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サンパウロFC入り

鹿島を去り12月15日、ブラジルへ帰国したジョルジーニョ。その時には「サンパウロに入るのではないか」という話が地元では伝えられていたそうです。(同じ頃、日本のスポーツ新聞はヴァスコ・ダ・ガマ入りを報じていたのですが^^;) そして、金銭面、ポジションに関することについての話し合いがもたれ、23日にはサンパウロ入りが正式決定。ポジションについては、ブラジルでは右サイドバックの選手として認識されているため、鹿島でやっていたボランチを希望するジョルジーニョと食い違いがあったようです。しかし、カルペジャーニ監督が3−5−2のフォーメーションを採用、役割がよりハーフ的になるということでジョルジーニョは納得。日本に長くいたせいで「まだ、現役なの?」なんて言うサッカーファンもいたらしい(ーー;)  サンパウロFCとの契約は1年。

クリスマス休暇明けの1月4日からチームに合流をして新しいシーズンに臨むことになりました。

徐々に慣れて

サンパウロFCの1999年初ゲームとなった「ユーロ・アメリカ・カップ」の第一戦、パラグアイのオリンピアとの対戦でジョルジーニョはサンパウロFCの選手としてデビューしました。チームは4−1の大勝。ジョルジーニョはなんとゴールまで決めたのです! 右からオーバーラップをしてきたジョルジーニョ、GKの頭を越す見事なループシュート・・・。でも、実はこれはセンタリングだったとか^^; 正直なジョルジーニョはドドーをめがけたセンタリングがミスキックになってゴールに入ってしまったと試合後に告白したのでした。
そして、古巣フラメンゴとの初めての対決を前にフラメンゴから「年」を理由に契約を断られたとコメント。フラメンゴの平均年齢が上がりすぎることを嫌ったフロントの考えは理解できることだとしながらも、「34歳だけどまだ若いことを示したい」と意欲をみせていました。

サンパウロに入って初の公式戦「リオ・サンパウロカップ」では、最初のうちこそ途中交代が多かったものの(「ジョルジーニョを交代させろ〜」との厳しいヤジもあったとか(-_-;)、徐々にブラジルの気候にも体が慣れたのか良い働きをするようになってきました。

ところが、ブラジルの生活で慣れないものがまだあったらしい・・・。5月に車に乗っているところで強盗にあってしまっいました(@_@) 財布、時計、携帯電話を盗られてしまったそうです。鹿島でのんびりしすぎたのか^^; (車で横に並んだときに手を振ってくれたもんね・・・ううっ・・・、懐かしい)

チームの成績はリオ。サンパウロカップでは準決勝でサンパウロ州リーグ選手権では準決勝でコバ・ブラジルでは準々決勝で敗退という状況に終わったシーズン前半。チームは短い冬休みを経てアメリカのLA近郊でキャンプ、そして親善試合をこなしながら、後半の「ブラジル選手権」に備えようとしていたのですが・・・。

しかし・・・骨折!

メキシコのチームと対戦した試合でファウルを受け肋骨を骨折(;_;) 最初は骨折とは思われていなかったのですが痛みがひかないので再検査で骨折と判明。回復が遅れて復帰したのが9月1日、ブラジル選手権のグアラニー戦のことでした。マルシオ・サントスに代わっての出場。

ブラジル選手権

ジョルジーニョは9月19日のジュベントージ戦では90分のフル出場。

「調子がいいから、延長戦だってやれって言われれば大丈夫だよ」と元気一杯。
ところが、今シーズンのサンパウロには次から次に苦難が襲い掛かります。出場資格のないサンドロ・ヒロシを起用したとボタフォゴに申し立てられ、CBF規律委員会がボタフォゴの言い分を認めたために、1−6で勝っていた試合を1−0での敗戦ということに・・・・。サンパウロFCは勝ち点3を失い、決勝トーナメント進出圏外の9位に後退。ブラジル選手権は8位までが決勝トーナメントに進出です。クラブは法廷に提訴しますが、敗訴した場合には残り2試合を勝たないことには決勝トーナメントへ進めない。こういう時に頼りになるのはベテランです。

「勝ち点が削られようと削られまいと自分たちは試合に勝つことだけだ」とジョルジーニョは冷静に語っていました。

11月10日、スポーツ法廷にサンパウロから勝ち点4を削ることを決定(ボタフォゴに引き続きインテルが引き分けた試合を提訴していました)。しかし、この日、ピッチの上の試合ではヴィトリアに0−3で快勝して5位が決定。決勝トーナメント進出です。ジョルジーニョはチームの3点目を叩き出しました。低いボールを顔面を地面に打ち付けそうになりながらもヘディングでシュート。評価は7。

