■Kousetsu's journal■

読書&映画日記 こんな日々だった。

▼2002年10月

10/31(木)

曇り。昨夕終わった日朝正常化交渉は物別れに終わったと。両国お互いの主張をし(まあ日本が7割方、話してたらしいが)それでも決裂に至らなかったのは前進といえば前進か。辛抱しておられる方には頭が下がる。ジャイアンツ松井はたぶんメジャー行きしそうな感じ(番組出演中、記者会見している松井の映像を見た原監督の至言、昨日までスクラム組んで肩を抱いて一緒にがんばってきた松井が今日はなんだか遠く見える、と)。アンチジャイアンツだから言ってるじゃなく掛け値なしに、松井にはメジャーに行って挑戦してもらいたい。やっぱりあれほどの選手だと限界まで挑戦したい、もっと高いところに行きたい、という夢があるならどんどんそうしてもらいたいとわたしは思う。彼はもう日本の野球界でやれるところまではやってるんじゃないかな。考えてみれば高校時代から(それ以前のことは知らない)、敬遠だの何だのされどおしだ。非常にクレバーでファンを大切にするし、受け答えは恐ろしくしっかりしていて大人、精神力は十分だろう。足もそこそこ速いしちゃんと守れるし、あとは大リーグの野球に慣れて体にけががなければ、きっと大丈夫だろうと思う。いままでわれわれが知るところとなるようなけがもしていないのがまずどれほどすごいことか。松井に対しては年下ながら尊敬してしまう、頭が下がってしまう。

これが同じ大選手でも桑田清原に対しては少し違っていて、自分と同学年だからかまずなんとなく親しみの気持ちが立ってしまう。どこか心やすいところがあるのだね(勝手にそう思っていてほんと大選手に対して申し訳ないのだが)。この二人にももっともっと活躍してもらいたいもの。サンフランシスコ・ジャイアンツのレギュラー平均年齢はたしか30代後半だという。たとえばバリー・ボンズは38歳。日本の野球選手の野球寿命はちょっと短すぎないかな。FA宣言をするらしい桑田もまだまだやれるってこと。

長く続くシリーズものの小説は偉大なるマンネリではないかと少し思っていたりもしていたのだが(これは決して否定的な意味でなく、むしろ肯定的な意味で書いている)、実はそうとばかりではないんではないかなと『海辺のカフカ』を読んでから、とりわけ村上春樹の「いつもと同じようなことをやっている」と言われたら、たしかにそうかもしれないとも思います。僕の中には小説的な元型のようなものがあって、どうしてもそこから逃れることはできないのです海辺のカフカメールボックスno.111より)という発言を読んでから、考えてみるようになった。「小説的な元型」や核があってそれを書こうとしたときに違う物語で語っている場合だとひょこっと同じこと書いちゃうことがあるのではないか。同じ角度同じ考え方が同じせりふでそれが出てきてしまったりする。それは結局、違う物語だからこそ、核を別の作品と同じ位置(それが実はベスト・ポジション、か?)から見ていたりするのではないか。ところがシリーズものの場合だと、そこが描かれる場面やシチュエーションは前とは変えなくちゃいけなかったり(そこまで同じだとさすがにマンネリだから。ただ、決め台詞だったりやなんかのときは仕方ないけれど)、主人公自身がたとえば時の流れのなかで以前とは変わっていたりしていて(成長などもあるだろう)、その核に対してとる反応が変化していたりもするのだよね。だからつまりシリーズもののほうが、同じ「小説の元型」や核から書いてあっても、以前とは違う表現になったり違う角度から観たりしてあることがもしかしたら多いのではないかということを思い始めたのである。※ブックリスト9月分をやっと終える。■朝:昨晩の残り物。昼:ハムチーズサンド、野菜ジュース。夕:ごはん、おでん、コールスローサラダ、マイタケとわかめのお味噌汁。

10/30(水)

晴れ。風が弱かった分、夕方からの冷え込みがきつく感じられる。この時期から真冬までのひんやりした空気は清潔感があって好きなのだが。日本シリーズは6-2、圧倒的強さで巨人優勝。ううむ。2-2の同点に追いついた5回のあとの6回頭から松坂に代えられた西口は屈辱感に震えているのではないだろうか。

Amazon.co.jp: 成功する読書日記 ★鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋、2002.10、ISBN 4-16-359010-2)[bk1/amazon]、P.D.ジェイムズ『神学校の死』(青木久恵訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリNo.1719、2002.7、ISBN 4-15-001719-0)[bk1/amazon]を並行読書中。『成功する読書日記』、収録されている筆者による「読書日記」部分がさすがで面白い。「読書日記の実践編である」という意識で読むからか、本文の引用の仕方や自分なりの感想・コメントの付け方など確かにとても参考になる。先に書いたとおりこれは週刊文春連載の読書日記(筆者はじめ立花隆氏など五氏が一週交替で担当)。読書コーナーのなかでも書評とは違って気楽に読んでもらう狙いがあることや紙幅の都合などによって、一冊一冊を深く分析し評論するスタイルではなく、基本的には大まかに内容紹介をする程度にとどめられてはいる。しかし、1.筆者がどういう理由でその本を手に取ったかをまず明示(何かを知りたい調べたい・献本だから・退屈しのぎ・旅先で…etc.)。そしてその目的はかなったかどうかの結果も。2.本のテーマや問題設定を短い言葉で明示。3.読みどころをきっちり紹介。4.日記の分量の割には多めの引用によってその本の香気が直に伝わってくる、などにより、てらいなくシンプルな筆致もあいまってそれぞれの本の魅力をよく伝える文章になっているのだと思う。紹介されている本どれもこれも読みたくなって仕方がない。日常雑記部分も楽しい。

Amazon.co.jp: マリー・アントワネットとマリア・テレジア秘密の往復書簡 ★パウル・クリストフ編『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(藤川芳朗訳、岩波書店、2002.9、ISBN 4-00-024801-4)[bk1/amazon]新聞書評で知り、マリア・テレジアがマリー・アントワネットを諭し続けていた、将来の破滅を予言していた…というので好奇心をかきたてられ購入。原題:MARIA THERESIA GEHEIMER BRIEFWECHSEL MIT MARIA ANTOINETTE edited by Paul Christoph, 1980。オンライン書店経由で買ったので届いて手に持ちぱらぱらとめくってみたのだが間違いなく面白そうで大当たりの予感にわくわくする(これは本独特の第六感ですね)。表紙にはマリー・アントワネットとマリア・テレジアの肖像画。そして帯の惹句はなんと池田理代子サン(しかもお名前が活字でなくサインになっておる!)、これは、もうひとつの『ベルサイユのばら』とも呼びたい本であるのだそう(詳細は岩波書店編集部だより、編集部より/本書に寄せて。往復書簡も読める)。ははあ。まあ、そういうことで(どういうことだ)母と娘の往復書簡集なのであるが、こういった古い書簡集は個人史のみならず当時の社会情勢などを知る手だてとして十分面白いのに、さらにこれは並の親子のじゃないのだ。どれを読んでも政治史の生々しいドラマが手紙から立ち上ってくる…。宮廷の内情も私生活も赤裸々に書かれていて覗き見しているみたいな申し訳なさを感じてしまうほどだ。

編者まえがきによると、これらの書簡は長年その内容からおおやけにされず公開された後も伏せられた箇所など様々な経緯があり、本書で完全翻刻するにあたってはウィーンとフランス両国それぞれで出版された書簡集を組み合わせ、また多くを脚注で埋める形で編纂したということだ。1770年4月、オーストリア帝国の皇女マリー・アントワネットはフランス王家に輿入れのためウィーンを発ったのだが、そのとき彼女はまだ14歳と5ヶ月!女帝マリア・テレジアは今後のふるまいについて教え諭す書簡を与える。人間形成も教育も行き届かぬまま政略結婚先へ手放さざるを得なかった娘、さらに輿入れ先は最高にゴージャスですべての人から敬われるところであるがそこは権謀うずまくフランスの宮廷、母は心配でたまらない。以後、二人のやりとりは定期的そして極秘裏に、マリア・テレジアが急逝する1780年末まで11年間続けられることになる。書簡の往復に要した日数は10日間。至急便の外交文書としてヴェルサイユ宮殿常駐大使メルシーを介して行われ(マリア・テレジアからは手紙とともに大使への指示書も送られていた。フランス内でこのことを知っていたのはたった2人で、メルシー大使とマリー・アントワネットの教育掛ヴェルモン神父)、マリー・アントワネットの行状報告を付け加えて女帝の希望通りに時計のような正確さでやりとりされ、母娘は緊密さを保ち続けた。「このままなりゆきにまかせていれば、あなたを待っているのは途方もない不幸だけだと、私は今から断言できます。」とマリア・テレジアが娘を諭したことばがカヴァー裏の内容紹介に引っ張ってこられているけれど、さてこれはいつごろどういうときに書かれた手紙のなかにあるのかしら。マリー・アントワネットの処刑は1793年。

デジタルカメラで撮った合宿のスナップ(写真係なのである)。希望者にはCD-Rで渡そうと思っているのだけれど、まあ写真は写真としてクラブ内の回覧にだし焼き増し(?)せねばならない。自宅できれいにどうしても印刷できないので(手頃なソフトがないし)すっぱり諦めて楽をしようとうちの隣のコンピュータショップ(徒歩2分)に行ったのだが目をつけていたコイン式セルフプリント用機械は古く、手持ちのカメラの画素数に対応してなさそうだった。しゃーないので河岸替えをし某サティ内の写真現像店へ。と、そこにあった機械はとっぱらわれていた…(誰も使ってなさそうだったもんな)。しゃーないからきれいに仕上がると聞いたことだし試しにと思って店に現像(?)に出したら11/2仕上がりになるという。外注するらしく思ったより時間かかるもののようだ。でもこれ以上探し回るのが急にものすごくめんどくさくなったのでそのまま依頼してしまった。一枚35円。■朝:昨晩の残り物。昼:鮭茶漬け、もずく。夕:ハヤシライス(フリージングしていたのを解凍)、ペンネサラダ、ブロッコリ、みかん。

