小笠原諸島地名事典 Place Names |
小笠原諸島の地名(島名を含む。)は、日本列島のそれとは大きく異なり、次の特徴を持つ。1830年まで定住者がいなかったことから近世における命名であること。日本領土となる以前からの欧米系とハワイ太平洋人からなる先住移民の命名があること。日本の領有を確たる物にするため、官名の地名が多いこと。日本からは八丈島の移住者が多く、その影響があること。よって、言語としては、日本語、英語を主とする欧米語、ハワイ語を主とする太平洋諸語からなる。
地名は様々な文化の混在した島の歴史を土地に刻み込んでいる。 地名は、無形の文化財である。これを保全し継承することは現代人の努めであろう。 凡例:地名、読み方、別称、所在地、説明の順。 延島冬生(2000.08.06) 無断転載禁止 |
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| 小笠原諸島地名事典 |
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20 おきのとりしま 沖ノ鳥島 おきのとりしま 沖の鳥島 オキトリ ダグラス "Mel Abrigo" "Abre Ojos" "Parece Vela" "Douglas Reef" "Engelsbroogte" 小笠原諸島最南端の孤島の島名。N20°25′E136°04′(一等三角点の位置)。東京から約1700km南南西、父島から約900km南西にある。一番近い本土は九州南端である。東西約5km、南北約1.6km、周囲約11km西端が細く、東端が広い茄子形のサンゴ礁からなる環礁。九州・パラオ海嶺上にあり、小笠原群島、火山列島とも島の生成は異なる。環礁内部に現在2個の露出岩がある。1.1m高程度*1。1970年代「北露岩」、「東露岩」と呼ばれていたが、近年「北小島」、「東小島」と呼ばれるようになった。露岩の消滅を防ぐ工事が1989年に完了した。 【命名】1931年内務省告示第163号により沖ノ鳥島と命名される。 【異称】 Parece Vela パレセヴェラ 帆を巻き収めよの意 イスパニア人による発見、命名*2。 Douglas Reef ダグラスリーフ 1789年イギリスのキャプテンダグラスが見たことによる*2。 Engelsbroogte エンヘルスブローホテ エンヘルスは浅瀬の意 1639年オランダのクワストとタスマンが見つけ命名したが、通用しなかった*2。 Mel Abrigo,Abre Ojos 1543年スペイン軍艦サン・ファン号が発見命名、後者アブレ・オプスは目を開けの意。この発見説には異論もあるという*3。 オキトリ 沖鳥 沖ノ鳥島の略称、この周辺を知る漁師による呼称*3。 ダグラス ダグラスリーフの略称、この周辺を知る漁師による呼称*3。 沖の鳥島 「沖ノ鳥島」の表記が正しいが、あまり意識されないで「ノ」が「の」と表記されることも多い*3,4。 《所在地》東京都小笠原村沖ノ鳥島 {領有}1931年7月6日付内務省告示第163号は、沖ノ鳥島という島名の命名と東京府小笠原支庁への所属を決定したもので、既に日本領土であることを前提としている。内務省告示により領有したという見解は適当ではない。 *1 建設省関東地方建設局京浜工事事務所(1994)沖ノ鳥島災害復旧工事誌 *2 秋岡武次郎(1971)日本地図作成史 *3 佐藤孫七(‥)沖の鳥島及び周囲漁場等の発見開拓の経緯の概要とその雑感(1) *4 高橋 実(1988)波間に浮かぶ沖の鳥島に潜る ラメール72(20061223) 19 はつねむら 初寝村 はつねむら 小笠原諸島聟島列島聟島[むこじま]の地名。聟島中部中央、海岸に面したところ。今は使われていない。旧字名「小笠原島父島附属聟島字初寝村」があった。