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| フリエリさん著 |
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……それはフラガルド領に突然訪れた悲劇だった。 領主コムラードは、常に民衆と共に質素な生活を心がけていた。それ故フラガル ド城にはこれといった内装が成されていない。 だがこの日は違った。 領主として彼が貫いた共和の精神を踏みにじるかの様に、城内は多くの血痕やモ ンスターの体液で汚らわしくデコレートされている。 それらはブルザム教という名の、陵辱。奪われたものは、あまりに大き過ぎた。 まだ少しだけ開いていた父の瞼を、シンビオスはそっと押さえ、閉ざしてやった。 「まるで……眠っているみたいだ」 そんなダンタレスの呟きがマスキュリンの耳に届く。 それが本当の事であればどれほど嬉しかっただろう。しかしそれが真実たり得な い事は解っていた。彼女の手に伝わっていた愛しい領主の温もりが、徐々に失わ れてゆく。その事が、痛切に、逃れ様の無い事実を教えるのだ。 いつもは快活なゼロが、今は涙声でコムラードに呼び掛けている。 グレイスは泣きながら神に癒しの祝福を求めている。だが彼女の声には普段から の慈しみは感じられず、ただその祈りは悲しみだけを響かせていた。 「嘘でしょ……嘘よね……」 自分の声が震えているのが解った。 ダンタレスはその言葉に首を横に振る。 「私達を置いて……嫌よ……」 領主の席にもたれ掛かるコムラードの姿が、いつもよりもずっと小さく見えた。 思えば自分はどれだけの時間、彼を追い掛けて生きてきたのだろう。ふと前を見 れば、いつもそこには彼の背中がある……それは今までも、そしてこれからも変 わる事が無いと思っていた。 ……思っていたのに。 「……」 息が熱かった。胸が震えている。感情が、自分を突き動かそうとする。 (ダメ……泣いちゃだめよ。泣いて悲しみに呑まれたって、何も変わりはしない もの……!) 涙を堪える事が、自分の強さであり、亡きコムラードへの良き送迎になると信じ たかった。 愛しき、領主への……。 「……ッ!」 だが彼女がそうするには、あまりに彼と長く時を共有し過ぎていた。 一瞬で視界が滲み、意識する事も無く言葉が飛び出していた。 「嫌よ! 嫌よ!! コムラード様ぁぁぁ!!」 感情の堤防は決壊し、マスキュリンは大声で泣き叫んだ。 ……夜も更けた頃。 マスキュリンが、そっと部屋から出てきた。 だがその部屋は本来彼女が寝泊まりする部屋ではない。シンビオスと共にサラバ ンドでの和平会議へ発つまでは、彼女専用の部屋は与えられていた。けれど、今 夜は……。 「……」 マスキュリンは無言のまま、うつむいて廊下を歩いて行く。木目の浮き出た床が 足の下をすり抜け流れていく様だけが目に移っていた。だがその流れも、現れた 絨毯の赤に遮られてしまう。 顔を上げなくとも、ここが領主の間であると解った。 「お休みなさいませ、コムラード様」 そう呟いてから、主を失った執務机に軽く会釈をし、彼女は再び歩みを進める。 やがて、目指していた中庭に出る。夜空には雲一つ無く、数多の星々がその輝き を見せつけている。普段ならばその輝き一つ一つに心を洗われていたのだろうが、 今のマスキュリンには苛立たしいだけであった。 (らしく……ないわよね) 汗で額に張り付いた前髪を指で払いのけ、井戸水に冷やされたタオルで顔を拭う。 泣き腫らしていた目に、北の山岳を水源とするその冷たさが心地良かった。 (少しベトつくし、清拭もしておこうかな) 身に纏っていたものを脱いで肌着姿になり、顔と同様に身体もタオルで拭き清め る。 まだ寒さとは程遠い季節ではあったが、自分の身体が火照っているせいだろうか、 風がずっと冷たく感じられる。 この風が、自分のやり場の無い想いをも冷ましてくれたらいいのに。そんな事を 彼女が考えていると、背後で草を踏み鳴らす音が聞こえた。 「!……誰!?」 昼間にブルザム教の襲撃があったばかりなのだ。そんな時に丸腰で出てきてしま った自分の無警戒さを悔やまないわけにはいかなかった。だが… 「マスキュリン、私よ。グレイスよ」 現れた親友の姿に、マスキュリンは構えていた両手を下ろした。もっとも、その 手には愛用のロッドは握られていないのだが…… 「なんだ、グレイスか……脅かさないでよ」 「ごめんなさい。でも、護身用に杖くらい持ち歩いた方が良いと思うわ。……身 体、清めていたのね」 「うん。グレイスの方はどうしたの? 眠れないとか?」 その問いにグレイスは言葉では返さず、ただ黙って頷いた。 「そっか、そうだよね。……眠れるわけないよね。あたしも、同じ」 「髪、まだなんでしょ?