週刊金曜日341号(2000年11月24日発売)掲載

「ユーゴスラビアはなぜ動いたのか」

も生き残る半端な革命だったが、この国独自の自主管理の精神は軍に生きていた。一

九八九年に北のポーランドに端を発し一党支配を次々に倒した東欧革命は十一年後、南

に到達し最後の幕を閉じた。この間、流血革命のルーマニア、無血革命のチェコ、分裂

当初のユーゴを現地で取材した。三つの革命を比較すると、結局は社会の民主主義の度

合いが革命の性格を決定することに気づく。

 一九八九年一二月二三日午前一一時半、私はルーマニアの首都ブカレストの駅前に立

っていた。目の前は市街戦の真っ最中だった。あちこちに雪の塊が残る曇天の下、自動

小銃、機銃、戦車砲……石畳の街に銃声、砲声が響いた。車を見つけ中心地を目指して

走り出し、ほんの三ブロック行った交差点で目の前に戦車が出てきた。

 銃弾がヒュンヒュンと飛び交う市街だが、驚いたことに市民が大勢、街に出ていた。

デパートの前で二〇人くらいの人々が前のビルを見上げて叫ぶ。ビルの窓から独裁者側

の兵士が市民を狙撃していた。人々は粉々に砕けたショーウインドーからデパートの中

に駆け込み、柱の影に隠れる。私も彼らに加わった。その一人が案を出した。「向こう

に兵隊がいた。あいつらを呼んで味方につけよう」。

 元気な若者が走って兵士を呼んできた。騒乱状態の中で指揮官を見失った兵士たちは

途方にくれている。市民たちは兵士を叱った。「すでに革命は始まった。お前たちはど

っちの味方なのか」。兵士たちは円陣を組んで相談し、やがて「市民の側につきます」

とこたえた。人々は兵士に向かって叫んだ。「突撃!」。兵士は敬礼して前のビルに突

入した。

 これが革命なのだ。いったん騒乱状態になると市民の多くはパニックに陥るし、兵士

は悩む。そのままなら単なる暴動で終わる。騒乱の中で市民が自分も変革の主体である

ことを自覚し、そう行動して初めて、暴動は革命に変化する。市民一人一人の積極的な

行動が革命を「生む」のだ。銃撃戦の下で走り回る市民を、あちこちで見た。

 市街戦の中で感心したのは、略奪がなかったことだ。デパートのガラスは割れ、だれ

でも中に入れたが、陳列された洋服は飾られたままだった。混乱の中で略奪しようと思

えば、できた。品不足の氷点下の気候の中で、だれしもあの服が欲しかったに違いない

。でも、だれも手を出さなかった。暴動が革命になると、人間はモラルを発揮する。

 暴動の発端となったのは、一人の男の命をかけた一声だった。独裁者が演説している

最中に三五歳の技師が「人殺し!」と叫んだ。前の晩、彼は苦しんだ。独裁制を変える

ために、だれかが批判しなければならない。批判すれば逮捕され殺されるだろう。でも

、だれかがやるしかない。彼はその朝、妻に「さようなら」と言い置いて集会に参加し

、だれも批判しないとみるや意を決して叫んだのだった。その声に誘われて、会場のあ

ちこちから独裁者を非難する声が上がった。最初の一声を出す一人の勇気が革命を招い

たのだ。

 とはいえ、ルーマニアでは多くの犠牲者が出た。これとは対照的に一人も死ななかっ

たのがチェコだ。

 ルーマニアに入る前の一二月一〇日午後二時、私はチェコの首都プラハにいた。中心

部の広場に集まった市民は三〇万人。革命勝利集会がこれから始まる。ビル四階のバル

コニーにはマイクが並んでいる。半袖の白いドレスを着た女性が出てきて、両手を広げ

て歌い出した。政治家の演説を予想していた私には意外だった。彼女を見上げていた視

線を周囲の群衆に向けたとき、私は目を見開いた。

 零下一〇度の凍てつく空気の中で、人々は毛皮の帽子を脱ぎ、手袋をはずし、右腕を

高々と上げて指でVサインを示した。私の目の前で、三〇万のVサインの花が開いた。

透き通るように白いチェコ人の肌が寒気にさらされてピンクへ変わる。長い歌が響く間

、三〇万の花は開き続けた。

 私は問うた。あの歌っている女性は何者なのか、と。通訳は答えた。「あの人は二〇

年間、歌を禁じられていた歌手です」。

 チェコに一九六八年、自由主義的な政府が成立し「プラハの春」と呼ばれた。しかし

、当時の同盟国ソ連は戦車を出動させチェコの自由を踏みにじった。そのころ二七歳に

してチェコでもっとも有名な歌手だった彼女は、単に舞台で歌うだけでなく、自由を奪

うソ連を批判した。ソ連寄りの新政権は、批判をやめなければ歌うことを禁じる、と脅

した。

 彼女は屈しなかった。政府批判をやめなかった。そのために七〇年、人前で歌うこと

を公式に禁じられた。信念を主張するために、名誉も富も放棄したのだ。歌えないどこ

ろか、生活にも困った。独裁政府にたてついた彼女を雇ってくれる企業はなく、ようや

くOLの仕事を探して食いつないだ。

 その彼女が今、約二〇年の歳月を経て人々の前で歌う。白髪が混じりしわがより、苦

労したことが顔立ちからもしのばれる。抑圧に屈しなかった身を誇るでない。民主主義

