■Kousetsu's journal■

読書&映画日記 こんな日々だった。

▼2002年9月

9/30(月)

雨。いきなりその存在が明らかになった(いきなり発生したのか?)台風21号に刺激された秋雨前線の雨。台風はどうやら強いまま明日の夜あたりに接近、下手すると直撃かもしれない。とりあえずベランダまわりざっと片づける。小泉内閣小幅改造。石破茂氏の防衛庁長官就任が意外だった。今、なぜに氏が選ばれたのかを、これから注目してみておかねばならないんじゃないかな。石破さんのお父上とわたしの祖父とは幼馴染みで仲が良かった。二人とも既に故人となり外孫でしかもひょろりんとこちらに流れ来ているわたしなんかになるともう全く氏とは無縁無関係なんだけれど、それでもやっぱりなんとなく注目してしまう議員である。■朝:昨晩の残り物。昼:ごはん、牡蠣フライ、千切りキャベツ。夕:栗ご飯、茄子とマイタケのお味噌汁、冷や奴、ポテトサラダとトマト。

文学は終わりなきものなのか。人類はその営みの中でたとえば数々の物語や小説、詩を生んできた。このうえなお新しい物語を生み出すこと、誰も読んだことのない物語、誰も見たことのない世界を作ることは可能だろうか。当然なことにそれはだんだん難しくなっていくのだろうと思うし、また一方で古来以来積み上げ続けられた文学作品の豊潤な土壌をベースにさらに豊かな作物を作ったり美しい風景を借景にしてさらに美しいものを作り出したりし、相乗的重層的な響きを持つ、分厚い作品にすることもできるのだ、といえるとも思う。そのような文学作品にわたしたちは深くインスパイアされ、新しい物語を心に紡ぐ、かもしれない。そして、既読の作品によく似たモチーフを持つ作品と出会うたびに、ひととはいかにひとりひとりが同じようなことを想っているものなのか、ということを改めて思い知らされ、人間の心のあり方の不思議(なぜみな同じようなことを想ったり考えたりしながら生きている?)を教えられる思いがする。

★飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使1』(早川書房ハヤカワSFシリーズ Jコレクション、2002.9、ISBN 4-15-208443-X)[bk1/amazon]読了。ネットワークのどこかに存在する仮想リゾート〈数値海岸〉(コスタ・デル・ヌメロ)の一区画〈夏の区界〉は南欧の田舎の港町をイメージしてデザインされた美しい町、役割を担ったAIが「登場人物」として住まわされ、金を払った人間の「ゲスト」に仮想のリゾートを提供するためだけの空間。しかし人間は1000年前に突然やってこなくなってしまった(『放棄された仮想リゾートp.308)。それから繰り返されるのは同じ夏の日、取り残されたAIは永遠の夏休みを、1000年と50年を思いながら生きている。この〈夏の区界〉をメンテナンスしているのは「蜘蛛」という名のロボット。その「蜘蛛」が直せない「欠落」の穴が出来ていた美しい朝、突如として〈夏の区界〉の崩壊が始まった…。とりあえずファーストインプレッションをさっと。あとがき的にそえられた著者の「ノート」にあまりこだわっていてはいけないだろうが、まさにその通りなのでここは著者のことばを借りようと思う。「執筆中「新味を出そう」とは考えなかったから、ここにあるのはもしかしたら古いSFである。ただ、清新であること、残酷であること、美しくあることだけは心がけたつもりだ。飛にとってSFとはそのような文芸だからである。(本書p.308『ノート』より)。白、薔薇色、青。硝視体(グラス・アイ)。フランス語の名前を付けられた、生き生きとした個性豊かなAIたち。それら目に眩しい鮮烈なイメージで読ませる、非常に映像的な、そして感覚的な小説なのだなと思う。観念小説的でもある。著者が脈々と紡いだ物語、頭の中に湧き出る美しいイメージをなぞって結実させたもの。それらを文字に写し取って文章にした、まさに「書かれるべき物語」だったのであり、それ以上でも以下でもない、のかな、と思えて、わたしはただひたすらに著者が映し出すイメージに寄り添って読んでみた。その際これはあくまでボディイメージというかブレインイメージ的な話になるのだけれど、(こんなことを言うのはおこがましいのは承知の上でいえば)どこかわたしのなかにある物語ととても近いところがあって、読みながら働かせていたのは大脳皮質の表層部のみだったこと、そして最後までほとんどそれで済んだことにちょっと驚いてしまった。それはあえて自意識やこだわりを捨てて大脳の上半分だけを働かせてみたのであるし、一方ではそのように仕向けられていたようにも思う。仕向けられていた、と思ったのは、「ブレインイメージとしての」大脳の下層、思考の根底部でありリアルな思考のある層に直接届くような言葉は数カ所、せいぜい三箇所くらいにしかなかったからである(それはほとんど決め台詞、作品中の決定的な言葉だったので伏せる)。思考の根底部とは言い換えれば「真実」の層であり、普段の暮らしでは隠れている深層心理の層でもある。読んでいてそこに直接降りてしまう、またその層に響いてくる言葉があるのは優れた文学の条件であるだろうがその反面、逆に深層心理に訴え続けることで物語が「リアルさ」に限定されてしまい貧しくなる場合もあるのではないか。『グラン・ヴァカンス』における心の上澄み部分だけが動いていく感覚は非常に自由で心地よく、麻薬的な魅惑がある(まさに夏休み的ふわふわ!)。もちろん自由さは描かれている世界がヴァーチャルなもの―仮想リゾートの舞台、役割の限定されたAI―であることからも来ているだろうし、またこのヴァーチャルであることがやはりこの小説をエンターテイメント的な感触にし読書を楽にしているのだろうと思う。そしてそう、過剰な残虐さは一線を越えると官能的ですらあり一種の性的快感につながるのだね。ただ深層心理までえぐられるようなハードさや残虐さ(有機質が溶け出す、吐きそうになる、リアルな残虐)という点ではついこの前読み終えたキングの『ザ・スタンド』のほうがヘビーだった、とわたしには思える…AIよりもやはり人間のほうがわたしは怖い。そして人間がもだえ苦しむほうが(だがリアルなだけに『ザ・スタンド』には重しがついており、どすんと重い物語では浮遊できないのだ!)。ここで確認しておくべきは、脳の表層部だけしか働かせていないからといってそこまでの話、上っ面だけの話であるのではない、ということだ。表層部とてそこもまた脳であることに変わりはなく、流され攪拌され拡張することで、脳の全容は、わたしという存在は、物語によってやはり変容している。

比較的多く打たれている読点や複合動詞の多用などで、文章のリズムが自分のフィーリングと合わなかったことは最初とても気になった。実を言うと途中までは、その文体に感じる違和感も相まって――「So What?」な気分になりイメージのみ味わうの境地に陥りかけていたのだ、と告白しよう。けれど、中盤から終盤にかけて強烈に繰り出された畳みかけるような展開の見事さにノックダウンされたのである。文体への違和感はどこかへ消えていた。そして読み終えた後は心地よくすらある。こんなにひどい物語なのに。天使の翼の凄烈さ。ところどころで出てくる「水」の哀しく清冽なこと。そしてノックダウン・パンチは、わたしの場合は「ゲストとエージェントと泣き砂」であった(p.303-304。最後の最後やんけ)。本書は《廃園の天使》の名で書かれる連作の第一作(同じく著者『ノート』より)だそうであり、物語がこれから始まる予感、これから先いったいどうなっていくのだろうかというおののきで胸がいっぱいになったところで『グラン・ヴァカンス』は静かに閉じてしまった。老ジュールの存在すなわち、この第一作は巨大な円環のほんの一片なのか?円環は閉じるのか?壮大な規模となるだろう作品のこれから先を楽しみにしていたい。薦めてくださった方どうもありがとうございました。

うーん、読み手や評価軸の置き方によっては評価はもしかすると分かれるのかな、でも実際、連作だけに作品の本当の評価はまだまだこれからだろうと思う。あと、どうしてもちょっと映画「A.I.」ならびにキューブリック的世界を連想してしまった。で、やっぱりセックス・ロボットのジョー=ジュード・ロウの姿がちらつくのだな、ハーレイくんじゃなくて。なんか、この〈夏の区界〉にいるAIは(詳しく描かれているのは生き残れた面々ばかりだからかもしれないけれど)みんな「大人」だな、と思う。

9/29(日)

Amazon.co.jp: 美濃牛 薄曇り、蒸し暑い。午後からFでマンドリンの例会がある。めんどくさいなー(ぉぃ)。気候のせいか体がしんどくて、だらだらしたい病になりかけ。横着者の血が騒いでいるだけなのかもしれないが。こんなときには親がよく(からかいまじりに)わたしに歌って聞かせた「横着はするほど悲し」という一節が蘇る…で、なんとか踏ん張るわけである。★殊能将之『美濃牛』(講談社ノベルス、2000.4、ISBN 4-06-182123-7)[bk1/amazon]読み始め。文章にちょこちょことくすぐりがあって片頬でくすりと笑ってしまいます。