10/29(火)

晴れ。寒気入り冬の空。

Amazon.co.jp: 航路(上) Amazon.co.jp: 航路(下)コニー・ウィリス『航路』(全2巻、大森望訳、ソニー・マガジンズ、2002.10、ISBN(上) 4-7897-1933-2 (下) 4-7897-1934-0)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]読了。これまでの感想は10/1821232428。これより『航路』について、直接の「ネタばらし」は避けますが引用などで内容に触れていきます。未読の方はその旨ご承知おきください。

NDE(臨死体験)を題材としたこの小説。舞台は病院、生死を云々することでともすれば重く沈鬱なものとなってしまうところを、軽やかで時にユーモラスともいえる筆致で(これには、読みやすくまたポップな感覚の訳文にしてくださった訳者・大森氏の力がとても大きい)つづり、また見事な構成と饒舌ともいえる莫大な文章量でもって、言ってみればこの小説で物語られるべき物語のすべてがこの全2巻に曇りなく書き付けられている。これらによって「わからないところはひとつもない」明晰な小説となり、重い題材とこれだけの分量の小説を読み手は楽に読みこなすことができたし、無理をすることなくごく自然な形で作者や登場人物の思念を感じ取ることができたのではないだろうか。

「訳者あとがき」によるとこの『航路』で書かれている医学的知見や技術のうち、決定的な事項は著者の創作であるらしい(下p.433)。しかし小説のベース、善玉側である主人公ジョアンナとリチャードたちは地道な科学研究のルール(そして偉大な発見にありがちな、99パーセントの努力と1パーセントの運やひらめき)にのっとってすべてを行っていくことになる。いっぽう敵役・トンデモ系臨死体験本の著者マンドレイクはそうではなく、科学を排し「マンドレイクの理想の臨死体験」という物語をねつ造することで死後の―実は生者の精神の―慰めと救いを求めるのだ。科学は精神を救えないのか?しかしジョアンナは、そしてリチャードは、科学の側にあくまでも立ったところで肉体を救うことができたし、結果的に精神の慰めと救いを得ることができた。そこにこの物語には真摯で献身的な研究者たちへの尊敬と科学への根本的な信頼感があることが見てとれるように思う。これは科学の勝利の物語でもあり、同時に、信念に基づいてまじめにこつこつと正しい行いをしている人間の勝利の物語である。知の勝利、タフな精神と勇気の勝利、愛情の勝利でもある。

第二部を経て第三部前半はとても沈鬱だ。読みながら涙が勝手に流れ出てしまう。気持ちが落ち込んでいく。そんな湿っぽい雰囲気をきっぱり変えてくれたのはp.282の(切なすぎる)メイジーだった。

「やっぱり。だと思った」メイジーはいった。「だからあたしが心停止しても会いにきてくれなかったんだ」晴れ晴れとした笑みを浮かべ、「わかったもん、さよならもいわずに黙って引っ越したりするわけがないって」とうれしそうにいった。「わかってたもん」 (下p.282 第三部48章)。

※強調は引用者による

チェンジ・オブ・ペース。ここから病院側のほうの物語はジョアンナをおもいながら研究をし、仕事をし、生きていく登場人物たちの姿を描きはじめる。リチャードが病院内の地図を把握し最短ルートを迷いなく進むことができるようになったとき、果たして研究においても最短そしてもっとも適切なルートを見つけたのだった。

その少し後のジョアンナのがわ。51章のここ、すごい、寒気を覚えてしまった。すごいと思ってしまうのはまんまとコニー・ウィルスの掌中に収められてるってことだが…。駄目押しとしてその章のラストはこう。それらすべてが、裂けるような轟音とともにジョアンナと小さなブルドッグめがけて落ちてきて、それがぶつかる直前の一瞬、ジョアンナは通ってきたときに聞いた音の解釈がまちがっていたことに気がついた。あれはエンジンが止まる音でも心停止アラームの音でも、船の側面に氷山がぶつかる音でもなく、これまでの全人生が自分めがけて落ちて落ちて落ちてくる音だったのだ。下p.313 第三部51章

この小説から想起させられることが、読んでいる途中も読み終わった後もとても多い。これまで読んだ他の文学作品やのこと。宗教の説く、生死の境目のこと。死んでいった人たちと、わたしの生と死について(良かれ悪しかれ、わたしたちは、わたしは、いずれ死ぬのだ)。読後感がとても豊かである。がその一方で、特に上巻に顕著なアルツハイマー患者への苛烈な描写はいささか疑問に感じたし、何度も繰り返される主人公の過剰な暴走シーンやどたばたぶりなど少々鼻につきうんざりさせられるところもなくはない。それらが技巧であり小説上の必然であるにせよ。それでも、この小説は好き嫌いといったこともこえてやはり「傑作」であろう。満足し惜しみ惜しみ本を閉じる、そんな小説。

「死人に口なしというが、彼らは話すことができる! この本に出てくる人々は六十年も前に大西洋の真ん中で寄る辺ない非業の死を遂げたが、それでもきみたちに語りかけることができる。かれらはいまもわれわれにメッセージを送っている―愛と勇気と死に関するメッセージを! それが歴史だ。それが科学だ。それが芸術だ。それが文学なのだよ。先人が過去から、墓の下からメッセージを打電し、生と死についてわれわれに教えようとしている。その声に耳を傾けたまえ!」 (下p.165 第2部39章文学には傍点)

ジョアンナが記憶していた、授業でのブライアリー先生のことば。これはこのままこの小説のテーマといってよく、結局、ブライアリー先生の声を借りて述べた著者のおもいであり、『航路』をそういう小説にしたかったんだな(そして実際そうなった)、といま思ったりしている。

何かをひとを悼むには。かつて確かに存在していたことを記憶し忘れないこと、折に触れてその人を想うことだとわたしは思う。それでもまたこうも思う。科学者であった宮澤賢治の伝でいってみよう。わたしはいずれ死ぬ。わたしは銀河で光り続ける有機交流電燈のひとつの明滅にすぎず、一瞬のそのまた一瞬光ったにすぎない。それでも確かに光のひとつであった。それだけでいい。

日朝国交正常化交渉、クアラルンプール・日本大使館で始まる。席を蹴って決裂…とかにならなければいいけれど、と心より願う。うまくいかなければ日本側から中断せよ席を蹴れなどという人に率直に文字通り聞いてみたいんだけれど、核や覚醒剤の問題などは措いておくにしても、だったら家族が離ればなれになっている現在の状況をまたぞろ放置するようなことになっても構わないのか。他に解決案があるから言っていることなのかどうかということ。所沢に場所を移した日本シリーズはジャイアンツがまた大勝10-2、王手かかっちゃいました。ジャイアンツ強いわ。格が違うという感じで、なんとか互角に戦っていた(シーズン前半は、かな?)われらがタイガースは実はかなり強いのではと夢想してしまった。ともあれライオンズがんばってくれなくちゃ、このままじゃパの灯が消えてしまう!このごろオールスターでもパは精彩を欠いているし、「人気のセ、実力のパ」と言われたのはほんとうに今は昔のこととなってしまった。■朝:昨晩の残り物。昼:ミニ天丼、青菜のちりめんじゃこがけ。夕:チキンカレー、ごぼうサラダ。

10/28(月)

快晴。西南西の風強く冷たい。■朝:ソーセージパン、みたらし団子、野菜ジュース。昼:たぬきうどん。夕:ごはん、ネギと油揚げのお味噌汁に卵落とす、じゃがいもとツナとハムとしそのサラダ、わかめとトマト。

Amazon.co.jp: 航路(下) Amazon.co.jp: 神学校の死 ★読書メモ。コニー・ウィリス『航路』(全2巻、大森望訳、ソニー・マガジンズ、2002.10、ISBN(上) 4-7897-1933-2 (下) 4-7897-1934-0)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]、(下)あと少し。涙が目尻から勝手にたらたらと流れ落ちて自分でもとまどう。P.D.ジェイムズ『神学校の死』(青木久恵訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリNo.1719、2002.7、ISBN 4-15-001719-0)[bk1/amazon]は持ち歩き本。原題:DEATH IN HOLY ORDERS by P.D.James, 2001。ダルグリッシュものの最新刊。重厚、精緻。これぞ文学、って感じの読み応えに心震える思いだ。こうこの二作品を並べ読んでいると、作家個人の違いといえばそれまでなのだがそれでもやはりアメリカとイギリスの文化的な違いを感じざるをえない。『航路』がいかにアメリカ的であるかというのをうまく言語化できないのだけれど、人を飽きさせないための手法として、登場人物の魅力的なことや読み手の気を決してそらさない題材や主題もさりながら、それ以上に「構成の妙」があろうかと思う。賑やかで慌ただしいエピソード。数多くのショッキングなシーン。それらをひんぱんな場面転換でつなぎながら見通せば一連の物語になっており、主題に関わる重要事項は序破急のテンポで幾重にもたたみかける…など、これら演出効果を狙って凝らされた構成がいかにもいかにもアメリカのエンターテイメント的、より限定して言うならやはりこれはアメリカの(優れたレベルの)テレビドラマのようである、と、わたしには感じられるのだ。『神学校の死』はそれとはまったく違う。美しい古い絵を北窓からの穏やかな光線で観ているときに感じられる空気とよく似ている。慈愛と読書の喜びに満ちた無限の空間と時間がそこにはある…。

Amazon.co.jp: 成功する読書日記 あと、少し前のことになるが鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋、2002.10、ISBN 4-16-359010-2)[bk1/amazon]を、書店でタイトルに惹かれて買った。本棚から気が向いたときに取り出してはぱらぱら読んでいる。読書日記を書く効用や心構えなど。また、実践編の読書日記の実例として筆者が週刊文春で連載している「私の読書日記」を三年半分収録。本書のいう「読書日記」とは基本的には「自分にとって役立つ」「読書メモ」、心覚えとして個人が自分自身のためにつける読書日記のことではあるが、インターネット上の読書日記についても目配りがなされていて「公開を前提にしたウェブ読書日記」を書くうえでも参考になることが多い。

