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週刊金曜日掲載 伊藤千尋の環太平洋通信
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週刊金曜日 第484号 2003年11月14日 | |
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週刊金曜日 第479号 2003年10月10日 | |
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週刊金曜日 第473号 2003年08月29日 | |
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週刊金曜日 第469号 2003年07月25日 | |
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週刊金曜日 第465号 2003年06月27日 | |
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週刊金曜日 第461号 2003年05月30日 | |
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週刊金曜日 第456号 2003年04月18日 | |
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週刊金曜日 第452号 2003年03月21日 | |
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週刊金曜日 第447号 2003年02月14日 | |
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週刊金曜日 第443号 2003年01月17日 | |
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週刊金曜日 第440号 2002年12月13日 | |
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週刊金曜日 第434号 2002年11月01日 | |
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週刊金曜日 第431号 2002年10月11日 | |
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週刊金曜日 第425号 2002年08月30日 | |
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週刊金曜日 第421号 2002年07月26日 | |
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週刊金曜日 第416号 2002年06月21日 | |
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週刊金曜日 第412号 2002年05月24日 | |
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週刊金曜日 第407号 2002年04月12日 | |
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週刊金曜日 第403号 2002年03月15日 | |
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週刊金曜日 第397号 2002年02月01日 | |
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週刊金曜日 第393号 2001年12月21日 | |
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週刊金曜日 第390号 2001年11月30日 | |
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週刊金曜日 第386号 2001年11月02日 | |
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週刊金曜日 第380号 2001年9月21日 |
見渡す限り山が真っ黒だ。作業用のマスクをしていても、焦げたにおいが強く鼻をつく。丘の上の林に囲まれた通りの両側は、火事というより爆撃のあとだ。長さ二〇〇メートルにわたって、住宅が瓦礫の山となった。壁も焼け落ちて立っているのは石の門柱と暖炉だけ。そびえる暖炉が墓標のように見える。暖炉の高さとプールで、ここに二階建ての豪邸があったのだとようやくわかる。平たくつぶれた鉄の板があるから何だろうと思って正面から見たら、車だった。ポルシェだ。
被災者の四〇代の女性が瓦礫をかきわけている。カメラや時計が出てきた。広島の原爆記念館で見た品々のように溶けている。彼女は自宅が焼けた日の朝、いつものようにコーヒーを飲んでいた。火など見えなかった。「大至急、避難してください」という消防車の突然の呼びかけを聞き、寝ていた子どもを起こし、パソコンを持って車で家を出たのが一五分後。それから一時間もたたずに辺りは炎に包まれたという。それほど火の回りが速かったのだ。
彼女の表情は以外にサバサバして、さほど悲しんでいるように見えない。周辺すべてが焼けたためのあきらめや、命は助かったこと、それにまだ興奮状態にあるからだが、何より保険に入っているから今後の生活の心配がないのだ。現に焼け出されたあともホテル暮らしを続けている。
それに比べて、避難所の人々は深刻だった。飛行場の飛行機の格納庫のコンクリートの床に簡易ベッドが並び、避難民八五〇人が寝泊まりしていた。一見して中南米系や黒人が多い。中にはスペイン語しか話せない人々もいた。国境を越えてメキシコから来た不法移民だ。山奥のリゾート地帯で別荘の建設工事に五年間携わっていたという。集団で住んでいたアパートが焼け、これからどうするか途方にくれている。そのうち建設工事が殺到するのは明らかだが、それまでどう食いつなぐか……。とはいえ、めげないのが彼らの性格だ。どうせ裸一貫で来たのだからまた一からやり直せばいいと、まるで屈託がない。
サンディエゴにはブッシュ大統領も、これから知事に就任するシュワルツェネッガー氏も視察に来た。ブッシュは焼け跡でホワイトハウス詰めの記者と会見したが、質問は火事でなくイラクのことばかり。そのうち笑い出す場面もあって、周囲の被災者が露骨に嫌な顔をした。シュワちゃんはどこに行っても「消防士諸君は英雄だ」としか言わず、被災者から「被災を売名ショーにするな」と怒りの叫びを投げつけられた。
ロサンゼルス東部では、家を失った日本人に会った。神戸出身で関西の大学の教授である米国人と結婚したショウコ・タカミチ・ロスさん。避難したあと、テレビのニュースを見ていたら炎に包まれた自分の家が映っていた。燃え崩れる家に「長い間、ありがとう」と声をかけながら見つめていた。翌日のニュースでは、自宅の焼け跡でテレビのレポーターが中継していた。すべて焼けたと思ったら、庭先の高さ一メートルほどの杉の若木が緑の葉のまま、何事もなかったように立っていた。それを見て、生きる勇気がわいてきたという。彼女は阪神大震災の被災者でもある。
山火事の直前、ロサンゼルスは一〇月末というのに気温三三度の真夏日が続いた。山火事が始まると、灰が空一面を覆い、灰色の空の向こうに柿のような色の太陽が見えた。朝というのにビルは夕方のように赤く染まった。山火事が去ると、気温が一気に一四度も低くなった。山火事の間、ビル街にも灰が降り、市を三方から囲んだ火がロサンゼルスを焼き尽くすのではないかと恐怖にとらわれる市民もいた。支局の助手は今も、オフィスの中でマスクをしたままパソコンに向かっている。
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この二カ月間、ロサンゼルスの新聞もテレビも、シュワルツェネッガー氏の動きを伝えない日はなかった。ニューヨーク・タイムズ紙でさえ連日、カリフォルニア知事選を大きく取り上げた。
正直言って、うんざりだ。五六歳のおじさんの選挙運動はショーさながらで、くだらない冗談を飛ばしTシャツを配り握手とサインをするばかり。しないのはきちんと政見を伝えることだけだった。「州民みんなが素晴らしい職を持てるようにする」と夢のようなことを言うが、現実に何をするかは言わない。
とはいえ、さすがハリウッドで三〇年以上もメシを食って来ただけに華があり、登場しただけで人々の気を引く。いかにも官僚っぽい現職の知事の退屈な表情と比べたら、役者が違った。
いちいち追うのもバカらしくなって、九月中旬は世界貿易機関(WTO)の会議が開かれたメキシコのカンクンに行った。カリブ海に面した保養地で、浜辺に豪華なホテルが林立する中に会議場があった。市街地からホテル街に行く一本道を通せんぼしてしまえばデモを封じることができる。しかも周囲はジャングルだ。治安対策をにらんだ会場選定だったことが明らかだ。
世界貿易機関とは自由貿易を進める組織だが、つまりが世界経済を先進国とりわけアメリカの傘下に組み入れるための道具である。
開幕の二日前、市街地の体育館で農民一万人が抗議集会を開いた。「食糧の主権を取り戻せ」と書いた壇上で、インドの環境活動家バンダナ・シヴァさんが「WTOは我々の資源を奪う」と訴えた。
周囲の農民に話を聞いているうちに、トラックを四〇時間運転して来たリンゴ農民ゴメスさん(五〇歳)に会った。「アメリカの安いリンゴが輸入されて太刀打ちできない。おれたちに死ねというのか」と声を荒げる。
アメリカでは政府が農民に高い補助金を出して作物を大量に作らせ輸出する。価格が安いからメキシコにもアメリカ製品があふれるようになった。リンゴどころか、メキシコ料理に欠かせないトウモロコシでさえアメリカ製が洪水のように押し寄せる。この結果、メキシコの農民は畑を売り、不法移民となってアメリカに働きに行く。聞いているうちに、日本のコメの恐ろしい未来が頭に浮かぶ。
開幕日には彼らがデモをした。警察側は一本道を鉄柵で封鎖した。デモの先頭で警官と激しくやり合ったのは韓国から来た農民たちだ。一人が鉄柵に登りナイフで自分の胸を刺した。韓国軍政時代の抗議行動を思い起こさせるような覚悟の自殺である。
会議が始まって三日目、会議場のそばで学生たち二〇人が抗議集会をした。中央にいる女性の顔に見覚えがある。八月にピースボートに乗ったさい、メキシコの現状を伝えようと船に乗り込んだ女子学生だ。首都からバスを乗り継ぎ二〇時間かけて来たという。
会場で目立ったのはNGOだ。世界から九六一団体二〇〇〇人が集まった。日本からも四二団体が来たが、このうち四〇が経団連や農協など。欧米のNGOが公正な貿易を訴えているときに、「トヨタはいかに環境に貢献したか」などと語る。「これってNGO?」と首をかしげるような人々だった。
会議は意外な展開を見せた。アメリカをはじめ先進国に有利な態勢を覆そうと、ブラジルやアフリカ勢を中心に途上国が結束し、ついに会議は決裂した。その瞬間、会場で途上国代表とNGOメンバーが抱き合って喜んだ。NGOは「祝・失敗」の声明を出した。
歓喜の声をあとにロサンゼルスに戻ると、またシュワちゃんの世界が待っていた。しかも断トツ一位の世論調査。まだ選挙運動中というのに、どっと疲れが出た。