「昔時米人「アーレン」ナル者此地ヲ占領シ耕墾ヲ力メシカ捨テ更ニ父島奥村ニ移住セリ」*とある。幕末、咸臨丸による幕府の巡検時は無人島であったようで、その後先住移民が住んだが再び無人島となり、明治政府の管掌後、小笠原出張所の小花作助が調査し、後日本人開拓者が住み始めた。岩崎亀五郎は、聟島の開拓者で奥に墓碑がある。 「初寝浦」という地名が父島には既にあったので、混同を避け「初寝村」としたのであろう。「初寝」は、小笠原諸島特有の開拓地名である。 * 小笠原島誌纂 18 ねこすてば 猫捨て場 ねこすてば 小笠原諸島父島中部西側の地名。扇浦[おうぎうら]海岸の北端のあたりを指していた。戦前、猫の処分をするのに、このあたりから、袋詰めにし重石をつけて海に投げ入れていたので、こう呼ばれていたという。猫は小笠原諸島には、先住移民が既に連れてきたと思われる。鼠は元々島にはいなかったが、難破船、寄港した捕鯨船などから入ったのであろう。鼠による食料*、砂糖黍やトウモロコシなどの農作物を守るため、犬とともに欠かせない家畜として既に飼われていた。ペットとしての意味も多少はあったであろうが家畜の要素が大きい。猫は直ぐに野生化していたようである*2。この当時鼠は熊鼠、二十日鼠、ドブ鼠が既に侵入していたと考えられる*3。日本領土となり、本土から大挙日本人が移住し、本格的農業、漁業を行うとともに、やはり犬猫は欠かせない家畜として飼われるとともに猫の野良化、野生化には手を焼いていたようである。こうした状況を背景に、人間には必要だが増えても困るという事情により、猫を捨て処分する場所が出来たと思われる。 * 「土人室内ノ図」(『小笠原嶋誌附録図』(内閣文庫)国立公文書館蔵、母島ロース記念館展示)には、家屋の窓に山羊か豚の肉を吊るしている様子が描かれている。鼠や蟻、野良猫から守るためと思われる。 *2 「野猫」(『小笠原嶋誌附録図』(内閣文庫)国立公文書館蔵)には、黒のトラ2匹と三毛猫の雑種1匹が描かれている。西洋種起源か。 *3 小花作之助(文久元年)『小笠原島風土略記』に「水鼠、■〔鼠偏二奚〕鼠(ハツカネズミ」とあり、前者はドブ鼠と推測される。また、当時クマネズミがまだ侵入していないとは考えにくい。(20051226) 17 かいつね 海通根 快通根 かいつね 母島列島の属島、向島[むこうじま]東側、オービーチ(石浜[いしはま])の南に海通鼻[かいつはな]という小岬があり、その南東約400mにある暗礁。 水深4.5m。ここに船の舵をぶつけたという明治期の船、海通丸の名が付けられている(*)。根は、「海中の礁。主として暗礁をいうようである。」(*1)が、小 笠原諸島では色々な意味で使われ、ここでは海面下の暗礁を指している。海上岩(例:裏高根)や、通常波に洗われる洗岩(例:平助浅根)を指す場合もある (*2)。「海通」の文字が当てられているが、帆船 「快通丸」に基づく快通根が基になったと思われる。向島の南東に停泊する船舶に「快通丸」と記されている絵図がある(*3)。この快通丸は、東京快通商会所有船「第四快通丸」のようで、ビスマーク諸島と内地との交易に使われており、南鳥島を開拓した水谷新六も関わりがあったようである。 * 延島冬生(1982)母島属島の地名(草稿) *1 松永美吉(1994)民俗地名語彙事典(下) *2 延島冬生(1982)沖村の地名(草稿) *3 北澤正誠(1893?)(仮題)小笠原諸島図(小笠原村教育委員会蔵)(2005-06-07) 16 すさき 洲崎 すさき すざき 父島中部西側の地名。父島字洲崎。二見湾[ふたみわん]口南の野羊山[やぎやま]の南に続く平地。自動車免許臨時試験場、コンクリート再生工場等があり、道路の南には残土捨場が小高い丘を造っている。戦前旧海軍飛行場が造られた跡地で、その際、洲崎と野羊山の間が埋め立てられ、陸続きになった。