村上春樹の『海辺のカフカ』がSFじゃない理由は何なんだろう、佐藤哲也『妻の帝国』がSFであるとするならば。後者が「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」から出されているから?SFマインド(って何なのか?)の有無の問題?それとも『海辺のカフカ』もSFであるといえるのか?ちょっと気になっている。

例会からの帰り道、歩きながら思いつく。SFであるなしは(自然科学的な)論理構造が物語に設定されているかどうか、言い換えれば一見とんでもないことでもちゃんとリアルな論理的筋立てで説明つけれちゃうかどうかってことがポイントなのかな。で、そのでんでいくと、たとえば『海辺のカフカ』の空から降ってくるあれこれなんてなんの説明もつけられない。

急いで帰宅したら高橋尚子がベルリンマラソン優勝のゴールテープを切るのに間に合った。デビュー戦で負けただけで6連勝。やはり稀有の素晴らしいランナーである。しかも終わったあとケロケロとしている様子なのが…へとへとでゴールに雪崩れ込んだライバルから見ればなんとも恐ろしいだろうなあ。体調悪いそうなんだが(それで2時間21分49秒は恐れ入る)東京女子マラソン出場の意向ありとも。大丈夫かしら。■朝:プレーンヨーグルトにブルーベリージャム。昼:チーズペンネグラタン、トマト、ごはん。夕:ごはん、かじきまぐろのフライ、ガーリックポテト、茄子のサラダ。

9/28(土)

Amazon.co.jp: ハサミ男 雨、夕方頃にはいったんやんで薄日も差したが夜からまた雨。すっきりしない空模様のせいで首の凝りがひどく偏頭痛にまで行ってしまい我慢できずバファリン投入。★読書メモ。殊能将之『ハサミ男』(講談社文庫、2002.8、ISBN 4-06-273522-9)[bk1/amazon]読了。1999.8出版の講談社ノベルスの文庫化。美少女を殺害し研ぎあげたハサミを首に突き立てる連続猟奇殺人犯「ハサミ男」対、警察。警察小説としても心理小説としてもいやはやどうしてどうして、その巧みさと面白さ!ミステリならではの快感を久々に味わえて興奮した。知的刺激を与えてくれる、衒学的とも言える数多くの引用はそういうの好きな人間にとってはたまらん魅力かも。個人的にはネロ・ウルフとアーチー・グッドウィン(p.149)にうれしくなってニンマリ。■朝:昨晩の残り物。昼:ミートソースドリア、トマトときゅうり。夕:吉野家の牛丼、ごぼうサラダ。楽してしまいました^^;

9/27(金)

しとしと雨。朝は歩くと蒸し暑さで小汗がにじむほどだったのがどんどん気温が下がっていって夕方は長袖シャツ一枚では寒くて震えが来た。こういうときに風邪をひくんだろうなあ。くわばらくわばら。気温16度くらいで11月上旬並み。雨の空気の底に金木犀の香りが沈殿するように濃く漂う。そんなことで体力消耗したのか夜は眠くて仕方ない。北朝鮮問題をするだろう「朝まで生テレビ」を少し見るつもりで風呂上がりテレビの前の椅子に座って本をぱらぱらしながら待つがついうとうとしてしまい時計も全然進まない。開始まで我慢が持たず、眠気に白旗を揚げて1時過ぎに就寝。■朝:ごはん、油揚げとわかめとネギのお味噌汁、トマト、豆腐。昼:石焼きピビンパランチ(880円で熱々の石のお椀?に入って出てきた。あっさりしていて美味)。夕:チキンカレー+ゆで卵、トマトとキュウリにしそをふってごまドレッシング。

9/26(木)

曇り。徹夜仕事から無事帰ってくるのを待つ落ち着かない夜。横浜・森監督退任で悔しさのにじむ非常に短い会見。TBS・砂原オーナーの意向による事実上の解任である。権藤野球の完全否定だったからなあ…移籍などで有力選手が抜けたことを考慮に入れても、ベイスターズ優勝のときの横浜の盛り上がりを思うと今の有様は正直、信じられない惨状。同じ選手とは思えないほどプレーに精彩がなかったりするのも、アンチ権藤サイドから言わせると権藤時代にさぼっていたツケなのだそうだが。後任監督には山下大輔氏が有力。■朝:昨晩の残り物。昼:チャーシュー麺、ゴボウサラダ。夕:ヨーグルトと野菜ジュース。

9/25(水)

薄曇り。晴れが続かないのはちょっと気が滅入る。■朝:昨晩の残り物。昼:パンチーズクロワッサン、野菜ジュース。夜:ごはん、ラタトゥイユ風豚肉の夏野菜煮、かぼちゃのサラダ、冷や奴。※Mint Julep、9月25日の「やっぱりコウモリな私であった」同感同感、なのです。恥ずかしいとのことで青月さんには申し訳ないのだけれど、ちょっと答えてみます。

と思ったのだけれどやっぱりあれっすね、一通り書いてみるとわざわざ人様に読んでいただくことでもない気がしたので最後の設問だけ…。

9/24(火)

朝方曇り、急速に晴れて心地よい快晴。起き抜けに窓を開けるとふわり金木犀の香り。風に乗って甘く漂う。すごいなあ。で、ジャイアンツが史上初の「サヨナラ負けで優勝」しちゃった(マジック対象のヤクルトが負けたため)。げへげへ。阪神ようやった!試合時間5時間2分、12回裏、濱中んときに前田が暴投。「あーあ、阪神も怪我人でなきゃもっといけてましたよね!」と思ったゲームでした。やはり巨人に比べると圧倒的に選手層が薄いのか。■朝:リンゴヨーグルト、ソーダクラッカー。昼:ごはん、お味噌汁、鰹のたたき。夕:ごはん、油揚げとネギのお味噌汁、鶏の唐揚げ、マカロニサラダ、たことわかめの酢の物。

Amazon.co.jp: ザ・スタンド(上) Amazon.co.jp: ザ・スタンド(下) ばたばたしていて感想などが書けていないけれどここ数日で何冊か読み終えている。後日のためにメモ。★スティーヴン・キング『ザ・スタンド』(深町眞理子訳、文藝春秋、2000.11、2000.12、ISBN 4-16-319390-1(上)4-16-319470-3(下))[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]。原題:THE STAND, 1978,1990。まさしく「闇のキリスト教世界」を描いた大作、いやはや。圧倒されたとしか。我々の今この世界も、一歩踏み出す足を間違えるとこうなりかねないんじゃないか、と背筋が寒くなる。個人的にはハロルドが…性格、行動パターン、はみだしてく過程などにちょっと自分と通じるところがあって身につまされた。

Amazon.co.jp: トム・ゴードンに恋した少女 同じくキングの★スティーヴン・キング『トム・ゴードンに恋した少女』(池田真紀子訳、新潮社、2002.8、ISBN 4-10-501909-0)[bk1/amazon]、原題:The Girl Who Loved Tom Gordon, 1999。アパラチア自然遊歩道にハイキングに来た9歳の少女が森でひとり迷子になった、さあどうサバイバルする?…というお話。状況が状況を呼んで転がっていくのがざらりリアルな佳品。家族の姿がなんとも切なくて。実はわたしは家族ハイキングで家族丸ごと雷雨の摩耶山や六甲山、真夏の鳥取砂丘で迷ってしまったという経験がある。それぞれ1時間ほど彷徨って無事人里や道路にたどり着けたのだが(『あんなところで!』と思われるかもしれないけれど、特に六甲山系は谷が深くていちど本道を外れてしまうととんでもないことになる)、道を見失ったと気付いたときに流れた冷や汗、心臓が口から飛び出そうになってそれでも必死で冷静に行動しようとしていたことなどの記憶がなんとも生々しく蘇って仕方なかった。ペーパーバック風の装丁は洒落てるしソフトカバーで軽くて読みやすい。スティーヴン・キング『小説作法』(アーティストハウス)p.194にこの小説に関するコメントあり。

Amazon.co.jp: 映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで ★町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本』―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで(映画秘宝COLLECTION22)(洋泉社、2002.9、ISBN 4-89691-660-3)[bk1/amazon]。Understanding Cinemas of 1967-1979、「ニューシネマ」の著名な作品を中心に、わからない映画がわかり始める、隠された事実の数々(帯より)を書いてくれていてためになりかつとても面白かった。たとえば『2001年…』(原作未読)、ぐわーん、のっけから誤解していたのがわかりこの映画に持っていた積年の疑問が氷解しました。あれ軍事衛星だったのね…。本書で取り上げている作品は『2001年宇宙の旅』『俺たちに明日はない』『卒業』『イージー・ライダー』『猿の惑星』『フレンチ・コネクション』『ダーティーハリー』『時計じかけのオレンジ』『地獄の黙示録』『タクシードライバー』『ロッキー』『未知との遭遇』。

