| love song |
22. 竹中郁 名前 僕はひとりの女のひとを愛した。 その女を失つてから、その女の名前ばかりが僕の眼前に手紙のやうに堆い。 僕が新聞を読まなくなつてから何年になるだらう。 文字を書かなくなつてから何年になるだらう。 眼を閉ぢると、何十年かのちに、あの女が僕のもとへ帰つてくるのが見える。醜い姿になつて。 僕はそのころ、一匹の犬を飼つてゐる。 犬に「スマ」と云ふ名前をつけてゐる。 |
| 竹中郁は神戸のハイカラお坊ちゃんだ。富裕な綿花問屋に生まれ、須磨は白松青砂の豪邸で成長し、虚弱体質を鍛えるため、テニスコートまで与えられた。神戸二中に入学、のちの洋画家小磯良平と同級になり、画家を志すも、父の反対にあい、詩作に転じる。大正15年、処女詩集『黄蜂と花粉』を刊行。その健康で向日的な青春性と色彩感で注目される。 昭和3年、二十四歳、郁は小磯とともに渡欧、巴里を中心に二年間滞在する。その間、詩人ジャン・コクトーや写真家マン・レイなどと交流、新芸術の紹介・翻訳につとめるいっぽう、みずからの詩作の転回をはかる。帰国後、『象牙海岸』(昭和7年)を刊行。シネ・ポエムの試作や、感性と知性を均衡させた清新な作風で、若い世代に多大の影響を与える。前掲作をふくむ収録作品はすべて遊学中のものだ。 そこでこの「名前」をどう理解したものやら。おそらくその制作の背景はこうだったか。スマートでドライなシティ・ボーイの郁とて旅にあればホームシックをおぼえもしよう。そんなときにいつかその昔の恋を甘くも想い出されてならなかったのでは。 「僕はひとりの女のひとを愛した。」という。その女は誰だか? そんな詮索じみた、いっさい私小説風を峻拒する超高踏派であれば、それは不明である。それはそうだけど考えられるのである。脳裡に浮かぶのは須磨で過ごした楽しい日々。「こんな冷たい接吻(ベゼ)があるものか/それにうつかりしてゐると/対手(あいて)は夢のやうにとけてしまふ/はかない恋の一時(ひととき)だ」(「氷菓(アイスクリーム)」)なんて。そこにはそんな恋のから騒ぎがあったりして。「日曜日のお天気は/手鞠(ボール)のぐるりに燃えてゐる//僕たちのラケットが鳴るたびに/お天気は一層晴れ渡る」(「テニス」)のだと。するとそれはコートの妖精のあったりするか。 しかし何があってか。そのうちの少女のひとりから忘れられない仕打ちをうけた。だけど恨みがましい。この犬の名前が「スマ」とは滑稽で笑える。 *『象牙海岸』(昭和7年) |
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