それ以前の洲崎は「この真白い砂浜は、陸地の濃い緑と青い透明な海との間にあって、情熱的にまぶしく映え、島にとって欠かすことのできない素晴らしい存在であった。」*。それ故か、大正末期上映の映画『極楽島の女王』のロケーションが行われた*1。洲崎は、砂浜の海岸だった。 延宝年間幕府巡検の際、嶋谷市左衛門は「ス崎村」と、幕末文久年間の巡検時に「洲崎村 古名なり」と命名した*2。 「すさき」と濁らないものが、最近は「すざき」と呼ばれることが多くなった。 Blossom Beach ブロッサムビーチ 先住移民による洲崎の呼称*3。1827年キャプテンビーチーが父島を探検した時の軍艦名によると思われる。 Clarkson’s クラークソンズ 先住移民による洲崎の呼称。 Chief Village チーフウィルレージ 当時住んでいた英国系先住移民による洲崎の呼称。 Little Village リルビリッジ 欧米系島民に伝えられる洲崎の別称。 * 天野安秀(1995)「失われた洲崎を偲んで」小笠原No.129 小笠原協会 *1 浅沼 陽(1974)「小笠原父島で映画撮影の思い出」小笠原No.45 小笠原協会 *2 坂田諸遠編(1874)「小笠原島風土略記」『小笠原島記事』18 *3 Cholmondeley,L,B(1915)The History of the Bonin Islands 参考 延島冬生(1998)「小笠原諸島・父島における先住移民関係の地名(1)」太平洋学会誌No.80/81 (2004-12-12) 15 いおうとう 硫黄島 いおうとう いおうじま Sulphur Island(サルファーアイランド) 中硫黄島 小笠原諸島中、小笠原群島の南に位置する火山列島(硫黄列島ともいう。)の中央に位置する島。硫黄島は、「1779年クック亡きあとのイギリスの探検船(略)の指揮者ゴア Cap. John Gore によるもの」(*)で、「その外見と強い硫黄の匂いとによって…Sulphur Islandとなづけた」(*2)ものの翻訳である。幕末には既にその存在は知られていたようで、文久年間の幕府の小笠原巡検においても「中島 サルファ島 即硫黄島」(*3)とある。当時「いおうじま」と呼んだと思われる。1891(明治24)年9月10日「小笠原島南々西の無人島を硫黄島と命名する旨公布(勅令)」(*4)された。このとき、どう呼んだか不明だが「いおうじま」とルビをつけた新聞もあった。しかし、小笠原諸島では開拓者達は「いおうとう」と呼び、「いおうとう」は硫黄島の呼び方として定着し、学校名も「硫黄とう大正尋常高等小学校であり、硫黄とう拓殖製糖株式会社であった筈である」(*5)。硫黄島旧島民は、「いおうとう」と呼んでいた。しかし、「いおうじま」と回答しているものもある(*7)。旧陸海軍は「いおうとう」を使い、「戦争当時に呼称されていた島名である「硫黄島(いおうとう)」」(*8)を書名にした本もある。戦前命名された動植物には「イオウトウアジサイ」、「イオウトウウグイス」などがあり(*10)、「いおうとう」は、広く呼ばれていたと思われる。 米国は太平洋戦争中から“Iwo Jima”と表記し、Iwo Jimaを今日でも使っている。国土地理院1/5万分地形図は、1968年返還直後は「いおうとう」であったが、その後の版では「いおうじま」に変更、決定している(*11)。「いおうじま」は、現在では公式名称となっている。小笠原村役場は「いおうじま」を認めているようであるが、「いおうとう」も使っている(*9)。米国がIwo Jimaの呼称を使ったのは、旧海軍水路部作製海図のローマ字表記に基づくと思われる。 ちなみに、鹿児島県硫黄島は、「いおうしま」である。 中硫黄島(なかいおうとう)は、「外来者が混雑を避ける為の便宜上の名称」(*6)で、南硫黄島、北硫黄島と対比するときには現在も使われることがあるが、硫黄島旧島民は使わない。 * 貝塚爽平他(1982)「硫黄島の地形と地質」東京都;小笠原自然環境現況調査報告書(3) *2 貝塚爽平(1988)硫黄島の近年の地学研究と1779年の記録 小笠原研究年報11 *3 服部帰一(1861)南嶋航海日記 *4 岩波書店編集部編(1984)近代日本総合年表第2版 *5 硫黄島同窓会(1982)戦前の硫黄島・現在の硫黄島 会報2 *6 本間不二男(1925)硫黄島地質見聞記 *7 東京府小笠原支庁(1935)地名調書 *8 武市銀冶郎(2001)硫黄島(いおうとう) *9 日本離島センター編(1998)日本の島ガイドSHIMADAS(シマダス) *10 延島冬生(1997)無人島はぶにん島か、むにん島か 小笠原研究年報20 *11 建設省国土地理院地図管理部(1981)標準地名集(自然地名)増補改訂版 14.くらち くらちやま ぢくらち おきくらち くらちおき くだっち 小笠原群島中部、父島列島最北端の島、孫島[まごじま]北方2海里ほど、嫁島[よめじま]南方の海上の地名。潮目で、南北に流れ北に下げる潮は早いといい、ハロウ、レンコダイ、タカベ等が釣れる漁場という。 「くらち」、「くらちやま」はこのあたりの総称で、「ぢくらち」、「おきくらち」は地、沖という父島からみた近い遠いを意味し*、「くらちおき」は「おきくらち」と同意語と思われる。母島列島北端に「地ノ碆」[じのはえ]、「沖ノ碆」[おきのはえ]がある**,*2。 「くらちやま」の「やま」は山か、海底地形から呼んだかは疑問があり、漁場を意味したと思われる。漁場名は「やまてを止める」ことから生じたと思われる。小笠原諸島で「やまて」と称されている「やまあて」は、「山を目標として海上での船位を測定する方法」*3である。 「くらち」は元々は「くだっち」と呼んだという旧島民漁師もおり、いずれにしても語源は不明。 なお、今は、GPS等で漁場を特定、記録しており、戦前から伝えられる海上地名が使われることはほとんどないという。 * 楠原佑介・溝手理太郎編著(1983)地名用語語源辞典 ** 国土地理院 地形図閲覧サービス(試験公開)39427195 : 1/25,000地形図:母島北部(延伸西北西) http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-ef.cgi?mesh=39427195 *2 延島冬生(1982)北村の地名(草稿)私家版 *3 松永美吉(1994)民俗地名語彙事典(下),谷川健一編:日本民俗文化資料集成14 (2004.02.29) 13.よめじま 嫁島 よめじま 榮次ガ島 えいじがしま 小笠原群島北部の聟島[むこじま]列島の中央の島。父島の北約50kmにあり、面積0.85m2、最高点105m、三角点(66.9m)が別にある。比較的平坦な島で、南北に長く西側がくびれ、海浜がある。島の東西に前島[まえしま]、後島[うしろしま]がある。 1827年イギリス軍艦ブロッサム号で来航した艦長ビーチ―(F.W.Beechey)は聟島列島をParry's Group、嫁島[よめじま]に王立協会副会長のキャプテン・ケーターの名にちなんでケーター島と命名、又部下がアセス・イヤーズ(山羊の耳)と命名した。ペリーの『日本遠征記』にもビーチ―作成の海図が掲載されており、嫁島にKater Id.とEarsの注記がある。明治初期、洋名では不都合とし、ペレスグルップを聟島、ケーター島を嫁島と命名した。しかし、父島では誤解や誤用されたりして、聟島をケーター島と解したようで、戦前の地図に〈聟島(ケーター島)〉と注記がされた。返還後の地図もそれを継承し、今日に至る。 先住移民のウイリアム・アレンは、5年間ほど住んでいたという。 戦前、行政は父島の大村に属した。 榮次ガ島 えいじがしま 嫁島の別称。欧米系、旧島民に呼ばれていた。明治12年西濱榮次の釣船が兄島から暴風で漂着、生還したのでこの名があるという。 (2003.10.25) |