鹿島氏の主張の骨子をいくつかあげると、「質より量」「まずは引用」「引用になれたら引用だけからなるレジュメ(要約)、そしてコント・ランデュ(自分の言葉で言い換えて要約)」。質より量、本書冒頭「『量』を軽んずるなかれ」の項で述べられていることには膝を打った。わたし自身がかねてから漠然と考えていたことに非常に近く、また、経験上確かにその通りだと思えることなので、一部、長めの引用する。

(前略。筆者は人生のなかで三回ほど読書&映画日記または読書日記をつけてきたが、)いずれも、備忘録代わりにつけはじめたもので、毎回、タイトルや著者(監督)名くらいをメモしていたにすぎないのですが、どの日記でも、やっているうちに必ずどこかで「コレクター感情」とも呼ぶべき不思議な気持ちが起こってきたことを覚えています。(『成功する読書日記』成功する読書日記・入門編p.11「量」を軽んずるなかれより)

 ところが、読書日記や映画日記を続けているといつしか、コレクションが「開かれる」という現象が起こってきます。それまでは、一つのジャンルに集中していたものが、あるときそこに夾雑物がまじりこんで、その夾雑物が次のジャンルを導くのです。(後略)
 こうして、コレクションが「開かれる」という現象が何度か繰り返されると、今度はジャンルそれ自体の比較・検討が可能になります。SF小説、冒険小説、推理小説、時代小説などなど、ジャンル相互の類似と差異が目につくようになり、ジャンルを越えたところに存在する、ある種の約束事が理解されるのです。それは、「小説」という、より大きなジャンルの約束事であり、語り手と主人公、物語とテーマなどという共通項を持っていることが理解されます。ここにおいて、私たちは、「小説」そのものについて考えることになり、いわゆる批評意識を抱くに至るのです。さらにこれが進むなら、次は「文学」とはなにかについて考えざるをえなくなります。(同p.13-14)

誤解を恐れずにいうと、インターネット上の読書系サイトにおいて、あまりにジャンル偏重主義ではないか、と思われる書評、レビューや感想が散見されることをわたしは常日頃残念に思っているのである。もちろん、それらは該当ジャンルに限っていえば深い造詣や知識によって書かれていることが分かるのだし、よって尊敬すべき知見であることは言うに及ばない。しかしなお言うなら、小説・文学全体を見通す広い眼がやや欠けてしまっていることが多くはないか、と思えて仕方ないのだ。これはジャンルとしてはそうかもしれないが小説としては見ればどうでしょうか、その作品は決して目新しくはなくてたとえば古典や他ジャンルにも同じようにすばらしい作品がありますよ、云々、と言いたくなるような。

そして「批評という大それた行為」の項でこう述べられているのが耳に痛い。

(前略)一冊の本のいわんとしていることを的確に引用してレジュメしたり、コント・ランデュすることができぬ限りは、批評という大それた行為に踏み切ってはいけないのです。(中略)不正確な理解の上には、なにを築いても無意味なのです。
 また、批評をするには、それなりの修業が必要となります。ここでは、その修業の方法については触れる余裕がありませんが、批評が、断定的な言葉の羅列だと誤解されては困ります。いくら読書日記は自分だけのものといっても、変な癖がつくのは考えものです。ですから、文芸批評家を志す人以外には、批評を全面展開する必要はありません。引用によるレジュメかコント・ランデュ、それに感想かコメントを簡単に書きとめるだけで十分だと思います。批評をしたいときには、読書日記とは別に、方法を習得したうえでしっかりと書けばいいのです。(『成功する読書日記』成功する読書日記・入門編p.26-27「批評という大それた行為」より)

わたし自身のことを考えてみる。この「香雪雑記帳」というサイトのなかで読中の思いまたは読後感をおおむね思うままに書く読書日記(ここ)、「コント・ランデュ」とひとこと感想のブックリスト、作品分析と批評(もどき)のブックレビューと3通りに分けて書いているのだが、それがはからずも鹿島氏の主張にかなり沿ったものになっているので意を強くした。が、気楽に書くことで読書日記がえてして安易な批評に流れることになってはいないかと不安にもなっている。ブックレビューを最近書けていないのは、主に、それを書くのに準備時間も含めやたら時間と気力がかかること(まじめにやると2日以上費やす)にある。気力・体力そして時間に余裕があまり無いいま、真剣に取り組んで一定のレベルまで持っていく自信がないのだ。それで、レビューを書けないすなわち読んだ本について言及しないままにしておくよりも、この日録を当初の生活記録から読書日記へとシフトチェンジしやや突っ込んだ読書メモを書くことで、読書についてとりあえず書き続けることにした次第である。と、こういったことも本書「無理をするな」の項(p.16-17)できちんと述べられているのだった!

10/27(日)

快晴。風、非常に冷たくいよいよ冬気配。今日も今日とて午後からマンドリン。吐き気をもよおす偏頭痛が我慢できず鎮痛剤で抑えて体にむち打つ思いで出かける。で、道中つい「家族に迷惑をかけつつそれでもやり続ける自分にとってギターとは何なのか。人生のどれほどを費やしてきただろうか」などとふにゃけたことを考え込んだりしたのだが、弾いているうちになんとなくそんな気分は消えてかえって元気になって終わった。帰宅してから日本シリーズ(これで巨人の2勝)やウルルンを見ながら読書やあれこれ片づけものなど。ウルルンは料理がすばらしく上手な小西美帆がフランスはブルゴーニュ地方のカンカール(モン・サン・ミシェル湾を望む美しい漁村)でカキ料理修業。ぷりぷりした半透明のカキが次から次へと…だーっ、うまそう〜!ただ根っこはくたびれているのか頭が無秩序な賑やかさを拒絶している感じでネットを覗く意欲は今日も起きず。このまま「リアルライフ」に埋没没頭していくのもまたいいのかもしれない、と思った、というようなことをこうやって書いている。■朝:お茶漬け、納豆、リンゴジュース。昼:たぬきうどん。夕:鳥取の駅弁の「かに寿し」、ポテトサラダ、ミニトマト、餃子、茄子とマイタケのお味噌汁。

ロシアの劇場占拠事件では人質の死者117名と発表さる。当初発表は67名だったのがずいぶん増えた。それも、そのほとんどが特殊ガス(無能力剤入りガス兵器を使用したといわれている)による中毒死または吐瀉物による窒息死とみられている。衆参同時補欠選挙は自民5勝、民主1勝で野党惨敗。数字自体は9月以降の状況からいって予想どおりの結果であったのではないかと思って意外な気はしなかった。当選者に若々しい人が多いのがこれまでの選挙と違うところ。

10/26(土)

1026 江の島展望台
江の島展望灯台。
うしろにあるのが現在建築中のもの。
雨ときどき曇り。早寝したぶん早起きできて6時半の集合に間に合う。朝食までの1時間ちょっとで雨中の江の島散歩。ディープ・江の島は故郷近くの有馬温泉と少し似ていて懐かしかった。坂の多い路地に軒を並べる土産物屋(軒先では湯気を盛大に上げてふかしまんじゅうなどを売っている)、民宿や小料理屋に写真館、古い神社、ちょっと寂れかけたなんとかガーデンパーラーなど…。魚料理など磯辺の雰囲気が濃厚なのはさすが島だけのことはあるが。山頂付近にある展望灯台は老朽化に伴い建て替え工事をしていて、灯台としても使用しているために先に取り壊してから新しいものを建築するのではなく、並べて建てて完成してから旧を取り壊すという段取りで進んでいる。で、二つ並びたっている状態なのはうちからも遠景としてよく見えており、夕暮れ時に輝き始めるときなどなかなかロマンティックな心和む光景なのだけれど、こうそばで見てみるとどこか恐ろしいほどだ。周囲にこれ以上高いものなど何もなく孤絶してそそり立っている、島のてっぺんに寄る辺なく空に向かっている有様は高所恐怖症の人ならば下から見ることさえさえぞっとすることだろうと思った。その山頂あたり一帯は大がかりに整備改修がなされており植物園なども現在は休園中。途中から雨は小やみになったが灰色の雲がたれ込め昨日とはうってかわって初冬を思わせる天気。湿っぽいこともあってじっとしていると震えがくるような寒さだ。分厚いネルのシャツでしのぐ。湯気を上げているふかし紫いもがやけにおいしそうにみえたがぐっと我慢をして戻って食事をし、二日目の練習。賛助出演してもらうフルートとクラリネットが加わって今日は5時間。くたびれはてる。解散の頃には半ば意識がもうろうとしたような感じになってたぶんひとに迷惑をかけてしまった。ふらふらと帰宅し、ぺたんと床に座り込んで新聞をぱらぱらしたところ昨日から今日にかけて大ニュースが多くてびっくり。フジテレビ・朝日新聞・毎日新聞によるキム・ヘギョンさんインタビュー(うーん…まあとりあえずはマスコミの無神経さというか考えなしというか、非道といってもいいかもしれない。この時期に『素材』ビデオを垂れ流しにし、あまつさえ横田夫妻に突然見せたことはほんま何考えてるん、というのが率直な印象)。モスクワ、チェチェン武装勢力による劇場占拠事件は特殊部隊の強行突入で「解決」。作戦としては特殊ガス注入か?人質になっていた観客が突入時に多数死亡した模様。民主党・石井紘基議員自宅前で刺殺さる、など。■朝:和食定食。定番メニュー。昼:和風弁当800円。夕:きのこスパゲッティー、トマト、冷や奴。

10/25(金)

1025 ばんねんにて 晴れのち曇り。日中は汗ばむ陽気。マンドリン合宿で10時からよる9時まで8時間の練習でさすがにへとへと。夜は談話室で「みなが集まって酒を飲みながら談話する時間」がとってあったのだがわたしは眠くてたまらずぼおっとへたりこんでちびちびぬるい缶ビールを缶のまますすっていたような感じ。消灯時間の11時前には部屋に引き上げ4人部屋のうちわたしを含めて3人は早々に就寝。■朝:昨晩の残り物。昼:松花堂弁当風の和風弁当1000円。さすがにいつもの400円そこそこのより抜群にリッチ。美味しかった。夕:和食会席2000円。ちなみにこれは宿泊費より高い。量はさほど多くはないがきちんと向付煮物お造り焼き魚…などひととおりそろっていてまずまず美味。