Amazon.co.jp: ニュースキャスター ★筑紫哲也『ニュースキャスター』(集英社新書、2002.6、ISBN 4-08-720145-7)[bk1/amazon]。ほぼ毎日見ている『筑紫哲也ニュース23』の舞台裏がわかって興味深くて面白かったし(あのニュースあの対談、市民対話集会…なるほどこうだったのか、と)、それ以上に考えさせられた一冊。筑紫さんのそのときどきの思いや考えの深さに感服したこともあるのだが、一方で(こう言って申し訳ないのだけれど)視聴者/伝えられた側としてみればいくばくかのギャップを感じてしまった箇所もあった。伝え方やコメントに視聴者側もしくは取り上げられた側がどう反応したか…反応の大きさや反発を呼んだのにギャップや違和感を感じたことは本書でも少し触れられているのだけれど、なぜそうなったかについては主観的な理由や余談、その事実があったことのみ記すなどして流されていることも多く、それが主題ではないにせよそれでもやはりもう少しそのギャップ正体の追求がもう少しあっても良かったのかな、と思う。ちなみに関西では「第2部」は放送されてなかったんだよね(金曜だけ流れてたんだっけ?もう記憶が定かではないです^^;)、この本では触れられていないけれど。

9/23(月)

夜明けに雨はやんだようで午前中曇り、台風一過になるかと思って油断していたら午後1時すぎ、わりに明るい空から突然シャワーのごとき雨が降りはじめ洗濯物取り込んだり窓閉めたりで大慌て(在宅してて良かったよ!)。そのまま午後は降ったりやんだり。夜は日テレ「よど号事件〜史上最悪の122時間」(関係者の証言とそれに基づく再現ドラマ)を見る。1970年のよど号ハイジャック事件は当然全く記憶にないしどんな事件だったかも表層的にしか知らない。よく親が「男・山村という人がいて…」(山村新治郎運輸政務次官。金甫空港で人質の身代わりになって北朝鮮に行った)と折に触れて話していたのでそのことは知っていたのだけれど。ということで、この事件がらみで報じられるニュースを実感を持っては飲み込めずにいた昨今、タイミング的にはありがたいドラマだったんだが、ひどかったのがコマーシャルがひっきりなしに入るような有様だったこと(実感としては1シーン7,8分流してはコマーシャル3分…というような感じ)で、それにいらついてしまってすべて見るのが大変しんどかった。でも韓国・金甫空港についてからのことなどは不勉強だったものだから今回ので初めて知ることができて自分としては収穫あり。けっこう息を呑んで見てたかも。■朝:昨晩の残り物。昼:鮭茶漬け、らっきょう、トマト。夕:モスバーガーであれこれ。

9/22(日)

曇り、夕方から唐突に大雨になる。関東南岸にあった熱帯性低気圧が台風19号になってしまったのだ、唐突に。なんの台風支度もしていなかったんでちょっと冷や汗。北東からの風は身を切るように冷たく、それが次第に強くなり気温がぐんぐん下がって15度くらいになった。ばしゃばしゃと雨粒が窓を叩く音もなんだかわびしい。■朝:フルーツグラノーラ、プルーン。昼:きつねうどん。夕:ごはん、チーズペンネグラタン、じゃがいもサラダ、トマト。

Amazon.co.jp: ラットレース レンタルDVDで映画2本観る。○映画「ラットレースRAT RACE('01・カナダ=米 ジェリー・ザッカー監督、アンディ・ブレックマン脚本、ローワン・アトキンソン/ウーピー・ゴールドバーグ/ジョン・クリース/キューバ・グッディングJr./ジョン・ロヴィッツ/キャシー・ナジミー/セス・グリーン/プレッキン・メイヤー/エイミー・スマート/ウェイン・ナイト/ヴィンス・ヴィーラフ/ラナイ・チャップマン/ポール・ロドリゲス/デイブ・トーマスほか)はアメリカン・ジョークを適度にちりばめた陽気なコメディ。しょぼくれた日常を抱えつつたまたまラスベガスのとあるホテルに泊まった面々がスロットマシーンをやってみれば転がり出てきた奇妙なコイン。そのコインを手にしてカウンターで聞けばスイートルームの食べ放題飲み放題パーティへのご招待だという。好奇心と食い気から集まった面々は突然現れたホテルオーナーに煽られケツを叩かれて、始まりましたのは一攫千金のラットレース。人間を賭の対象にしている退屈しきった大富豪を楽しませるために、ラスベガスからニューメキシコまでの700マイル(約1,000km)を駆け抜ける…というストーリー。それぞれの抱えている鬱屈感やら理性やらがぱあっと消えていくのが面白いです。製作と監督のジェリー・ザッカーは「裸の銃(ガン)を持つ男」(爆笑パロディコメディ)「ゴースト/ニューヨークの幻」などの監督で、特殊効果をあまり特殊効果と感じさせないことや、照明の具合とか色のコントロールとかのせいなんだろけれど人物の輪郭線がくっきりしているような印象のしっかりした絵作りなどにやっぱり特徴あるなと思う。くすっと笑える人種を絡めたギャグを放ってしかもそれが悪趣味にならないところとかも(というよりも、日本人のわたしにも分かるアメリカンギャグとなるとそういう類のわかりやすい分だけなのかもしれない、とも思う)。それからこの映画は信じられないくらいむちゃくちゃ豪華キャストなんだけれど、ひとりひとりの見せ場をコラージュしていくような作りということでその分ひとりずつのシーンが短め。食い足りない〜もっと観たい、と思ってしまうくらいに。でもまあだからこそこのキャストが実現できたんだろうなあということで、こういう映画があっても良いでしょう。ビールなど飲みながらわいわい楽しく観ましょ、という映画だと思った。凝ったオープニング、洒落た遊びシーンが随所にちりばめられた112分。作中、アカデミー主演女優賞獲得女優がびっくり隠れキャラで出てくる。わはは。

Amazon.co.jp: ファーゴ ○映画「ファーゴ」FARGO('96・米 ジョエル・コーエン監督・脚本、イーサン・コーエン製作・脚本、フランシス・マクドーマンド/スティーヴ・ブシェーミ/ウィリアム・H・メイシー/ピーター・ストーメア/ハーヴ・プレスネル/ジョン・キャロル・リンチ/クリスティン・ルドリュードほか)。1997年アカデミー賞 主演女優賞・オリジナル脚本賞、1996年第49回カンヌ国際映画祭最優秀監督賞など多数受賞。コピーはノース・ダコタ州ファーゴ 初めは無邪気な偽装誘拐だった...。「実話を元にして」真っ白に凍てつく冬のノース・ダコタ州・ミネソタ州を舞台に、静かに淡々と暴力を描く。主要キャストとしてここにあげた面々でほぼ事足りるようなストーリーは淡々としているようで非常に人間くさくて濃厚でもある。ウィリアム・H・メイシーが演じる(間抜けな、あまりにも愚かな)ジェリー・ランダーガードと、フランシス・マクドーマンド演じる(妊娠中の、健やかな)警察署長マージ・ガンダーソンが中心人物。ジェリー・ランダーガードがどんどん泥沼にはまっていくのにはもう叫びたくなるほどだし、一方で「健全」側のきびきびと働くマージの笑顔は見ようによってはチェシャ猫のようでもある。カール・ショウォルターという車と金で偽装誘拐を引き受けたちんぴらもまたランダーガードととんとんくらいかそれ以上になんともなんとも、情けなくてたまらず、それにまたスティーヴ・ブシェーミがぴったりとはまっているのだ。やはりやはり。小心者が小心と臆病を取り繕ううちにどんどん変なことになる、転落していき取り返しのつかないところに落ち込んでしまうさまが怖いということで、犯罪もんなのでこれ以上書くのは措いておきます。映像、息を呑むほどきれい。98分。

9/21(土)

とんがりが印象的な東京宝塚劇場(右)を見上げて
東京宝塚劇場(右)。
とんがりが印象的。
曇り、少し蒸す感じ。旧友に誘われ東京宝塚劇場・雪組公演「追憶のバルセロナ/ON THE 5th」夜の回を観に行く。新トップ絵麻緒ゆうさん・紺野まひるさんのお披露目公演にして同時にこのお二人と専科の成瀬こうきさんのサヨナラ公演ということで、楽日23日を前にしみじみとしたお別れムードの濃く漂う舞台を観ながらすすり泣く人たちがそこかしこに…。かく申すわたしも少し胸のあたりがじわっと熱くなったのだが。バルセロナのほうはスペイン物。1800年代バルセロナを舞台にカタルーニャ貴族がフランスとの戦争に敗れ運命の流転、ジプシーに救われ…というお話であるが、うーん、白状するとわたしは今ひとつ没入できないまま。本筋とは関係のない部分で気になることが多く、邪念が湧いてしまって駄目だった。たとえば昨今の社会情勢から考えても(『ジプシー』はヨーロッパ人らの誤解に基づく蔑称であり、彼ら自身は『ロマ』と自称。またそう呼ばれることを求めている)やはり彼らが自らを指して使う言葉は「ジプシー」よりも「ロマ」のほうが適切だと思われるのだけれども、この劇ではジプシー一本槍。この呼称について注釈などパンフレットでもいっさい行うことないまま、ロマンある存在として彼らを登場させ劇を作ってしまう…そういったことになんとなく定型主義的な気持ち悪さをわたしは感じてしまう。当然、スペイン・ロマ音楽としてギターソロなども盛り込まれていて(あれは生演奏だったのだろうか、たぶんテープかな)お勉強モードになってしまったし。ということで、始まってから終わるまでがものすごく長く辛いものになってしまい、35分間の休憩時間、友人と歓談しながらも内心ではしょぼしょぼと「あーあ、わたしはやっぱりヅカファンにはなれないな」と理屈が整っていないとなかなか夢を見られない自分を再確認させられた思いで寂しく臍をかんで過ごしたのだが、そのあと始まったショーのほうでそのしょぼしょぼ気分をぶっ飛ばしてくれたタカラヅカはさすが。ニューヨーク5番街を舞台にアメリカの名曲で踊りまくるというもので、心憎いばかりの演出と振り付け、そして見事なダンスと歌ですっかり夢心地。9.11の追悼の場面(今回入れられていた)がなんとも熱く真摯で心打たれた。神戸から飛行機でやってきて開演15分前に劇場前で落ち合った友人とは心残りもあったが、同行者2人とともに赤坂のホテルに泊まるという彼女たちとどうしても今後の「つもり」がかみ合わず、時間のこととこちらが遠距離であることを考えて風邪気もあったので帰らせてもらう。■朝:昨晩の残り物、プルーン。昼:カップヌードル、野菜ジュース。夕:マクド持ち帰りで月見バーガー、フランクバーガー。野菜サラダ。

