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伊藤千尋執筆
週刊金曜日掲載記事

2002/02/22 発売 400号

平和憲法の国コスタリカ 非武装という強さ

2002/01/25 発売 396号

バーバラ・リー議員が語る 平和へのただ一つの道

2001/10/19 発売 384号

西海岸から東海岸へのNO

バーバラ・リー議員を生んだ平和主義

2001/1/12 発売 346号

武断統治の果てに・・・フジモリはなぜ失脚したか

2002/02/22 発売 400号

平和憲法の国コスタリカ

非武装という強さ

コスタリカでは1949年に制定された憲法12条の規定により常備軍を廃止した。中米の紛争地域にありながら同国が平和を確立し、維持できるのはなぜか。この国から学ぶことは多い。

伊藤千尋

 日本と同じく平和憲法を持つ中米の小国コスタリカ。しかし、日本と違って実際に軍隊を廃止したうえ、積極的な平和外交を展開している。

 コスタリカ憲法第一二条では、自衛権を含め、国防のための再軍備は否定していない。しかし、周囲の国が内戦に突入した中米紛争の時代も再軍備せず、逆に周囲の国の紛争を終わらせる平和の道を選んだ。

 2月3日に行われた大統領選挙を機にコスタリカを訪れ、同国が揺るぎない平和憲法を維持する秘密を探った。そこには個々人が安心して生きられてこそ国家の平和もあるという発想と、紛争の解決に対話を重視することを小さいころから身につけるための学校教育が根づいている。そして何よりも「平和は守るものでなく創るもの」という行動的な姿勢が見て取れた。

民主主義は「ある」ものでなく「創る」もの

 大人が子どもを連れて投票所に入ってくるように見えるが、実は逆だ。子どもが大人を連れてくる。

 コスタリカの首都サンホセ郊外のパソアルトスにあるビリングエ学校では、大統領選の当日、生徒が主催して模擬投票がおこなわれた。有権者として投票に参加したのは、学校の周辺に住む3歳から14歳の子どもたち約3000人だ。

 校門には「男の子、女の子のための選挙」と書いた横断幕が掲げてある。校舎の壁にはあらかじめ有権者登録をした子どもたちの名前の表が張ってあり、それぞれ投票所の部屋番号が示してある。子どもたちが部屋に入ると、まず名前を確認して投票用紙を受け取る。投票用紙には実際の大統領候補13人の顔写真と政党名、シンボルマークがカラーで印刷してある。実際に大統領選で用いられる用紙に校名を入れて印刷した、本物そっくりの投票用紙だ。子どもたちはダンボールの覆いをした場所で意中の候補者に×印を付け、ダンボールの投票箱に入れる。

 6歳のコルドバ・カルシア君は、改革を主張する新人候補に投票した。「お父さんとは意見が違うけど」と言うと、かたわらの父親が笑った。女の子ばかり四人に付き添って来た建設会社のロイ・オルティスさん(37歳)は、「夕食のあとに、今の社会の問題など家族でよく話します。選挙前にはそれぞれの候補の主張の違いなどが話題に上ります。私は社会民主主義の党を支持していますが、子どもたちはどうでしょう?」と話す。長女のナタリアさん(11歳)から四女のカロリーナちゃん(5つ)まで「いいと思う人に入れた」というだけで意中の候補の名は明かさない。

 模擬投票を主催したのは、同校の第11学年(日本の高校2年生にあたる)20人だ。地域学習の一環として自分たちが提案し、選挙管理委員会の立場になって選挙を運営した。2カ月前から準備し、会計や選挙監視員などの役目を分担。近所の子に呼びかけて、一週間前から有権者登録を開始した。選挙の当日は背に「選挙管理委員会」と書いたそろいの白いTシャツを着て臨んだ。

 投票をにこやかに見守っていたのは校長先生だ。選挙をやりたいという生徒の提案に賛同し、選挙管理委員会にあたる選挙裁判所にかけあって本物そっくりの投票用紙の印刷の許可を得た。「子どもたちが活動を通して民主主義を身につけるとてもいい機会です」と語る。生徒の意思を尊重し、伸び伸びと育てようという姿勢が現れている。

 この学校では一六年前から大統領選のたびに、子どものための模擬投票を行っている。投票用紙の印刷などにかかる費用は日本円にして約40万円。有権者として参加した子どもたちが小遣いを寄付してまかなう。子ども一人あたり130円くらい出せば採算がとれる計算だ。

 コスタリカでは学校教育の一環として生徒が選挙を実施し、付近の子どもたちが有権者という存在を3歳のころから体感する。コスタリカには民主主義は「ある」ものでなく、日々「創る」ものだという考えがその背景にあるのだ。