ブラジル選手権セリエAプレーオフ

この選手権は2試合先に勝った方が次に進める、しかも、リーグ戦での順位が上の方がホームで2回戦えるという、下位のチームにとっては苦しい組み合わせになっています。

まずはサンパウロのホームです。2点リードされていたのですが、マルセリーニョのハットトリックで逆転勝ち。ところが第2戦はポンチ・プレッタが逆転で勝利。リーグ戦でサンパウロより上位だったポンチは第3戦は引き分けでも準決勝に進出となります。サンパウロは非常に不利な状況になってしまいました。

しかし、ドラマがここからでした。
2−2の同点で終えたハーフタイム。なんとバギネルがボールボーイを追いかけているところを審判に見つかりレッドカード。後半は10人で戦うことに・・・(~_~メ)  ますます準決勝が遠のく。ところが、後半7分にエジミウソンの見事はヘディングゴールで勝ち越し。得点が早すぎて後は守る、守る・・・守るしかない! こうなったら力を発揮するのがジョルジーニョです。鹿島ファンにはおなじみの獅子奮迅の活躍でサンパウロは1点差を守り切り準決勝進出となりました。ジョルジーニョはMVPに選ばれました(^^)v

この試合は、前の試合で監督に年寄りよばわりされたジョルジーニョとライーの二人がフル出場して素晴らしい働きをしました。

そして、今シーズン、SPFCにとっては魔の準決勝です。相手はコリンチャンス。本当に魔の試合になってしまいました。ライーがブラジル代表GKでもあるディダに2回もPKを止められてしまったのです。そして、2−2で迎えたロスタイム、マルセリーニョ・カリオカのPKが決まって2−3の敗北。第2戦にポンチプレッタ戦の奇跡を期待するファンの願いもむなしく、サンパウロFCはブラジル選手権から敗退いたしました。

リベルタドーレス杯出場権をかけて

SPFC、1999年最後の試合はリベルタドーレス杯の出場権をかけてのアトレチコPRとの試合でした。第一戦を4−2で落としていた為、12月16日の第ニ戦で3−1で勝利するもまたしても敗退してしまいました。第一戦の後、カルペジャーニ監督はクビ。結局ひとつのタイトルも取れませんでした。ジョルジーニョにとってはこの試合がSPFCでの最後の試合となりました。

そして、ヴァスコ・ダ・ガマへ移籍

ジョルジーニョとサンパウロFCの契約は一年。通常ならば契約の延長はシーズン中に行われると思うのですが、新監督が決まるまでは話は出来ないというフロント。ジョルジーニョはオファーがあったヴァスコ・ダ・ガマと契約をしてしまいます。

「私には養わないとならない家族がある。早めに来季の仕事場を決めて安心して年を越したいと思う。当然でしょう。」 

ジョルジーニョのヴァスコへの移籍話というのは今までに2回あったそうです。一回目は84年。アメリカ在籍時のことです。しかし、アメリカ側が要求した選手と金銭が合わずにこの話は立ち消えに。二回目は89年のフラメンゴ在籍当時のこと。条件の良いオファーがベベットとジョルジーニョに提示されました。しかし、そこに飛び込んできたのがドイツのバイヤー・レヴァークーゼンだったということです。

ヴァスコ側が考えているジョルジーニョのポジションは95年以来プレーをしていない右サイドバック。本人はフィジカルコンディションも良く、40才までプレーするつもりだから問題はないと言っています。

「新品だよ。私は後5年はプレーするつもりだ。ヴァスコではマウロ・ガウボンが年齢はなんの問題でもないことを示している。右サイドバックにはどんな秘密もないよ。発進してパスを出してクロスをあげる・・単純なもんだ・・・」と中盤を好んでいるジョルジーニョは記者会見で冗談まじりに語っています。

ジョルジーニョには鹿島アントラーズとグレミオからのオファーがあった。しかし、リオに戻ることの方が良かった。フラメンゴの元右サイドバックは彼の家族はみんなヴァスコのファンでこの移籍を兄弟たちも喜んでいると・・・。

「私のサンパウロでの日々はふたつに分かれていた。始めの半分はカルペジャーニ監督が私が順応できないポジションに置こうとしたので上手く行かなかった。でも、ブラジル選手権での自分の働きには満足している。中盤でプレーが出来た」

フラメンゴのライバル・チームへの移籍ということについては、記者会見でシャツにキスをして忠誠を示したそうですが・・・。幸いなのは、フラメンゴにいたのは10年も前の話。ファンからのブーイングはないでしょう。


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ジョルジーニョ目次