9/20(金)

快晴。今日いちにちで汗をかいては(日中、外をすたすた歩いているとまだちょっと暑い)冷房に震え(冷房入れると寒い)を3回ほど繰り返してしまい体調狂ってしまったみたい。ちょっと風邪のひきはじめという感じなので葛根湯投入。×××川に太った鯉がたくさん泳いでいるのをいつものとおり通りがかりに橋の上から覗いて、ふと、大岡川で鯉を捕食しているという目撃談のあるタマちゃんがこの川に来たらば食い放題だぞとか思い、そしたらアザラシがそこの川岸に寝ころんでいるの図がふっと頭に浮かんでなんだか可笑しくなってしまってにまにま笑いながら橋を離れ、すれ違いざまにふとけげんな顔をされて慌てて顔を引き締める。駅前のTSUTAYAでDVD2枚借りて帰宅。オンラインクーポン見せてレンタル代半額。わーい。朝日新聞夕刊第13面(9/20・東京本社版)「単眼・複眼」。村上春樹氏新作『海辺のカフカ』 「世界の終り」から「始まり」へ。紙幅さして大きくないにもかかわらず、この小説を『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と比べながら、そのあらすじや構造、読みどころをきっちり押さえた正統派(?)の解説になっている(通過儀礼ということはとりこさんも指摘されていた)。うーむ、自分の思ったことはだいたい述べられちゃってますが、とりあえず自分も変な読み方をしてなかったんだなとまあちょっと安心できたり。あと、うーん、この小説、ビルドゥングス・ロマンでもあるし、また、シュトゥルム・ウント・ドラングの影も田辺カフカの章にある気がする。トーマス・マン的な香りというか。と、豊潤な余韻を再読前にとりあえず楽しんでいる。

昨日の日誌を書くために『ガープの世界』を久々に書棚から取り出しぺらぺらっとめくったらまるでページから文字がふわふわと浮かび上がってくるように一文一文が目と心に飛び込んできて、これはしっくり古馴染みの大好きな本が「また読みませんか〜」と誘いかけている(笑)のだと思った。ああ、読みたい!明日のお出かけ本にしようかな。もう何回読んだか分からないくらいだがガープとわたしはけっこう似ているような気がして読んでいて人ごとと思えないのだ、何かとシンパシーを感じてしまう。■朝:昨晩の残り物。昼:ちらし寿司のお弁当。夕:ごはん、昨晩のじゃがいもスープのアレンジ(かき玉スープ)、さっと温めた寄せ豆腐、トマト。

9/19(木)

晴れ。昨日はけっこう暑くなったのだけれど、今日は風がひんやりしていて長袖じゃないと心許ない感じ。えーと、★村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002.9、ISBN 4-10-353413-3(上)4-10-353414-1(下))[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]の感想をここ数日書いているが、かなり内容に踏み込んでしまっていて…ネタバレがイヤな人は飛ばし読みしてください。日誌にごっちゃに書いてしまってすみません。

この本の感想は(さすが村上春樹の新刊だなあと思うことに)ネット上でもたくさんの方が書いておられるのを目にすることができて、それらを読ませてもらうのがとても楽しい。そのなかでたとえばとりイカの、とりこさんの9/12,9/18、「ステキ司書の大島サン」に追い払われる二人組が不幸だ、と義憤を感じておられるのには盲点をつかれたおもい。わたしはというと、あの二人連れのところ(上巻第19章)を読みながらなんとなくジョン・アーヴィング『ガープの世界』に出てくる「エレン・ジェイムズ党員」のことを思ったりもしていた。期間限定サイト「海辺のカフカ」のメールボックスではたくさんの方の感想が、しかも村上春樹のお返事つきで読める。■朝:昨晩の残り物。昼:豚肉の生姜焼き弁当。夕:ごはん、じゃがいもスープ、シーフードサラダ。

9/18(水)

晴れのち曇り。久々の青空と爽やかな空気。でも米軍機がひっきりなしに、ひどいときには1分おきくらいに爆音を立てて上空を飛び交ってうるさいのなんの。これが朝から晩(ただいまは20:45。まだまだ続きそう)までだよ。ミニコミ誌なんかに空襲体験者のお年寄りがこの米軍機の音に空襲を思い出してしまいたまらない、という声がときどき載っているのだけれど、今日はとりわけキーン、と風切り音や、エンジンをふかす(?)音がひどくて思わず空襲を知らぬわたしも、かくあるやとぞっとしたりする。飛んでくるたびに泣いてる近所の赤ん坊や子供がヒステリックに泣き声を高くする。くわーっ。

一夜明けて朝の番組を見てると、小泉総理の決定を責める声が大変大きい。交渉にはいるのが早すぎる、宣言に署名したのは時期尚早だった、失敗外交だ、と声高に言っていて「これが世論かぁ」と呆然と思ってたら、夕方から夜にかけては「会談秘話」やら「裏話」やらが明かされ始め、国交正常化交渉再開を評価する声が逆に大きくなってきたみたいだ。聞きたくもない悲惨な結果をもたらしたとパンドラの箱を開けたかのように小泉さんを責めるのは間違いだし、また、北朝鮮外交の失敗・失政を責めるのならば小泉さんよりもむしろ過去の関わってきた政治家、外交当事者たちのほうだと思うんだけれど、どうなのか…昨日から情報の洪水状態でなんだか頭の整理がつかないよ。しかし拉致問題や不審船問題を、あちらは自国民に伝えてないのね。自国の犯した「忌まわしい」事実を認めて謝罪したことなんかを伝えてしまうと国家体制を維持できないと思ってることのあらわれなんだろうなあ。しかしその伝えてないことがなんとも腹立たしくてひとりぷんぷん怒ってみたりする。また怒りながらもそのやりざまにどうしても戦前の言論統制されていたころの日本をだぶらせてしまうんだけれども、あのころの日本の空の下にもちゃんとものの分かった人たちがいてたのだ、たくさんの人が息を潜めて、ということを、願うような気持ちで思う。しかし果たしてかの国は「ものの分かった人たち」が無事に生きていける社会なのだろうか。

Amazon.co.jp: 海辺のカフカ(上) Amazon.co.jp: 海辺のカフカ(下) ★村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002.9、ISBN 4-10-353413-3(上)4-10-353414-1(下))[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]読了。これまで(14日16日)に書いてきたことに加えての感想。登場人物が非常に魅力的。特に、大島さん、ナカタさん(猫と話せる!)、星野ちゃん(ポニーテールに中日ドラゴンズの帽子、アロハシャツの長距離トラック運転手)。大島さんの山荘も、甲村図書館にも惹かれるし、これら人物と場所の魅力だけでも一読の価値が大いにある。

また先に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、'85)の精神的続編である、と指摘したとおり、『海辺のカフカ』とはそのモチーフやイメージ、登場人物のとる行動など多くのことが共通している両者である。だがもう少し正確にいうならば、この小説は続編というよりも延長線上にある別バージョンの物語(15歳の田村カフカの物語)でもあるということがひとつ。また続編としてではなく一種の「書き直し」とも考えられることも言っておきたい。『世界の終り…』で眠りに入った私/たまりに飛び込んだ影/雪の中を西の丘に戻った「僕」。これら三者を統一させた上で『海辺のカフカ』の登場人物らに再分解し、今の日本らしきよりリアルな舞台設定を設定し(『世界の終り…』はヴァーチャルな近未来の設定だった)、さらに、かつてよりも円熟した筆の力によって『世界の終り…』を書いた当時の力では十分に描くことの出来なかった世界をわかりやすく、具体的に描き出すことに成功しているのだ。メタファーであるとしてもその説明に費やす言葉数を増やしたりわかりやすい表現を使ったりしてある、だから読者も村上春樹の言いたいことがどういうことなのかが理解しやすい。たとえば、完全な世界、自己完結した世界、「すべてがあり、何もない」世界の終りとはどんな世界か、ということとか。すみずみまで描写し、その後の人生とキャリアでたくわえた豊かなイメージを付加して結実させた小説はだから、彼の書いてきた小説群の一種の集大成的なものにもなっている。さらに、『世界の終り…』ではその前で小説が終わってしまっていた、ゆえに暗示的に示され残響として読者に投げかけられていただけの「世界の終りの街から抜け出す」ことともとの生活に戻ることとはどういうことなのかが、この『海辺のカフカ』には書かれている。そのことでやはり後者は前者の「物語の続き」が書かれている文字通りの「続編」であるのだともやはりいえるのだと思う。