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両脇をコンクリートで固めた幅三三メートルの水路すれすれに、三万トンを超す大型客船が静かに入っていく。船のエンジンが止まった。水路の両側の線路を走る装甲車のような形の機関車が、ロープで船を曳く。やがて後ろの門が閉じ閘門の中に水が注入された。船がみるみる九メートルもせり上がる。船上の私はエレベーターに乗っているようだ。これを三度繰り返し、カリブ海からパナマ内陸のガトゥン湖に入る。湖を突っ切った後、再び三段下降して太平洋側に至った。
ここはアメリカ大陸を中央で切断し二つの海をつなげるパナマ運河。長さわずか八二キロで両洋をまたぐ。八月中旬、「地球一周」のピースボートに乗って、ニューヨークからカリブ海のジャマイカを経由し、中米コスタリカまで一〇日間、船に乗った。
客船の乗客は八〇〇人。テロとSARSでずいぶん辞退者が出たそうだが、それを乗り越えて乗船した人たちだけに元気がいい。乗船中に「テロ後のアメリカ」「カリブの海賊からカストロまで」などの講座から護身術まで一二の講義を熱心に聴いてくれた。
この運河は、グローバリズムの時代の先鞭をつけて米国が完成させたものだ。一九〇三年、当時は南米コロンビアの一画だったパナマ地域をたきつけて独立させ、直後に運河条約を結んで保護国化し、一〇年かけて運河を完成させた。米海軍の艦船と商船が両洋を短期間に行き来できるようにしたのだ。二〇世紀の米国の繁栄と海外進出は、この運河なくしては語れない。運河返還を前に軍を侵攻させて邪魔なノリエガ将軍を「拉致」したのも、運河の戦略的価値を考えればこそだった。
運河をわたる前、運河口の洋上で九時間待った。一度に一隻しかわたれないから待ち時間がかかる。運河に入ってから出るまでにまた九時間。早朝に運河口に到達した船は昼間はカリブ海で熱帯の太陽を浴び、夕刻に運河入りしてオレンジ色の明かりの中、深夜に太平洋に抜けた。運河を渡るのに通航料を取られる。船のトン数によるのだが、この船で一五〇〇万円かかったという。
ジャマイカでは、大航海時代の昔から今も残る逃亡奴隷の村を取材した。アフリカから無理やり連れて来られて強制労働をさせられた奴隷の中には、当然ながら逃亡した者もいる。ジャマイカは全島が緑の密林で、奥地に逃げた奴隷たちは自分たちの共和国をつくった。それが三〇〇年以上たつ今も存在する。彼らはマルーンと呼ばれ、今もジャマイカ政府に税金を払っていない。もっとも、私にはちゃっかり「入国税」と「案内料」と「寄付金」を要求したが。
最後に下船したコスタリカでは、元大統領が経営する山奥の熱帯雨林のバンガローに泊まった。深い霧の中、深夜に宿に着いて雨の中、バンガローまで傘をさして案内してくれた人のいいおばさんが元大統領夫人だったことを翌日知った。荷物運びのおじさんと思っていた人が、なんと元大統領だった。カウンターの中にいた従業員が彼と対等に接していたから、経営者にして元大統領だとは思いもしなかったのだ。
そのカラソ元大統領は、国連平和大学をコスタリカに誘致した人物である。木材の輸出国だったこの国が環境の大切さに気づいた一九六八年を期して「空気を輸出」するようになった経緯を語ってくれた。現金収入を求める伐採業者の圧力と経済利益の誘惑を振り払って森林保護を進めた結果、今や森が生む空気を文字通り世界に無料で輸出している。
自ら平和憲法を作り上げ環境保護大国となったこの国にも、もちろん問題はある。第三世界の貧しい農業国で人口四〇〇万足らずの小さな国に、隣のニカラグアから一〇〇万人もの大量の経済難民が押し寄せる。が、彼らを受け入れ、その子どもの教育も医療も無料で行うのがコスタリカのやり方だ。
街角で出会った市民に次々と突撃インタビューした。「軍隊のない平和憲法をいつまでも持ち続ける。私たちはどんな紛争も対話で解決する」と主婦が、学生が、ガードマンがなんの屈託もなく語った。
目の前に大平原が広がる。高山わすれな草やハイマツが微風に揺れ、野生のバッファローが四頭、悠然と草をはむ。ここはロッキー山脈の深奥部、標高二〇〇〇メートルの高地だ。草原の向こうに富士山より高い冠雪した岩山がそびえる。スクリーンで見たままの光景だ。「シェーン、カム・バーック!」という声が聞こえてきそうな気がする。
イラク戦争前からずいぶん米国発の反戦の動きや日本の市民運動に役立ちそうな記事を送ったがボツあるいは小さな話題扱いされて怒り、気分転換も兼ねて米ワイオミング州のグランド・ティートンに来た。映画『シェーン』の舞台である。映画の公開から今年でちょうど半世紀だ。
ふもとの町ジャクソンの飛行場に降り立ったとき、一目でそれと分かる飛行機が翼を休めていた。エアフォース2。副大統領の専用機だ。乗員に聞くと、チェイニー氏の自宅がここにあるという。夏休み中らしい。
日本のどの町にも郷土史家がいるように、ここにも「シェーン研究家」がいる。彼の案内で撮影の跡をたどった。ムースの糞を踏みつつ草原を四時間歩き回り、朽ちた山小屋をのぞき、傾斜四〇度の丘をはった。日差しが強く暑いが、乾燥しているため汗は出ない。
町の中心部は今も西部劇そのままの家並みが連なる。博物館に入ると町の歴史が書いてあった。着飾った女性が並ぶ写真の説明を見て驚いた。なんとこの町で一九二〇年、米国史上初めて市長と市議会議員すべてを女性が占めたという。その記念写真だ。
そもそもワイオミング州という土地柄が、女性の強い地だ。米国で初めて女性が参政権を獲得した州で、初めて女性が州知事になった。開拓時代は女性も男性と同じ仕事をしたからだという。州のモットーは「平等の権利」だ。女性の強い州の中でもこの町はとくに、全米のフェミニズムの先端を走ったとみられる。
そういえばグランド・ティートンとはフランス語で「大きな乳房」という意味だ。探検家のフランス系カナダ人が名付けたという。半球状の岩山の先に小さな突起がついていて、確かにそう見える。毎日この山を見て暮らす住民は、女性は偉大だと視覚的に刷り込まれるのかもしれない。
冠雪した山並みを見るうちに既視感を覚えた。そうだ、南米ボリビアのアンデス山脈の中に広がる標高四〇〇〇メートルの高原から見た「インティ・イジマニ(太陽の山)」の山容に似ている。北米でバッファローが草をはむように、南米ではラクダのような動物リャマが悠々と歩んでいた。
高山植物の草地に腰を下ろし、世界地図を思い浮かべた。ロッキー山脈の南はパナマで地峡となり、その延長にアンデス山脈がある。風景が似ているのは当然かもしれない。環太平洋はつながっているのだ。
地形だけではない。人間もつながっている。ワイオミングの町を歩く先住民(インディアン)は日本人とよく似ているし、インカ帝国を築いたアンデス山脈の先住民も面立ちは私たちとそう変わらない。
それどころか南米の最南端チリのパタゴニアで、村役場の壁にかけられた写真を見て思わずうなったことがある。数十年前に撮った純粋な先住民の写真だが、顔が日本人そっくりだ。それも現代の日本人の顔である。南極に近い酷寒の地にもかかわらず、彼らは裸で海に潜って貝や魚を採って生活し、入れ墨をしていたという。魏志倭人伝の邪馬台国の記述にも似ている。
氷河期に陸続きとなったベーリング海峡を通って北方アジア人がアメリカ大陸にわたったというのが定説だ。それにしても、太平洋をぐるりと回る形で日本の対極にある地に日本人そっくりの人々がいると知って、地球は狭いと思った。
グランド・ティートンでは夏の音楽祭をしていた。指揮者は日本人だ。裏方が例のシェーン研究者である。地球は実に狭い。
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伊藤千尋の環太平洋通信20@プエルトリコ
日本は梅雨で不快だろうが、カリブ海のプエルトリコはもっと暑くて湿度が高い。日なたを五分歩くとめまいがする。六月中旬、米国領のこの島に来た。さらに小型飛で小島に飛んだ。島の名はビエケス島。四月末に米軍基地が撤退したばかりだ。沖縄と比較されるこの島の人々が、基地後をどうしようとしているのか取材したいと思った。
ここに来る前、ビエケスについて書かれた本二冊を読み、登場する市民活動家に片っ端から電話して会う約束を取り付けた。電話番号を探すのは簡単だ。インターネットでビエケスの市民運動組織のホームページを探し、そこに書かれた番号に電話したりメールを送ればいい。一人につながれば、あとは芋づる式に分かる。
反基地運動で逮捕、投獄された最後の活動家が九日に釈放されることが分かった。活動の中心だった人がこの時期、ボストンに行くという。じゃ、ボストンにも行こう。八日にはニューヨークでプエルトリコ・デーのパレードが行われる。ついでに寄ろう。こうして取材日程が決まった。
ロサンゼルスを出発した飛行機はいったんクリーブランドに降り立った。止まった飛行機の中でロサンゼルス支局に携帯電話をかけると、助手が「メキシコでパイプラインが爆発して百人くらい死傷者が出た」という。驚いている暇もない。あちこち電話を入れて取材し携帯電話で東京に記事を送ったのは、飛行機が離陸する一分前だ。
ボストンに着いてホテルに向かうタクシーの中で再び支局に電話をかけ、さっきの事故はどうなったのか聞いた。助手は「それどころじゃない。一時間前に飛行機がハリウッドのアパートに突っ込みました」と絶叫する。一瞬、ロサンゼルスに引き返そうと思った。
「死者は?テロの可能性は?」と聞いたとたん、タクシーは海底トンネルにもぐり、通話不能になった。その後の五分の長かったこと。ホテルに着くと、もはや夕刊の締め切り時間間際である。電話をかけまくり、テレビに流れる記者会見を見ながら記事を書き、東京に送った。テロでなく事故だったため、そのまま旅を続けることにした。
プエルトリコの首都サンフアンに着いて驚いたのが、冒頭で書いた猛暑だ。こんな気候の下、人は働く気になれるはずがない。プエルトリコ人といえばニューヨークで評判が悪いが、同情してしまう。
翌日、小型飛行機に乗ってビエケス島に入った。定期便だが、客は私だけ。島に着くとすぐに取材に入った。釈放された活動家がちょうどフェリーで島に着き、町の広場で出くわした。これから米軍基地前での歓迎集会に行くという。タクシーを探す時間がない。彼の父親が運転する車に乗せてもらった。基地跡には金網に沿って十字架が立ててあった。基地の被害で死んだ人々を悼んだものだ。
島の北は大西洋、南はカリブ海。南北を縦断するのに車で一〇分しかかからない。人口九千人余りの小さな共同体だ。記者、陶芸家、市長、学生、自然保護活動家など片っ端から話を聴いた。市長はかつて基地に侵入して四カ月投獄された猛者であり、町の中心にある教会の十字架の上には「平和」と書いた旗が翻る。住宅の壁に壁画が描かれ「貧しい人間とはカネを持たない人でなく、夢を持たない人である」との文字が添えてある。
早朝、海を眺めるとペリカンが急降下して魚を捕る。ペリカンの上に海鳥が飛び乗って戯れる。漁師が小舟を出す。海はエメラルド・グリーンから浅葱色そしてブルシャン・ブルーの縞模様を描く。世界でここだけの夜光虫が棲み、魚が夜光虫を全身にまとって青緑色の航跡を引いて泳ぐ。夢のような世界だ。
だが、その魚も劣化ウランによる放射能に汚染されている。島の人はその魚を食べる。基地跡は自然保護区として野生生物を絶滅から守るというが、「絶滅する野生動物って私たち島民のことかしら」と陶芸家の女性がつぶやいた。
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目の前の自然を見ただけで、人はわけもなく涙を流すものだろうか。
左に切り立った屏風のような岩壁、右にほとばしる滝、中央に球を二つに割ったような岩山。五月初め米国カリフォルニア州のヨセミテ国立公園を訪れた私は、その場に立ちつくした。
目に涙がにじむ。太古より変わらぬ地球の営みを一瞬にして悟ったような厳粛さ、一個の人間をあるがままに許容する母のような包容力を感じた。
これまで南米の南端にあるエメラルド色の氷河、北極海の荒波が押し寄せるベーリング海峡の小島、欧州の西の果て「ここに地終わり海始まる」と書かれた岬の突端、モアイ像が屹立する太平洋の孤島イースター島の丘にも立った。けれども、一瞬でこれほど心打たれたことはない。人は厳しさよりも優しさに感動するものなのか。