 小学校の女性教師に会った。「教育とは、子どもたちが自立し、どんな大人になりたいか、どんな市民になるのかを自分たちで考えることの手伝いです」と言う。教室で荒れる子の身上を調べると、愛情に恵まれていなかったことがわかる。対話を通じて人生を愛すること、自分に価値を見出すことを教える。一人一人が自分自身を平和にしてこそ社会の平和も保てる、と語った。

 ちょうど新学期が始まる前で、書店には教科書が並んでいた。内容を見て驚いたのは「公民」にあたる「市民教育」だ。日本の中学1年生にあたる第7学年から高校2年にあたる第11学年まで毎年、しっかりした教科書で授業を受ける。第8学年の教科書を開くと、人間性の尊重、平和外交、対話などの項目が書かれている。単に暗記させるのではなく、重視するのは実践だ。たとえば不当解雇を想定し、生徒が解雇された社員の立場になって憲法や人権宣言では労働者にどんな権利が保障されているのか、など生徒自身が調べる。

 コスタリカでは選挙を取り仕切るのは選挙最高裁判所だ。立法、行政、司法の三権と並んで四番目の権力といわれるほど独立している。選挙の前には警察も選挙最高裁に編入される。選挙と民主主義と人権とが一体となって子どものころから意識に根づいている。その延長に平和があるのだ。

兵士の数だけ教師を

 コスタリカが平和憲法を自分たちの手で制定し施行したのは一九四九年だった。内戦(といってもわずか6週間にすぎないが)で約2000人が亡くなったのを機に、軍隊を廃止した。憲法12条は「恒久的制度としての軍隊は禁止する」とうたう。だが本当にすごいのは、その後だ。「兵士の数だけ教師を」を合い言葉に、それまでの軍事予算を教育予算に変えた。以後、年間予算の三分の一が教育費になった。

 このときのスローガンには「トラクターは戦車よりも役に立つ」、「兵舎を博物館に変えよう、銃を捨てて本を持とう、トラクターはバイオリンへの道を開く」というものもあった。戦車はものを破壊するだけだが、トラクターで耕せば農民もやがてバイオリンを弾けるような豊かな生活をおくることができる、という意味だ。単に平和を叫ぶのではなく、バイオリンを挙げた点に民度の高さを感じさせる。それも今から50年以上も前の時代に、だ。

 平和を保つのは生やさしいものではなかった。とくに困難だったのは80年代に中米紛争が激化してからだ。隣国ニカラグアやエルサルバドルなど中米は軒並み内戦に入った。ニカラグアからコスタリカに難民が押し寄せ、政府軍に追われたゲリラが国境を侵犯して逃げ込んできた。こうしたときに「永久的非武装、積極的中立」を宣言したのが当時のモンヘ大統領だ。

 そのモンヘ氏に郊外の別荘で会見した。「積極的中立とは、人権を守り紛争を解決するため、調停や仲介などの行動をすることだ。私たちは軍を持ってないからこそ、それがやれた」と彼は語った。さらに軍を廃止した憲法について「コスタリカは貧しい国だ。教育と発展か、軍を持つか、どちらかを選ばなければならなかった。だから教育を選んだ」と言う。こう聞くと当たり前のようだが、その選択は容易ではない。現に世界のほとんどの貧しい国は軍の方を選んだ。日本も今や軍事国家への道を歩んでいる。それを考えると、当たり前のことをする勇気がこの国の人々にはあったのだと改めて感心する。その選択の正しさは歴史が証明している。

 モンヘ氏の跡を継いで大統領となったアリアス氏は対話によって中米全体の紛争を終わらせてしまった。私は大統領就任以来たびたびアリアス氏に会見したが、彼の発想はいわば「国際火消し」である。平和は一国では達成できない。隣の国が戦争をしていればいつか火の粉が自分の国に降りかかる。自分の国が平和であるためには隣の国も平和にしなければならない、という考え方だ。

 中米に平和をもたらした功績で、アリアス氏は八七年度のノーベル平和賞を受賞した。彼はその賞金を基金として「アリアス平和財団」を良く八八年に設立した。サンホセ市内の同財団を訪れ、女性の専務理事ララ・ブランコさんに会った。

 「平和は日々、創るものです。コスタリカは軍を廃止し軍事予算を他の分野に回しました。それが発展の基礎になりました。今は世界中の非武装と軍縮を二つの目標に、武器の売買の禁止などの運動をしています」と言う。米国でのテロ事件にも触れ「武器の国際取引がなかったらビンラディンの活動もなかったでしょう。米国ではテロで多くの人が死にましたが、貧しい地域で日ごろどれだけの人が死んでいるかを忘れてはなりません」とも語った。ほかに力をいれているのは、女性の権利向上や他の国の女性への識字教育だ。ここにも教育や民主主義こそ平和の基礎だという基本的な考えが見える。