10/24(木)

雨のち曇り。本格的に寒くなって外に出るのに着込まないと駄目だった。灰色の空以外、風景にまだ晩秋らしさはないけれど。なにかとばたばた。あしたからの定演前合宿の準備をいやいやしたけどいやいや参加してはあかんな、なんとかこのいやいや気分を殺さなければ…。★コニー・ウィリス『航路』(全2巻、大森望訳、ソニー・マガジンズ、2002.10、ISBN(上) 4-7897-1933-2 (下) 4-7897-1934-0)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]、(下)2/3読んだ。全部説明してくれるところは橋田壽賀子ドラマみたい。涙、しかるべきところでぼろぼろ出た。その後の展開が早くてわりにすっと止まったけど。とにかくすごい熱気で話が進む…。ところで中島みゆきの『おとぎばなし』を流しながら読んでいたのだが、ラスト曲「海よ」がこの小説に実にしっくり来るのだ。小説世界が味わい深くなることこの上なし。テーマ曲としておすすめである。やったことない方にはぜひいちど試してみてほしく思った(って…世の中に中島みゆきのニューアルバムを買って聴きながら『航路』を読む人なんて、そうたくさんは…)。

その『おとぎばなし』を聴いてると無性に懐かしくどこか聞き覚えのある気がしたのだが、考えれば当たり前のことだった。十年以上前のいちどは耳にした曲や流行歌が収録されているのだから。今なお新鮮にきこえるのもあってすばらしいのだけれど―今こそより深くなっている、の曲もあるなと思う。特に「海よ」は深々として恐ろしいほどだ。抽象的な詞な分、イメージも意味も非常に重層的。いろいろな視点でものがたりやシーンを思い浮かべることができる。望郷の歌。特に舟に乗って心細く人生の海をこぎわたっている「若い」人が抱く故郷への思い。かつて若かった人が来し方を振り返って。死別した人へ捧げる惜別の情、哀悼歌として。DAD川上源一氏への歌。すべての亡くなった人への鎮魂歌、ここ一年のテロや戦争の犠牲者、海で不慮の事故により命を落とした若い人(えひめ丸が思われます)への鎮魂歌。海を隔てた遠い地にわたり、故郷へ帰ることのできない人の心に寄り添った歌…。それがマイナーな曲調ではなくメジャーの明るい響きで歌われる。のびのびした単純で美しいメロディーラインはラストのフレーズでひときわ高くなり、その先にさらに続く広大な拡がりを予感させられるのである。この傑出した歌を24歳のデビューアルバム(『私の声が聞こえますか』1976.4)でもう歌ってたんだから!もうもうもう…。うーん、今日の内容は外から見るとたぶん「ファンのたわごと」になっているけど一年にいちどのことゆえご勘弁を。■朝:昨晩の残り物。昼:きつねうどん、きんぴらごぼう、きゅうり。夕:まぐろ中落ち丼、根菜の煮物、豆腐と大根としめじのお味噌汁、もずく、トマト。

10/23(水)

Amazon.co.jp: 航路(下) 曇り時々晴れ。うすら寒い。のどがちょっと痛い気がする。くわばらくわばら。★コニー・ウィリス『航路』(全2巻、大森望訳、ソニー・マガジンズ、2002.10、ISBN(上) 4-7897-1933-2 (下) 4-7897-1934-0)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]、(下)いま82ページ。ジョアンナ、ヒートアップしてきてるなあ。そんなに潜って大丈夫なのだろうか、いや、大丈夫じゃないに違いない。※ブックリストの整理まだ9月分を作業中。神経使うからなかなか進まないのである。結局、55文字(若干オーバーなら可)で、と制限つけてる紹介文考えるのが負担なのだ^^;■朝:昨晩の残りもの。昼:トムヤン麺(なかなか)。夕:ごはん、ぎょうざ、豆腐とねぎとしめじとわかめのお味噌汁、粉ふきいも、トマト、もずく。

10/22(火)

Amazon.co.jp: おとぎばなし-Fairy Ring 晴れのち曇り。風がめっきり冷たくなって木々の葉の色がほんのり変わってきている。ざわざわという葉擦れもどこか軽く、乾いた音だ。新星堂で中島みゆきニューアルバム『おとぎばなし―Fairy Ring―[amazon]を買う。予約してなかったんだけれど特典グッズをもらえた。土台のピンクのプラスティックキューブにアルバム名が入ってる小さなクリップスタンド。

30枚目のオリジナルアルバムはセルフ・カバー・アルバム。ぱっと最初に聴いたときは、もやもやとした羊膜に包まれているかのようなサウンドに自分の聴力が落ちたのかと思い、コントロールのきいた抑えた歌声に懐かしさと物足りなさと母性を感じつつ、しかし最後の「海よ」のすばらしさに涙する。波に身を任せるかのようなゆったりしたリズム、遠くへ旅立つ者への惜別の情、自分を自分をなだめ、ぎゅっと抱きしめるしかない強い孤独。しばらく「海よ」を繰り返して聴く。茫然、陶然。

海よ おまえが 泣いてる夜は
遠い 故郷の 歌を歌おう
海よ おまえが 呼んでる夜は
遠い 舟乗りの 歌を歌おう
    時はいま いかりをあげて
    青い馬に 揺れるように …

中島みゆき「海よ」より。
歌詞全文→中島みゆき研究所 「海よ」 視聴→中島みゆき/おとぎばなし〜Fairy Ring〜

ところが、また最初の曲に戻り「海よ」まできてまた最初にとループして聴いているうちに、アルバムの印象が刻々と変わっていった。ぱあっと霧が晴れたかのように見えてくる。遠い声がだんだん近づいてくるように歌声がクリアになる。次第におとぎばなしの姿があざやかになる。『心守歌』の「月迎え」からここにつながっていると思う。まろやかに整えられ抑制のきいたサウンドとヴォーカル。おとなの心に届くおとぎばなしを、確かに確かに。■朝:昨晩の残り物。昼:リンゴジュース、チーズクラッカー。夕:ごはん、じゃこ入りオムレツ(昨晩のハヤシライスをソースとしてかける)、ごぼうサラダ、青梗菜のお味噌汁、もずく。

『海辺のカフカ』への「いつもと同じではないか」という批判に意味はあるのか。それを措いておいて(目をつぶって)、「ここで、いま、物語られているもの」としてだけ受け取って考えたらどうだろう、どんな批判が出るだろうか。そうすべきだ、物語そのものを受け取るべきだ、と自分自身に対して思う。でもいつもと同じであることを看過できない。しっかりそれに感応してしまうのが長年かれの作品を読み続けてきたことの罪、「ザイ」。

ここより下、22日早朝書く。

書評を読んであれこれ物思ったり読みたいという感慨を抱くのはいい。でもそれ以上の価値判断をまだ読んでもいない小説に対して下してしまったりすることは実に空虚なことだと思う。予断を抱く間違いを犯してはいないか。そんなのは小説を読み終えたあとでいいじゃないか。なによりもまずはその本そのものを自分で読むことだ。自分の心で味わい、自分で判断する。

小説を読むということはきわめて個人的な体験であり、読んでいるとき書き手と読み手は一対一の関係である。

とかいうことはよく村上春樹が述べていることでもあるんだけれど(影響されてるのかなー、されてるんだろうな)、★村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002.9、ISBN 4-10-353413-3(上)4-10-353414-1(下))[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]。期間限定サイト「海辺のカフカ Kafka on the shore」のメールボックスで村上春樹がせっせと読者からの感想メールに答えているのを読んでいるほうが、ヘタな書評や評論読むよりずっと面白い、とたぶんファンにカテゴライズされるわたしとしては思う。自分のフィーリングからして我慢できない書評や文芸コラムをいくつか目にして(村上春樹というネームバリューによっかかっている評論とか)、なんていうか、小説、広く文学の受容とは基本的には自分の感じたところがすべてだとつくづく思いたくもなったりするのだった。さてメールボックスに戻ると、返信しているのは一部とはいえすさまじい量でほんと頭が下がるマメさである。寄せられているなかには批判的なものもけっこうあるんだけれど―多くの批判の骨子は「いつもと同じじゃないか」ということ。いつもと同じ主題である。これまでの作品のよく言えば集大成、悪く言えば寄せ集め(表現も、モチーフも、ストーリーも)である。主人公が15歳っぽくない、リアリティがない、云々―、決してその感想も否定しないところが覚悟座ってる。もちろん「それはそういうことじゃなくて、こう考えてほしい」と反論めいたものを春樹が(わあ。さすがにまだしっくりこないなあ。文豪は名字じゃなく、下の名前だけで呼ばれて通じるようになると文学史に残る真の大物って気がする。潤一郎、とか、漱石、とか)書いている場合もあって、しかしどういう基準でそう答えているのかなあと読んでいるとなるほど筋は通ってるよね。筋の通った人の思考は安心できる。要は「他の存在を尊重しているかいないか」「狭量であること、その狭量さゆえに簡単に判断を下していないか自分に問うこと」ということらへんにあるみたいだ。

ちなみにこれまでで特に印象に強く残っている返信は、メールボックス12「mail no.111 千と千尋を連想しました」へのもののなかの

(前略)「いつもと同じようなことをやっている」と言われたら、たしかにそうかもしれないとも思います。僕の中には小説的な元型のようなものがあって、どうしてもそこから逃れることはできないのです。(後略)

以下の文章。ここはわたし自身が『海辺のカフカ』を読んでちょっと落胆したこと(新刊読めてほんとうれしい、ん、だけど、やっぱりちらほらとお馴染みのモティーフ、お馴染みの言い回しが出てくるんだね。日録9/14。読了後の全体的な感想は9/18,16)―落胆しつつなぜ同じになるのかと疑問に思っていたことへのひとつの回答になっている感じで、「なるほどそういうことか」と腑に落ちた次第である。