目の前の風景に鮮明な記憶がある。一九八四年、初めて特派員として南米に赴任する途中、たまたまのぞいたニューヨークの近代美術館に、この光景の写真が展示されていた。私は強烈な詩情を感じた。一枚の写真がこれほど人を感動させるものかと驚愕した。
掲示を見ると米国の写真家アンセル・アダムスの作品だという。初めて聞く名だった。彼は最高の一瞬を求めて険しい山道を何度も往復し、やがて「写真の詩人」と呼ばれたと書いてある。私はこのとき、天啓を感じた。
当時の私は、言葉も取材もろくにできず、特派員をやる自信などなかった。たった一人で中南米三三カ国を通訳なしで飛び回ることを考え、途方に暮れていた。
ヨセミテの写真が、私の不安を希望に変えた。そうだ、私も骨身を惜しまず現場を歩き、一人でも多くの人々と接し、事実で読者を感動させる記事を書こう。私は「新聞の詩人」になろう、と決心した。
それから一九年。初めて訪れるヨセミテの旅は、いわば巡礼である。山の麓にはアダムスの作業小屋があった。彼の汗が染みついたであろう柱を手でさすった。すぐ裏手で、七〇〇メートルを超す崖から落ちるヨセミテ滝がしぶきを上げていた。
翌日、作家スタインベックが缶詰工場で働いた町モントレーに行き、岸壁の先の海に浮かぶラッコを見ながら歩いていると突然、アダムスの仕事場に出くわした。ロサンゼルスに帰った翌日、たまたま行った美術館ではアダムスの写真展最後の日だった。
そんなとき、テレビで『シェーン』を上映した。あの名画の封切りからちょうど五〇年になる。「シェーン・カム・バック」の叫びを背に、孤独なガンマンはワイオミングの山に向けて去る。その山の形に見覚えがあった。アダムスの写真展で見たのだ。年譜をめくると彼は映画撮影の一〇年前に訪れていた。
映画を見ながら考えた。アメリカの半世紀前のヒーローはシャイで、やむなく暴力で悪漢を倒したあとは地域の平和のために静かに身を引いた。今のアメリカは力を誇示し、世界の果てまで支配の手を伸ばす。「カム・バック」でなく「ゴー・ホーム」と言われる。
アダムスは撮影だけでなく自然保護を訴え、さらに社会正義を求めて戦時中に収容された日系人や虐げられたメキシコ移民の文化に光をあてた。彼らのリベラリズムが日本に進駐した米軍に理想主義を生み、戦後民主主義の開花につながった。
戦後民主主義を具体的に示した映画『青い山脈』でヒロインを演じた杉葉子さんに出会ったのは、ヨセミテ訪問の翌週だ。テレビ番組「私だけが知っている」の収録中は妊娠していて、大きなお腹が映らないようにしていた、など聞いた。彼女は米国人と結婚し、離婚後はロサンゼルスに住み日系ホテルで二一年間、日本の伝統文化を紹介してきたという。そのホテルの前を毎日のように歩いているが、こんな有名人がいたとは気づかなかった。まだまだ修行が足りないようだ。
思えば奇妙な光景と言うしかない。イラクは爆撃で死人と瓦礫の山というのに、戦争の一方の当事者である米国内は平和そのものだ。全米第二の都市ロサンゼルスにいると、戦争している実感がまるで感じられない。
米軍がバグダッドを制圧しフセインの像が倒された四月九日も、街には何の変化も見られなかった。市民の話題にすらのぼらない。
サラリーマンはあくびをしながらビルに出入りし、夜は着飾ったカップルがレストランに車で詰めかけ、ユニバーサル・スタジオは深夜までにぎわう。テロの直後には多くの車が星条旗を掲げて走ったが、今はそんな車は見あたらない。星条旗をあしらったTシャツがスーパーの店頭に登場したが、だれも買わない。これが戦争をしている国か。
爆撃されるバグダッドの映像を米国人がテレビの生中継で見る様子は、まるで野球中継を楽しむような感覚である。野球と違って同じような映像しか流れないので、すぐに嫌になってチャンネルをスポーツ番組に変える。
攻撃する者とされる者の差がこれほどはっきりした戦争は稀有ではないか。例を挙げるなら一九八九年の米軍パナマ侵攻だ。米政府にしてみれば、従来の戦争の延長というより、「桃太郎の鬼退治」のような「悪者征伐」の感覚でしかない。
戦場に思いをはせているのは、戦地に兵士を送っている家族だけだ。だが、徴兵制のなくなった今、前線で戦う兵士の多くは職を求めて軍隊に入るしかない貧しい白人や黒人、メキシコやフィリピンなどの移民、少数民族である。彼らが死んでも一般の市民にはまるで実感がない。ここがベトナム戦争と違う。
そのような中で、戦争を少しは感じさせるのが反戦デモである。毎週末には数万人単位の大規模なデモが繰り広げられる。週日にも、街のどこかでプラカードを掲げた市民が数十人単位でパレードしている。デモをする彼らを見ていると実に楽しい。それぞれの市民が自分の持ち味をもってパフォーマンスする。ブラジルのリオデジャネイロで見たカーニバルを思い出した。
演劇家たちは真っ白な衣装をまとって踊りながら歩く、韓国系移民の鼓笛隊はにぎやかに太鼓をたたき、沿道では高校生のチアガールが「平和」と書いた赤いTシャツを着て参加者にエールを送る。
手作りのプラカードも実に凝っていて、「パニッシュ・ブッシュ(ブッシュを罰せよ)」「兵士を帰して、ブッシュを送れ」「爆弾を落とすな、ブッシュを降ろせ」など、韻を踏んだ文句や、思わず「座布団一枚」と叫びたくなる表現があちこちに見られる。
週末のデモに付き添って取材しているうちに、デモも「進化」することに気づいた。「次の選挙でブッシュに罰を」など、次期大統領選をにらんだプラカードが大量に登場するようになった。ブッシュ大統領を弾劾するよう議会に要請するはがきも配られている。デモはさまざまな反戦団体が競うように呼びかけているが、それぞれが次々に新しい戦略を考えて即実行している。
開戦後三日目に、爆撃中心の報道をするテレビ・メディアを批判するデモが起きたが、今やこれらの報道番組の広告主の商品をボイコットしようという呼びかけも現れる。次のデモでどのような表現が見られるか、まるでファッションショーで新しいトレンドを探るような好奇心を抱きながら、人々は次のデモに参加する。
デモはすっかり恒例化し、今では沿道に反戦グッズの屋台が二〇軒も並ぶようになった。「NO WAR」など胸元に書いたTシャツ、ピースマークの旗、ステッカーなどさまざまだ。
「イラク解放」というホワイトハウスの文句を聞いているうちに思った。デモに参加する米国の市民こそ、米国のストレス社会から自分を解放しているのではないか、と。
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伊藤千尋の環太平洋通信17@マイアミ
前回の通信でキューバに触れた。今回はキューバの対岸にある米国マイアミからだ。この街だけで亡命キューバ人が九〇万人も住んでいる。市長も亡命キューバ人である。
中心街から少し南西にある八番街が、通称「リトル・ハバナ」だ。大通りの両側にスペイン語の看板が並ぶ。強いキューバ・コーヒーが香り、サルサの音楽が流れる。キューバの国旗や葉巻、缶詰などを売る店がある。ん、まてよ、米国はキューバと全面禁輸の状態が四〇年続いているから、キューバの製品がここにあるわけがない。
店主に聞くと、すべてマイアミのキューバ系米国人が作ったもので、「だからキューバ製だ」という理屈だ。店主は「日本からも注文が来ている」と言って、横浜の業者の手紙を見せてくれた。日本でキューバ製品を買う方は注意すべし。実は米国製かもしれない。
米国がイラクを攻撃、というご時世になぜ亡命キューバ人の取材かと問われそうだが、それにはわけがある。
革命キューバを逃れてマイアミに来た亡命者は、いつかキューバに侵攻してカストロ政権を打倒しようと考えた。現に一九六一年には米CIAの支援でキューバに攻め込んだ。「ピッグス湾事件」と呼ばれる。あえなく敗北したが、めげることなく再度の侵攻をもくろんだ。さらに米国政府に働きかけてキューバに経済制裁したり、果敢な男たちはキューバに乗り込んで爆弾テロを行った。
その彼らが最近、キューバとの対決路線を捨て、対話路線に変わったのである。マイアミのキューバ・ロビーと言えば、ユダヤ・ロビーと並んでホワイトハウスに影響力を持つタカ派として名高い。それが突然、ハト派になった。いわばカリブ海版の「太陽政策」である。米国がイラクをならず者と称してたたきつぶそうとするちょうどその時、ひざ元のキューバをたたきつぶせと言っていた急先鋒が対話で解決しようと言い出したのだ。ブッシュ大統領にとっては寝耳に水だろう。
「マイアミ・マフィア」と呼ばれる、亡命キューバ人で最大の組織の事務所を訪れた。名高い組織だが、意外に小さな建物である。入り口に座るおじいさんは昼寝を邪魔するなといわんばかりの顔だ。事務局長と話した。「侵攻なんて言うが、どこにも武器などない。台湾にも中国に攻め込もうというクレージーなヤツがいる」「俺たちは第二次大戦中に米国にいた日系人と同じだ。もはやキューバに帰るわけじゃない。ここの暮らしに慣れたってことさ」と言う。「我々は結局、米国に見捨てられた」という言葉を「ピッグス湾事件」で侵攻した元兵士から聞いた。
だからといって何もしないわけではない。彼らはキューバの反体制勢力に資金や物資を支援しているという。私は一月にハバナを訪れて反体制派に会ったが、彼らはマイアミの勢力からはいっさい援助を受けていないと断言した。対岸を取材するとウソがばれる。
ともあれ、和平への転換は良い兆しだ。今の米国には、キューバを市場とみて交易したがる農産物、観光業者がひしめいている。タカ派が消えれば、ますますキューバとの民間交流は増す。「社会は変わっている。それに気づかないのは米国もキューバもトップだけさ」とフロリダ国際大学の教授は言った。彼自身、亡命した元キューバ人である。
マイアミの先キーウエストからキューバまで、わずか一五〇キロ。戦闘機なら五分で行ける。爆撃しようとすればイラクよりもはるかに簡単だ。それでも米国は侵攻できなかった。カストロ政権は四〇年以上にわたって持ちこたえた。なぜか。答えは簡単だ。米国は宮本武蔵と同じで、自分が傷つかずに勝てると考える戦争しかしないからだ。
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こちらヒューストン。
文字通り降ってわいたスペースシャトルの空中分解事故の取材のため、二転三転の末にアメリカ中部テキサス州の宇宙基地に飛んで来た。
事故が起きたときは寝ていた。ロサンゼルス時間では午前六時である。電話でたたき起こされてテレビをつけた。シャトルが飛び散る画像を見ていたら電話だ。科学部の記者が行けないので現地に行ってくれという。うーん、日本語で聞いてもわからない宇宙用語を英語で聞いてわかるのかと思いつつ、前から見たかった宇宙基地に行けると勇んで旅支度し、飛行機とホテルを予約した。
すべて整ったときに電話が入り、科学部の記者が行けることになったという。予約をキャンセルした。ところが二日後の午前一時に電話があり、やっぱり行くことになった。
シャトルの管制センターや宇宙飛行士の訓練所が集中するジョンソン宇宙センター。入り口にはサターン5型ロケットの実物が横たえてある。月面着陸のアポロ計画で使われたロケットで長さが一一〇メートルもある。そばを歩くと、巨大さに圧倒される。向こうには四五〇の建物が広がる。敷地はそれだけで一つの町になるほど広く、あちこち松林があり大学のキャンパスのような雰囲気だ。
それにしても、最初のシャトル事故はレーガン大統領のとき、こんどは同じ共和党のブッシュのとき。宇宙予算をけちって軍事予算に回すときに事故は起きる。事故の前日、オレゴン州では刑務所が予算不足のため食事を出せないと囚人百人以上を釈放したが、福祉や教育とともに、こんなところも軍拡のしわ寄せを受ける。宇宙部門も軍事につながる部分の予算は伸びているが、安全に関する部分はなおざりだ。
追悼式が開かれた日の夜明けは朝焼けで気温八度。メキシコ湾に面して日差しは強いが風は凍えるように冷たい。正午からの式に、ほぼ全職員の一万五千人が集まった。
ブッシュ大統領がやけにしんみりと追悼の辞を述べたが、用意した紙を見るためしばしば下を見た。ふだんの彼はまっすぐテレビの視聴者を見つめながら話す。これにはからくりがあって、テレビカメラの上に流れ出る文字を読んでいるのだ。いかにもスラスラ話すが、けっして暗記力が良いわけではないことが、こんな機会にばれる。