だけど今のところ青春時代から読み続けてきた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のほうが、その80年代的にポップな舞台だての強い魅力と硬質な文章のせいもあって、わたしはより好きだ^^;。もちろん、「今のところ」ということなんだけれど(さてこれから変わることがあるだろうか)。

さくらさんを夢でレイプする主人公。「でもどうしようもなかったんだ」(下p.250)という言い訳は、主人公が損なわれたきっかけでもあったことなのに、同じように自分もまたそうやって人を損なうことを正当化する、業、でもあるのかしら。ひとは損なわれるだけではない、誰かを何かを損ないもするのだ、と。

※「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」情報追加してシネマリスト更新。■朝:昨晩の残り物。昼:焼きそば、焼き茄子。夕:五目ちらし、大根とジャガイモとマイタケのお味噌汁、寄せ豆腐、二十世紀梨。

9/17(火)

雨、一時的に止み間もあったがかなりしっかり降る。やはり今日は日朝首脳会談のニュースが気になって仕方が無い。小泉総理は終始非常に硬い表情。金正日総書記はいつもの服装、挨拶しながら頭をぐらぐらと揺らす。会談は午前、午後に分かれ、短め短めに終わると伝えられる。午後からは拉致された方の安否情報についての情報が錯綜し始め、夕方になってとうとう衝撃的なニュースが飛び込む。これまで決して拉致を認めなかった北朝鮮が拉致を認め、謝罪をしたことに市井の人間のわたくしもまた驚愕する。ただ安否情報は悲劇的なもので5人生存、8人死亡、1人不明(入国の該当なし)というもの。小泉総理は国交正常化交渉を10月中にも再開することを柱にした「日朝平壌宣言」に署名した。その宣言内容は日本側の主張にほぼそったものだった。

どうにもやりきれない気分だ。核問題、ミサイル発射の凍結などを引き出したこと、国際法を遵守する国際社会の枠組みに北朝鮮を引きずり出すきっかけになるだろうことで地理的、世界的、歴史的に大きな意義を持ち、これは韓国、米国など国際的に高く評価されるだろう。だが日本人としてはどうにもやりきれない、重苦しい気分だ。拉致問題への怒り。それはゆっくり丁寧に考えると、過去の日本のなしたことにもどうしても思いがいってしまう。しかしどちらもそれぞれがそれぞれ別の問題なのだ。小泉さんの、宣言に署名するに至った苦渋の選択はこの局面では当然の選択であるとわたしは思う。国交正常化交渉という舞台にのせ、公式の場で天下に世界にさらしながら諸問題をはっきりさせ、糾明・解決をはかっていくのがベストだとわたしには思える。その意味で、今回の小泉総理大臣のなしたこととその選択をわたしは支持する。■朝:昨晩の残り物。昼:ハムチーズサンドイッチ、野菜ジュース。夕:ビーフカレー、ブロッコリーのスプラウトとミニトマトとじゃがいものサラダ、らっきょう、二十世紀梨。

9/16(月)

雨。しんねり寒い。■朝:ミックスキャロットジュース、クラッカー、チーズ。昼:野沢菜ごはん、じゃがいもとソーセージの炒め物、シーフードサラダ、二十世紀梨。夕:パック寿司、ポテトサラダ、唐揚げ。

Amazon.co.jp: ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ ○映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチHEDWIG AND THE ANGRY INCH('01・米 ジョン・キャメロン・ミッチェル主演・監督・脚本、マイケル・ピット/スティーヴン・トラスク/ミリアム・ショア/アンドレア・マーティンほか)をレンタルDVDで観る。性転換して女性になった東ドイツ人ロックミュージシャン・ヘドウィグはドラッグ・クイーンとして今夜もバンドを率いてドサ回り、場末のクラブで自らの半生を歌う日々。だがそのドサ回りには実は訳がある。人気ロックバンドのツアー先にくっついて回っているのだ。ヴォーカルのトミーがテレビでスタジアムで歌うその歌は元々ヘドウィグ作詞作曲のものであり、盗作され捨てられた(そう、かつてヘドウィグはトミーとたいそう親しかった!)ヘドウィグは怒りに燃えているのだった…。といったところから始まる、ヘドウィグの「失われたカタワレ」探しの物語。カルトな人気を博したライヴ形式ミュージカルの映画化である。タイトルの「アングリーインチ」とは、性転換手術の失敗で股間に残ってしまった怒りの1インチのこと。哀れで悲しくて、どこか可笑しいのがまた悲劇的なのだ。その主人公ヘドウィグ(元の名はハンセル)を、ジョン・キャメロン・ミッチェルが演じる。彼は監督・脚本もこなしていてその才人ぶりに舌を巻く。バンドの一員スキシプを演じているスティーヴン・トラスクによるオリジナルソングもシンプルな作りながらメロディアスで耳馴染みが良い。心地よいロックのビート、甘い至高のバラード。そこで歌われているあまりにも切なく悲しい歌(ロックミュージックを聴くとなぜかいつも悲しくなる)。きれいにまとめあげるのではなく、ミュージカル的にエピソードのかけらかけらをある程度ぽん、ぽん、と放りだしていくような物語でもあるのだが、そのなかに感じられたのは人間の存在の悲しさや愛おしさ。ポップでキッチュな雰囲気の中にあるクラシカルな物語。プラトンの『饗宴』。ヘドウィグの怒りと嘆きに満ちたカタワレ探しが、煉獄の火にあぶられる苦しみ冷たい泥濘そして諦念の氷河みたいな人生あれこれを経て、最後には真っ裸の自分ひとり佇むに至る、その変化にしびれた。92分。

と、この感想は中野翠『ほぼ地獄。ほぼ天国。』(毎日新聞社、2001.)[bk1/amazon]にだいぶん影響されてます。2001年11月「◎カタワレ探しの物語◎三木さつきに注目」(p.262)。中野氏はこの映画のこと絶賛。

カタワレ、カタワレ。どうしてもヘドウィグ…を観ながらシルヴァスタイン『ぼくを探しに』(倉橋由美子訳、講談社)が頭にちらちら浮かびました[bk1/amazon]。基本的にはよく似てる、かな。で、直後に村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]も読み終えて(そう、やっと読了しました)つくづく思ったのはですねえ、セックス抜きでは愛の話は語れないのだろうか…ということ。なんかおいら切実に、セックス行為抜きの、人間のかなしみを描いた、硬質に澄んだ物語を読みたくなりましたぜ。と思ったとき真っ先に頭に浮かんだのは宮澤賢治でありました。

なーんてこんなこと書いておりますると確実にキッズgooにゃんかにはフィルタリングされてこのページ、表示してもらえないことでしょうな^^;。

Amazon.co.jp: 海辺のカフカ(上) Amazon.co.jp: 海辺のカフカ(下) 『海辺のカフカ』、(上)までの感想は14日に書いているのだけれど読了してのそれは明日にでも。でもちょっとだけ。…わたしが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだのはかの本が出版された直後、だからまだ学生だった。これから人生が始まるときで、失うこと/損なわれること、がどういうことなのか、やっぱり実感としてぴしっとわかっていなかったんだと思う。というよりも、失われたものを振り返り数え上げるよりも、今、日々自分が何かしらぐんぐんと得ていることに忙しく暮らしていたのだった。そうやって無我夢中に生きながら、これからもまだまだそういう日が続くだろうこと、獲得し成長していかねばならないことを確信的に予感していた。もちろんその過程で傷つくことは覚悟していたしまた傷ついてもいたので、痛みに震えながら、逃避場所として「世界の終り」の街のほうにより強く惹かれた。わからないところがあるなりに。…それから15年くらい経って『海辺のカフカ』を読んで、わたしは自分が15年間のうちに変化していることにつくづく気付かされる。小説に書かれている喪失とそれを巡る感情を自分のものとしても感じられるようになっている。「わかる」ようになっているのだ。失ってきたものの重みを。自分のなかに損なわれてしまったものがあることを。また、愛する人を、愛していたはずの人を、かけがえのないものを、ひどく損なってしまったことを。そしてそれらを深く悲しんでいることを。

9/15(日)

曇り。午後は横浜・***地区の「敬老の集い」にボランティア演奏しに行く。「もみじ」や「赤とんぼ」という秋の歌も弾くので、涼しくなってくれて助かった。自分の祖母には何もしてないことが急に気になって(ひ孫も見せられない不肖の孫であるのだのぅ)、遅くなってしまったけど何かおいしいもんを二人の祖母に送ることにし、途中下車してさいか屋に寄る。で結局、無難に鳩サブレ(^^;)。■朝:フルーツグラノーラ、プルーン。昼:海老ピラフ、二十世紀梨。夕:にゅうめん、鰺の押し寿司@大船軒、さいか屋で買った「唐揚げエスニックサラダ」。