 憲法で軍隊を廃止しようとした立役者、半世紀前の政治家で「国父」と呼ばれる故ホセ・フィゲレス氏夫人のカレンさんに会った。彼女は熱い口調で、こう言った。

 「平和とは単に戦争のない状態を指すのではありません。行動を伴ってこそ平和になるのです。私たちはバラス(弾丸)でなくボトス(投票)を選びました。平和を願うなら闘わなければなりません。単に“平和主義者”であってはならないのです。非暴力での闘いをすべきです。武器を持たずに平和のために闘うのです。それは勇気を必要とする闘いです。平和を創るのは容易ではありません。しかし、やりましょう。実現しましょう。夢を!」

「活憲」こそ最大の「護憲」

 コスタリカで会った人々は、だれもが燃えていた。それにひきかえ今の日本は元気がない。「改憲」が当然であるかのような雰囲気がまかり通っている。その中で「護憲」勢力は弱体化するばかりだ。私は思う。

 憲法もサッカーも、守ってばかりでは勝てない。法は活かしてこそ法である。不断に行動してこそ平和は実現できる。コスタリカが中米で行ったように、日本の平和憲法を活用してアジアに平和をもたらし、かつ自分たちの生活にも平和をもたらすことが求められているのではないか。憲法を活かす「活憲」を、コスタリカから提唱したい。

伊藤千尋(朝日新聞ロサンゼルス支局長)

2002/01/25 発売 396号

バーバラ・リー議員が語る

平和へのただ一つの道

 同時多発テロが起きた直後、アメリカの上下両院はブッシュ大統領に武力行使を含む強大な権限を与える議決をした。そのとき、たった1人反対したのがバーバラ・リー下院議員(民主党)である。(384号[2001年10月19日]参照)。彼女は1月14日、市民団体に招かれてロサンゼルスで講演し、次のように語った。

 

 9月11日のテロによって、私たちは癒されない傷を負いました。しかし、沈み込んでいる場合ではありません。民主主義、憲法、人間性に強い信念を抱いて立ち上がり、今こそ平和に貢献すべきです。

 テロから3日後、私は議会で大統領に強大な権限を与える法案に反対票を投じました。そのときも今も、民主主義の活力の源は異議を唱える権利にあると考えます。反対票を投じたことは正しかったと今も信じています。

 あの日、多くのアメリカ人と同様に私も憤りました。だからといって、たった3日間で討論もせず、政府に開戦の権限を許していいのでしょうか。憲法は三権分立に基づいています。それは立法、行政、司法の各部門が責任を果たすことで成り立っています。

 テロの攻撃を避けるには、他の国と協力しなくてはなりません。安全を求めるなら世界に平和や正義を根づかせることです。核兵器が世界中を標的にしている今、戦争になる前にあらゆる手段を取るべきです。テロと闘う方法は(民主的な)国家を建設することで行うべきです。アフガニスタンの再建に資金を注ぎ、女性の人権が侵害された過去が蘇ることなく女性が政治に関わるようにすべきです。絶望と闘わなければなりません。絶望すれば憎しみを抱き、テロに走ります。っきょういく、発展への支援、健康、経済の機会・・・これらこそ平和を強めるものです。

 平和は、絵に描いた餅ではありません。困難ではあっても私たちの取るべきただひとつの道です。私たちは子孫に今より安全な世界を残したいと思います。私たちが今なすことが未来を決めるのです。

 私は、「平和省」を新設したいと考えます。戦争が叫ばれるときに正義と民主主義を進め、紛争解決の方法を提示するのです。貧困、病気、経済の機会、男女平等などの面で闘うことによってこそ、テロと闘うのです。

 法の下の平等も示すべきです。世界貿易センタービルは崩壊しましたが、憲法は健在です。危機の時代においても、自由と安全は対立する概念ではありません。私は、捜査機関に強大な権限を与える反テロ愛国法にも反対しました。この法律は滞在期限が過ぎたというだけで移民を無期限に拘束できるのです。反対したのは正しかったし、反対したことこそ愛国的だったと考えています。国家の治安が脅かされているときでも、憲法と権利の章典は保たれるべきです。

 疑問を述べることは反米ではありません。真のアメリカ的な方法は民主主義を掲げることです。恐れて何も言えなくなったときにどうなるのか、歴史が示しています。

 市民社会の一員として、私たちには人種差別、宗教差別に対して闘う義務があります。紛争の平和解決を探し市民的な自由のために立ち上がる義務があります。ホームレス、貧困、病気・・・テロが起きたからといって、これらの問題を避けてはなりません。憲法で認められた自由を犠牲にしてはなりません。私たちが市民的な自由を失えばテロリストが勝ったことになるでしょう。

 