大統領のそばで泣き崩れる母親を抱きかかえる青年がいた。その写真が翌日のアメリカの新聞の一面を飾った。この日、その青年に会うとは思ってもみなかった。
宇宙センターの一角に観光客用の展示場がある。亡くなった宇宙飛行士の写真の前で二時間ほどねばって訪れる人に次々に話を聞いていると、向こうから声をかけてきた二人連れがいる。その一人が彼だった。驚きつつ、亡くなった父の印象など聞いた。さらに驚いたのは、これが世界的な特ダネだったことだ。事故後に遺族が単独でインタビューに答えたのは、世界で初めてだった。
思えばついていた。一月末にキューバの総選挙を取材してメキシコに戻り、飛行機を乗り換えてロサンゼルス行きの飛行機に乗ろうとしたまさにそのとき、空港が大きく揺れた。地震だ。マグニチュード七・八だった。飛行機の中でメキシコ発の記事を書き、ロスに着くと自宅から東京に送った。
キューバでは選挙のほかにヘミングウェーの旧宅を訪れた。彼が約二〇年間住み『老人と海』など書いた場所だ。ふだんは中に入れないが、館長に中を案内してもらった。執筆室は角部屋だった。旧市街にある彼の定宿の部屋も角部屋だし、彼が通った酒場の定席も角だ。文章を書くために集中が必要だったのだろうが、ノーベル賞受賞の彼も孤独だったのだと思うと、ちょっぴりこの文豪がいとおしくなった。
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伊藤千尋の環太平洋通信15@パナマ
両脇をコンクリートで固めた幅三三メートルの水路すれすれに、三万トンを超す大型客船が静かに入っていく。船のエンジンが止まった。水路の両側の線路を走る装甲車のような形の機関車が、ロープで船を曳く。やがて後ろの門が閉じ閘門の中に水が注入された。船がみるみる九メートルもせり上がる。船上の私はエレベーターに乗っているようだ。これを三度繰り返し、カリブ海からパナマ内陸のガトゥン湖に入る。湖を突っ切った後、再び三段下降して太平洋側に至った。
ここはアメリカ大陸を中央で切断し二つの海をつなげるパナマ運河。長さわずか八二キロで両洋をまたぐ。八月中旬、「地球一周」のピースボートに乗って、ニューヨークからカリブ海のジャマイカを経由し、中米コスタリカまで一〇日間、船に乗った。
客船の乗客は八〇〇人。テロとSARSでずいぶん辞退者が出たそうだが、それを乗り越えて乗船した人たちだけに元気がいい。乗船中に「テロ後のアメリカ」「カリブの海賊からカストロまで」などの講座から護身術まで一二の講義を熱心に聴いてくれた。
この運河は、グローバリズムの時代の先鞭をつけて米国が完成させたものだ。一九〇三年、当時は南米コロンビアの一画だったパナマ地域をたきつけて独立させ、直後に運河条約を結んで保護国化し、一〇年かけて運河を完成させた。米海軍の艦船と商船が両洋を短期間に行き来できるようにしたのだ。二〇世紀の米国の繁栄と海外進出は、この運河なくしては語れない。運河返還を前に軍を侵攻させて邪魔なノリエガ将軍を「拉致」したのも、運河の戦略的価値を考えればこそだった。
運河をわたる前、運河口の洋上で九時間待った。一度に一隻しかわたれないから待ち時間がかかる。運河に入ってから出るまでにまた九時間。早朝に運河口に到達した船は昼間はカリブ海で熱帯の太陽を浴び、夕刻に運河入りしてオレンジ色の明かりの中、深夜に太平洋に抜けた。運河を渡るのに通航料を取られる。船のトン数によるのだが、この船で一五〇〇万円かかったという。
ジャマイカでは、大航海時代の昔から今も残る逃亡奴隷の村を取材した。アフリカから無理やり連れて来られて強制労働をさせられた奴隷の中には、当然ながら逃亡した者もいる。ジャマイカは全島が緑の密林で、奥地に逃げた奴隷たちは自分たちの共和国をつくった。それが三〇〇年以上たつ今も存在する。彼らはマルーンと呼ばれ、今もジャマイカ政府に税金を払っていない。もっとも、私にはちゃっかり「入国税」と「案内料」と「寄付金」を要求したが。
最後に下船したコスタリカでは、元大統領が経営する山奥の熱帯雨林のバンガローに泊まった。深い霧の中、深夜に宿に着いて雨の中、バンガローまで傘をさして案内してくれた人のいいおばさんが元大統領夫人だったことを翌日知った。荷物運びのおじさんと思っていた人が、なんと元大統領だった。カウンターの中にいた従業員が彼と対等に接していたから、経営者にして元大統領だとは思いもしなかったのだ。
そのカラソ元大統領は、国連平和大学をコスタリカに誘致した人物である。木材の輸出国だったこの国が環境の大切さに気づいた一九六八年を期して「空気を輸出」するようになった経緯を語ってくれた。現金収入を求める伐採業者の圧力と経済利益の誘惑を振り払って森林保護を進めた結果、今や森が生む空気を文字通り世界に無料で輸出している。
自ら平和憲法を作り上げ環境保護大国となったこの国にも、もちろん問題はある。第三世界の貧しい農業国で人口四〇〇万足らずの小さな国に、隣のニカラグアから一〇〇万人もの大量の経済難民が押し寄せる。が、彼らを受け入れ、その子どもの教育も医療も無料で行うのがコスタリカのやり方だ。
街角で出会った市民に次々と突撃インタビューした。「軍隊のない平和憲法をいつまでも持ち続ける。私たちはどんな紛争も対話で解決する」と主婦が、学生が、ガードマンがなんの屈託もなく語った。
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内戦が終わって六年たつ中米グアテマラにいる。狭い国土に富士山より高い山がひしめき、かつて栄えたマヤ文明のピラミッドが密林にそびえる。先住民は今も極彩色の民族衣装を着て歩き、トウモロコシを引き延ばしたトルティージャのにおいが町に漂う。
のどかな光景とは裏腹に、人々は貧困と暴力に苦しむ。三六年も続いた内戦は終わったが、今も中米で最貧国だ。国民の七割がマヤ系の先住民で、うち八割が一日あたり二ドル(二四〇円)以下で暮らす極貧層である。
彼らが怠惰なのではない。かつての軍事独裁政権が銃で脅して先住民の土地を奪い、それをアメリカの多国籍企業や白人の大農園主に売った。土地を追われた先住民は農園に雇われたが、賃金は一日働いてもたった四〇〇円ほどである。前借りした生活費が高利に膨らんで返せない借金となり、奴隷のような生活を強いられている。子どもも学校に行かず働かなければ生きていけない。
社会正義を主張し人権の大切さや平等な民主主義を訴えると暗殺される。そんな前近代的な世界がここにある。土地を奪われた農民たちは大農園の未開墾地を実力で占拠した。地主は武装した民兵を雇い農民を追い出す。
同じような状況を太平洋をはさんだ別の場所で経験した。八〇年代末のフィリピンだ。私は当時、「飢餓の島」と呼ばれたフィリピンのネグロス島を取材した。アキノ政権下で「全面戦争」に突入し、農園を占拠した農民を地主の雇い兵が銃で追い払っていた。暗殺の脅迫を受けながら「だれかが行動しなくてはいけないんです」と語り住民のために活動していたNGOの二〇代の女性がいた。
同じような女性がグアテマラにもいる。内戦で夫らを殺害された女性たち一万三千人で組織した「連れ合いを奪われた女たちの会」(コナビグア)だ。首都の事務所を訪れた。襲撃を警戒して重い鉄の扉を閉ざした事務所の中には、民族衣装をまとった先住民の女性たちが集う。代表の一人フェリシアーナさんは、送りつけられた脅迫状を手にしながら「それでも私は闘います。子どもたちが安心して暮らし学べる社会のために」と語った。
この事務所には日本人の女性もいる。石川智子さん(三九歳)。観光旅行したのがきっかけでグアテマラにひかれ、先住民の問題を知って再訪した。暗殺の危険にさらされた女性たちに付き添う活動をしている。外国人がいっしょだと暗殺者も手を出しにくいのだ。単に付き添うだけだが、とても勇気のいる仕事だ。彼女がいなかったら多くの命が失われていただろう。一年で日本に帰るつもりが「自分が必要とされていることを知って」、もう九年もここにいる。
明るいニュースも聞いた。鶏肉料理を売る地元のファストフードが繁盛し、アメリカのケンタッキー・フライドチキンをグアテマラから追い出してしまったというのだ。痛快ではないか。私はチキンが嫌いなうえファストフードなど大嫌いだ。それでもともかく食べてみると、けっこう美味しい。本社を訪れ副社長と販売局長にインタビューした。
成功の秘訣は、味付けをグアテマラ人の好みに合うようにスパイシーにしたことと、「従業員が幸せでないなら客も幸せになれない」と、従業員の福利厚生に務めたことだという。つまりが全世界一律にアメリカの味で統一し従業員の首をすぐに切るという今の世界の風潮に逆らい、土地に合った味付けを工夫し従業員を大切にするということだ。これが大成功し今や逆にアメリカに進出するまでになった。全地球の一律化というコンセプトのグローバリズムに抗して地域の価値観に立脚したところが大成功したわけである。
アメリカ主導のグローバリズムをうち破るのに、これは貴重なヒントだ。一元でなく多様な価値観を主張することに未来はある、と言えようか。副社長は「五年以内にアメリカを席巻する」と豪語した。この調子で全世界からアメリカの多国籍企業を個別撃破すれば、二一世紀の流れも少しは変わるかもしれない。
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伊藤千尋の環太平洋通信@ハワイ
常夏の島ハワイは女性同士の熱い戦いのさなかにあった。一一月五日投票の州知事選。四年に一度行われる大統領選挙の間に行われるため中間選挙という。大詰めを迎えた一〇月下旬、ホノルルを訪れた。
ハワイの知事は四〇年にわたって民主党が独占してきた。これまで通り民主党が勝てばアメリカの史上初めて、日本生まれの女性が知事となる。メイジー・ヒロノさん(五四歳)だ。福島県で生まれ八歳のときに母に連れられ移民した。現職は副知事である。
ワイキキのホテルで開かれた労組の支援集会でヒロノさんに会った。いかにも聡明そうな美人だ。日本人を両親に日本で生まれたが、顔はすっかりアメリカ人の顔である。属す社会と使う言語が本来の顔を整形したのだ。
選挙事務所にインタビューを申し込むと、忙しいから歩きながら数分だけという返事だ。ところが本人の意向で本格的な単独会見になった。私は質問を二問しか用意しておらず内心焦った。正直に告げると彼女は「あはは」と笑って、私が聞きたそうなことをペラペラと勝手に話してくれた。
インタビューが終わり写真を撮ると、彼女は傍らの女性といっしょに撮ってほしいと言う。お母さんの千枝子さん(七八歳)だった。「ああ、この人が・・・」と思った。
母子ともども苦労人である。千枝子さんは福島県の獣医と結婚し子ども三人を産んだが、夫はアル中で賭け事にこり自宅に一銭も持ち帰らない。思いあまった千枝子さんは子を連れて家出し、ハワイに渡った。日本人への差別が強い戦争直後のアメリカで働きながら女手一つで子育てしたのだ。目の前の千枝子さんは物静かに笑い、外見からは苦労した人生を感じさせない。この母の背を見てヒロノさんは人一倍の努力をしたという。
千枝子さんは八〇歳に手が届きそうな今も車を自分で運転する。選挙事務所に毎日来て選挙運動を手伝う。キャンペーンのしおりは千枝子さんの発案だ。「あの子は小さいころから本が好きだったから」と言いながら「HIRONO」と書かれた三色のしおりに黙々とリボンをつけた。この人は子どものために全人生を注いできたのだと思うと、私は私の母を思いだしてジーンとした。
もう一人、日系女性について取材した。パツィー・タケモト・ミンクさん。民主党の下院議員だったが、この九月に突然、七四歳で病死した。アメリカ史上最初のアジア系女性弁護士、最初の有色人種の女性下院議員である。演説のときは「我々は信念のために闘い、闘い、闘わなくてはならない」と叫び、一生を闘うために生きたような人だった。
親は砂糖キビ畑の労働者で、少女時代は貧しさと闘った。第二次大戦中の高校時代は「敵性国民」と非難されながら生徒会長選に勝った。医大を出たが女性だからと採用を拒否され、男女差別をなくそうと弁護士、さらに政治家になった。身長一五〇センチ余りで「小さなダイナミック・レディ」と言われた。
