼いだといわれても言い抜けできないようなていたらくである。なぜにそうもぶちぶちとぶった切って息継ぎせにゃぁならんか。音読するにしたってそんなところでは切らんぞ。ましてやこちらは黙読なのだ、流れも論理構成もズタズタにするような無残な読点はやめていただきたい。仮にも売り文なのだ、だらだらと惰性で点を打つような自覚のなさではいかんでしょう。

 ひるがえって、私も含めた素人衆(文で飯を食ってはいないの意)のネット上での文体というのは、これはもうどうであってもいいし実際なんでもありである。いや、たとえ文章のプロが書いたものであっても、稿料が発生しないモノならばまったくもって自由だし、そもそも誰かがどうこう言うスジのもんではない。

 だがしかしそれでもそうはいっても、時には文節ごとに読点をぶち込んだような文もあり、さすがにこれは読むのが辛い。音読だ黙読だ論理構成だという次元ではなく、ただすなおに読みづらいだけなのだ。

 大体が、ほとんどの(Macを含めた)パソコンの日本語変換ソフト(余談。Macの世界でIMEに相当する用語はなんでしょうか。FEPでいいのでしょうか)は読点をトリガーに変換すると思うのだけれど、うっとおしくないのかなぁ。私が使っているWXGの場合は自動変換に設定してあるので、読点を打たなくてもある程度入力が進むと端から変換して行く。それでも読点を打てばそこで一気に変換動作に入るわけで、そのまま続けて入力できるとはいうものの、やはり読点を打った瞬間変換結果の確認に入ってしまう。ほとんど無意識に。ちらっと確認しつつ入力を続けるんだけれど、たいてい。

 ほぼ文節一つ一つずつに読点を打っている人って、そうするとつまりは単文節変換に限りなく近い状態なわけで、それでは文章のリズムも何もあったもんじゃないと思うのだが。内容の流れからいっても辛いものがあるだろう。読みづらさには、このあたりも関係しているのかもしれない。

 つまるところ、プロはプロなりに、素人は素人なりに、読点はある程度意識して使いたいものであるなぁということなのだ。リズムの基礎だし、論理構成の基礎だし、読みやすさの基礎だしするのだから。

 というわけで、読点にはこだわりがあるのです。はい、私のハンドルの由来の第一は、実はそれなのです。英語で"読点"。だから読みは"こんま"なのです。最初と最後が大文字なのは単に見栄え上の問題だけでして、決して"こむえー"ではない、というのはこういう背景だったのでした...

 ...以下、付記。
 上記表中のデータをとるのに、944さんのViewSystemを使わせていただいた。実は読点カウントというのはこのサイト開設当初から持っていたネタで、"ああカウンターMOREが欲しいなぁ、決定キー押すたびにインクリメントしてくれるだけでいいんだけどなぁ、ロジック自体は簡単だよなぁ、CとSZAB勉強しようかなぁ"などとぐずぐず考えていたりもしたのであった。944さん、おかげさまで無謀かつ絶望的なトライをせずに済みました。ViewSystem実用報告として、お礼かたがた。

(2000/12/08)