 講演の直後、私は演壇に駆け寄り質問した。たった1人でも反対するあなたの勇気の源は何ですか、と。彼女は答えた。

「別に勇気があるわけではありません。憲法を読み直し、それに沿った行動をしているだけです」

 彼女のそばに立つと、背は160センチメートルくらいで、アメリカ人としてはきわめて小柄だ。その彼女が一歩も引かず闘ってる。国内各地から脅迫が押し寄せても屈しなかったどころか、ますます意気軒昂だ。

 憲法こそ国の基本であり、憲法に基づいている自分こそが正しいのだ、という信念が彼女を支え、強くしている。

 

2001/10/19 発売 384号

西海岸から東海岸へのNO

バーバラ・リー議員を生んだ平和主義

 米国テロに対し、大統領の武力行使を認める決議でただ1人だけ反対したバーバラ・リー議員。

大勢が武力報復へ傾く中、彼女はなぜ冷静な判断を下せたのか。リー議員の選挙区のある西海岸に、その背景を見つけた。

伊藤千尋

 サンフランシスコ市の郊外に、ベトナム反戦運動の先駆けともなったカリフォルニア大学バークリー校がある。米国政府がテロ事件の衝撃から軍事行動での報復を叫ぶ中、キャンパスに約2000人の学生や市民が集まり、戦争に反対し平和解決を求める集会を開いた。

「星条旗が揚がれば人が死ぬ」

 学生会館前の広場がプラカードを持った人波で埋まった。正面に掲げたのは「悲劇を戦争に変えるな」という横断幕だ。

 学生と職員を中心に組織した「ストップ・ザ・ウオー(戦争をやめろ)バークリー連合」が、市民グループも巻き込み、約二十の団体で共催した。プラカードには「平和こそ究極の正義だ」などと書いてある。

 参加者は腕に緑の布を巻き付けている。緑は平和を象徴すると同時に「アラブ・カラー」でもある。このことにはテロ事件後に迫害に遭っているアラブ系米国人と連帯する意味が込められているのだ。

 サンフランシスコに本部を置くNGO「グローバル・エクスチェンジ」の代表ダナハーさん(51歳)は、「アメリカの旗が揚がれば、世界のどこかで人が死ぬ。地球はアメリカだけのものではない」と訴えた。女子学生が「アメリカが憎まれる理由こそ考えるべきだ」と語ると大きな拍手がわいた。

 バークリー市内では、その数日前から女性を中心に市民300人が目抜き通りをデモしている。主催者は「社会が狂ったように戦争に走る中、1人になっても平和の声をあげなくてはならない」と訴えた。

たった1人のN0

 一人になっても声を上げた人はいる。テロの3日後、米下院が大統領に武力行使を認める特別決議を採択した時、ただ一人反対したバーバラ・リー議員(55歳)だ。「トンキン湾事件のさいに大統領に白紙委任したことが、ベトナム戦争の泥沼化につながった。同じ過ちを犯してはならない」と力説した。

 彼女の選挙区は、バークリーと隣のオークランド市だ。学生たちのプラカードには「リー議員、私はあなたを誇りに思う」と書いてあった。オークランド市にある彼女の地元事務所を訪ねると、スタッフが忙しく電話に応対していた。ただ一人反対した日以来、電話や電子メールなどで多数の市民が感想を寄せた。その八割が賛成意見だ。「だれかが分別ある声を上げなければならない。よくやった」という反応が多いという。

 リー議員は私の求めに応じて、主張を電子メールで次のような主張を送ってきた。

 私も今回のテロ攻撃に怒りました。犯人を裁くため、あらゆる適切な手段が取られなければなりません。今後も考えられるこのような攻撃を防ぐことこそ、政府の責任だと考えます。

 議会の投票のさいに考えたのは、この法案が通れば戦争に道を開いてしまうことです。大統領に対して、どこのだれでも攻撃できる白紙の委任状を与えることになります。それは議会の責任を放棄することです。私たちは強力な軍事力で戦うこともできますが、不必要な軍事行動を避ける選択もできるのです。

 私はテロの撲滅に反対するのではありません。目標に到達するためには多くの方法があります。テロを生むやり方や、憎悪の根源に迫らないような方法では、私たちの安全は得られません。

 パウエル国務長官も軍事行動のほかに経済、外交、法的措置などの方法を挙げました。性急に軍事行動に走れば、罪もない人々の命をさらに奪うという大きな危険が伴います。このような結果を招く解決方法には賛成できません。

 事務所でリーさんの経歴や評判を聞いた。総合すると「信念と良心に基づく、もの静かな行動の人」という人柄が浮かび上がる。

 彼女はアフリカ系米国人として1946年に生まれる。父親は軍人。高校では初の黒人チアリーダーになった。16歳で軍人と結婚したが20歳までに離婚。息子2人を育てながら大学に通い、カリフォルニア大学バークリー校で社会学の修士号を取る。

