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中国の支配と反乱の歴史

1) 中国による支配の始まり

 中国の韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦の戦国時代を抜けて中国の広い国土を統一したのが、秦の始皇帝でした。紀元前221年のことです。このときにナムガラとその部下チョウタに始皇帝はベトナム侵略の命を下しています。
 秦の始皇帝は紀元前259年、趙の都へ人質としてとらわれていた秦の王である楚と、趙の商人呂不韋の妾の子としてこの世に生まれます。名を政と呼びました。(政の本当の父は呂不韋だったといわれています)。政親子は呂不韋の力を借りて趙の都を脱出して秦へ戻り、父楚は王位につきましたが3年で没し、政は幼くして王位につきました。成長した政は自分が成長するまで実権を握っていた呂不韋を追い出して実権を握り、中国大陸の平定に力を注ぎ最後に彼の野望は達成されました。
 中国を平定した彼は北からの騎馬民族の襲来には万里の長城を建造して備え、南のベトナムには遠征軍を送り、支配下に置くことに決定します。実際ベトナムでは象牙や白檀などの特産品や、紅河デルタ(現在のハノイあたり)に広がる豊かな土地があり、この地方への侵略は中国にとっての大切な政策でした。

 秦の始皇帝に命を受けたナムガラとチョウタは50万の兵をあづかり、ベトナムへと進攻して行きます。司令官のナムガラは遠征途中に病没してしまいますが、チョウタはそのころのベトナム国家であるオウラク国を陥落することに成功します。紀元前208年のことです。
 ところが、紀元前207年に秦の国は始皇帝が亡くなるとすぐに滅んでしまいます。この混乱に乗じてチョウタは中国から独立し、中国南部の広州南部の南海郡、桂林郡、と紅河デルタ地帯の交跡郡、九真郡の4郡を支配し、南越国を設立した。
 単純に見ると、この紀元前208年から中国のベトナム支配が始まったように思われますが、チョウタの南越国はどちらかというとベトナムよりの政府であって、その後中国本土から攻められて滅ぶという国であるため、ベトナムの歴史では南越国は中国の支配としては扱われていません。

 紀元前202年に漢が中国を統一すると、漢の高祖は南越国へ直接進攻し支配するのではなく、漢の属国にしようと考えました。しかしながらチョウタは表面は従うように見せて、実際は国内で皇帝を名乗りあくまでも独立を維持していたのです。
 チョウタ死亡後は漢からの攻撃を受け、南越国は滅び中国の支配が始まります。紀元前111年のことでした。この年からAD939年に呉権(ゴクェン)によって独立が実現するまでの約1000年間、ベトナムは中国に支配され続けることになるのです。


2) 中国の支配

 ベトナム人にとっての中国からの支配は、とりわけきびしいものだったようです。中国から派遣されたほとんどの官僚は「不正と、残酷と、貪欲」といった言葉で形容される者ばかりでした。ほんの少しベトナム人側に立った行政を行った人物もいましたが、それは本当にごくごく少数でしかありませんでした。
 
 中国へ提供する税は、人頭税、土地税、労役などがあり、その他に貢物として、象牙、真珠、白檀、熱帯の果物、金銀細工などがあり、象牙を取るために何人ものベトナム人が危険なジャングル深く狩りに出されました。
 また、中国への同化政策がとられ、中国の皇帝を天子としてあがめ、絶対忠誠を求められ、公用語を漢字とし、儒教を生活の規範として受け入れることを求められました。

 同化政策とともにベトナムへ入ってきた中国文化は、水田耕作、稲の二期作、水利施設、運河や堤防、陶器の製作、レンガやタイルつくり、絹織物、竹や籐の籠細工などがあります。


3) ハイバチュンの反乱

 中国の支配以前のベトナムは、ベトナムの地方の土豪が自分たちの土地を治め税の収入を得て暮らしていたのですが、中国からきた官僚が直接税を取るようになると、彼らの生活が成り立たなくなります。そこで、現在のハノイの北西、メリン地方の土豪の娘チュン・チャックと妹のチュン・ニがAD40年に中国官僚の税直接取り立てに反対する65県の土豪をまとめて起こした反乱がハイバーチュンの反乱です。
 中国から派遣されきていた官僚の蘇定はこの反乱を聞くと、抵抗もせずに逃走してしまい、ベトナムはチャン・チャックを女王として独立してしまいます。
 しかし漢の皇帝、光武帝はAD42年馬援将軍に兵2万人を与え、反乱鎮圧に送り出します。馬援将軍はチャン姉妹の軍を破り再び漢の支配に戻します。破れたチャン姉妹は河に飛び込んだとも、つかまって首を切られたとも言われています。