ベトナム戦争反対を唱えて大統領選に出馬し、フランスの核実験に抗議してシラク大統領の米議会演説をボイコットした。「あきらめるな」が口癖で「いつも前向きに考え腹の底から笑っていた」と友人は思い起こす。
州葬には一〇〇〇人、前日のお別れ会には四五〇〇人が集まった。「会ったこともないけれど、闘いを恐れなかった人にお別れを言いたくて」ヒッチハイクで遠くの村から来た六九歳のおばあさんもいた。この言葉こそ、彼女への最大のはなむけだろう。最後には緑のリボンと花を手にした九〇〇人が棺を囲んで「人間の鎖」ならぬ「人間のレイ」をつくった。その長さは三六〇メートルに及んだ。
二人の女性の取材のためハワイの二日間で会った人は一二人。ワイキキのホテルに泊まりながら名高い浜辺に行く暇もなくロスに帰った。翌週にはメキシコでアジア太平洋経済協力会議(APEC)が始まるからだ。ブッシュ大統領、小泉首相・・・。貧しさからはいあがり体をはって闘う女性たちから一転して、カネと暴力を振り回して戦う男たちの取材に入った。
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伊藤千尋の環太平洋通信12@ワラワラ
名前を聞いただけで笑いそうになる町ワラワラ。米西海岸ワシントン州の山奥にある人口二万九千人の小さな町だ。先住民の言葉で「流れの速い小川」を指す。古い映画に出てくるようなレンガ造りの建物が並ぶ。西部開拓時代の家がそのまま残る。
町のすぐ南はオレゴン州だ。州境には小高い丘がなだらかな黄土色の稜線を延ばし、頂上には見渡す限り風車が連なる。その数は三九九。来年初めまでには四五〇に増える。一社としては世界最大のウインドファーム(風の農場)が完成する。
かねて私は風車に強くひかれてきた。ドン・キホーテが突進したスペインの風車、欧州最西端の岬にそびえる帆船のようなポルトガルの風車、地下から水を汲み上げるキューバの農場の揚水風車などを訪ねて回った。
世界最大と聞くと心が躍る。風車の会社に電話して取材を申し込むと、私が行く日に視察ツアーが出る計画で、その日から麓のワラワラ町の大学では自然エネルギー祭が始まるという。これぞ天の助け。喜んで訪れた。
風車は高さ五〇メートルもある。三枚羽根の回転翼は長さ二三メートル。遠目にはおもちゃのようだが、下に立つととてつもなく大きい。ウィン・ウィンと微かな回転音を出しながらゆっくり回る。真っ青な空に白い翼がまぶしい。
大学の芝生ではソーラー・システムや家庭用の風車などを展示していた。市民運動家、学者、電力会社の人々に混じって市民が説明を聞いている。
町を歩いていると、農民が作物を持ち寄る市場が開かれていた。名物のスイート・オニオンが屋台に並ぶ。詩集を売るおじさんがいた。一冊を手に取ると「米国とイスラム原理主義は根は同じ」と米政府を批判する詩が載っている。日付を見るとテロの前に出版された本だ。感心してさらにページをめくると、なんと福岡県の地名がふんだんに出てきた。作者は日本で暮らしたようだ。
作者は・・・そのおじさんだった。不動産屋のかたわら詩人であり、日本語を学ぶため福岡市で一年暮らしたという。うーん、ワラワラにはこんな人もいる。
飛行機でシアトルに飛んだ。翌日は日曜だ。新聞を見ると、イチローのマリナーズの試合がある。球場に行くとネット裏の券が売れ残っていた。席についたとたん、イチローが二塁打を放った。
シアトルから飛行機でサンフランシスコへ。途中、読んだのは人類最初の女性飛行士アメリア・イアハートの伝記だ。フェミニズムの視点から書いている。ハリウッドの古本屋で買ったものだが、表紙裏に「バーブラ・ストライサンド」の署名がある。あの著名な歌手が一度は手にした本らしい。
サンフランシスコからベイブリッジをわたってオークランドまで車で二〇分。ブッシュ政権にたった一人で反対した平和の闘士バーバラ・リー下院議員の選挙区だ。リベラル色が強いこの町で、さまざまな市民運動家に会った。夜はリー議員の顧問をしている中国系女性イン・リーさんのお宅で食事をごちそうになり、集まった女性の市民運動家六人と話した。
ワラワラで飢えていた私が黙々と食べる間、「日本からブッシュに抗議の手紙を出すべきよ」「いや、そんなことよりドイツのようにイラク攻撃反対の政権を選挙で勝たせることの方が力になるわ」など、女性たちは活発な議論を繰り広げた。
ロサンゼルスに帰った翌日は、映画俳優トム・ハンクスとの単独会見が待っている。眠い目をこすりながら同じ古本屋で買った彼の伝記を読み、二〇項目の質問を作った。
その彼へのインタビューを、つい先ほど終えた。当代の名優は「明日は子どもたちを連れて歯医者に行かなくっちゃ」と、米西海岸ワシントン州の山奥にある人口二万九千人の小さな町だ。しっかりパパをやっていた。
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8月というのに私は今、セーターの上にアノラックを着てふるえている。ここは北極圏線のほぼ直下、日付変更線の100キロ東。ベーリング海峡に面した北極海の小島、アラスカのシシュマレフ。かつてエスキモーと呼ばれてきた先住民がアザラシ、トナカイ猟などで暮らす村である。
今月初め、私は夏休みを3日だけとった。最初の日は寝て、あとの2日で10冊目の本『一人の決意が世界を変えた−特派員が見た紛争と平和』(仮題)の最後の45枚を書き上げた。やがてお盆となり同僚は休みに入った。こんな時機は自分の記事が載りやすいチャンスだ。どうせなら日頃できない取材をしたい。
思いついたのがアラスカだ。すぐに大好きな写真家の故星野道夫氏を思い浮かべた。持参した彼の本を読み直すと、この8月8日が彼の7回忌だ。星野氏が呼んでいるような気がした。
どこを取材するかは迷わず決めた。彼が20歳のとき最初にアラスカに入った地であり彼の人生の出発点となったシシュマレフだ。インターネットで情報を集めると、地球温暖化のためにこの島が消えるため村人が住民投票で村ぐるみ移住を決めたことが分かった。これはニュースだ。地球環境サミットの直前で時機もピッタリ!
ロサンゼルスからアラスカの州都アンカレッジまで飛行機で5時間半。貨物兼用機に乗り換え3時間。かつて金鉱が見つかったノームを目指すが悪天候で降りることができない。朝と夕と2回乗って、2回とも着陸できなかった。翌日、3度目でようやく着いた。
ここで50歳の魅力的な女性に会った。アラスカ大学の歴史教授で、地元紙にシシュマレフの記事を書いていた。2時間くらい話したろうか。彼女は冒険好きが高じてアラスカに来た。「人生には詩が必要だ。冒険しつつ詩の空白のように静かな時を大切にしたい」と語る。こんな人に出会えるから旅はやめられない。
翌日、小型セスナ機で50分後にシシュマレフに着いた。客は私だけ。上空から見ると砂嘴の小島に家が散在している。滑走路だけで乗客用の建物がない空港に降り立つと、青春時代の星野氏を自宅に住まわせたウェイオワナ氏がトラックで迎えに来てくれた。顔は日本人そっくりだ。
ヘラジカの角が飾ってある彼の家に入ったとたん、「いらっしゃい」と言われて驚いた。西原亜実さん(29歳)と梶田亮太君(27歳)だ。星野氏にひかれ会社を辞めて来たという。ウェイオワナ家に3カ月近く住み込み、家事をこなしつつトナカイ猟などに同行してビデオに収めている。「あとの人生なんて考えていません」と笑い飛ばす。
壁には星野氏の写真が飾ってある。「いい奴だった」と涙を流しながらウェイオワナ氏は星野氏を思い出し、アルバムから古い手紙を取り出した。星野氏が学生時代に「シシュマレフ村長様」あてに出したものだ。当時の村長が彼だった。「あのころは貧しくてミチオに食べさせるものがなくて悩んだ」と彼は言う。そんな状態でも星野氏を快く受け入れたのだ。
彼が星野氏に最初に教えた言葉は「腹が減った」「疲れた」の2語だったという。「サバイバルの言葉を知らないと、ここでは生きていけないから」と語る。
改めて手紙の消印を見ると73年とある。はてな、星野氏の本では71年となっていた。ウェイオワナ夫妻の記憶も73年だ。星野氏の記憶違いらしい。
ウェイオワナ氏とともに村を回った。その夜は彼の19歳の息子の誕生日で、トナカイの肉をごちそうになった。星野氏が最初に食べたのもこれだという。
私は雑貨屋で紹介された宿泊先に向かった。草原にポツンと置かれた貨物用コンテナの中で寝た。白夜のため午前零時すぎまで明るい。やがて嵐となった。
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夏休みシーズンが来た。私は休みを最大限にとってふだんはできない取材をするのが習慣だ。2週間ぶっ続けで夏休みをとりベトナムを訪問して本を1冊書いた。ペルーの日本大使公邸人質事件のさなか、正月休みの1週間で事件の背景を説明する本を書いた。
昨年八月に赴任して以来、9月にアメリカを襲ったテロのため正月も休めなかった。数えてみると220日間ぶっ通しで土日も休まず働いたことがわかった。うーん、この夏休みはぜったいにとるぞと思った矢先に、仕事が舞い込んだ。
「太平洋ひとりぼっち」で名高い海洋冒険家の堀江謙一さんが、40年ぶりに同じコースをたどって太平洋を横断しサンフランシスコに到着するという。こんな面白いものを逃す手はない。で、休みは吹っ飛んだ。
サンフランシスコは日差しが強いが風も強い。家の中は夏、外は冬という体感温度である。ロスから半袖で来たら震え上がった。長袖のジャケットを買って高速艇に乗り金門橋を目指した。ここが航海のゴールだ。
潮に逆らい右に左に大揺れしながら金門橋をすぎると、向こうにヨットが見えた。近寄ると小ささに驚く。海の中では船は木の葉のようなものとよく言うが、ヨットは松葉のようなものだ。堀江さんが立ち上がって手を振る。「いかがでしたかー」と叫んだら、「楽しかったでーす」と、かん高い声が返った。
桟橋に着いて横に並ぶと背の小ささに驚く。身長160センチ。うーん、この体で世界を驚かす冒険をやるんだ!もう63歳で白髪だが、表情にまったく疲れが見えない。元気で冗談も飛ばす。思ったほど日に焼けてない理由を聞くと、海上はほとんど霧で太陽の光より波しぶきを浴びていたのだという。握手した手の小ささと、握力の強さにまた驚いた。波高6メートルのときもあった68日の航海の間、この握力でヨットを操ったのだ。
なぜ冒険をするのか。「僕は考えがこどもなんです。このおもちゃが欲しいって、それだけ。自分自身の内から出る熱いものに押し流されているんです」。40年前の航海のときは。「これさえできたら、あとの人生はいらないという気持ちでした」。これからどうするのか。「結果はどうでもいい。チャレンジすることで新しい世界が見えてくる。エンドレスでチャレンジします」。そう話しながら、とにかくよく笑う。楽天性の塊だ。
うーん、この人は子どものまま大人になったんだ。普通、人は世間の荒波の中にもまれて子どものときの夢を捨てる。それを「大人になる」という。しかし、堀江さんはあとのことを考えず、目の前の夢に全力をかけた。それを続けていたら、いつの間にか最高の人生を送っていた。
人はだれも、自分の好きな人生を過ごしたいと思う。しかし、悩んだ結果に「現実的な」道を選択する。つまり夢を捨てる。夢を捨てたくないなら、話は簡単だ。悩むな!失敗したらどうしよう、などと考えるな。堀江さんのように「あとの人生はいらない」って思えばいい。
気軽に言うな、としかられるかもしれない。しかし、私自身、20歳のときにキューバに行って半年間、サトウキビを刈った。今から32年前、日本がまだ鎖国状態のときだ。当時、休学してバックパックで世界を2周した。朝日新聞に入りながら辞めて東欧のロマ(ジプシー)の幌馬車を追い求める流浪の旅もした。世界のあちこち行くのが好きで、それがそのまま仕事になった。命をかけた堀江さんとは比べものにならないが、人はだれも何歳になっても夢を追い続けている。
悩んだら、堀江さんの言葉を思い出そうではないか。そうそう、こんな言葉も。
