| love song |
9. 西條八十 「亡妻頌」より われらふたりたのしくここに眠る 離ればなれに生れめぐりあひ 短き時を愛に生きしふたり 悲しく別れたれど また ここに こころとなりてとこしへに寄りそひ 眠る |
| 西條八十は作詞の巨人だ。わが国最初の芸術童謡「かなりあ」にはじまる数多くの童謡、「東京行進曲」「同期の桜」「青い山脈」「王将」ほか歌い継がれる流行歌など、生涯の作詞数は数知れない。研究者によると、童謡八五四篇(うち訳詞六十三篇)流行歌三千二百曲、校歌・社歌七百以上、計一万五千曲にのぼるとか。 早稲田大学英文科の学生時代、八十にドラマチックな出合いがあった。その日、たまたま銀座で土砂降りの雨にあい、雨宿りに新橋駅前の小料理屋に駆け込んだ。その帳簿に美しい娘がいて、ずぶ濡れの彼に番傘を貸してくれた。翌日、傘を返しに行った八十は口にしていた。「失礼ですが、あなたはぼくと結婚してくれませんか」と。これに娘は真っ赤になり答えた。「考えておきます。いずれご返事します」。娘の名は、小川晴子。このとき八十は「一家が没落し、次男でありながら老母と弟妹を抱え、しかも大学在学中で、これからどうして生きるべきか全然あてのないぼくだった」という。 大正五年六月、二人は晴れて結婚。そして初夜。「ぼくは最愛の花嫁を、にわかづくりの、なんの調度もない空家(あきや)のようなわが家へ迎え入れることが苦痛だった。/初夜の臥床(ふしど)にはいる時、ぼくはあなたに言った。「あまりさみしい結婚式だから、ぼくはせめてこの晴れ衣装のままねむるよ」。/あなたも、すなおにうなずいて、美しく結いあげた高島田と、/華麗なうち掛けの姿で、ともに眠った。」(「亡妻頌」) 二年後、雑誌「赤い鳥」に「かなりや」を発表、以降、八十は人気作家として八面六臂の活躍をする。その裏には晴子の人知れぬ苦労と内助の功があった。八十は女性関係も大抵でない。その悪行の数々は小説集『女妖記』に詳しい。 八十と連れ添って四十三年間。昭和三五年三月、晴子、脳梗塞で倒れる。おそらく超多忙で駄々っ子のような夫に支えた心労がたたったか。三ヶ月後、死去。八十は亡妻を偲び、千葉県松戸の八柱霊園に詩碑を建て、前掲の詩句を刻んだ。昭和四五年八月、八十、心不全で死去。「われらふたりたのしくここに眠る」ことになる。 *『亡妻の記』(家の光協会 昭和四三年) |
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