もうひとつはメールボックス17「mail no.162 わりに変なもの」への返信。『ノルウェイの森』が「リアリズム小説」であることをやっとはっきり認識できた。なぜこの小説だけがそう銘打たれたのかを、わたしはこれまでじゅうぶんにはわかっていなかったのである。

(前略)長編で「はじめから終わりまでリアリズム」というのは『ノルウェイの森』だけです。これはもちろん意識して書きました。あの話には「変なもの」はひとつも出てきません。(後略)

10/21(月)

1021 二重虹 雨、夕方になって晴れ時々小雨。風雨とも激しく白いベールに包まれたかのよう。冷たい北東風が吹き気温15度前後、ぬくい上着を取り出して着ないと寒くてやってられぬ。夕方、外が急に明るくなった。みるみるうちに西から雲がはれ、日が差してきたが細かい粒の雨だけしばらく残り「狐の嫁入り」状態になったところではっと思って東の方を見てみたところ予想的中。大きな二重虹を見ることができた。■朝:昨晩の残り物。昼:ソーセージパン、カレーパン、野菜サラダ。夕:ハヤシライス(久々に食べたらとてもおいしく感じた)、ポテトサラダ、ミニトマト。

Amazon.co.jp: 航路(上)コニー・ウィリス『航路』(全2巻、大森望訳、ソニー・マガジンズ、2002.10、ISBN(上) 4-7897-1933-2 (下) 4-7897-1934-0)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]、(上)ほとんと読み終える。先行きがどうなるかほんと興味深いのでぐいぐい読んでいるが、そこまでで止まっていてまだ深くは入り込めていない。どうもなかなか心情移入が出来ないのだなあ。ポケットベルをすぐ切るジョアンナにはいらついてしまうし、また、会話シーンが多いこと、話が非常に細かくそのせいで伏線はってるのが露骨にわかってしまうことなどがいちいちくどく感じられて仕方ないのである。涙そそられる感動作らしいのだが、何かおかしいのだろうか、わたしは。それとも下巻を読むと変わってくるのだろうか。

上巻p.316のジョアンナが高校時代の同級生の住所や連絡先を知ろうとしてじたばたしているところ(学校側は情報管理が厳しく、情報を提供してくれない)で、ということは、アメリカの―ジョアンナの―高校には「同窓会名簿」的なものは存在しないということか…、とふと思ったのだが実際どうなんだろう。

10/20(日)

曇り、夜になって雨。肌寒いのだけれど歩くと小汗がにじむ、ちょっといやな気候。午後から横浜市某区の芸術祭。急に出演を取りやめた団体があったとかで進行が予定よりも20分程度も早く進み、その連絡が正確にこちらに届かぬままけっきょく準備不十分でステージに立つはめになり、しかも急に山台のうえにのっけられたりなどし何もかも非常に慌ただしくて神経が疲れてしまった。帰宅するときには風冷えでずいぶん寒くなっていた。夜はぐったりきてしまい、少しうとうとした後はゲームをしたりしゃべったりでだらだら。眠気を振り払って無理矢理風呂に入って冷えた体を温め、枕にほおを埋めた瞬間で記憶が終わる。■朝:昨晩の残り物。昼:たぬきうどん、春菊のおひたし。夕:デリバリーのピッツァ、サラダ。

10/19(土)

曇り。霧かなにかで空気が白く濁った、湿っぽい一日。合宿電話予約、第1希望とれず第2希望。某夜会一般発売は玉砕、先行販売からここまでとうとう全滅だ。うーん、ほんとくじ運というものがわたしには全くない。これまでで何かにまともに当たったことってあっただろか?宝くじはもちろん、お年玉付き年賀状も(今年はとうとう切手シートすら当たらなかった)、年末大売り出しの抽選玉もビリ等のがころんと出、三角くじも当たらない。あまりにも運がないから諦めきっているけれどそれがあかんのかな。とにかく「くじ運」(もしかしたら『運』全般だったりして)がない、当たりに縁がないからそういうものに全く期待せず、自力の範囲で離陸せず地べたにいてこつこつやっていくしかないと思い定めて暮らしている。それでも、今度こそもしやひょっこり当たらぬかと願ってしまうのだ。そうやって「くじ」に時間をとられなんとなくばたばた。なのに連れ合いがついに買ったPS2を自分も相伴、しばしのあいだ「機動戦士ガンダム戦記」を猿の如く行ってしまう。■朝:昨晩の残り物。昼:醤油ラーメン、きゅうり、ハム。夕:しゃけ混ぜごはん、しめじと茄子と薄揚げのお味噌汁。質素な食卓なのでせめてもと鍋でご飯を炊く。やっぱり断然美味しくなるなあ、米粒がつやつや丸く光って真珠みたい。炊飯器で炊いたときのと同じお米とはとても思えん。★コニー・ウィリス『航路』(全2巻、大森望訳、ソニー・マガジンズ、2002.10、ISBN(上) 4-7897-1933-2 (下) 4-7897-1934-0)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]、(上)を少々。眠気が勝ってしまった。

10/18(金)

雨のち曇り。深夜、寝る前に窓の外をふと見たらやけにもやっていたので、雨になるかな…と頭によぎったのだが、朝起きたら妙に部屋が薄暗い。カーテンを開けるとやはり灰色の雨天だった。晴れ予報だった天気予報大はずれ!←関東南部に関しては。12/1の定演まで考えてみるとあと1ヶ月半、ってところ。練習も要求水準がより高くハードになり、熱を帯びてきた。個人的にはなんとかひとつステップアップできたみたい、よけいな力が抜けてきたのと(自分の悪い癖で、無駄な力が入って熱くなるとクレッシェンドんときにaccel.かけてしまう)、ここ2回ほどの間に急激に弾いてるときに他のパートの音がすごく立体的に聞こえるようになって、なんだか「曲が見えてきた」感じだ。順調にいけば定演できちんと力を出すことができそう。そのためにも体調維持を心がけねば。■朝:昨晩の残り物。昼:ベーコンチーズバーガー、フィレオフィッシュ(マクド持ち帰り)、野菜ジュース。夕:ごはん、湯豆腐、きのこスープ、大根とたらこのサラダ。

Amazon.co.jp: 航路(上) Amazon.co.jp: 航路(下)コニー・ウィリス『航路』(全2巻、大森望訳、ソニー・マガジンズ、2002.10、ISBN(上) 4-7897-1933-2 (下) 4-7897-1934-0)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]の(上)を読み始め、今ちょうど半分(p.224)くらい。原題:PASSAGE By Connie Willis, 2001。コロラド州デンヴァーのマーシー・ジェネラル(マーシー総合病院)が舞台。ヒロインのジョアンナは認知心理学者。マーシー・ジェネラルで臨死体験者の聞き取り調査をし、NDE(臨死体験)の原因と働きを科学的に解明しようとしている。彼女と研究パートナーになったリチャードは神経内科医で、疑似NDEを人為的に引き起こしてNDE中の脳の状態を記録する研究プロジェクトを立ち上げた。彼は、死に瀕している脳の中でなにが起きているか解明できたら無用の死を防ぐ戦略を考え出せる(上p.45-46)と考えている。…という、“死”の謎に正面から挑む、未曾有の臨死体験スリラー。コニー・ウィリス日本語サイトより)。ところどころでひょこひょこ顔を出すウィット、しゃれたユーモア、てきぱきした場面転換でから、「読む」アメリカのテレビドラマ(舞台が舞台だけにさしずめ『ER』みたい、というべきか。でもあのドラマとはちょっと構造が違うか)、といった感じを受けたのだが、そういった洋もの・エミー賞的水準ドラマと同じ文法で読んでいって構わないのだろうか。ずいぶん長い小説なんだけど(二段組みになっていて、上巻413ページ下巻434ページ)、はなしが細かく行きつ戻りつしているのがまるで念を押すような形になっていて少しずつキーの断片を出してきてるのがわかる、とても良くできた小説だと思う。読んでいて先へ先へと加速がつく。

読んだところまでで派生的にちょっと思ったこと。ネタバレになるのでなぜそう思ったかなどくわしく書くことはここでは措くが、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』も(よく言われているように)彼自身が体験した・もしくは考えた臨死体験を書いたものなのだろうか、と、これまで自分としてはあまりそういう読み方はしてなかったのだけれど初めてきっちりその説に向き合ってみる気がした、のだった。

10/17(木)

晴れのち曇り。朝の冷涼な風がたまらない。でも気持ちとは裏腹にくしゃみ鼻水が出てしまう。■朝:昨晩の残り物。昼:きつねうどん、野菜ジュース、夕:穴子の混ぜご飯、茄子と長ネギとしめじのお味噌汁、玉子、れんこんのピリ辛炒め。

Amazon.co.jp: 鏡の中は日曜日殊能将之『鏡の中は日曜日』(講談社ノベルス、2001.12、ISBN 4-06-182222-5)[bk1/amazon]。石動偽作のシリーズ第三弾。鎌倉に建つ梵貝荘(ぼんばいそう)は法螺貝を意味する歪な館。主は魔王と呼ばれる異端の仏学者。一家の死が刻印された不穏な舞台で、深夜に招待客の弁護士が刺殺され、現場となった異形の階段には一万円札がばらまかれていた。(『鏡の中は日曜日』裏表紙より)。はあ、鮮やか。ミステリの仕掛けとしてはいささか力業で解決って感じだし普通なのかな、とも思うが小説内容全体はそれだけではとても語りつくすことができない。異様な構造の梵貝荘がそのまま作品の構造にもなっている感すらする、醸し出される息詰まる感覚、方向性を失って行き惑う不安感。幻覚と記憶、現在と過去が行き来する。でもちゃんと本格ミステリ、なのであり、同時に「本格ミステリ」それ自体のパロディにもなっているような。Im Spiegel ist Sonntag タイトルはパウル・ツェラン「コロナ」の一節から。各章題―第一章 鏡の中は日曜日/第二章 夢の中は眠っている/第三章 口は真実を語る―も同作品から引用されている。作者Webサイトmercy snow official homepageのbooks『鏡の中は日曜日』から、Paul Celan"CORONA" 原文・邦訳や梵貝荘全景・図面、主な登場人物のネーミングの秘密、取材日記などでなるIm Spiegel ist Sonntagページに行ける。

