| love song |
6. 井上信子 一人去り二人去り仏と二人 |
| 川柳は俳句と較べて低く見られて、独立した文芸として真っ当に扱われなかった。その川柳の興隆に命を懸けた反骨の夫婦がいる。井上剣花坊・信子である。 井上剣花坊(一八七〇〜一九三四)。本名、幸一。山口県萩市に生まれる。明治三六年、日本新聞社の記者として、同紙に川柳投稿欄「新題柳樽」を新設、新川柳運動を興す。その後、大正元年から「大正川柳」(のち「川柳人」と改題)を発行し、現代川柳の基盤をきずく。 信子は一歳年上、同郷で縁戚関係にあった。明治三二年、結婚。このとき剣花坊は男子三人をもうけた先妻に先立たれた身であった。どうやらこの縁組みには信子ほうの同情があったようだ。若い日に自由民権を唱え政治家を志した剣花坊は、「大詩人杜甫に一人の弟子もなし」と、自分一人になっても行かん心意気で川柳革新に挺身する。そこには極度の疲労があった。 昭和九年、剣花坊は脳溢血で死去。享年六四。そこで掲出の一句であるが、これはこう読めようか。人は来たり去るが、さいごは貴方とやはり二人きり、ほんとに貴方はよく闘ったこと、ね。そして仏前に誓うのだ。このあと貴方が拓いた道を継いでゆく、と。 一二年、信子は剣花坊の没後廃刊されていた「川柳人」を復刊。復刊したばかりの同誌に鶴彬(つるあきら)の有名な反戦句「手と足をもいだ丸太にしてかえし」などを掲載し、発禁廃刊処分をうけ、信子も拘置四日の憂き目に遭った。しかし意気軒昂である。弾圧激しい一五年、七一歳、信子一世の名句と謳われるつぎの一句をえている。この心の豊かさ。 国境を知らぬ草の実こぼれ合い 戦後、二三年、「川柳人」を復刊。あらたに精力的に活動を再会している。剣花坊をして「うちの女房は勲八等だからな」(信子は日清・日露戦争に従軍、勲八等宝冠章を受く)と慨嘆させた、その意志の強さは筋金入りだ。 三三年四月、八八歳で死去。辞世にある。 草むしり無念無想の地を拡め |
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