「僕はね、週刊金曜日を創刊からずっと読んでます。ヨットハーバーにヨットを浮かべて金曜日を読むんです。ユニークだし切り口が違うし理想を求めてるし。こんな雑誌がなくなったら寂しですやん」。編集部のみなさんも夢を追い続けてくださいね。
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メキシコの首都メキシコ市の真ん中を「世界最長」のレフォルマ大通りが貫く。その中心部に独立記念塔がそびえる。頂上に立つのは黄金に輝く天使がラッパを吹く像だ。サッカーの試合でメキシコ・チームが勝つと、市民は塔の周りに集まって「メヒコ(メキシコ)、メヒコ、ラ、ラ、ラ」と、声を張り上げる。車は「プッ、プッ、プ、プ、プ」とけたたましくクラクションを鳴らす。
サッカーでのメキシコ人の騒ぎ方は普通ではない。なにせ「サッカー強国」だ。マラドーナが活躍した一九八六年のメキシコでのワールドカップを取材に訪れたが、期間中は役所も企業も学校も、ほぼ全休状態だった。いわば戦争中のような興奮状態に陥る。サッカーの怖さはそこにある。他のスポーツと違い国家の威信をかけた争いとなりがちだ。
一九六九年には中米のエルサルバドルとホンジュラスが、サッカー試合をきっかけに本当に戦争に突入した。ワールドカップの出場権をかけた試合が両国で相互に行われ、相手側の選手が来るとホテルの前で一晩中騒いで選手を眠らせない嫌がらせを行っているうちに空軍が爆撃、陸軍は越境して攻撃という事態に発展した。試合の前から領土をめぐって緊張が高まっていたが、サッカーが起爆剤となったのだ。今回もインドとパキスタンが出場して争っていたら、サッカーが核戦争につながっていたかもしれない。
しかし、今回のメキシコには熱気がない。天使の像のすぐそばの書店では、サッカーの雑誌が22も並ぶが、一般市民は「今年のチームは弱い」と冷めたものだ。時差の関係で試合が深夜になることや、ケーブルテレビの料金が高くてそもそもテレビを見られないことが響いている。
メキシコの新聞は、W杯を楽しむためには6971ペソの費用が必要だと算出した。約9万円だ。テレビを見ながら飲む地酒のテキーラやビール代も含まれているから額面通りには受け取れないが、庶民の楽しみも金次第という世の中なのだ。首都の中心部にある壮大な大統領官邸の前の広場にここ1カ月間、10万人の教師が座り込んだ。教育の民営化や教育予算の削減に抗議して全国から教師が集まった。彼らにとって「サッカーどころじゃない」のだ。
メキシコだけでなく第三世界の貧しい国でサッカーに人気が集まるのには理由がある。野球のように多くの道具はいらずボールが一つで多くが競技できるサッカーは、プロレタリアのスポーツである。貧しくて学校にも行けない人々は、社会ではい上がるためサッカー選手を目指す。庶民にとってサッカー選手は自分たちの代表と映る。だからサッカーの有名選手は国民の英雄となりうるのだ。だからサッカーは戦争につながるのだ。
目を翻して日本を見ると、日本の新聞はすべてスポーツ紙になってしまったのか、と思うくらい紙面がサッカー一色で埋まる。かつて欧州のポルトガルを取材中、こう言われた。「大航海時代に世界をまたにかけた栄光の国家が没落した元凶は3つのFだ。フットボール、ファド、ファティマ」である、と。
ファドとは、日本の演歌にあたるポルトガルの歌謡である。ファティマは地名で、マリアが現れたとの伝説で信者が詣でる。フットボールとはサッカーのことだ。要は、国民がサッカーや歌や宗教にうつつを抜かし、肝心の政治を腐敗した政治家に任せてしまうと、あっという間に国は滅びると言いたいのだ。
有事立法という名の治安維持法が国会で審議される中、お目付け役のメディアが喜々として「ニッポン、チャ、チャ、チャ」と報道する現状を見ると、ああ、この国もついに終わりかと、海の向こうからため息をつく。
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平和憲法の国コスタリカの大統領選挙を取材していて寝不足に陥った。深夜飛行で七時間不眠で赴き、一睡もせずに働いたのが始まりだ。毎日三時間くらいしか眠れない。
グッタリと疲れ切ってロサンゼルスに帰り空港を出たとたんに携帯電話が鳴った。「ベネズエラで政変が起きた。すぐ飛んでくれ」。東京のデスクからだ。今の精神状態など彼らは考えもしないだろうなあ。簡単に言うけど、ロスからベネズエラに行くにはロスから東京に行くより時間がかかるんだぜ、と内心思いつつ、明るく「OK」と答える。
とはいえ、すぐには行けない。まずは本来担当のサンパウロ支局長に電話で入国を指示した。彼は前日に東京から赴任したばかりでトランクも開けていないという。「それがどうした。特派員は三六五日、出張兼泊まり勤務だ。すぐ行け」と、こともなげに言った。私自身、こうして生きてきたからだ。直ちに現場に行ってこそ記者である。私はメキシコ、パナマを経由してベネズエラに入った。
イタリアの水の都ベニスにちなむ国名ベネズエラだが、南米でこの国ほど観光客に人気のない国はない。首都はビルが乱立し東京と同じだ。ペルーやブラジルなどにある固有の伝統文化が、ここにはない。元凶は石油だ。経済的に豊かなため、努力せずとも外見は近代国家になった。
しかし、石油に群がる人々は豊かだが、国民の大半は極貧である。俗に「王様と乞食の国」と言われる。首都の郊外の山肌には、貧しい人々の小屋が無数にへばりつく。
そのような国土で、貧者のための政治を訴えて選挙で当選したのがチャベス大統領だ。軍人の出身で以前、クーデターを起こして失敗し投獄された経験を持つ。その彼が今回は逆の立場に置かれた。部下の司令官がクーデターを起こしたのだ。しかし、事態は急転した。もともと大統領を支持する国民の方が圧倒的に多いのだ。チャベス氏は返り咲いた。
クーデターを支持した人々の多くは富裕層だった。自分さえ豊かに暮らせればいいと考える人々。人間的に卑しい彼らにとって、チャベス氏は邪魔な存在だ。
チャベス氏は確かにうさんくさい。同じく軍人出身だったパナマのノリエガ元大統領に通じるところがある。ノリエガ氏は南北アメリカの街道パナマに君臨したやくざの親分のような存在だった。だが、清水の次郎長が慕われるように、ある地域のある時代には、ワルにはワルなりの存在意義があるのだ。
米軍パナマ侵攻と同様、今回も事件の背後で米国が画策したとうわさされる。チャベス氏が幽閉されていた島の基地に米国の民間機がいたのをチャベス氏自身が目撃している。非常時の軍事基地に他国の民間機がいるなど通常はありえない。米CIAがチャベス氏を第三国に連れ去ろうとするお膳立てをしたのだと、ベネズエラでは考えられている。
そもそも反乱を起こした司令官は、米軍アメリカ学校の出身だった。米軍が親米派の軍人を養成する目的で、中南米の軍人を教育した。卒業生には独裁者やクーデターの首謀者が群れをなし、「米軍クーデター学校」「米軍虐殺学校」などと皮肉られる。
騒ぎの中で首都カラカスを歩いていると、貧しい市民が露店を並べている。その中に法律の本を専門に売る書籍の露店がいくつもあった。憲法の小冊子が何種類もある。見ていると子連れの母親が買っていった。なぜこんなものを買うのか。彼女は「だって、法律を知らないと主張できないし」と当然のようにこたえた。法律は、使ってこそ意味がある。平和憲法のコスタリカと同じ教訓を、ここでも学んだ。
豊かな国から貧しい国への援助をどうすべきか話し合おうと、国連の開発資金国際会議がメキシコで開かれた。場所は米国国境に近い工業都市モンテレイ。メキシコでここだけは水道の水が飲める!と評判の町だ。
中南米で水道の水が飲むなど、普通は狂気の沙汰だ。たちまち腹をこわすし悪くすれば肝炎にもなる。もっとも水道の水でも沸かせば大丈夫だ。ブラジルに住んでいたとき、我が家はいつも湯冷ましを飲んでいた。
会場は見本市に使われる広いホールだ。世界から集まるのはブッシュ米大統領やシラク仏首相をはじめ首脳だけで五〇人。それに外相や経済相など各国政府代表、お付きを含め総勢数千人という膨大な数だ。
我々記者団にはバスケットコートが五つ入るほどの大部屋が用意された。机の上の電源にパソコンをセットするが電気がつかない。電源に電気が来てない。さすがメキシコだ。体裁は整えるが役に立たない。
最初は首脳の演説が続いた。圧巻はキューバのカストロだった。数年で交代するような他の首脳と貫録が違う。一部の国が富み栄えるのに世界の多くの国は飢えていると数字を上げ、「これこそ真の虐殺だ」とぶち上げて「武器よさらば」と締めくくった。聞いていた記者たちから嵐のような拍手が沸く。
それで終わるかと思ったら、彼は「あと二〇秒ほしい」と言ってメッセージを読み上げた。特別な事情から今すぐ帰国しなければならなくなったという内容で、そのまま会場を去った。すわ、キューバで何か大事件が起きたか、あるいはカストロ暗殺の計画でも発覚したか、と記者たちは色めき立った。
翌日、緊急会見したキューバ代表団は、ブッシュがカストロと同席することを嫌ってメキシコ政府に圧力をかけたと非難した。メキシコ側は否定したが、真相は藪の中だ。
その米国は援助をどんどん減らしている。しかし、会議の直前に多額の援助を発表した。これが外交というものだ。いざというときに出すカネは普段以上の効果を持つ。日本は最大の援助をしているが極端に影が薄い。
ブッシュの演説はいかにも彼らしかった。米国の意向に沿う努力をしない国にはカネをやらないと明言した。高圧的そのものだ。おまけにテロの犠牲者という点を強調するから他の国は非難しにくい。
各国代表の演説でもっとも冴えなかったのが日本代表だ。外務副大臣という、ほとんど聞いたこともないポストの聞いたことのない人が最終日の閉幕寸前にやってきた。世界最大の援助国である日本の代表というのに、無内容な文を無表情に読み上げておしまい。
各国記者に日本の援助を紹介する文書を配ったが、カラーでいかにもカネがかかったとわかる。それを説明する会見がひどかった。壇上の外務省の役人二人は、会場から質問が出るたびに顔を見合わせてコソコソ秘密話をし、いかにも自信がなさそうだ。
外交官といえば合法的なうそつきだ。せめて他の国の外交官のように堂々としてほしい。見ているこちらの方が恥ずかしくなる。これで東京では、我が代表団はちゃんと記者会見をしたと報告するのだろう。彼らは上役に言い訳できるよう、体裁を整えることしか考えていない。これからは日本の外交官を「メキシコの電源」と呼ぼう。
会場に北沢洋子さんがいた。彼女の紹介でメキシコのNGO代表にインタビューした。「新自由主義は貧困の海の中に億万長者を作り出す」「北が1ドル援助すると南は6ドル返済する」。早速、記事にして送ったが、ボツ。無内容な政治家や役人の発言を紹介するより、よほど世のためになると思うのだが。
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キューバに行った。これが七度目である。
最初は一九七〇年で当時、私は大学二年生、二〇歳だった。一ドルが三六〇円で学生の海外渡航などまれな時代だが、日本とまったく違う地に行けば日本が見えると思った。だから体制も文化も違うキューバを選んだ。
国際ボランティア部隊の隊員として半年、サトウキビを刈った。炎天下の畑で全身から塩を噴きながら、相棒のキューバ人とのおしゃべりでスペイン語を覚えた。陽気なカリブの国民性にソ連型の官僚制は似合わない。労働が終わると畑の一角でサルサを踊った。
その後、新聞の中南米特派員として八〇年代に二回、ピースボートの講師として九〇年代に三回訪れた。そして二十一世紀に入って初めての懐かしき青春の地だ。
ハバナは変わった。今にも崩れそうだった旧市街の建物は修理され、パステルカラーに輝く。タクシーなど探そうにもなかったのに、今やどこを見てもタクシーだらけだ。デパートや現代的なモールがあちこちに建つ。しかも店の前に買い物客の列がない。それは新鮮な驚きだった。
というと豊かになったようだが、要はドル経済に浸食された結果である。デパートはもちろん、アイスクリームの屋台までドル払いだ。政府は通貨のペソの他に、ドルと交換できる紙幣を印刷している。はて、これは一種の偽ドルではないのか?