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12.きたふくろざわ 北袋沢 北袋澤 きたふくろざわ 父島南部、内陸部の地名。父島字北袋沢。中山峠[なかやまとうげ]の尾根が東西に走り、南北にそれぞれ、西流して海に注ぐ谷を形作っている。幕末文久年間の巡検隊が北の谷を北袋澤、南を南袋澤と一対で命名した(*)。 命名の由来は、「袋澤村ハ扇村ノ南ニ在リ三面山ヲ帯ヒ西纔ニ海ニ面シ地勢袋ノ如シ」(*1)と地形による。「河口はふつう砂丘によってふさがれており、海とは地下を通してつながるのみである」(*2)という最近の現象からの地名解釈は適当ではない。命名時は、冬の雨季で雨量も返還後より多く、川は改修後の現流路と異なり海岸に並行して海に注ぎ、河口は閉塞していなかったと思われる。今も多雨時には元の流路に戻り、平坦にした砂浜を削る現象が起きる。 * 「小笠原島風土略記」*1「小笠原島視察復命書」 *2 清水善和「小笠原自然年代記」(20030616) 11.あらわれとうげ 現峠 現嶺 顕レ峠 あらわれとうげ 父島南部、内陸部の地名。父島字扇浦[おうぎうら]・小曲[こまがり]。扇浦から北袋澤への旧道(亜熱帯農業センター本館南脇〜小曲〜七曲)上を指す。明治10年代に出現(*)。範囲は、農業センター本館脇〜小曲を含む広い場合と急な登り坂の上を指す場合がある。いずれも峠という山の鞍部を意味せず、急坂上か急坂上の丘陵を指す。峠らしくない地名である。命名の由来は「扇浦から、リュウゼツランのみごとに立ちならぶ赤土道をのぼり、アラワレ峠で二見湾をうしろに見送って」(*2)と、急坂をあえいで登り少し傾斜が緩やかになり一息つくと、周りが開け振返ると二見湾がよく見えたからであろう(*3)。*現嶺 地図注記:小笠原島書類綴明治13年度14年度課別第1種 都公文書館蔵,*2青野正男:小笠原物語,*3現峠 小笠原島日誌明治15年 同,顕レ峠 海図注記:日本小笠原群島父島列島 東京海軍水路部(1893)(2002.12.08) 10.ななまがり 七曲 七曲坂(阪) ななまがり(ざか) 父島南部、内陸部の坂の名。父島字小曲[こまがり]。亜熱帯農業センターヤシ園端から斜めに入る道路が崖の上で途切れ、その下に続いてあった。明治初期、扇浦・北袋澤[きたふくろざわ]間に開削された公道にあり、戦前まで使われていた。小曲から急峻な斜面を稲妻型に下り、7回曲がったという。現在は、その北側に戦前囚人に作らせたという道路が返還後整備され、七曲坂は廃道となっている。大きなガジュマルがある。坂の上からの眺望を、明治初期の写真「七曲ヨリ袋沢及長谷ヲ見ル図」2枚(*)は、よく表している。「眼下に袋沢の部落が山塊にかこまれてながくのび、川に沿って人家がまばらにみえるほかは、まったくサトウキビ畑」(*2)の時代もあった。同名の坂は母島西浦への下りにもあった(*3)。*各種写真:宮内庁書陵部蔵,*2青野正男:小笠原物語,*3延島冬生:沖村の地名(草稿)(2002.08.07) 9.にしじま 西島 にしじま Little Goat Island リルゴートアイランド 父島列島 小笠原群島中部の父島[ちちじま]列島の属島。父島の北西約2km、兄島の西にあり、面積0.49km2、最高点99.8m、無人島。文久年間(1882)幕府の小笠原諸島回収の際、地図を作り方位により、東島等とともに命名、今日に至る。周囲は海食崖に囲まれているが、頂部は平坦で、明治期に開墾され、民有地3筆が国有林地の中にある。明治期からヤギが放たれ、小笠原諸島返還前は適宜狩猟されていた。返還後は狩猟が規制されたことから増え続け、ノヤギ駆除が行われた。一部残存して増え、47頭いる。植生は貧弱でコウライシバの群落を主とし、タコノキ、オガサワラビロウ等の固有種の他、モクマオウ、シマサルスベリ等が野生化している。 Little Goat Island リルゴートアイランド 先住移民の子孫に伝えられる名。チャムリの地名地図にもあり。(2002.01.26) |