後日のためにメモ。優れた日本の小説を英語などに翻訳して世界に紹介する事業を今年度から始めた文化庁は、来年度までの2年間に訳す作家27人の作品の選定結果を公表した(朝日新聞10/17朝刊東京本社版37面『「輸出」する日本の小説選定 たけくらべなど27作品』。asahi.com速報記事10/16http://www.asahi.com/culture/update/1016/002.html)。選定は島田雅彦、田辺聖子、ジョン・ネイサン(カリフォルニア大教授)、平岩弓枝、福田和也の五氏による。以下、翻訳することが決まった作家と作品。短編集の作品はこれから選定、とのこと。

asahi.com速報記事のなかの「すでに翻訳がある作品は対象から除かれたが、翻訳本があっても、夏目漱石の「坊っちゃん」のように改めて訳す必要があると判断した作品は盛り込んだという。」という一文が含まれているパラグラフが、その後の新聞本紙掲載記事では無くなっていたのには疑問。ここけっこう肝心の部分ではないの?事業の本来の趣旨に関わるような。ここをカットしちゃったことで「なんであの小説がないの?」「なんでこの作家でこの作品?」と思ったりする、ちょっと誤解して受け取ってしまいかねない記事になってしまったのではないだろうか。

本筋からそれるけれど、このごろ内田百けん(けん、は門構えに月)の『百鬼園随筆』[bk1/amazon]などが新潮文庫で出されている。ひやつけんに日の光が当てられること自体は非常に好ましいしさっそく買い求めたのだが、新字新かなに改められているのに個人的に強い抵抗を感じてしまったし、実際、非常に読みにくかったのである。彼の文体のリズムともったりした新かなづかいがあわない。自分のなかではひやつけんは正字正かなモシクハカタカナガキノヒトナノダ。

10/16(水)

晴れ。雨上がりの柔らかな光がまぶしい朝が心地よかった。

Amazon.co.jp: 黒い仏 タイトルからしてすごく大きな世界を想起して読み始めたが…何を書いても種明かしになりそうなので抽象的なことを。でもやっぱり若干ネタバレになってしまうかも。★殊能将之『黒い仏』(講談社ノベルス、2001.1、ISBN 4-06-182167-9)[bk1/amazon]。石動偽作のシリーズ第二弾。九世紀、天台僧が唐から持ち帰ろうとした秘宝とは。助手の徐彬(アントニオ)を連れて石動偽作(いするぎぎさく)が調査に行った寺には、顔の削り取られた奇妙な本尊が。指紋ひとつ残されていない部屋で発見された身元不明の死体と黒い数珠。事件はあっという間に石動を巻き込んで恐るべき終局へ。(『黒い仏』裏表紙より)。いやーこれは。息を呑んでしまう展開。ふつーのミステリだと思って読むと痛い目に遭う、底知れぬ恐ろしさであった。この作品もやはり読んでて先が見えない。ページを繰るごとに違う世界違う光景が見える。なんていうか、閉じた構築物を描いているのではなくて、開けた世界をそのまま開いたまま描いているような気がする。すごく広いなあと思う。予測どおりに進むドラマとかほんとつまらないものだが、これは決して予定調和には落ちない、というか、予定調和に落としてるんだけれどその予定調和を切ってみせるのだ。しかし「世界」はその予定調和で動いていくことで日常として成り立っているのかもしれないし…、とこれまた読後の印象の強い、記憶に残る一冊であった。なお作者Webサイトmercy snow official homepageのbooks『黒い仏』から、元ネタ解説・取材日記などでなるBlack Buddhaページに行ける(『黒い仏』読了後にごらんください、と注意書きあり)。

ジーコジャパン始動。国立競技場でジャマイカ戦1対1のドロー。ところどころであっと思うような攻撃。まだぎくしゃくしているところはあったけれど(致命的なミスもあったし)、これからいろいろ噛み合ってくるのが楽しみ。監督でこんなに変わるものなのねー。中村俊輔の動きが非常に目立った。彼が効果的に代表にはいるとこういうことになるのね。中田ヒデはどんぴしゃのタイミングで出没。まさに神出鬼没。ゴールならなかったけれど。日本の1点は前半7分の中田ヒデ→高原→小野のゴール、小野は髪が伸びてへんてこな髪型(失礼^^;。生意気サッカー少女が小野に向かって『丸坊主のままのほうがよかったのに!』てな捨て台詞を吐く車のCMがこのごろ流れていてちょっと笑えます)ではあまりなくなっていました。■朝:昨晩の残り物。昼:たぬきうどん、野沢菜。夕:しそごはん、おでん、トマト、茄子の浅漬け、わかめと薄揚げのお味噌汁。

10/15(火)

晴れのち曇り、夜遅く寒冷前線による雷雨かなり激しく。拉致被害者のうち5人の方が「一時」帰国。2時半頃、羽田空港のVIPスポットに全日空の政府チャーター機が無事に到着し、タラップを降りたところで出迎えのご家族との再会となったシーンでは(ちょっと個人的な訳があって)目頭なんとなく熱くなる。これがスタートであるのだな…。真相解明がいつかなること、良い方向に向かうことをお祈りしたいと率直に思う。

Amazon.co.jp: 美濃牛 ここ十日間ほどで数冊読了している。順を追って。★殊能将之『美濃牛』(講談社ノベルス、2000.4、ISBN 4-06-182123-7)[bk1/amazon]「鬼の頭(こうべ)を切り落とし……」首なし死体に始まり、名門一族が次々に殺されていく。あたかも伝承されたわらべ唄の如く。(『美濃牛』裏表紙より)。名探偵・石動偽作(いするぎぎさく)登場。これまでの感想9/2910/2で触れたとおりで、流れが予想できない面白さ、ふんだんに凝らされているくすぐりの楽しさ。すっきりした文体。つくづく巧いなあと思う。ミステリの「ネタ」だけを純粋に考えるともしかしたら「なんてことない」なんて評価する人もいるのかもしれないのだけれど、どうしてどうして、ものがたり全体としての印象もあとに残る記憶もものすごく強い。

宵の口、ピンク色の雷光を発しながら海の上を灰色の雲のかたまりがゆっくり西から東へ動いていくのが見えた。南天高くには月が半月から少しふくらんできれいに冷たく輝いていた。■朝:フルーツグラノーラ、ヨーグルト。昼:きつねうどん、野菜ジュース。夕:炊き込みご飯、湯豆腐、卵スープ、トマト。

10/14(月)

1014 上野の森美術館前 晴れ。やや霞がかってまったりした空気。はやびるを食べて上野の森美術館にバルセロナ・ピカソ美術館展を見に行く。副題「ピカソ 天才の誕生」というとおり、1890年(ピカソ9歳。ヘラクレスのデッサンは稚拙なところはまだまだあるがすでにして『大人の絵』だった)〜1904年、パリ定住までの少年期から青年期の油彩、水彩、スケッチや習作など222点で、ピカソがアカデミックなものをこつこつと修行して身につけ、そこから逸脱して自分の描きたいものを見つけていった道程を感じることができた展覧会だった。ピカソは一日にしてならず。やっぱりどんな天才でもこつこつ修行してるんね。こつこつ。なんか芸術から離れた感想だ。すごい人出だったので絵を見る列が出来てしまいしかもそれがじりじりとしか進まなかったことからはからずもゆっくり見ることができたんだけれど、その分あしが疲れてしまう。出品作のなかでも、美術学校(アカデミー)における修行期の集大成的な作品であり14歳で描いた『初聖体拝領』はぜひ観てみたかったもの。古典的なテクニックをきちんとふまえた正統派の絵画であるが柔らかさにピカソらしさがのぞけるだろうか。思っていたよりずっとサイズが大きくてちょっとびっくり。のちのいかにもピカソ風の絵だけみればこんな絵を描いていたとはとても想像できないだろう。ミュージアムショップで図録と、やっぱり惹かれてしまって『ピエロに扮したパウロ』(今回の出品作ではない)のフレーム入り絵はがきを購入。動物園帰りの人たちなどで駅が混雑する前にさっと帰宅。■ブランチ(笑):ミートソーススパゲッティ、野菜ジュース。夕:トンカツ和幸でペアセット。ばくばく食べてしまう。

10/13(日)

1013 台風のうねり 快晴。北東からの風が午前中やや強い程度でまずまず穏やかな天候。海にはうねりが出ているようだがだんだん風も収まってきたので夕方になって海まで散歩。浜へおりる歩道橋の上に来てはじめて聞こえたすさまじい海鳴りに圧倒される。ごうごう、ごうごう。高波が砕けながら幾重にも幾重にも押し寄せている。瀬戸内海ではまず目にすることのできないエネルギー、太平洋からの波に小走りで駆けつけたサーファーが、しばらく波を眺めてから肩を怒らせて海に飛び込んでいく。少し離れた浜辺に西日でシルエットで見えるサーファーの、足元にじゃれついていた犬が飼い主の足にからみつきながらともに海に入ろうとする。しかしはじかれたように浜に戻ってしまう。飼い主はパドリングで波頭を越えていく。犬は砂浜をうろうろしながら泡立つ海をじっと眺めている。遠い台風22号の影響。しばらく見物させてもらって、そのあとぶらぶらと町並みを眺めながら北上して戻り、途中で評判のラーメン店に立ち寄って夕食。チャーシュー麺はいい値段だったがそれだけのことはある美味しさだった。そこから家までは歩いて15分弱。どうしても食べたくなったら行ける距離、か。