町を走る車の二割がハリウッド映画に出てくるような旧式の大型アメリカ車だ。一九三八年式フォードやビュイック、プリモなど、マニアが聞いたらよだれを垂らしそうな車の本物が走る。
米国の経済制裁で新車が入って来ないからポンコツを使っているだけだが、それにしても製造から半世紀以上もよく動くものだ。それには秘密がある。部品を製造するのだ。クロムを加工してどんな車種のどんな部品でもたちどころに造る専門の職人がいて「車体の魔術師」と呼ばれている。
そんなことができるのかと疑う必要はない。わが瑞穂の国の職人は四百年以上も前に、南蛮渡来の鉄砲を見よう見まねで作り上げたではないか。この工夫の精神こそ日本の、いやキューバ革命の神髄であると思われる。
革命博物館には、革命のさいにサトウキビ労働者のグループがトラクターを改造して造った装甲車が展示してある。グループの名が「ナルシスト」というから微笑ましいではないか。革命に限らずおよそ社会の変革は、ロマンチストの陶酔の美学から生まれるのだ。
車といえば革命前の独裁政権時代、ハバナの海岸沿いにあるマレコン通りはF1の舞台だった。紺碧とエメラルド色が織りなすカリブ海を横目に、スピードに燃える男が突っ走ったのだ。
今、その道をラクダバスが走る。ふたこぶラクダそっくりの形のバスだ。これもガソリン不足の中、一度に大勢を載せる輸送機関を編み出した知恵の産物である。
キューバで一番と言われる社会学者を自宅に訪ねた。五〇冊以上の著作があるのに粗末なアパート暮らしだ。よれよれのシャツを着た彼は、てらいもなく語った。
「私たちの社会主義は中国のような上意下達でも、ベトナムのような意味不明の社会主義市場経済でもない。社会主義を超えた新しい民主主義を創りあげるのだ」
かつてスペイン市民戦争を取材したさい、内戦の中に咲いたカタルーニャ・アナキズムに刮目したことがある。チップを出されたホテルのボーイが「人間の尊厳への冒涜だ」と拒んだ世界だ。
とかくこの世は生きにくい。とくに日本は生きにくい。しかし、美学を持たずして何の人生ぞ。どこにも矛盾はあるが、そこはチャチャチャの精神でケセラセラ。私はキューバの学者とコーヒーで乾杯した。
最高気温が零下5度のユタ州ソルトレークシティで冬季オリンピックを事前取材し、ロサンゼルスに帰った翌日に、最低気温が22度の米領プエルトリコに行こうとしていた。目標は、米海軍の演習場に使われている「カリブの沖縄」ビエケス島だ。(本誌390号[2001年11月30日]参照)。
昨夏の非公式な住民投票では、米軍の即時中止と施設返還を求める人々が約七割を占めた。1月25日に米政府の公式な住民投票を行われるのを機に、島民の話をじっくり聞こうと思ったのである。だが、取材のための資料集めをしているうちに、ワシントン発スペイン語の短い外電を見つけて目が点になった。「下院が住民投票の中止を決議」。ん、なんだ、これは? 日付は昨年12月12日。そのころはちょうどパールハーバー60周年の取材でハワイに言った直後で、テロ関係の取材でニューヨークに行く直前だ。忙しくてぜんぜん気づかなかった。あわててインターネットでプエルトリコのスペイン語新聞社『プリメラ・オラ』を探して電話をする。編集部につないでもらうと、出てきたのはアルバレス編集局長だ。「住民投票はなくなったよ。アメリカの議会が一方的に決めてしまった」。哀しそうな口調だが、「一方的に」という部分には力が入っていた。ともあれ、これで、当面、ビエケスに出張する理由がなくなった。この欄で熱いビエケス島の表情を書くことにしていたが、一転して寒いソルトレークシティについて記そう。
ロサンゼルスを離陸してすぐに、飛行機は富士山より高いシエラネバダ山脈を越える。スペイン語で「冠雪山脈」という意味だ。ソルトレークシティ自体も標高1340メートルの高地にある。ロッキー山脈の盆地で市のはずれにあるグレート・ソルトレークは、その名が示す通り巨大な塩湖だ。
この町はモルモン教の中心地である。キリスト教から派生した宗教だが、かつては一夫多妻制で悪名が高かった。「シャーロックホームズ」シリーズの『緋色の研究』にも出てくるから、聞いたことのある人も多いだろう。
市の中心部にはモルモン教の総本山の神殿がそびえる。見学に行くと女性の伝道師がニコニコほほ笑む。その多くが韓国人だが、日本人もいる。教祖はアメリカ人だ。あるとき目の前に天使が現れて文字が書かれた金の板を初代の教祖に授け、それを翻訳したのが『モルモン教典』だという。とことなくモーゼの十戒に似ている。そういえば神殿のステンドグラスにはユダヤ教のダビデの星が描かれていて、アメリカ生まれのユダヤ教という感じだ。グレート・ソルトレークは死海そっくりだし、ユタ州は強烈な保守の風土で共和党の牙城だし・・・。
ユタ州の人口の7割がモルモン教徒で、オリンピック組織委員会の会長ら幹部もモルモン教徒。五輪誘致のために大金が贈収賄された疑惑がある。オリンピックを宗教宣伝に利用するのではないかと、反モルモン系の地元新聞は警戒している。もっともマスコミの一番の関心は競技よりテロにある。競技場などすべてのオリンピック施設は金網に囲まれ、まるで檻の中にいるようだ。市民の三分の一がテロを予想しているという。
「平和の祭典」のはずが「恐怖の祭典」となり、テロ事件のあとだけに星条旗が翻るアメリカ礼賛の場ともなるのは確実だ。
前々から思っていたが、オリンピック表彰式では国旗など掲揚せず、勝者が好きな音楽を流せばいいと思う。だって個人の闘いではないか。国旗など揚げるから国威発揚の場になる。「イマジン」とか「ウィ・シャル・オーバーカム」、あるいは自分で作曲した曲、さらには勝者には表彰台上でカラオケで歌う権利を与えればいいと思うのだが・・・。
60年前も、そっくり同じだったという。強い貿易風が吹きつけ、ワイキキの浜辺の東にそびえる岩山ダイヤモンドヘッドから太陽が、真っ青な空を後光のように照らした。12月7日午前7時55分。
パールハーバーに沈没した戦艦アリゾナの艦上につくられた記念館で、真珠湾攻撃60周年記念式典が行われた。攻撃から生き残った元兵士ら100人が黙とうした。その1人ディック・フィスクさん(79)は、60年前のこの瞬間を覚えている。
戦艦のラッパ手だったフィスクさんは午前4時に起き、5時半に起床ラッパを吹いた。8時に行われる国旗掲揚のためラッパを口にあてたとき、飛行機の大編隊が見えた。自分の船に向かう魚雷も見えた。それでも味方の訓練だと信じていた。飛行機は真正面から来たので翼のマークが見えなかった。
魚雷が命中した瞬間、体は右舷から左舷まで吹き飛ばされた。ラッパのマウスピースだけが指に残った。艦橋に登ると黒煙が周囲を包んだ。?歯ェ後、隣に停泊していた戦艦アリゾナが大音響を上げて爆発した。以後3日間、耳が聞こえなかった。1時間後、退船命令が出た。火の海に飛び込んだ。その後の3カ月間は、ハワイが間もなく日本軍に占領されると本気で思った。
……という話を本人から聞くと、パールハーバーでアメリカ人が受けた衝撃を実感する。当時の彼らは、天地がひっくり返ったほど驚愕したのだ。
しかし、それから60年後の式典では勇ましい言葉が続いた。「見よ、60年後の今、正義は下された。アメリカは世界1の大国になった」(何が正義だ、と私は思いながら聴いていた)。「人民の人民による人民のための政府、自由と民主主義を我々は享受している」(おやおやリンカーンまで動員したぞ)。「今や親密な同盟国となった日本と共に、再び自由のために戦うときだ」(この一言のために小泉首相は自衛隊を動かた!)。
だれの演説にも必ず現れたのは、「自由」という一言だ。それを聴きながら、私は思った。人々の自由を奪うイスラム原理主義も怖いが、もっと怖いのは自由を押しつけるアメリカ原理主義ではないか、と。
アメリカほど神を異常に信じる現代国家はない。大統領の演説には必ず「神のご加護」が出る。国民は「ゴッド・ブレス・アメリカ」と歌う。1ドル札には神の目が描かれる。合理性を重んじる一方で、神のためには信じられない非合理的なこともやる。禁酒法を制定して失敗したのは昔だが、「学校で進化論を教えるな」という地区はいまだにある。
国を挙げての信心に、信念としての自由主義を加えたことが、揺るぎないアメリカ原理主義をうち立てたのではないか。
その得意技は、相手を怒らせては一発くらい、大義名分を得て復しゅうするという「リメンバー方式」だ。祖国は理不尽にも攻撃された。戦おう、自由のために。我らには神がついている。人種雑多な国民だが、この方式を採用すれば苦もなく一致団結する。
しかし、アメリカ原理主義に基づいた現職の軍人のアジ演説よりも、フィスクさんの反応の方がはるかに私の心を打った。彼は式典の最後に、真珠湾を攻撃した元日本兵、東京都の阿部善次さんとともに壇上に立った。フィスクさんは「敵だった私たちは戦後、懸命に友だちの関係を作り上げてきた」と語り、阿部さんは「互いに知らなかったから戦争もした。知り合うことが大切だ」と訴えた。
7日の式に動員されたのは5千人。しかし、2日後に同じ場所で行われたホノルル・マラソンに自発的にやってきたのは2万人。アメリカ人だって陽気な方がいいに違いない。
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上空から見る夜のニカラグアの首都マナグアは、まぶしく輝いていた。11年前までの内戦中は貧しさと停電のため、真っ暗だったが。
この国では、サンディニスタ民族解放戦線が1979年に独裁政権を倒したのち、90年まで内戦が続いた。
12年ぶりにマナグアを訪れ、その変貌ぶりに驚いた。豪華なショッピングセンターやマクドナルドの看板など、以前は夢だったものが目の前にある。内戦中は街にあふれていた完全武装の兵士の姿が今は見えない。
かなった夢もあれば、消えた夢もある。「内戦中の方が暮らしは良かった」と語るのはタクシー運転手。戦争が終わって軍人が失職し、ゲリラや難民が町に戻ったが、その数に見合う仕事がないため、失業者は5割を超える。月収が300ドル以下の貧困層は平和になってむしろ増え、国民の7割を占める。