 卒業後はカリフォルニア州選出の下院議員の秘書を11年勤め、州議員を経て98年に民主党の下院議員に当選。軍事費の削減や基地閉鎖、教育、環境、女性問題などに力を入れてきた。

 今回だけでなく、99年にはユーゴ空爆に下院で一人だけ反対した。イラク爆撃に反対した5人の議員の1人でもあり、閣僚レベルの「平和省」の創設も提案している。

 スタッフたちは彼女を「いつ眠るのかわからないくらい働いている」と評す。リー議員のモットーは「毎日、起きたときには闘う準備ができている」だそうだ。

ボランティアのボディガード

 バークリー一帯の活動はその後も広がった。アラブ系やイスラム教徒の人々に暴力がふるわれないよう、彼らの通学や買い物に付き添う市民のボランティア・ボディーガード運動が高まった。

 サンフランシスコ市のコンサルタント、ソーニャ・カリールさん(36歳)は毎朝、車を運転してイラク系移民の子ヒバちゃん(15歳)を学校に送っている。車を降りて校門を無事にくぐるまで見送る。自分では車を持たないため、友人を説得して車を借りて回る日々だ。ヒバちゃんの母親はテロの二日後、買い物中にツバを吐きかけられて以来、怖くて家から出ない。バス通学していたヒバちゃんも登校しなくなった。それを聞いて、ボランティアを買って出たのだ。

 公務員のケート・ラファエルさん(42歳)は、毎週金曜日にモスク(イスラム教会)に行き、お祈りに集まったイスラム教徒が暴力を受けないように見張る。また、イスラム教徒たちにアメリカ憲法の基本的人権条項を教え、暴言には敢然と立ち向かうよう説得したりもしている。「テロの悲劇を、相互に助け合うことを学ぶ機会に変えたい。軍や警察でなく、市民のコミュニティー活動で社会の安定を作り上げたい」とラファエルさんは語る。

 NGO「グローバル・エクスチェンジ」は、こうしたボランティアの養成講座を開いている。すでに150人が参加した。「だれかが付き添うだけで、暴力は振るわれにくくなる。この輪を全国に広げたい」とスタッフのレイラ・サラザールさん(26歳)は言う。付き添いというのは、かつて中南米の人権侵害事件で住民を守るためNGOピース・ブリゲードが行ったやり方だ。ニューヨークの人権団体「アラブ系米国人支援センター」によると、同市でも500人以上がこの訓練を受けている。

他民族ゆえの明暗

 付き添い運動を最初に始めたのは、実は日系人だという。サンフランシスコに本部を置く日系市民協会は、事件の翌日に「スケープゴートを作り出すな」という声明を出した。

 ロサンゼルスのリトル東京に、全米日系人博物館がある。これは第二次大戦中に強制収容所に入れられた日系人の歴史を踏まえ、少数民族と全米国人の相互理解のために設立されたもの。日系人の人権団体はこの場所で、アラブ系市民らと連帯する夕べを開いた。

 ろうそくを手に集まったのは約500人。「報復でなく正義を」の横断幕を前に、主催者は「今こそ市民の自由を擁護しよう」と宣言し、寛容の社会を目指し家庭や職場で討論することを提唱した。

 13歳で収容された日系三世のリリアン・ナカノさん(73歳)は「戦争が始まると敵として扱われ、砂漠の鉄条網の中に追われた。心の傷は今も癒えていない。肌の色や宗教を理由にした偏見に対して、私たちは反論する義務がある」と訴えた。人権活動家であるナカノさんの職業を聞くと、長唄と三味線の師匠だという。これだけ聞くと実に「日本的」だが、スピーチが終わって駆け寄った孫にキスしたその姿は米国人そのものだ。今、日本文化と米国社会の両方を体現した、彼女のような人々が増加している。

 日系人だけではない。カリフォルニア州で急増しているのは、メキシコ系を中心とした中南米からのヒスパニックだ。アジアでは韓国系の進出が盛んで、コリアタウンはロサンゼルス市の中心部の大通りを数キロにわたってハングル文字が占める。サンフランシスコ市の郊外にはアフガン難民約6万人が住む「リトル・カブール」まであって、スーパーに入ると奥では難民一家が長さ一メートルもあるナン(パン)を焼いていた。

 人種差別を退け平和解決を求める集会がカリフォルニア州で目立つのは、こうした多民族から成る人口構成と無縁ではない。

 歴史から学ぶのが必要とはわかっていても、実際には難しい。意見の方向が偏ったとき、警告を発する存在が必要だ。それを保証するのが多様性という環境である。価値観が一枚岩でない所にこそ民主主義は育つ。

 米国は歴史的に「マニフェスト・デスティニー(明白な宿命)」(領土拡張政策)を掲げて、外には膨張と侵略を繰り返してきた。世界は米国のものという独善的な考え方は、1830年代からのものである。同時に世界中から移民を受け入れ、内に向けては「多様性の中の統一」を提唱した。今、この二つの概念が衝突している。