を勝ち取った喜びをあらわにするでもない。長い苦労が何でもなかったように、ただ淡

々と歌う。毅然とした姿が私には天使のように思えた。神々しいほどの威厳があった。

三〇万人にとっては、自由の女神に思えただろう。

 チェコの革命のきっかけは学生デモだった。鎮圧の警察が暴力を振るったことに抗議

して反体制知識人が市民団体「市民フォーラム」を結成し、市民に抗議集会を呼びかけ

た。翌日の集会の参加者は二〇万人。日に日に規模は膨らみ四日後には三五万人、その

翌日は五〇万人となった。

 独裁政府は鎮圧の軍を出さなかった。それどころか、もはや国民の支持は政府でなく

「市民フォーラム」にあると考えて、彼らに政権を明け渡した。独裁政権が市民団体に

政権を譲るという歴史上まれな政権交代が実現した。「市民フォーラム」の代表ハベル

氏は劇作家だ。政治に素人のはずの彼が以後一〇年以上、大統領を続けている。政治の

玄人を自称する日本の政治家が短命なのと対照的だ。

 当時、チェコの街角を歩くと、ビルや地下鉄の壁は市民が貼った紙で埋まっていた。

独裁政権の何がいけなかったのか、市民は何をなすべきか、など市民が自分の意見を書

いた紙を貼っていた。紙を見ながら議論する市民の輪があちこちにできた。変革をもた

らしたのは、銃ではなく言葉だった。

 政権が平和に移ることを可能にしたのは、確かな民主主義の存在である。

 チェコは東欧の諸国でもっとも進んだ民主主義国だった。第一次大戦後にフランスに

ならった憲法を制定して議会制民主主義を確立し、ヒトラーに併合されるまでの二〇年

間、強固な民主体制を築いた。第二次大戦後にいち早く社会民主党を首班とする内閣を

自力で誕生させた経験を持つ。

 この点、ルーマニアは違う。オスマン・トルコの支配のあと王政から軍事独裁さらに

一党独裁と変化し、民主主義の経験が一度もない。この違いが、いざ革命のとき無血か

流血かを分けたと私は実感する。民主主義がいったん根付いていれば、たとえ外力によ

って一時、独裁政権となろうとも、やがて政治は無血で市民に移行する。その経験がな

ければ、血が流れるしかない。

 ユーゴの革命は、この両国の中間にある。大統領選の結果発表に怒った市民が野党の

呼びかけに応じて首都に押し寄せた。しかし、野党がしっかり統制していたわけではな

い。集まった五〇万人のうち元気者が連邦議事堂(国会)に突入した。最初はおずおず

と。しかし、警官はたった二〇〇人。やがて思い切って突っ込み火を放った。別の人々

が国営テレビ局にブルドーザーで突入した。軍や警察が動かないと見るや、「群衆」は

「民衆」となった。「暴動」は「革命」に変わった。

 市民が行動に踏み切ったのは、軍と警察が独裁政府を守らないと悟ったからである。

首都で二〇万人集会が開かれた九月末、参謀総長が軍は市民に銃を向けないと言明した

。この時点で方向は決まった。軍首脳はそれでも武力鎮圧するかどうか最後まで迷った

。決め手となったのは、将校や兵士に不服従の動きが出たことだ。ユーゴは他の東欧諸

国と違って第二次大戦中、ソ連の手を借りず独力でナチからの解放を勝ち取った。パル

チザンの精神が今も軍に生きていることを感じさせる。

 この国はチトー時代に、労働者自主管理という一風変わった社会主義体制を自前で作

り上げた。労働者が話し合って企業を運営する協同組合的な手法である。また、共産党

の名を共産主義者同盟に変えた。党が個人を統制するのでなく、個々に独立した人間が

結びついた組織という発想だ。ソ連とたもとを分かち、冷戦のさなかに西側とも東側と

も距離を置く非同盟諸国の中心となった。こうした自立の意識と伝統が、いざというと

きに発揮されたのだと思われる。

 ルーマニア、チェコ、ユーゴ。三国三様の革命を比較して感じるのは、民主主義の伝

統の重さである。東西対決や民族主義の広がり、経済危機など情勢の移り変わりに、一

国の政治状況は影響される。息苦しい世になることもある。しかし、それは一時的な病

気にすぎない。やがて病を治すさいに自力で直せるのか、外科手術が必要なのか。それ

を決めるのは民主主義の伝統だ。いかに民主主義が根付いているか、どのような民主主

義を確立しているかが決め手となる。

 東欧革命が求めたものは「自由、人権、民主主義」という西欧の精神だった。ユーゴ

のミロシェビッチ独裁体制の崩壊は、その精神が欧州の辺境にまで到達したことを示す

。経済統合から政治統合に進む欧州連合の勢いが、民主化の波となって周辺諸国にも強

く影響しているのだ。

 翻って日本を見ると、民主化の進展どころか後退が目立つ。戦後半世紀を経て日本の

民主主義は確立したと言えるのか。ルーマニアに毛の生えたほどの代物ではないか。

 嘆いている場合ではない。状況を変えるのは自立した一人一人の行動だ。歴史がそれ

を示している。

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