午前中のアジア大会女子マラソンは弘山さん2位、大南博美さん3位。ずいぶん暑そうでタイム的にも苦しいレースになったみたい。優勝タイムは北朝鮮のハム・ボンシル2時間33分35秒。現在の水準からすると、「もしや距離が長かったんではないか?」と思わず疑ってしまう「遅さ」である。で、夜のシカゴマラソンはスタート時の気温4度、女子はあの(!)ポーラ・ラドクリフ―三つ編みにハイソックススタイルはもうやめたのか?―が機関車のように走って2時間17分18秒の世界最高で優勝!ひょー人間離れしてます。なんて失礼かもしれないけれどありゃ太刀打ちできんわ…。「前」世界記録保持者ヌデレバ3連覇ならず2位、3位に渋井さん2時間21分22秒(日本歴代2位)。男子では高岡さんが日本新記録2時間6分16秒で3位(優勝はハヌーシ2時間5分56秒)。マラソンのトップクラスのレースはもう完全にスピード系競技に変わってしまったようだ。いみじくも解説の増田明美さんが「もうマラソンを人生にたとえることはできませんね、早すぎて…」とコメント。■朝:フルーツグラノーラ、リンゴジュース。昼:ちらしずし、トマト、ポテトサラダ、マイタケのお味噌汁。夕:チャーシュー麺。

10/12(土)

晴れ。北風が冷たい。思っていた以上に疲れが溜まっていたようで爆睡してしまう。どうもこのごろ肺のあたりで息苦しいのだな(ボディイメージとして)。それでなんとなく体の「芯」がしんどい感じ。夕方、ぶらぶらと駅前へ。書店で『ヒカルの碁』19巻、『湘南スタイル』(ムック本)の最新号を買い、少し前に新しくオープンした居酒屋に入る。地下にあって思ったよりも広い、ちょっと蔵のなかを思わせる和風のしつらえ。入れ込み席に案内されたが、わりに混雑していたせいか料理の出が遅いのと、2つ離れたテーブルの若い女の子グループがたいそう賑やかだったのとでなんとなく落ち着けず、ビールとほか4品を食べて席を立つ。ちょっと味は濃いめだったがまずまず良さそう。カウンターに座らせてもらったほうが良かったかな。値段も良心的だったし、季節季節に一、二度くらいはくらいは行ってみたい店だった。と、まっとうな居酒屋が確保できそうで良かった良かった、というところ。生活圏であるところのT…駅付近にはこのところチェーン店系列ばかりがオープンしていたので。■朝:抜いてしまいました。昼:昨晩の残り物。夕:居酒屋で、ほうれん草のおひたし(突き出し)、石鯛の刺身、海鮮サラダ、トリなどの串揚げ、和風ピザ。ラガービールとシャンディーガフをグラスで各1杯。

10/11(金)

快晴。朝晩が冷えるようになってきた。なんとなく慌ただしいのだが、天気のおかげか体が軽くて楽に動き続けることができていて助かる。■朝:昨晩の残り物。昼:トンカツ弁当(食後ちょっと胸焼けした)。夕:しそご飯、秋鮭とマイタケのオリーブオイル焼き、生野菜サラダ、青梗菜のお味噌汁。

10/10(木)

晴れ時々曇り。ノーベル賞をめぐっての「明るいニュース」はやっぱり聞いているこちらも明るい気分になることは確か。田中耕一さんはすっかり「一夜にして有名人」の扱い。株価はずるずる下がって8,200円台。「竹中ショック」?うーん、不良債権処理が株価下落につながる「マインド」の仕組みが今ひとつ分からん。日本経済は、っていうよりも日本はいったいどうなるのかなあとこのごろ思ってしまうのだ、やはり(などというのも『低調なマインド』のひとつのあらわれなのか)。今期のドラマで織田裕二主演「真夜中の雨」(TBS夜10時〜)見る。ありゃりゃ〜石黒賢が出てる(彼が悪役?)し、これはウラ「振り返れば奴がいる」なのか?と思ったけれどどうやら主人公の性格設定はきちんと違えてあるようだ。当たり前だけど。とにかく、「振り返れば…」好きで「あんまり笑わない織田裕二」好き(『19歳』からそう)なわたしにとっては見逃せないドラマになりそう。■朝:昨晩の残り物。昼:けつねうろん、キャベツの千切り。夕:ごはん、酢豚、もずく、ブロッコリ、マイタケたまごスープ。

10/9(水)

朝方小雨、のち曇り。夜7時前に突然はいったビッグニュースは、「田中耕一さん島津製作所がノーベル化学賞受賞」。若い!43歳。授賞理由は「たんぱく質のような生体高分子を研究する強力な分析方法の研究。詳細な分析が可能になり、生命のプロセスをよりよく理解できるようになった。」で理論は87年に発表されたもの。これは、大学に残っていわゆる「学者」にならずにこつこつがんばってる企業研究員や会社員にとっては励みのなるのでは。めでたいなあ。会社の作業着での記者会見ではずいぶんあたふたしておられたけど、自分の仕事(研究)に自信持ってる研究員の晴れがましい良い顔だなあ、と思ったことだった。その一方で、北朝鮮から拉致被害者のうち5人の方が15日に帰国される旨、発表されたのだけれどお子さんなど本人以外の家族は一緒ではないとのことでたいそう胸が痛むニュース。が、お子さんたちがどう思っているのかわからないがもしかしたら混乱しているのではないかと懸念されるし(これまでは事実を知らされていなかったのでは。どうなんだろう)、帰国にあたってもご本人たちにはおそらく日本がどうなっているかわからないままでは不安があるのではないだろうか。まずはそういった不安や心配を取り除くようにすることが第一ということか。日々が歴史になっていく、と強く実感させられた21世紀のある一日だった。■朝:昨晩の残り物。昼:カツサンド、野菜ジュース。夕:ごはん、サンマのトマト煮、ゴボウサラダ。

10/8(火)

曇り時々雨。各種(含むうぃんどうず)修正プログラムやアップグレードプログラム、オンラインソフトなんかをせっせとダウンロードそしてインストール、の繰り返し。LANはマンション内の専用線につないでいるわけだが、その通信速度がむちゃくちゃ遅くて作業効率非常にわろし。どうにもならん!と(心中で)叫ぶことしきり。ノーベル物理学賞の3人の受賞者のひとりに小柴昌俊・東京大名誉教授が選ばれる。御年76。ええと、授賞理由は「宇宙ニュートリノの検出へのパイオニア的貢献」。宇宙から飛んでくる素粒子「ニュートリノ」をとらえ、ニュートリノ天文学という新しい学問分野を築いた。云々(朝日新聞10/9記事より)。ええとこの方の実験・研究は(さすがの無知ぃなわたしですら)知ってた。カミオカンデが作られた頃に宇宙論のムックの陽子崩壊んとこで読んで「すごい施設だ!」とただもう日本にそんなとこそんなものがあるのが信じられない思いがして以来、注目していたのだ。ずっと候補にあげられてた方なので選ばれてよかったなというのが第一報を聞いての率直な思い。そして夜10時すぎからドラマ「アルジャーノンに花束を」。うーん。なんでああ原作いじっちゃうんだろう。脚本家のサガなのか。原作のデリケートな部分(たとえば、迷路の課題。チャーリイの場合はアルジャーノンと同じ箱でするんじゃなくて、ちゃんと紙で行ったのだ)を削って映像的に単純にしたり、逆に原作にはない登場人物やエピソード入れて。なんかつくづくもったいない。まあ「けえかほうこく」はあったし、ドラマとしてだけ見れば普通か水準よりちょい上くらいの日本のドラマで、大人がちゃんと見るに耐える作品になってるかなとは思った、第一回の限りではだけど(偉そうな物言いだが)。原作じゃなくて原案、「『アルジャーノンに花束を』によるストーリー」くらいに考えてちょうどくらいか。サイエンス・フィクションです、という断り書きが最後にテロップで出たのと、終わった瞬間またユースケくんが出て元気に@ローンのコマーシャルをしていたのがちょっと可笑しかった。で、菅野美穂の演技がとても良くて感心してしまった(これまた偉そうな物言い)。表情筋をわずかにゆるめたり面を上げたり伏せたりだけで感情をあらわす。そんなデリケートな揺らぎのある演技。おかげでDolls観てみたくなりましたがな。。■朝:昨晩の残り物。昼:さぬきうどん。夕:ごはん、ねぎにら餃子、じゃがいもとたらことじゃこのサラダ、冷や奴、なすとマイタケのお味噌汁。

10/7(月)

夜明け前からしばらく豪雨(寒冷前線通過によるもので、横須賀など各地で竜巻被害が起きた)。日中は曇り時々晴れ。髪を短く切ってもらってさっぱり。夜はいよいよコンピュータ。データのバックアップ、ライセンスキーを控えるなどの作業が完了したのでWindowsの再インストールをする。マニュアルを見ながらびくびくと始めたんだが、たんたんとチュートリアルに従って進めるだけでよくて思ってた以上に順調にさっくりと終了。LAN設定もいちど苦労した分、今回は簡単に設定しおえることができた。きれいさっぱりしたデスクトップ、素早い起動でちょっとうれしい。あと一日二日は環境を整えるのにかかりきりになりそう。■朝:ソーダクラッカー、チーズ、アセロラドリンク。昼:チャーシュー麺、ほうれんそうの和え物。夕:チキンカレー、生野菜サラダ。

10/6(日)

霧ただよう曇り空。肌寒くはない。マンションの6ヶ月点検・集中工事日。部屋を片づけてそわそわと待ちかまえていたところ午後一番に修理の職人さんが一団になってやってくる。たぶん順番でちょうど重なってしまったのでてんやわんや。ドアの木材はがれの軽い修理と、24時間換気システムのチェック(問題なし。気になっていた垂れ落ちている油っぽい滴は、結露水、とのこと)、電話回線の説明などを受ける。(昨日来るはずだった)廊下のボルト締め直しは今日もこなくて電話などしてけっきょく連絡の手違いが判明。明日来てもらうになる。夕方からはなんだかくたびれてうたた寝したりごろごろ。■朝:フルーツグラノーラ、オレンジジュース。昼:牡蠣フライ弁当。夕:えびドリア、わかめとじゃことトマトのサラダ。