 テロはもちろん許されないが、米国がテロの標的となったのは、それなりの理由があるだろう。グローバリズムの中で一人勝ちした驕りに対する反発が世界に渦巻いている。その中で「明白な宿命」をなおも世界に広げるのか、それとも「多様性の中の統一」にシフトを移すのか。

 テロは米国、いやすべての国家のあり方という問題も突きつけた。

 

2001/1/12 発売 346号

武断統治の果てに……フジモリはなぜ失脚したか」

                           伊藤千尋

 大統領当選時、日本大使館人質事件、そして昨年末の失脚事件、と内外のマスコミを騒がせ続けたペルーの前大統領、フジモリ。劇的な幕開けと幕引きまでの政治生活における功罪は何か、なぜこの現状を招いたのかを冷静に分析する。

 同じ人物を撮影した二枚の写真がある。一〇年で人はこうも表情が変わるものか。人を疑うことを知らないような初々しい顔つきから、人を疑うことしか知らない顔に変わった。ペルーの前大統領アルベルト・フジモリ。

 一九九〇年七月、大統領に当選した直後に日本を訪れたフジモリとともに私は彼の両親の郷里の熊本を訪れ、彼とまる一日をともにした。当時のフジモリは気さくでシャイで、好感がもてた。それまで大学教授だったが、日本の一地方の高校の教員室にでもいそうな実直な顔つきだった。

 その彼が二〇〇〇年一一月、アジア太平洋経済協力会議のあと日本に立ち寄り、ホテルから辞表をファクスでペルーに送った。ところがペルー国会は辞任を認めず、彼を罷免してしまった。しかも不正蓄財などの疑惑で訴追の動きに出ている。フジモリはその後、都内の作家曽野綾子氏宅に寄宿した。

 神奈川県の曽野氏の別荘で私がフジモリに単独会見したのは、辞表提出直後の一一月末だ。彼は「人質事件で見せたサムライ精神を失っていない。今後もペルーのために戦う」と、なお政界に復帰する意志を強調した。しかし、その顔には一〇年間の権力闘争が深いしわとなって刻まれており、一二月、都内で会見に臨んだ顔は、ゆがんでいた。

 この一〇年間、フジモリの顔をゆがめさせたものは何か。

人質事件武力解決のかげに

 四年前の今ごろ、ペルーは日本大使公邸人質事件のさなかにあった。左翼ゲリラの公邸占拠は一二七日に及び、最後は特殊部隊がトンネルから突入して武力解決した。あのとき、日本人の人質すべてが無事だったため、日本人の多くがフジモリ氏をほめたたえた。当時、武力解決は間違っていると「朝ナマ」で主張した私は白い目で見られた。

 フジモリ氏の姿勢は就任以来、一貫している。武断統治だ。今、フジモリ氏はそのしっぺ返しを受けている。

 あの時点で武力解決する必然性はなかった。交渉による平和解決が可能だった。突入した隊員もゲリラも、だれも死ぬ必要はなかった。それは在ペルー日本大使館一等書記官として人質になっていた小倉英敬氏が著書『封殺された対話』(平凡社)で証言している。日本政府の姿勢を批判して真実を語るため外務省を辞職した彼の主張は、説得力がある。

 では、なぜフジモリ氏は武力解決に踏み切ったのか。その影には失脚の原因となった国家情報局顧問モンテシノスがいる。

 人質事件のさなか、国家情報局内に殺人部隊があり反体制市民を暗殺していたことが内部告発で暴露された。政府機関が治安目的で殺人を犯していたのだ。さらに情報局の実権を握っていたモンテシノスの月収が20万ドル(約2200万円)だったことが国税庁の調べでわかった。ペルーの一般市民の月収は約四万円である。麻薬組織との関係や汚職で彼が不正な利益を得ていたことは、この当時すでに明らかだったのだ。世論調査で彼の解任を求める主張が八割に達した。フジモリ氏の支持率も38%に落ちた。

 そのモンテシノスが計画したのが武力突入である。フジモリ氏はゴーサインを出しただけにすぎない。突入開始のさい、フジモリ氏はスサーナ夫人の弁護士と会い、離婚にともなう財産分割の手続きをしていた。

 突入は成功した。口封じのため捕虜のゲリラも射殺した。勝ち誇ったフジモリ氏は防弾チョッキ姿で国民の前に現れた。ふだんは公の前には出ないモンテシノスも現場に姿を現した。テレビは誇らしげな彼を追った。マスコミはモンテシノスの作戦をたたえ、彼の政治スキャンダルは報道から消えた。フジモリ氏の支持率は67%に跳ね上がった。