拭いてあげる」 「サンキュ」 マスキュリンはまとめていた髪を下ろし、グレイスに背を向けて座り込む。グレ イスも膝をついてマスキュリンの髪を手に取った。 それからしばらく沈黙が続いた。 グレイスはさっきから同じ箇所の髪ばかりを指ですいては、拭き清めている。 それに対しマスキュリンも止めるわけでもなく、黙って彼女の好きにさせていた。 が、痺れを切らしたのだろう、前方の城壁を指差し、口を開く。 「ねえグレイス、あれ……」 彼女の指差す城壁に掛かかるそれは、アスピニア共和国紋章。 「コムラード様がフラガルドじゅうの色んな所に飾ったのよね。あの紋章が意味 する言葉、グレイス、解る……?」 「ええ。其の盾は平和を。其の三つ葉は自由を。三つ葉が象る其の剣は、独立を 勝ち取る勇気を。……アスピニアの共和の精神の象徴ね」 「うん。コムラード様が紋章を飾ったのも、共和の精神に則っての事なのよね」 そこまで言って、マスキュリンは沈黙する。 だがその様子から、彼女の言葉がまだ終わりではない事がグレイスには解った。 だから、言葉の続きを待った。 「平和や自由、勇気って……与えられて得るものなの?」 グレイスにしてみれば、それは意外な言葉だった。 平和、自由、勇気を象徴するこの紋章は、20年前にコムラードを始めとする共 和の理念を貫こうとした者達が独立を勝ち取った際に掲げたものだ。その頃から すでにコムラードに仕えていたマスキュリンの口から、この様な疑問が出てくる なんて…… 「それをコムラード様に尋ねたら、それは違うと答えるのじゃないかしら」 「コムラード様は……もう、いないのよ。その仮定は、意味が無いわ」 「……そうね、マスキュリン。けれど、私もそれは違うのだと思うわ。平和は自 分達で築き上げるものだし、自由は自らが勝ち得るもの。そして勇気は自身の内 から呼び覚ますもの。たとえそのきっかけが他者からのものであっても……」 「能書きはやめて」 「マスキュリン?」 「私は、そんな答えが聞きたいんじゃないの! だってそうでしょう? コムラ ード様は平和と自由と勇気を皆に与えてはくれた。けれどあの方が得る事が出来 たのは、結局何だったの!?」 共和国独立の際にはその地位も領地も棄て、危険を顧みず人々を導いた。独立後 は共和国の基礎作りに尽力し、そのさ中に妻を亡くしている。代表国王を辞退し た後にも彼の多忙さは常日頃のものであり、結果として体調を崩す事となり、無 惨にも邪教の手に掛かる事に…… 「あの方が得たものは苦しみばかりじゃない! 与えるだけの平和や自由に、一 体何の意味があるの!?」 コムラードが犠牲にならなければいけない理由など無かったはずだ。自分はただ コムラードが幸せでいて欲しかっただけのに。その幸せを共有したかっただけな のに。 「どうして、どうしてなの……。私は与えられるばかりで、あの方に何もして差 し上げられなかった!」 言葉の語尾が掠れ、涙が溢れてきた。 「こんなに好きだったのに……愛していたのに……!」 「マスキュリン……あなた……」 初めて見せられた親友の心の深い部分に、グレイスは掛けるべき言葉を見出せな かった。 「私、ずっとコムラード様が好きだった。けれどあの方の心には、私なんかが入 れる程の隙間は無かったの。あの方の中で、デイジー様の存在は大き過ぎたのね ……」 しかし領主夫人であったデイジーは、帝国から共和国に渡ってからそう長い年月 の経たぬうちに、ある寒さの厳しい冬に病に侵され、逝去している。 「デイジー様が亡くなった時、悲しくなかったって言えば嘘になるわ。でも、そ うじゃない感情もあったの……!」 「マスキュリン、もう、いいのよ」 「ううん、良くないわよ! 信じられる? もしかしたらこれでコムラード様も 振り向いてくれるんじゃないかって、期待していたのよ、私!」 マスキュリンにとって、コムラードの喜びは自分の喜びであり、苦しみもまた同 様であったはず。なのに、彼の悲しみの中に自分は喜びを抱いてしまったのだ。 それはデイジーへ対する嫉妬心の裏返しでもあった。 「人の、それもデイジー様の死に喜ぶなんて、最低の女よ私は!」 そんな自身への怒りが、彼女を激昂させた。やり場の無い怒りから、髪を掻きむ しる。 「やめてマスキュリン! そんな風に自分を卑下しないで」 髪が数本ブチブチと抜かれるのを見て、慌ててグレイスは止めにかかった。だが …… 「これが卑下しないでいられて!? エルベセムの教えは、人の死を喜ぶ者に対 しても寛容であれって言うの!? 知らなかったわ!」 「……ッ!」 パァン! 乾いた音が闇に響く。 一体何が起きたのか、マスキュリンはすぐには理解出来なかったが、左頬にじん わりと広がる熱が、自分はグレイスに叩かれたのだと教えてくれた。 「グレイス……」 グレイスは真っ直ぐにマスキュリンを見据え、その瞳からとめど無く涙を流して いた。 