その後も、何度も中国に対する反乱が起きます。
137年:日南郡象林県の区燐(クリェン)の反乱。この後日南郡象林県以南はチャンパ王国として独立。
178年:梁龍の反乱
248年:バ・チュウの反乱
541年:リビの反乱

 唐の時代になっても反乱は続きます。有名な阿倍仲麻呂も安南都護に任じられ、ベトナムの反乱鎮圧に一役かっています。
(阿倍仲麻呂:(701年〜770年)16歳で遣唐使として唐に渡り、唐の官僚として玄宗皇帝に厚遇される。李白などの詩人とも交流があった。753年帰国途中に暴風雨に遭い再び唐に戻る。ベトナムに反乱が起こったため、安南都護に任じられベトナムへきて反乱を鎮圧。その後長安へ戻り没する。)


4) 唐の滅亡とベトナムの独立

 907年唐の哀帝が朱全忠により殺されて唐が滅びました。その後中国は大きな混乱の時代が続き、これを五代十国と呼びます。
 917年に中国全土の混乱の中で中国南部の広州に地方権力による南漢国が設立され、930年にはベトナム北部の交州まで支配を広げます。この交州の隣県の愛州の将軍の名はズオン・ディン・ゲ(楊廷芸)で彼の子供が英雄ゴクェン(呉権)です。
 この愛州のズオン将軍が部下のキョウ・コン・ティエン(矯公羨)に殺害されるところから独立物語は始まります。父を殺されたゴクエンはただちにキョウ・コン・ティエンへの反乱軍を起こします。キョウは南漢軍へ応援を求め、南漢王はこの機に乗じて愛州を侵略しようと息子のホアンタオと1万人の軍隊を送ります。

 ホアンタオ軍は船隊を率いて海上から白藤(バクダン)河へ入り、川をさかのぼる作戦でした。938年秋、ゴクエンは宿敵キョウ・コン・ティエンを襲ってこれを殺してから、白藤(バクダン)河の入り江で南漢軍を待ち受けました。これが有名なバクダンの戦いです。
 ゴクエンはあらかじめ白藤(バクダン)河の水面下に沢山の鉄の杭をうちこんでおき、満潮時に小さな船で南漢軍の大船を襲い戦って破れたふりをして大船を白藤(バクダン)河の奥深く誘い込みました。やがて引き潮になると流れの速い潮にあらかじめ打ちこんでおいた鉄の杭が現れ、南漢軍の大船の底に杭が突き刺さり、船が転覆したり動きがとれなくなった船にゴクエン軍の小船が襲い掛かり、あっとゆうまに南漢軍は敗走してしまいました。

 939年南漢軍を破ったゴクエンはベトナムを独立させ、コロア(古螺)を都とし、自ら王を名乗り、中国からの1千年の支配に終止符を打ちました。

 その後944年にゴクエンが亡くなるとベトナムの国内は乱れ、各地の土俗がそれぞれの土地で独立を宣言するようになり、12人の主な族長がいたので、これを12使君の時代と呼びます。
 12使君の時代に終止符を打ったのはホアルウ(華閣)(今のニンビン省)に生まれたディン・ボ・リン(丁部領)です。彼はホアルウに近い紅河河口の交易港を支配していた12使君の一人チャン・ランと同盟を組み後に彼の後継ぎになり、巧みに戦いを勝ち抜きました。968年ディンボリンはベトナムの帝位につき大勝明王と名乗ります。首都をホアルウにおき、国号をダイコウビェットとしました。ディンボリンによるベトナム統一によって、ベトナムの独立は確かなものになります。

 中国からの支配1000年間はベトナムにとって、水田耕作や陶器の製作などの文化的なプラスの面もあったわけですが、実際問題一般のベトナム人にとってはつらくきびしい歴史でした。ベトナム人は自らの歴史を支配と反抗の歴史と呼びますが、愛国心の強さと侵略者に対する反抗心は、数々の独立のヒーローを生み出してきた長い歴史の中で彼らの命の中に培われてきたものであると思われます。

ベトナム豆知識
ベトナムという国名は19世紀のグエン王朝時代にできたものです。グエン王朝を開いた嘉隆(ジャロン)帝は1803年中国の清朝に対し、国号を南越にしたいと申し出ました。しかし清朝は南越という名称は秦の時代に中国に反抗してできた越南国を連想させるので使用は認めないという返事をします。困ったグエン朝は上下をさかさまにして越南(ベトナム)という名前にして使用することにしました。1804年のことです。








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