Amazon.co.jp: ヴィドック ― 2枚組 DTSプレミアム エディション ○連れ合いが借りてきたレンタルDVDで映画「ヴィドック」観たけれどふううんと思うばかりなり('01・仏 ピトフ監督、ピトフ/ジャン=クリストフ・グランジェ脚本、ジェラール・ドパルデュー/ギョーム・カネ/イネス・サストレ/アンドレ・デュソリエ/ムサ・マースクリほか)。19世紀パリ、革命前の狂乱のパリが舞台。薄暗いどろどろの退廃したパリ。映画最後には革命後の美しいパリが出てくるのは精神状況のフィルターの違いか。CG使ってもそのしっぽのところでスローモーションやアップなどを多用して一癖あるところを主張する思わせぶりな作りはまさにおフランス映画である。ヴィドック(ジェラール・ドパルデュー)は外見は葉巻をくわえてのしのし歩く、こってうしみたいなこってり屈強おやじ。しかして内面はタフで知性鋭い凄腕の名探偵。殺陣シーンでは身軽く動いて強いの何の。大人の男の成熟した魅力で女にはもてもて。そんなヴィドックが前置きや説明ゼロで最初から「とにかくすごい人物」扱いで出てきて、大ヒーローとしてがんがん大活躍しはじめるのに頭も心もなかなかついていけない、というのがつらかった。なんせヴィドックはあちら(フランス)では子供でも知っている実在した「伝説のヒーロー」。暴れん坊で投獄されりもした脱獄常習者が警察の密偵になり、やがて私立探偵になって探偵事務所を構え(世界初のことだ)、連続殺人犯を捕まえるなどして名を馳せ、『レ・ミゼラブル』やポーの諸作など後世にも影響を与えた痛快な人物、らしいのだから仕方ない。お国のヒーローの大活躍時代劇ということで、それを予備知識なしに観て文句いう方が悪いのだろう。ぼんやり散漫になってしまいそうな気持ちを食い止めて、最後まで映画の画面から目を離させなくしたのは映像美と摩訶不思議なアクション。98分。

10/5(土)

霞がかった晴れ。昨日よりも心持ち風が涼やか。掃除を本気でやると終わりというものがない。普通にしっかりやる程度でもとにかくやはりなかなか終わらない。掃除と家事に追われる一日になった。■朝:昨晩の残り物。昼:きつねうどん、きゅうり。夕:ごはん、豪勢なポテトサラダ、たまごスープ。

10/4(金)

晴れ。9月上旬並みに暑さになって体にこたえる。午後から横浜市某の中学校体育館で小中学生相手のボランティア演奏。「カルメン」よりプレリュード、ノクターン、TSUNAMI、鉄腕アトム、島唄、いつも何度でも、亜麻色の髪の乙女、情熱大陸、明日があるさ、エーデルワイス。意外にも「鉄腕アトム」が大受け。さすがはアトム、今時の子供でもちゃんと知ってるんだ。あとは「亜麻色の髪の乙女」も反応良し。マンドリンで弾いてもけっこう島谷ひとみバージョンのホンモノ(?)っぽい雰囲気が出る曲なのでそれに子供たちはびっくりしたみたい、目を丸くして喜んでくれた。夜は疲れてしまってテレビを見ながらリクライナーでうとうとだらだら、パソコンさわらずじまい本も読まずじまい。■朝:ごはん、豆腐とネギのお味噌汁。昼:おにぎり弁当。夕:青じそごはん、おでん残り、ブロッコリとトマト、豆腐と茄子とわかめのお味噌汁、豚肉の角煮、めざし、りんご。

10/3(木)

曇り。晴れが続かぬゆえ気持ちがアップしきらない。精神衛生上よろしくない。こういうときには淡々と手足を動かす事務作業をするべし、ということで懸案事項(笑)の、ブックリストの更新などしばらく怠っていたサイト整理を行うこととする。■朝:昨晩の残り物。昼:チーズトマトサンド。夕:ごはん、おでん、なすの浅漬け、ポテトサラダ。

10/2(水)

快晴、まさに台風一過。からっと暑くなる。夕方からは薄雲が広がるが美しく穏やかな夕暮れの町並みを見ていると昨日の同じ時間の荒れ狂いが信じられない。台風後の後始末、ついでにベランダを掃除し、排水溝をきれいにし、窓ガラス網戸も洗い、ボルトや金具の汚れを落として錆止めをスプレーする。こんどの日曜日にはマンションの6ヶ月点検、それまでに家中あちらこちら掃除してきれいにしておかなくては、なのである。昼過ぎ、北朝鮮に派遣されていた拉致被害調査団の現地調査結果が安倍官房副長官の会見で公表された。生存と伝えられた5人についてはご本人と断定してよいとのことでまずは良かった。死亡とされている方々の結果はなんとも凄絶というか…。いったいこれは本当のことなのだろうか。本当であってほしくないとどうしても願ってしまう。ただ、横田さんが実際どうだったかは別にして、「うつ病の回復期に自殺」ということについて。それ自体については病状の中において非常にあり得ることで、うつ状態の自殺でいちばん危険なのはうつが最もひどいときよりも少し回復しはじめたその時であることは広く知っておいてもらいたいと思う。だからわたしはその発表を聞いて無念だった。本当のことでなくたとえそれがストーリーだったとしてもあまりの無念さに絶句してしまった。■朝:昨晩の残り物。昼:チキンサンドイッチ、チーズパン。夕:ちらし寿司、シャケ、豆腐としめじと大根のお味噌汁、トマトサラダ。

うーむ、どうもこのモーモー単3450号のシステムが不調。腰据えてなんとかせなあかんようになりそうです。

と焦っていたら、さっきラジオ深夜便で久々に神戸弁が聴けて懐かしかった。やっぱり独特だな。こっちでは標準的な「関西弁」はしゃべってるけど(気を許すとこぼれ出てしまうし)どうしても「神戸弁」はしゃべれてない。神戸弁といえばやはり代表的なのは「とう」を使うこと(何々してる→何々しとー)、とぅの上げ下げで文意が変わる…「知っとぅ?」「知っとぅ」(『しっ→と→ぅ↓う↑?』『しっ→と→ぅ↓』。このへんはちょっと四声っぽいかも)なんて神戸育ちならすらすら言えて通じることがこちらではまず100%ニュアンスも意味すらもとってもらえない。通じないと自然、使わなくなってくる。だんだん抜けてきてしまってます。あー、ふるさとのなまりなつかし、と、ついにラジオを聴いて思うようになってきたのか。

Amazon.co.jp: 美濃牛殊能将之『美濃牛』(講談社ノベルス、2000.4、ISBN 4-06-182123-7)[bk1/amazon]読書中。今は通夜が終わったところ。うーむこれからどう話が進むのだろう。全く先が見えなくてページをめくるのが楽しくて仕方ない。★飛浩隆『グラン・ヴァカンス』も日常のなかで噛みしめ直している。あれはすべて実体のないネットワークの中につくられた世界のお話だったのかなやはり、とか、自分が区界を作るなら〈晩秋の区界〉で友達とゆったり過ごすようなのがいいなとか(寂しいひとなのです)、「2月の区界」なんてのも素敵そうだな、いややはり夏も捨てがたいなあとか…。あの文体は定義するなら美文調なんだろうと思うんだけれどそれでダメなひとはダメなのかもしれない。わたしはぎりぎり。小説にとって文体は内容と二本柱になるくらいの非常に大きな要素だと思う。

10/1(火)

雨。台風21号非常に強いまま北上中。昼過ぎて急に風雨ともども激しくなってきた。今は空気が水浸しであたり一面ミルク色。引っ越しに伴う住所変更手続きと(いやはやまだ残っていたとは。某生保からのお知らせが旧住所宛に来て気付く)、来年のコンサート会場予約の調べものなどをネットで。結局こういった金融機関やライフラインまわりの住所変更手続きは、すべて家に居ながらにして電話かネットまたは郵送で済ませることができた。前も書いたけれど前回4年前の引っ越しの時とは大違いだし―そのときも7年前の引っ越しに比べると楽だなあと思ったのに―さらにここ1,2年でまたぐっと便利になってるなあと実感する。でも役所まわりはでもまだまだ…公共施設(ホールや練習場など)の予約状況確認、申込み手続きなどをWeb上で済ませられたらどんなに楽だろうと思うのだけれど(今よくあるパターンは申込開始日の朝9時までに直接会場に行って抽選、というもの)、デジタルデバイドなどの問題があるからやっぱり公平を期すためには仕方ないのかな。■朝:昨晩の残り物、リンゴジュース。昼:けつねうどん、菜っぱのおひたし。夕:昨晩の栗ご飯(3合炊いたら食べ尽くせなかった)、じゃがいもとマイタケと玉子のお味噌汁、ギリシャ風のつもりのサラダ。

10/2追記 夕方ごろから突然風雨激烈になり3時間ほど続く。8時すぎには静かになり小雨が残ったが9時には透き通った星空になった。身近な被害では1.玄関ポーチ部分にある外廊下の手すりをマンション壁に固定するボルト2個のうち1個吹っ飛んでいた。廊下の東端の風が直接吹き付ける場所だからなあ。手すりがぐらつくとまじであぶない箇所なので、たぶん工事の瑕疵だったのが早めに見つかってやれやれと思わねばというところか。廊下にころんと転がっていたボルトとワッシャーを見付けたときには何がはじけとんでいるのかと一瞬ぞわっとした^^;。2.東海道線が走ったり止まったりで東京からツレがなかなか帰れなかった。結局普段の2倍くらいの時間がかかってたかな。3.通り道にあった細い電柱が一本へし折れてた。これはまじで怖いな。この台風で無くなった方の死因に切れた電線に触れて感電死というのがあったので、やはり台風のときはなるたけ出歩かない方がいいということだ。電線といえば、茨城県で高圧送電線の鉄塔9基がぐにゃり折れていたというのは恐ろしい。それで大規模な停電になったようだけれど人的被害がなくて何より。でもなんか、テレビニュースや新聞写真で見る限りではわりにほそこい鉄材で作られたきゃしゃそうな鉄塔だったのにちょっとびっくり意外だった。実家のそばにも送電塔があるのだけれどジェラルミン色に光るエッフェル塔ちゅうか東京タワーちゅうかそんな感じの(えーっわははって笑われそう。まあわたしの脳内イメージではそうなのだってことで)しつらえでとにかく非常にがっしりした建造物だったから…山間地と平地の違いとか、高圧送電線の種類とかによって鉄塔もいろいろ違うのかな。



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