「お願い、もうやめて。そんなマスキュリンなんて、私は見たくない。そんなの 私の好きなマスキュリンじゃないわ……」 「……ごめんなさい。でも聞いて。グレイスが好きでいてくてる私は、明るくて お転婆な私なのかもしれない。でもね、今ここにいる悲観的で嫉妬深い女も私で ある事には違い無いの! ……私も、グレイスの事は好きよ。一番好きだったコ ムラード様がいなくなっちゃったから、今はグレイスが一番好き。だけど!」 これ以上グレイスを見ていられなかった。自分が続けようとしている言葉が、も っと彼女を傷付け涙させるであろうと解っていたから。 「もう……グレイスに好きでいてもらえる自信が無いの。ううん、むしろ私を好 きでいてくれる事が辛いのよ!」 「どうして、そんな……」 「私がさっきまで何処にいたか知ってる? シンビオス様の寝所よ」 「!」 グレイスが息を飲むのがはっきりと聞こえた。だがマスキュリンはある種のサデ ィスティックな意識の下、さらに言葉を続ける。 「傷の嘗め合い? それとも一方的なものだったのかしら? シンビオス様、私 の求めに応えてくれたわ。シンビオス様も木石ではなかったって事ね」 自分がした行為がどの様なものなのかは解っている。 強すぎた想いは、最期まで自分に振り向いてくれなかったコムラードへの憎しみ を生んでいた。それがシンビオスと肌を重ねるという、亡きコムラードへの当て つけへと彼女を走らせたのだ。 それを自覚出来ている自分がたまらなく嫌だった。愛しいコムラードへの冒涜が、 シンビオスへの辱めが、そして…… 「私は……グレイスの純粋な気持ちすら踏みにじった……」 グレイスがシンビオスに好意以上のものを抱いているのは随分前から知っていた。 だが彼女はエルベセムへの信仰の手前か、その気持ちを外には出してはいない。 それでも、彼女の親友であったマスキュリンにはそれとなしに察しが付いたの だ。 「好きなんでしょ、シンビオス様の事」 「そんな、私……私は」 「いいのよグレイス、自分の心に素直になる事は決して悪い事じゃないわ。だか ら言ってもいいの、今の心を、私に思った事を! 私、グレイスの事好きだから、 別れは悲しいわ……でも、怒ったり恨んだりなんかしない。明日からまたブル ザム教や帝国との闘いになるけど、私はグレイスも、皆も守ってみせる。私情は 挟んだり、しない。だから、だか…ら……!」 涙と胸の震えが言葉を呑み込もうとする。出来るなら、こんな事は伝えたかった わけではなかった。 それでも、償いはしたかったから。 「だから…気にしなくて…いいのよ……」 そう伝えるだけで、精一杯だった。 もう言葉は続けられない。続けたくもなかった。 言葉ではない、続けていたかったものは、もう…… 「マスキュリン」 グレイスの静かな声が耳に届く。 マスキュリンは覚悟を決め、せめて最後の時だけでも笑顔でいようと、涙と鼻水 でグシャグシャになった顔を、更に無理矢理クシャクシャにして上げた。 だがグレイスがどんな表情をしていたのかは解らなかった。 「あ……」 そこには抱き締められている自分がいた。 自分より少しだけ背の高い親友の柔らかい髪が、優しく頬を撫でている。 「マスキュリン、私も素直な心を言っていいのね……。あなたの言う通り、私は シンビオス様が好きよ。でもマスキュリンの事はもっと好き……。あなたを好き じゃなくなるなんて、考えられない。私は、マスキュリンが私を好きでいてくれ る事がたまらなく嬉しい。何より、黙っていないで私にこの事を打ち明けてくれ た事が。だからお願い、そんな悲しい事を言わないで……」 「グレイス……」 「私達、親友でしょ」 「…!…ごめんね、グレイス…私、本当に…ごめんね、ごめんね…」 子供の様に泣きじゃくりながら「ごめんね」を繰り返すマスキュリンの髪を、グ レイスは優しく撫でつける。金色に近い栗毛が夜空の星々の輝きを宿し、煌いて いた。 マスキュリンの嗚咽が途切れ途切れになった頃合を見て、グレイスは護身用に持 ってきたマジックワンドの魔力を借りて、スリープの呪文をそっと唱えた。精神 的に疲労が溜まり、無防備になっていたマスキュリンはあっさりと眠りに落ちる。 崩れ落ちる彼女を抱き止め、グレイスは慈しみを込めて「おやすみなさい」と呟 いた。 眠ったマスキュリンを彼女の部屋まで運んでやってから、グレイスも自室のベッ ドに潜り込んだ。 今夜の事は、少し忘れられそうにないだろう。 (でも、まいったわね……。今の今まで本当の気持ちを隠し通してきたっていう のに) 軽く欠伸をして、もう一度「おやすみなさい」と呟き、グレイスは眠りに就く。 就寝前の、エルベセムへの祈りは忘れていた。 |
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