home恋 唄
拾 遺 2005
 




love song

17.津村信夫

雪尺余

あの人は死んでゐる
あの人は生きてゐる
私は 遠い都会から来た
今宵 哀しい報知(しらせ)をきいて

駅は 貨車の列は
民家も燈も 人の寂しい化粧(よそほひ)も
地にあるものは なべて白い

あの人は死んでゐない
あの人は生きてゐない
だが あの人は眠つてゐる
小さな町の 夜の雪に埋つて
ひとの憩ひの形に似て

雪のくるまへには頬がほてると
信濃の娘が私に告げた……

(神眠り 空あかるく
果樹が重たげに 身をゆすぶる
病む身の窓は 何処であらう)

私は知つてゐる
遙かな紅のいろを知つてゐる
雪の日のあの頬は生きてゐる

在天の知る限りの御名(みな)にかはり
今宵 雪つもる 白く積る

あの人は生きてゐる



 津村信夫。立原道造と並ぶ抒情詩人だ。夏の避暑地は軽井沢を舞台に繰り広げられる少女たちとの甘くも切ない恋物語。いまもその美しい詩は広く読まれている。
 1934(昭和9)年夏、軽井沢千ケ滝の旅館・観翠楼(かんすいろう)。病気留年で二十六歳になる慶應大学生の信夫は、学生生活最後の夏休みを迎えていた。このときに運命の出合いがある。ある日、見慣れぬ顔の少女が夕食の膳を運んできて、やさしく給仕をしてくれた。瞬間感じたのだ、一目惚れだった。
 小山昌子。臨時のお手伝いさんの名前だ。昌子の生家は西長野の紙類を商う小売店だった。ところが、女学校三年の秋、父が急死し、一家は離散、二十二歳の昌子は近所の仕立物を貰ったり手伝いに雇われたりしていた。夏の終わりをもって、避暑地の恋はしまいになる。だが違った。九月、突然、信夫が長野の家に現れ、昌子に意中を打ちあけ、昌子を「マリア」を呼ぶにいたる。昌子は悩む。なにもかもあまりにも違いすぎるのだ。信夫は神戸の富裕な名家の出で、父は大学教授から実業家に転身した成功者であり、母も由緒ある財産家の娘という。まずもって釣り合いがとれない。昌子は断りの手紙を書く。しかし諦め切れない。信夫は毎日のように熱い手紙を書き、毎週末、信越線で八時間の長距離をせっせと通いつづける。
 翌年一月、昌子が身を寄せていた義兄からの来信、昌子が盲腸炎の手遅れから腹膜炎を併発して重体、四日たっても意識が戻らない旨を知らされる。信夫は長野へ急行する。車中、焦燥はやまない。「もしやすればマリアにもう生前逢へないのでないか知らと思ふ」「マリアの病気に対する悲観と楽観がこもごも浮かびくる」(「昭和10年日誌」)
 このときの心中を綴ったのが掲出の一篇。「あの人は生きてゐる」。願いは天に通じた。三月、信夫の必死な看病もあり「信濃の娘」昌子は退院。
 '36(昭和11)年、結婚。それが儚すぎる。'44(昭和19)年、信夫、不治の病アジソン氏病で死去。享年三十六。

*『或る遍歴から』(湯川弘文堂 昭和19)


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