 そのときにうやむやとなっていたモンテシノスの疑惑が再燃した。彼が野党議員を買収する場面のビデオが暴露された。さらに巨額の不正蓄財も判明した。それが今回のフジモリ氏の失脚につながる。

モンテシノスとの癒着

 モンテシノスとフジモリ氏との関係は、十年前の大統領就任時にさかのぼる。

 モンテシノスは裏側の世界の人間だ。陸軍の軍人出身だが米CIAのスパイとなり、国家機密を漏らして反逆罪で逮捕された。獄中で司法試験の勉強をして弁護士となり、釈放されると麻薬組織の弁護で蓄財した。軍の本流には帰れないため諜報機関である国家情報局に入った。九〇年の大統領選でフジモリ氏の脱税疑惑が出たときモンテシノスはフジモリ氏の弁護士となり、情報局を使って税務署の証拠を隠滅してフジモリ氏に恩を売った。これでフジモリ氏の信任を得るとともに弱みを握った。

 それ以来、二人は一心同体で政権を運営した。その関係はジキルとハイドだ。フジモリ氏が政治の表に出てモンテシノスが裏工作をした。フジモリ氏は「皇帝」と呼ばれ、モンテシノスは「ペルーのラスプーチン」と言われた。やがてラスプーチンの権力が皇帝をしのいだ。フジモリ政権一期目のサンロマン副大統領は九二年の時点ですでに「事実上の大統領はモンテシノスだ。フジモリは人形だ」と語っていた。

 ところがフジモリ氏は、いまだにモンテシノスが自分の指揮下にあったと思いこんでいる。失脚直後の一二月に東京でフジモリ氏に会見したさいも「モンテシノスは私の部下だ。命令するのは私だ」と話した。同時に「モンテシノスは昼と夜で別人になる二重人格者だ」と述べ、ようやく彼の本質を知ったとも語った。フジモリ氏は裸の王様だったのだ。

 フジモリ氏がモンテシノスと結びついたのは、選挙での支援だけが理由ではない。十年の彼の政権の本質にかかわる理由があった。

 当選したフジモリ氏にとって最大の悩みは軍だった。ペルーは「半軍政」国家である。七〇年代末まで軍部が政権を握っていた。軍の後ろ盾がないと政権を維持できない。ところが軍部を握っているのは白人勢力である。もともとペルーの軍部は白人支配層に反対する先住民の反乱を鎮圧するための暴力装置だった。とくに海軍と空軍は、将校は白人で兵士は混血という露骨な人種差別構造がある。

 軍は九〇年選挙で反フジモリの立場をとった。フジモリ氏が大統領に就任するとクーデター未遂が三回起きた。当時、フジモリ氏が逃げ込んだのが日本大使公邸だった。フジモリ氏には軍と自分をつなぐパイプ役が必要だったのだ。フジモリ氏はその役目をモンテシノスに期待した。モンテシノスもフジモリ氏を利用して軍内部で勢力を強化した。フジモリ氏は政権に就くとモンテシノスの提言で軍部の内部分裂を策し、海軍と空軍の司令官をやめさせ陸軍優位の人事をした。二人は持ちつ持たれつだった。

貧者の革命と独裁

 軍を握ることによって、フジモリ氏は上からの強権的な改革を進めていった。九二年には野党勢力が握っていた国会に戦車を繰り出して強制的に解散させる「上からのクーデター」を敢行した。

 それはアメリカから民主主義の破壊だと批判された。しかし、私はいちがいに非民主的とは思わない。そもそも当時のペルーに民主主義などなかった。このころの国会を握っていたのは白人支配層である。彼らは白人しか目を向けず先住民を見捨てた。白人が住む都会には病院も学校も建てたが、先住民の住む田舎は無視した。フジモリ氏が先住民の村に学校をつくろうとする予算案を提出すると葬ったのが当時の国会である。

 国会強制解散の直後の世論調査では、フジモリ氏の支持率は実に七九%を記録した。十年を通じて最高の数字である。国民がいかにフジモリ氏の改革に喝さいしたかがわかる。当時のペルーは米国や日本とは違うのだ。虐げられていた人々の実情を知らずして、単に先進国の論理で判断すべきではない。

 フジモリ氏が掲げたのは「貧者の革命」だった。初期のフジモリ氏はそれを実戦した。三万の学校を新たに建てた。就任時に年率七六〇〇%だったインフレを沈静化させ、九四年には一二%の成長を達成した。他の中南米諸国がマイナス成長をしているとき、逆に高度成長したのである。その功績はたたえられるべきだ。

 フジモリ氏自身、「一日に一六時間」働いた。日曜も休まず、閣議は夜九時から行い、午前二時に大臣に電話して指示することも日常だった。山奥の村に行き自分で四輪駆動車を運転して現場を見て回った。住民の要望を聞いて自分でメモを取った。水不足の村に水道を引き、村に病院を建てた。そうしたフジモリ氏の姿に国民は強く共感した。