9/14(土)

曇り。最高気温20度なるやならずや(おとついは真夏の気温だったのに!)。灰色の空の下、湿度低くてひんやりしんとした空気。気分は悪くないが急に頭を動かしたり長時間立ち仕事をしたりすると軽いめまい感。なんとなくしゃっきりしないことにかこつけて本読みオーラを出して買い物に付き合わず自分はお留守番。ツレは横浜に出て、ラジカセと、頼んだ雑誌(TITLE10月号、ぴあ)と、ヒレかつ弁当を買ってご帰還。■朝:昨晩の残り物。昼:あさりのスープスパゲッティ、きゅうり、二十世紀梨。夕:ヒレかつ弁当。

Amazon.co.jp: 海辺のカフカ(上) ★村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002.9、ISBN 4-10-353413-3(上)4-10-353414-1(下))[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]。(上)読了。うーん、読ませてくれる。面白い。「あっ」と思わされたし、とてもわくわくしてスリリングだ、謎解きに想いを巡らしそれが当たったりはずれたり、そして不思議な収束が始まることを予感しながら上巻を閉じる。新刊読めてほんとうれしい、ん、だけど、やっぱりちらほらとお馴染みのモティーフ、お馴染みの言い回しが出てくるんだね。そういうのに出くわすといつもの性格的な癖で(瞬間的に次の成り行きを予想して楽しんでいる人生なのである)、つい「なるほど、では次はこういうことばが続くだろうな」と思ってしまい、やはりそうなって、「ああやっぱり…」、とやや落胆してしまう感じ。それが良いことなのか悪いことなのかそういうことにひっかかるわたしが良いのか悪いのか、意外性のないことにがっかりしてしまうのが良いのか悪いのか(いつも通り、モティーフが高レベルで美しく展開していっていることを寿ぐべきなのかもしれない)、よく分からない。たぶん、引っかかりを覚えるわたしのような読み方がいけないのだろう、『海辺のカフカ』を読むことを思い切り楽しみたい今なのだから、余計なクイズゲームみたいなことをしないでまずはただこの作品世界に虚心坦懐に没入して読むべしなのだろう。でもまあそんなことは無理なのだった。で、うん、海辺のカフカの著者ロングインタビューで語られているようにこれはなるほど『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の精神的続編だなあと思う。物語の構造からいっても内容にしてもかなりあからさまに示されてもおり、確かに確かに読み手のわたくしにもストレートにひしひしと伝わってくるのだ、「あの森の空気がここにまたある」と。それが『世界の終り…』を非常に好きな者としてとてもうれしい。そうだ、森、という点からしても「少女と少年」からしても『ノルウェイの森』的でもあるし、またナカタさんはどこかねじまき鳥っぽくもあるし…。ああ、こうやって連想ゲームに入っていってしまう。

9/13(金)

曇り、夜になって雨強く降る。空気が入れ替わったのか、日が高くなってもなんとなく肌寒く秋の気配。でも歩いたり満員電車にかけこんだりすると汗ばむ。こういうころは服選び難しいな。どうも頭の中がもやもやして何事も不調、空回り。帰宅後しばらくごしょごしょ所用を片づけ、シャワーをしたあとふらふらと布団に倒れ伏したなりそのまま3時間半ほど眠ってしまった、らしい。がばと跳ね起きたあとは心身共にすっきり。★村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002.9、ISBN 4-10-353413-3(上)4-10-353414-1(下))[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)](上)読み始める。■朝:昨晩の残り物。昼:野菜ジュース、チーズクラッカー。夕:穴子ちらし、冷や奴、大根とじゃがいもとわかめのお味噌汁、きゅうりとマカロニのサラダ、二十世紀梨。

9/12(木)

晴れ、夕方から薄曇り。暑さぶり返す。昨夜の夜更かしで眠気をこらえて一日過ごしていたら、ひゃー、あざらし「タマちゃん」(とすっかり定着してしまったのか?)が横浜駅近くの帷子川に舞い戻ってきてしまったんだね、それにしてもこれを伝えるテレビニュースでアナウンサーはなぜ弾んだ声を出すのだろう。あの川ってほんと大都会のがんがんコンクリート固めでっせ。こんどこそタマちゃんの運命、危ういんでは。※『トルコで私も考えた』情報追加しブックリスト更新。■朝:昨晩の残り物。昼:冷や麦、チキンサラダ。夕:ごはん、肉じゃが、トマトサラダ、じゃことわかめの酢の物。

Amazon.co.jp: 海辺のカフカ(上) Amazon.co.jp: 海辺のカフカ(下) ★村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002.9、ISBN 4-10-353413-3(上)4-10-353414-1(下))[bk1(上) (下)/amazon(上) (下)]無事届いた。予約オマケなのかしら、習字手習い風ポスター(?)「村上春樹 海辺のカフカ上・下 新潮社版/本体各1600円(税別) 只今入荷!」(海辺のカフカ、の一文字ずつに赤丸◎付き)が上巻に折り込まれていてうれしい驚き。さっそく読み始めたいけれどなんかもう猛烈に眠い…。明日のお楽しみになりそ。

9/11(水)

久々に晴れ。太陽かんかんでも風はもう熱くない。でも降り続いた雨水の蒸発やら海風やらで湿り気たっぷりの空気。でじなみ夜会先行予約落選。「これで当たる人なんているの?」と毎回思うくじ運のなさっぷり、なのだが、ほんとに当たってる人いてはるんやね。公式サイトやファンサイトの掲示板に早速書き込まれている「当選しました〜」という喜びの声を恨めしく眺める。

『海辺のカフカ』書店店頭にはもう並んでいるのに、オンライン書店で予約したもんだから出荷通知だけきてまだ届かない。ちぇっ。予約者に届けないウチからコンテスト開始なんてのはやめてほしーな心情的に(八つ当たり)。でも個人的にはどうも、たかだか600字〜800字でもって書評のコンテストをするという書店側のコンセプト、あまり好きになれないにゃー。という気持ちは、たぶん学校時代の読書感想文コンクールのときのトラウマからくるものだと思うけど。読書感想文書くのとても苦手だったのでそもそも応募すらかなわなかったとき多々あり:-p。えーと、投稿した「書評」(感想文)を査読してもらうのは全然構わない。それで掲載非掲載を決定することをむしろオンライン書店側には積極的にそうしてもらいたいと実は思っているのですが(掲載書評の質の向上もさりながら、一投稿者としては、自分の文章が他人に読んでもらうに耐えられるものになっているかどうかチェックするよすがとなっていたのです。客観的な判断を受けられる場としてありがたかった)、コンテストとなると少し抵抗あるなあ。なんでやろ。作品(本)へのrespectとは違う地平で書評に優劣つけることへの抵抗感がどこか自分にあるのかもしれない。コンテストの判断基準もよく分からない。たとえば作品の理解度合いなど含めて評論としての知的深さを問うのか、それとも芸としての『書評』・書評スタイルの文章の完成度にあるのか、または、自分語りがなされているかどうか、なのか。もちろんすべてを、なのだろうけれども、それでも何により重点を置いて観るのだろうね。

感想文も含めて書評とは究極的には(評者の)自分語りである、評者がどんな目をもっているかというあらわれなのである、とわたしは現在のところ考えている。しかし自分自身としては先に三つあげた「判断基準」の中では評論としての知的深さをのみ今は興味がある(プラス、評を下す上での自分の立ち位置を示すための自分語り的な前提)。ここからは余談。だが実際のところはこのところのしょひょうというもののなかにはそういったタイプが案外少なく、むしろそれよりか本のことを語っているようでいて実は評者のまったくの自己語りもしくは思考の開陳に終始なんてのがこじゃれた体の書評欄にはかなり多かったりなんかして、興味のある本読んだ本をとりあげてくれているかどうかがまず関門なのだがなおかつ作品のことをたっぷり語ってくれている書評がさっぱり見つからない、だからとうとう自分で自分の「読みたい」レビューを書き始めたという(かなり図々しいくらいにおこがましい)理由がわたしにはある。

なーんて、作品へのrespectとは違う地平でぐじゃぐじゃ書いても仕方ないどころかどうしようもないんでやんした。

世界初公開、9.11WTCビル内部の映像を観る(日本テレビ9/11夜9時〜『独占・全世界同時公開 0911・カメラはビルの中にいた』)。静かななかに響き渡る命の音、墜ちて失われる瞬間の重い音。

「思い残すことの無いように。心残りの無いように。確かなのは今。ありがとうと言いたければありがとうと言おう。好きだと言いたいなら好きだと言おう。」2002.1.17/2002.9.11 震災以来いつもいつも、日々を生き急ぐような息苦しい切迫感や焦燥感がこころにあってしんどかった。それがこのごろ少しずつ薄れてきているみたいだ。そのぶん気持ちがらくになったことが正直、ちょっとうれしい。ゆっくりと「日常」(と油断)が戻っているのかもしれないな、と、歳月を思う。■朝:昨晩の残り物。昼:ごはん、お味噌汁、冷や奴。夕:ごはん、麩とネギのお味噌汁、茄子の浅漬け、枝豆、焼き餃子、ツナとじゃことわかめのごまマヨネーズサラダ。