炎天下の大通りで、水を入れた重いビニール袋を肩に担いで売る10歳の少年がいた。生活費を稼ぐため、通学せずに働いているのだ。内戦が最も激しい時でさえ、子どもは学校に通っていたのに。
今も思い出す。内戦中、野砲が轟く前線地帯で12歳の少年兵に会った。明日をも知れない身なのに、彼は「将来は海洋生物学者になりたい」と夢を語った。革命政権を守ろうと1年の半分を志願して戦場で戦い、半分を学校で学んでいた。あの子の目の輝きは、今のニカラグアには無い。
街には「愛は憎しみより強し」と書いたピンク色の横断幕がかかる。11月4日に行われた大統領選で左派サンディニスタが掲げたスローガンだ。内戦当時の「自由な祖国か死か」と唱えていた姿を思うと首をひねる。かつて緑の軍服だったオルテガ元大統領はピンクのシャツで選挙に臨み、米国との友好を強調した。まるでカメレオンだ(結局落選したが)。弟のウンベルト・オルテガ元国防相は、革命家から資本家に転身した。今や航空会社のオーナーである。企業家となった元左翼の闘士は多く、「サンディニスタ財閥」と呼ばれる。
しかし、変身を堕落と批判する声は意外に少ない。左派の政治評論家オスカルレネ・バルガス氏は「世界は変わった。サンディニスタも変わるのが自然だ」という。
選挙監視員の中に、何度もインタビューした懐かしい顔を見つけた。ノーベル平和賞を受賞したアリアス元コスタリカ大統領だ。彼は「内戦後、選挙の回を追う毎に民主主義が進展した」と評価する。
もともとサンディニスタは左翼イデオロギー型の政党ではない。貧困の撲滅と社会正義を求める素朴な社会運動組織で、独裁者に弾圧されたために武装化したのだ。党の重鎮ボルヘ元内相は戦争中、「中南米の問題は唯一、飢えだ」と語っていた。しかし、今は違う。米国流の新自由主義がはびこり、強い者が弱い者を切り捨てる社会となった。あの誇り高かったサンディニスタの主張も変わり、理想の社会を目指す気高さは失せた。
変わらないのは米国だ。内戦中の右派ゲリラは米国が組織して援助したものだったが、今回の選挙でも露骨な干渉をした。右派の分裂を避けようと、保守派の有力者を米国の下院議員が説得して候補から降ろしたり、左派が当選すれば米国の援助はこないぞと、大使や米国の知事が公言したりしたのだ。
このような環境で左派が変貌するのを非難するのは酷かもしれない。ニカラグアよりさらに米国に近いメキシコには、こんな言葉がある。「メキシコの悲劇は天国からあまりに遠く、米国にあまりに近いことだ」と。
それを思うと、米国からわずか150キロのキューバに、平等をうたう革命政権が40年も存在するのは、驚異的な現象なのだ。
サンフランシスコ市の中心部から郊外電車に乗って八つ目の駅に到着するとバークリー市に入る。日本では前はバークレーと呼ばれたが、今は現地の発音に近づけてこう呼ぶ。駅のすぐそばに広大なキャンパスがある。カリフォルニア大学バークリー校だ。六十年代にはベトナム反戦運動で、七十年代には対抗文化(カウンター・カルチャー)の中心として名をはせた。今はアフガニスタン空爆に反対する全米の平和運動の中心地となっている。校門というほどの門はなく、通りからそのままキャンパスが続く。だれでも自由に入ってけっこうという精神だ。学生の顔はさまざま。世界のあらゆる地域から若者が集まっている。地球の縮図のような大学だ。
ここで開かれた空爆反対の集会に行くと、軍事解決派の学生たちも星条旗をもって参加していた。彼らはときおり「USA、USA」と声を張り上げる。しかし、司会の学生が「静かに意見を聞こう」と呼びかけると静まった。主催者側も反対派を排除しないし、反対派も意見を聴く。なるほど、こうして民主主義は育つのか、と関心した。
学生会館の売店で校章を描いたマウスパッドを売っていた。星が本を照らす絵の下に「LET THERE BE LIGHT(光あれ)」と書いてある。旧約聖書の「創世記」の冒頭にある神の言葉だ。知識がなければ何も見えないのと同じだという意味をこめているのだろう。
バークリーの市議会は学生以上にすごい。なんと米政府の空爆を非難する決議を全米で初めて採択したのだ。「正義は軍事力でなく法でもたらされるべきだ」という決議案だ。ある議員は「私たちが非暴力による解決を支持できないなら、いつ、どこで、いかなる政府がやれるというのか」と説いた。この日、全米の世論調査で空爆賛成が九二%という数字が出た。こんな中で地方の一議会が敢然と反対の意思表示をしたのだ。痛快だ。
・・・・・という記事を夜中の三時(日本時間では翌日の一九時に書いて日本に送ったのだが、一部の地域にしか載らなかった。空爆や炭疽菌などは大きく取り上げられるが、平和の動きに関する報道は小さくなりがちだ。着任からこれまでの二カ月近くに百二十九本の記事を送ったが、載ったのは九三本。打率七割強だ。
バークリーは、米連邦議会にたった一人で反旗を翻した平和解決派の女性議員バーバラ・リー議員(384号[10月19日]19ページ参照)の地元だ。市議会は彼女の行動を支持する決議を満場一致で行った。女性といえば、バークリーの市長も女性である。市議は八人いるが、うち七人が女性だ。ウーン、平和と子どもは女性からしか生まれないのか。
このところ米国の社会はビクビクしている。支局の助手も間違った宛先の手紙が届いたといって神経質になり、炭疽菌に感染したのではないかと数日おびえていた。白い粉など入っていないのにこの調子だ。
あれほど自信過剰で他人を見下すような態度を示していた米国人が、見るからに自信をなくして縮こまっている。取材の相手の多くは自信過剰な人々だから、私などこれまでは構えていたが、今なら自然に接することができる。英語を勉強したい人にも今はチャンスかもしれない。コンプレックスなどもたなくて済む。
国旗を掲げて町を通る車が目立つが、これも無理に強がっているにすぎない。過剰な報道のせいで、町中の車が旗を掲げているように思われているが、とんでもない。ロサンゼルスの中心部の交差点の二カ所で数えたら、通りかかった百台のうち一カ所目は十台、次は七台だった。せいぜい一割にすぎない。
大事件のときは誇張した報道が氾濫するが、読み手はさらに誇張して信じがちだ。情報に接するときも、「光あれ」をくれぐれも念頭に。
9月1日付けで、『朝日新聞』のロサンゼルス支局長になった。9月11日の朝、テレビをつけるとニューヨークのビルが燃えていた。ロスの中心街は、まるでゴーストタウンだ。大半の会社は臨時休業となり、市民はロスの中心街がテロに合うことを恐れて近寄らない。その後は、日を追って愛国主義が蔓延した。星条旗をつけた車が走り、ビルには大きな星条旗がたなびく。赤十字の本部を訪れると、「献血しなきゃアメリカ人じゃないわ」とメキシコ系の大学生が語った。ブッシュ大統領は、あれだけ孤立主義とアメリカ至上主義をまくしたてていたのに、今やテロで世界の協調を説く。都合が悪くなるとみんな一緒になろうと主張する。いい気なもんだ。心配されたイスラム系やアラブ系の人々への迫害も早速、始まった。
それでも感心するのは、テレビで市民参加の討論番組が頻繁に開かれ、こうした暴力はいけないという主張に元軍人たちも拍手をおくることだ。また、アフガニスタンへの武力報復が叫ばれるなか、たった1人で敢然と反対した女性議員もいた。これらをひっくるめてアメリカなのだ。だから面白い。
そのロサンゼルス支局は、世界でもっとも広範囲な地域を受け持つ支局だ。北はアラスカから南はパナマ運河、東はキューバから西はハワイ、グアムまで。北太平洋から北米大陸の西、中米、カリブ海の全域、地球の面積の5分の1と言われる地域をカバーする。だが、支局員は私だけ。あとは日系人の助手が1人だけだ。
そもそも、着任当時から大変に忙しかった。8月27日に成田を出発し、10時間飛行機に乗ったが、時差のため同日にロスに着いた。その日のうちに住民登録をして前任者と引き継ぎし、翌日は早くも初出張。飛行機に5時間乗ってハワイへ。実習船えひめ丸の引き揚げ作業を取材するためである。ハワイと日本との時差は19時間であるから、ハワイの明け方が日本の朝刊の締め切り時間だ。寝られない日々が続く。
まずは現場を見ようと、ヘリコプターをチャーターして作業現場を洋上から見た。電話で聞いたチャーター料がいやに安いと気になっていたが、飛行場に行くと、まるで蚊トンボのような2人乗りの小型ヘリが置いてある。操縦士と身を寄せ合う狭さで、おまけに足元が丸見えだ。高所恐怖症の人なら気絶しそうな代物である。離陸すると強い貿易風に流され、海上をよたよたした。こんなときは怖がる前に楽しむことだ。眼下にエメラルド色の海を見ることができてなんと幸せなことか、と無理やり自分に言い聞かせる。
こうした日々が4日過ぎ、またロスに戻った。まずは家探しだが、今は探す時間も惜しい。タクシーの窓から入居者募集中のアパートを見て即交渉し、これに決めた。
ロス中心部の西の端であるこの一帯では、英語を耳にしない。ホテルの従業員はメキシコからの移民でスペイン語を話し、タクシー運転手はエチオピア人だ。韓国人街は数キロに渡ってハングルの看板が続く。その韓国系のホテルに泊まって支局に通う日々が4日続き、またもやハワイに戻る。
空港に着くとロスの助手から携帯電話が。引き揚げ作業の失敗を米海軍が発表したという。荷物の受け取り口で他の客が怪訝な表情を見せる中、頭の中で組み立てた記事を東京本社に電話で吹き込んだ。(これを新聞業界用語で「勧進帳」という。武蔵坊弁慶が安宅の関で白紙の巻物を読み上げる名シーンのある歌舞伎「勧進帳」に由来する)。という調子の毎日で、落ち着くことは最後までなさそうだ。今後も太平洋各地を歩き回りながら米州地域の神髄を伝えていきたい。
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