 フジモリ氏のやり方を見ると、彼がペルーで明治維新を志したのではないかと思う。遅れたペルーを改革するために、かつての日本を参考にした。明治政府同様、彼の目標は「富国強兵」だった。ゲリラや国境紛争に備えて軍を強化し、同時に経済の浮揚を狙った。そのために用いたのが強権統治だった。反対する者は有無を言わせず武力で切った。

 一〇〇年前ならそれで通用したかもしれない。しかし、二一世紀になろうとする時代、それも民主主義と人権が世界基準となったグローバリズムの時代に強権的な手法が通用するはずがない。時代を見誤った。

 フジモリ氏を一〇年間取材して感じるのは「明治の男」である。実直で果断だが自己中心的だ。スサーナ夫人との離婚も夫としていばる彼にヒラリー・クリントン夫人さながら勝ち気なスサーナさんが反発したからだ。

 貧者の革命が成功しているうちは強権性はさほど問題にされなかったが、失敗するととたんに批判の対象となった。

新自由主義の失敗

 フジモリ氏はいつから支持を失ったのか。

 世論調査の支持率の推移を見ると一目瞭然だ。大統領に就任した当初の支持は、91年を除いて常に6割を確保した。しかも96年まで平均して65%の高率を維持した。国民の3分の2の支持を受ける高い支持が6年も続いたのは脅威と言える。日本の森政権と比べると、国民の期待ぶりが分かる。

 それが転落に変わるのは96年半ばだ。徐々に支持率が下がり同年12月には支持が45%に対し不支持が54%と逆転した。このときに左翼ゲリラが起こしたのが人質事件である。彼らは好機到来と考えたのだ。

 以後、人質事件の解決で一時的に支持率は上がったが、あとは転落の一途だった。

 その理由は経済政策と民主主義である。

 就任直後の91年に支持率が41%に落ちたのは、公共料金を大幅値上げし公務員を大量に首切りしたからだった。このときはペルー経済を破滅から救うための応急措置だと説得して受け入れられた。実際、経済は好転した。内戦を終わらせ平和になると経済活動はいっそう活発になった。生活が良くなる限り、国民は支持を続けた。

 フジモリ氏が採用した経済政策は米国流の新自由主義である。政府が規制することなく自由競争を奨励し、勝った者が市場を支配する。弱肉強食のこのやり方で経済は確かに活性化した。アメリカをはじめ外資が流入し、暗かった町にネオンが輝くようになった。しかし、その影で失業者が大量に出た。それが目立つようになったのが九六年だ。

 さらにフジモリ氏は大統領の三選を禁じた憲法を無理に変えて三選出馬を決めた。その法律が可決されたのが96年8月である。

 人々は安心して生活したいという経済面の欲求と、独裁は嫌だという政治面の気持ちと、二つを抱いている。為政者がそれに反したとき国民は反発する。フジモリ氏とてその例外ではなかった。

日本人も問われている

 フジモリ氏への支持は、辞表を提出する直前の2000年11月には19%にまで落ちた。しかし、失脚後の12月の調査で、フジモリ政権の10年を良かったと評価した人がなお4割もあった。

 フジモリ氏に代わって政権を握るパニアグア暫定大統領は、かつての白人支配層の代表である。彼は総選挙でたった1万4〇〇〇票の得票で議員となり、政党間の権力闘争の中でたまたま国会議長になった人物だ。デクエヤル首相は九五年の大統領選でフジモリ氏に大敗し国民に見放された政治家である。もはや彼らの時代でもないことは明白だ。

 フジモリ氏の登場でペルーは変わった。伝統的な支配層に代わって先住民や貧困層などが政治の表舞台に躍り出た。弱者も社会を動かす主人公になれるという自信をもたらしたことこそ、フジモリ政権の最大の成果と言えるかもしれない。ただ、フジモリ氏がそれを行ったというより、フジモリ氏が時代の波に乗ったという方が正しい。人々は白人伝統政権にうんざりしていた。同時にどんな政権であれ不正な、かつ国民の生活を脅かす政権の存在を許さなかったのだ。

 民主化を進めつつ、新自由主義に対抗して第二の「貧者の革命」を起こす力がこの中から出てくるかどうか、それが新生ペルーに問われている。

 同じことを私たち日本人も問われている。新自由主義でリストラが横行し民主主義が欠如していることでは、日本はペルー同様である。支持率10%台の首相に統治されていても黙っているだけ、より情けない社会だ。

 フジモリ氏を「批評」するよりも、フジモリ氏を押し上げ、かつ沈めた理由と、それ

をもたらした市民の意思と行動こそ私たちが学び取るべきだと思う。

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