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8.ケーターとう ケーター島 けーたとう けーたじま けーた Kater Island ペレスグルップ 小笠原群島北部の聟島[むこじま]列島の主島、聟島の別称。父島から北約70kmにあり、面積2.57km2、最高点大山88.4m。 1827年イギリス軍艦ブロッサム号で来航した艦長ビーチ―(F.W.Beechey)は媒島[なこうどじま]以北の聟島列島をParry's Group、嫁島[よめじま]に王立協会副会長のキャプテン・ケーターの名にちなんでケーター島と命名、又部下がアセス・イヤーズ(山羊の耳)と命名した。ペリーの『日本遠征記』にもビーチ―作成の海図が掲載されており、嫁島にKater Id.とEarsの注記がある。 明治初期、洋名では不都合とし、ペレスグルップを聟島、ケーター島を嫁島と命名した。しかし、父島では誤解や誤用されたりして、聟島をケーター島と解したようで、戦前の地図に〈聟島(ケーター島)〉と注記がされた。返還後の地図もそれを継承し、今日に至る。(2001.09.30) 7.鮫池 鮫池 さめいけ 小笠原諸島父島列島南島の南端にある入江。南島への上陸地点。ネムリブカ(Trianenodon obesus)が多いので、この名がある。船上からの観察では約50匹いるという(*)。同様の命名に鮫ヶ崎(母島)がある(*2)。 古名、袋湊[ふくろみなと] 延宝年間(1675)嶋谷市左衛門の巡検時に命名(*3)。入口が狭く、内部が膨らんでる形状から命名、文久年間(1862)幕府の巡検時にその名を継承した(*4)。明治期、日本再領有後も袋港とされていた(*5)が,何時の間にか、鮫池に変わった。 * 日本自然保護協会(2001)平成12年度小笠原 村南島自然環境調査報告書 *2 延島冬生(1982)沖村の地名(草稿) *3 ………(……)小笠原島地図 南波コレク ション 神戸市立博物館蔵 *4 ………(……)小笠原島記事1 都立公文書館 *5 小花作助(1879)明治11年小笠原島内務省出 張所一覧概表 (2001.08.01) 6.ひがしじま 東島 ひがしじま サンディビーチアイランド Sandy Beach Island 父島列島 小笠原諸島・父島東部の離島、面積0.28km2、最高点91.8m、無人島。文久年間(1862)幕府の小笠原諸島回収の際、地図を作り(*)方位に合わせ命名(*2)、今日に至る。明治初期には牧場とされ、ヤギが放されたため、島の頂部と東側は岩盤が顕れ植生が未だに回復していない。全島国有林。西面はオオハマギキョウの一大群落地。 Sandy Beach Island サンディビーチアイランド 先住移民の子孫に伝えられる呼称。チャムリの地図注記(*3)にもある。サンディビーチは父島北部東岸の初寝浦[はつねうら](*4)を指し、その向かいにあるからと言う。 * 小野友五郎・豊田港(…)小笠原群島総図 *2 小花作助(…)小笠原嶋風土略記 *3 Cholmondeley,L(1915)The History of the Bonin Islands *4 延島冬生(1991)小笠原諸島・父島における先住移民関係の地名(2) (2001-05-26) 5.みなみじま 南島 みなみじま ロングアイランド Knorr Island 父島列島 小笠原諸島・父島南西部の離島、面積0.34km2、最高点60.0m、無人島。延宝年間(1675) 幕府の無人島探検の際嶋谷市左衛門により地図が作られ、袋湊という地名が付けられたが、島名は付けられなかった(*)。