それでも「瞬間」を忘れないようにしていたい。

9/10(火)

曇り。くたびれると食欲が無くなるタチで、それでも土曜日あたりから体のために無理矢理口にしている状態なのだが、今日の午後になってやっと疲れが抜け始めた感じ。頭痛もほとんど消える。体を動かしてもあちこち痛むようなことはない。やれやれ。明日で米国・同時多発テロから一年。あれからいちねん。いちねんいちねん、と急に報道が増える。テロの現場はあれから毎日そこにあったし、悲しみや痛みもまた毎日あるのに、なぜ一年なのか。同じ日付が巡ってくることにどれほどの意味があるのか…。ただ、確かに意味はある、とも思う。同じ季節が巡りきて、同じ太陽の角度で地球が照らされて、でもそこにあの人は居ない、あのときの世界はもうない、ということがひしひしとわかるということが、わたしにはあった。※このサイトを作り始めて3周年記念(その後3ヶ月の準備期間を経てから公開したので実質的な3周年はまだ)にトップページのCSSいじくる。うーんもっと根本的に変えたいような気もするケド。■朝:昨晩の残り物。昼:かき揚げ丼。夕:ごはん(野沢菜のふりかけ)、茄子とわかめと玉子のお味噌汁、寄せ豆腐、もずくの土佐酢和え、二十世紀梨。

9/9(月)

朝方雨、日中曇り、夕方から再度激しい雨になる。変な気候と豪雨、頭痛と体のだるさ重さに一日中萎びた気分でしょぼしょぼと過ごす。そういえば朝起きて、「未明に中座焼失」にびっくり。閉鎖された時点('99年)で終わった場所ではあったけれど…。そして法善寺横丁も延焼してしまったと新聞で知った。東京キー局のテレビニュースではそこまで言ってなかった、と思う(ちょっとひどいなこれ。大阪軽視ちゅうかねえ、土地の由来やその文化的な意味?を知らないのかなとか思っちゃう)。暗いニュース多し。ドジャース石井投手がアストロズ戦に先発、4回にライナーが頭部を直撃、マウンドに昏倒。壮絶な映像に息を呑む。ドジャースタジアムは日陰になったバッターボックスから日なたのマウンドにボールが飛び出してくる感じで、石井投手は球が見えずなおさら避けきれなかったらしい。頭蓋骨にひび(9/10追記、鼻骨粉砕骨折していて別の専門病院にうつり手術をうけて順調とのこと)。無事回復を祈るばかり…。■朝:リンゴジュース。昼:冷やし中華。夕:ごはん、鰻の蒲焼き、かぼちゃのサラダ、めかぶのお味噌汁、きゅうり、二十世紀梨。

9/8(日)

曇り。横浜・Kで公開例会「まんどりんの勉強会」。午後1時からリハ、3時から会場作り、4時半本番で、演奏(さまざまな編成のアンサンブル11曲)とディスカッション。お客様は30数名。あらかじめお願いして楽器を持ってきていただいていたので最後に皆さんとともに演奏曲の中からシルベストリの「追憶」を合奏(初見でも十分な演奏になった。すばらしい)、とても楽しかったし、お客様にもかなり楽しんでいただけたと思う。サロン形式のコンサートでもだいぶんあがらなくなった。それでもやっぱり心臓が少しばくばくするけれど、3年前のはじめての時のように弾きはじめても右手の指ががたがた震えて止まらないなどということはなくなった。片づけ終わって7時頃から仲間とゲストで打ち上げの酒盛り。ビールと冷や酒が渇いたのどに旨くて過ごしてしまい、帰宅後猛烈な頭痛。■朝:ヨーグルトとフルーツグラノーラ、プルーン。昼:茸とイカのスパゲッティ、ピッツァの残り、二十世紀梨。夕:居酒屋で食らいつつがばがば呑む。

9/7(土)

曇り、夜になって激しい雷雨。夕方からFでマンドリン例会。例会の前に無印良品にちょこっと寄って初秋っぽいシャツ2枚と靴下2足買い、急に蒸し暑さの増した空気と人混みをかき分けるようにして大汗をかきながら×××会館へ。そして今度は冷や汗を流しながら最後の追い込み練習。リベルタンゴのラストが合わない!■朝:昨晩の残り物。昼:ドリア、トマトとキュウリ、二十世紀梨。夕:デリバリーのピッツァ。

Amazon.co.jp: トルコで私も考えた(1) ★高橋由佳利『トルコで私も考えた』1〜3(集英社ヤングユーコミックスワイド版)検索結果[bk1/amazon]を一気呵成に読みました。つんさ〜ん、面白かったっす!W杯以来「トルコって?」とトルコづいているわけですが、その好奇心を十二分に満足させてくれたどころかそれ以上に、何か深く高いところまで連れて行ってくれたような。ツーリストとしてトルコに行った著者が、いつしかトルコ人男性と結婚しイスタンブールに住み、その後に輸入業を始めたことで神戸に住み始め、男の子も産んで…、と、著者の境遇の変化と一緒に、地に足のついた生活者の語るトルコばなしとなっております。

特に印象に残っているのが、国際結婚について(2巻p.100〜)。トルコでは、外国人もトルコ人と結婚すれば簡単にトルコ人になれるから、女性の場合なら遠い所から来た嫁、言葉と料理は修行中、と認識される程度で、特別、異文化だとかインターナショナルだとか騒がれないのである。もともと多民族国家だし、国が東洋と西洋にまたがっており、北はロシア、南はアフリカのある、何でもありの国だからであろう…日本人はまだまだ国際結婚を大げさにとらえすぎる、という話。神戸なんかはわたしの育ったあたり(旧・葺合区=中央区、灘区西部)はインド人コミュニティーがあったりして外国人は全然珍しくなかったのだが、それでも国際結婚は逆に珍しく、どうしても注目のタネにはなってはいた。あと、子育ての話。たくさんこの題材で描かれているが、特に3巻p.124〜『親バカについて』。トルコには「親バカ」という言葉はない というのはトルコではそれは「ヒトとして当然のこと」だからである。トルコ人は子供が大好きでメロメロ、大人みんなで(他人の子供でも…)甘やかす、いわば社会のみんなで子供を育てているような感じであると。いっぽう日本では子持ちの人とその家族だけが我が子を育てている、というところがあってその孤立化の悪影響からさまざまな問題が生じていたりする。このへんにもトルコの若年齢社会と日本の高齢化社会少子化現象の原因がかなりあるのだろうなあと思ったのだった…。料理レシピが載っているのもなんとも食欲をそそられます。ただトルコ料理ちゅうもんをわたしは食べたことがないので元の味がわからん辛さとハンディが。ヨーグルトをふんだんに使った「さっぱり美味」なはずのポテトサラダ(3巻p.83)を作ってみたんだけれど食べながら「これでいいのん?」とつぶやきが唇からこぼれ出る。そこそこおいしかったのではありますが(だからたぶん味付けを何か失敗している)。

9/6(金)

雨。間歇的に強くなったり弱くなったりしながらもしっかり降り続けて骨身に応える。ギターケースを極力濡らさないように風向きに合わせて体を少しよじる感じに歩くのだ。激しく体力消耗しふらふらになって夕方帰宅。ぼんやりとテレビのスイッチを入れたら宇多田ヒカル入籍のニュースで仰天、「えっー!」とか叫びつつ頭がおかげで冴える。■朝:昨晩の残り物。昼:ミックスサンドイッチ、午後の紅茶ストレートティー。夕:天津飯、茄子の浅漬け、茸とネギのお味噌汁、マカロニサラダ。

9/5(木)

薄曇り、午後一時雨。昨日今日と上空を軍用機が行き交う。うるせぃのぅ。※『小説作法』情報追加しブックリスト更新。

9/4(水)

薄曇り。湿度高めで蒸し暑い。■朝:昨晩の残り物。昼:五目焼きそば、野菜の煮物、茄子の浅漬け。夕:ビーフカレー、トマトとマカロニのサラダ。

Amazon.co.jp: 小説作法 ★スティーヴン・キング『小説作法』(池央耿訳、アーティストハウス、2001.10、ISBN 4-901142-67-4)[bk1/amazon]読了。感想を書いた8/272930で既に触れているが、本書は訳者あとがきからことばを借りれば「それなりに力があって、世に出る機会を窺っている後進の手引き草にもなれば、という気持がキングに本書の執筆を促したことは一面の事実に違いないが、すでに本文をお読みの方々はご承知であろう通り、これは極めて正統かつ高度な文章論であって、「あなたも作家になれる」式の安直なハウツー本とは何光年もの隔たりがある(p.347)ものである。非常にオーソドックスで真摯な内容は読み応えがあるが、オーソドックスということで実は本書の「小説作法」で語られていることは、正統的な文学教育を受けている人やそうでなくとも読書経験を的確に積み上げている人などにとっては特段目新しかったりはしないかもしれないし、もしくは自然と会得していることも多いかもしれない。しかし漠然と心にあったことをあのキングが言語化してくれて整理して語ってくれているのが、思考の助けとなるばかりでなくわたしなどはキングと同じ考えであること自体がまずうれしかった。また、キング自身の小説がいかに書かれたか、その手の内や苦労話が明かされているのには一読者としてわくわくすることである。前半の「生い立ち」の章で小説家となるまでの軌跡は興味深くまた心が揺り動かされることが多い。そして1999年6月の交通事故で重傷を負って以降が語られる「後記 人生の味わい」は深い含蓄がある。小説なり文章なりをものそうかという人はもちろんもっぱら読み手であろうとする人にとってもまことに読む甲斐のある本であろうと思う。

人はみなそれぞれに自分の世界を持っている。躊躇うことはない。恐れずに敵情を偵察して、詳細な報告を持ち帰ればいいのである。配管工を宇宙に送り出す発想も、まんざら捨てたものではない。(『小説作法』p.187)

世界を丸ごと作品に書き込むことはできない。しかし、自分が最も大切にしている世界は書ける。それこそが作品である。(同 p.258)

人は誰でも文章を書くことができるし、また、書くべきである。一歩踏み出す勇気があれば、きっと書く。文章には不思議な力がある。あらゆる分野の芸術と同様、文章は命の水である。命の水に値段はない。飲み放題である。
心ゆくまで、存分に飲めばいい。(『後記』結び p.315-316)

Amazon.co.jp: ザ・スタンド(上) キングの作戦にまんまとはまって、(小説を書くのではないが)こうやって文章を書き、そしてさっそく買ったままだった本であったところの『ザ・スタンド』全2冊の上(深町眞理子訳、文藝春秋、2000.11、ISBN 4-16-319390-1)[bk1/amazon]を読み始める。ふふふ、分厚い(790ページ)。仰向けに寝ころんで読むとその重みで本をかざした手が下がってくる…。

9/3(火)

晴れ。※ポセイドン・アドベンチャー情報を追加してシネマリスト更新。

株安が進み東証の日経平均株価は9300円台を割り込んでバブル経済崩壊後最安値を更新、18年前の83年11月以来の水準にまで落ち込む。世界同時株安の懸念とか九月危機説再燃とか、ニュースはどれもトーンが暗い。どの番組だったか失念したが「失われた10年と言われますがそれどころか失われた20年になるかもしれません…」。18年前というと当時は、えーと、高校生だったわけですが、そのころの世相と今とどう違うかはやっぱり自分の視点視座が違うからはっきり比べられないなあ。ただ、うちは円高不況の波をもろにかぶったんで、高校・予備校(!)・大学前半はかなり気分的には薄暗く、不安感を持って過ごしていた。高校は公立の、四年制○○高校、と近隣では名の知られた進学校(笑)だったのでまあ半ば当然のように進んだ予備校は、年上の幼なじみが行って良い結果を出せたとオススメのところが学費も安かったし神戸東部の静かな住宅街にこぢんまりとあって落ち着けそうだったのでそこにしたら、その後で大阪に成績優秀者は学費半額or無料になるところがあるのを知ってがっくりしたり。なんというか漠然と何もかもに対して「決めなくちゃ!」とせっぱ詰まっていたところがあった。■朝:昨晩の残り物。昼:ヨーグルト(食欲無し)。夕:きのこの炊き込みご飯、麩とわかめのお味噌汁、トルコ風のポテトサラダ、ピーマンと豚肉の炒め物、キムチ。

9/2(月)

Amazon.co.jp: ポセイドン・アドベンチャー 晴れ。日の沈むのがずいぶん早くなった。燈台あかりはくらりくらりとまわり、陸をも照らす。あそこからここへ、ここからあそこへ、柔らかく一直線に。○映画「ポセイドン・アドベンチャー」The Poseidon Adventure('72・米 ロナルド・ニーム監督、ジーン・ハックマン/アーネスト・ボーグナイン/シェリー・ウィンターズ/レッド・バトンズほか)をレンタルDVD、字幕版で観る。117分。ご存じの方も多いだろうけれど一応説明。この映画は'70年代に作られた大作豪華キャストパニック映画の代表作の一つで、極限状況にある人間がいかに本性を見せるかという群像劇でもある。ポセイドン号という老朽大型客船がニューヨークからアテネに向かっている途中の大晦日、津波に飲まれてざばあと転覆し、ブリッジにいた船長たちはあっけなく死亡。船内ではニューイヤーパーティーがちょうど行われていたときで、華やかなパーティーが一転して阿鼻叫喚の地獄絵図。そこをなんとか生き残ったたくさんの乗客とほんの少しの乗員だが、メインダイニング(食堂)に閉じこめられたことになってしまいさあ、船が沈没するまでの残された時間で彼らは果たして無事脱出できるのか、という物語。WOWOWでちらっとみたおすぎの映画解説によるとこれは映画「タイタニック」の転覆シーンの演出モデルとなったそうで、確かに原型を観る思いがところどころでした。180度ひっくりかえってしまった食堂で盛装した人々があっけなく死んでいく様に鳥肌が立つ。で、ジーン・ハックマン演ずる異端の牧師(神に頼るな、自力でがんばれ、と過激な説教を常日頃から行っている)がリーダー役となり、屈強の刑事ロゴ(アーネスト・ボーグナイン)ともめつつもなんとか船尾までたどり着き、でも最後の最後で…となんとも圧倒されしまいにはいろいろな意味で疲れて脱力感さえ覚えるストーリーであった。この「ポセイドン・アドベンチャー」のヒットの後、製作者アーウィン・アレンは「タワーリング・インフェルノ」('74)というさらなる超大作映画を製作。こちらはつい最近まで繰り返し繰り返しテレビ放送されていたのでもうソラでストーリーが言える。良い人だからって生き残れないのがなんとも子供心に悲しかった。老詐欺師を演じたフレッド・アステアをはじめて知ったのもこの「タワーリング・インフェルノ」だったと思う。自分が生き残ったからといってそれだけで人間は喜べない。生きることの意味を考えさせられた。★漫画家の内山安二氏お亡くなりになる。享年67歳。子供のころ弟が買ってもらった学研まんがひみつシリーズを姉としてさんっざん読み散らしたのだけれど、なかでもやっぱり氏がまんがを描いていた『コロ助の科学質問箱』『できる・できないのひみつ』なんかは特に面白くて繰り返し読むうちにとうとう綴じがはがれてページがばらばらになったくらい。■朝:昨晩の残り物。昼:長崎ちゃんぽん。夕:まぐろの中落ち丼、もろきゅう、めかぶスープ、冷や奴。

9/1(日)

晴れ。朝から近くの公民館ホールでマンションの重要事項説明会と管理組合設立総会。目算では150人くらい、全体の戸数のほぼ4/5が出席したらしい。見知った顔は少なく、ほとんどがはじめて見る顔である。世代的にはわたしたちと同じ30歳代も意外と多く、40歳代がピークの感じでしかし50歳代前半団塊の世代は例によってこれまた多数で目立つ。あの世代は絶対数が多いから仕方ないか。20歳代の若い夫婦が赤ちゃん連れで来ていたりも…。こんなにたくさんのひとが住んでいたのね、という都会のマンション暮らしに「お定まり」のやや寒々しい感慨。議案の方は予算案など一部が後日の採決となったがそれ以外は理事の選出なども順調に運び(くじびきの結果、うちが割り振られたグループは8年後に理事をすることになった)昼すぎにほぼ予定通りの時間に終わる。そのまま駅に出てFに行き地元で有名なカレーショップのデパ地下出店でカレーを食し(キーマカレー。まずまずおいしかったが店員さんの様子が慌ただしくて落ち着かない)、東急ハンズのハンズメッセなどをのぞき、アジアン雑貨屋さんで石製、小さな鉄の足付きソープデッュシュに一目惚れして(1,500円)買い求め、書店をぶらついたころにはすっかり暑さにやられてしんどくてたまらなくなり家に逃げ帰る。帰ってすぐ洗面台に七年前から使っているプラスティックの石けん入れに替えてソープデッュシュを置いてみた。なかなか良い感じにひとり悦に入る。そのプラスティックの石けん入れだが、もちろんまだ使う。とりあえず蛇口のとなりの目立つ場所から端っこにうつして化粧石けんを入れるのに使うことにする。なんか、インテリアのためにまだ使える物を総入れ替えとかできないんである。徹底できないから垢抜けないのかもなあとか悩んでしまう。わたしはケチなのかしら、こんなんのほうが普通の感覚だと思うんだけれど…。■朝:エッグサンドイッチ、グレープフルーツジュース。昼:キーマカレー、付け合わせのレタス、ハワイアンコーヒー(甘い香りで美味)。夕:お好み焼き(久々に作った。美味しい〜。タコをメインにしてシーフードと玉子のがわたしのいちばんの好みであるが―肉特有の臭みや脂分が出ないのでおなかにもたれにくく、なんぼでも食べられる―、ツレのために豚肉とタコにした)、枝豆。ビールが旨いっ!

長野県知事選は田中康夫さんが圧勝した。ちょうど日テレ観てたら8時を何十秒か過ぎたころに臨時ニュースの当確テロップが出てびっくり。結局「対抗馬」長谷川さんとはダブルスコア。このあたりのはなしは勝谷誠彦さんの日記を起点にフォローしているのだけれど、中央では報道されなかったなんともなあの仰天話多々なんである。



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