文久年間(1862)幕府の回収の際、「南島 古名袋港島」(*2)として新たに命名、今日に至る。その際、父島の周囲の離島をそれぞれ、方位に合わせ、東島、西島、南島、北島と命名(*2)。 Long Island ロングアイランド 先住移民の子孫に伝えられる呼称。幅がなく長細い形状からであろう。 Knorr Island クノールアイランド チャムリの地図注記(*3)、ドイツ軍艦の艦長名という。 * …(…)嶋谷氏無人島之図 *2 小花作助(…)小笠原嶋風土略記 *3 Cholmondeley,L(1915)The History of the Bonin Islands 4.あさひだいら 旭平 あさひだいら 父島字旭山 小笠原諸島・父島北部東部、旭山の南西側、夜明山に続く平坦部。夜明道路が旭山から夜明山に至る平坦部は、旭平と呼ばれていた。「(旭)山ノ東南ニ平原アリ一ヲ小平ト稱シ一ヲ大平ト稱ス面積合セテ十萬餘丁歩樹木陰鬱須要ノ水源トナス」(*)。「奥村ノ分レ路ヲ左ニ行カバ…路ハ次第ニ爪先キ上リトナリ、…十数丁登リテ旭平ニ達セシニ地勢稍平カニシテ」(*2)、1968年小笠原諸島返還後、小笠原総合事務所国有林課設置、後に保護林が設けられ旭平は「夜明平学術参考保護林」(*3)とされ、以後、夜明平と呼ばれるようになった。しかし、その後東京都小笠原支庁から異議が唱えられ、兄島の見える展望所に「旭平の展望台」という名称が復活した。 * (1888)「小笠原島視察復命書」 *2 服部廣太郎(1906)「小笠原旅行記」 *3 豊田武司(1975)小笠原国有林の植生と学術参考保護林:東京営林局 (2001-01-23)(20031028改) 3.そとごし 外越 そとごし 父島字船見山 小笠原諸島・父島北部西岸、大根崎の北、船見山の下の急斜面。 その下の磯は儀兵衛岩跡に連なる。大根崎墓地の先から下を覗くとモクマオウの疎林の急傾斜が磯の後ろの凸凹帯に続いている。戦前は「道もあるかなきかの急峻危険な外越という、外洋に面したところへ遠出をして、タンバホオヅキくらいの実をとってたべ」(*)たという。 外は、街を取り囲んでいる尾根の外の意で、越はがけの意であろう。 「伊豆諸島の利島、大島などで海食崖、崖、懸崖、海崖、がけをいう。」(**)とある。 *青野正男(1978)小笠原物語 **松永美吉(1994)民俗地名語彙事典(上):谷川健一編『日本民俗文化資料集成』13、平凡社 2.じゅうもんじ 十文字(海岸)(浜) じゅうもんじ(かいがん)(はま) 父島字宮之浜、釣浜 小笠原諸島・父島北部北岸、兄島瀬戸に面し、宮之浜と釣浜の間にある磯。上の尾根に両海岸を繋ぐ自然公園遊歩道がある。アオリイカの釣場としても知られている。十文字は「十字路。四つ辻」(*)を指す地名として各地にあるが、ここは道が無い。由来不明である。この辺りは、イセエビが昔はかなり生息しており、エビ穴となっていた海中洞が十文字に海中で繋がっていたのではなかろうか。 *楠原佑介・溝手理太郎(1983)地名用語語源辞典 1.わきはま 脇浜 わきはま アンヤビーチ アンナビーチ あにあぶち 母島字静沢 小笠原諸島・母島中部、沖港湾内西側にあった海岸を指す。沖港の西側に大神宮の鼻で区切られた海岸で、この名がある。1980年代までは海岸が残っていたが、埋立てられて港湾施設が完成し、代わりに人工海浜が元の海岸と鮫ヶ崎の間に作られた。 字静沢に統合される前の旧字名。明治期の命名。先住移民の主作物の一のタマネギ栽培に由来する。"Onion beach"が日本人開拓者にこう聞こえたのであろう。 今日、脇浜なぎさ公園、脇浜職住、アンナビーチ母島ユースホステルに地名を残している。 |
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