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恋歌 恋句 2002‐2003




40. 有島武郎

世の常のわか恋ならはかくはかりおそましき火に身はや焼くへき


 有島武郎と波多野秋子の情死。ことは大震災の年の大事件だった。人道主義を標傍する作家と有夫の美人記者が何故に心中を? 世間は驚嘆した。
 明治十一年、東京小石川(現、文京区)に高級官僚の長男に生まれる。三十四年、札幌農学校卒業。キリスト教との葛藤、アメリカ留学と激動の青春期を過ごす。四十一年、母校の教授に赴任。翌春、神尾安子と結婚。四十三年、志賀直哉、武者小路実篤らと「白樺」を創刊、作家として出発。
 大正五年、肺結核で病床にあった妻安子、三児を遺し死去。大きな転機を迎え、本格的に文学者としての道を歩みだす。以後、短編「カインの末裔」、「生れ出づる悩み」ほかを発表。さらに八年、長編『或る女』(国木田独歩の妻だった佐々城信子をモデルに自由を求める新時代の女性の生き方を描く)を世に問い、名声を得る。つづき九年、『惜みなく愛は奪ふ』を上梓、本能的生活を軸とする自己絶対化の思想を展開する。しかしその理想の作品化に困難をおぼえ、しだいに創作意欲を減退させてゆく。そしてまた階級運動の高まりにつれ、じしんが否定されるべき階級にあることを自覚させられる。これについては私有財産の否定におよんで、そのさきに父武より相続した広大な狩太の有島農場を解放している。
 疲労の色が濃くただよい、虚無の暗い影がぬぐえない。そこに出現するのが秋子である。十一年九月、ロシアのアンナ・パブロア舞踏団の「瀕死の白鳥」が公演される。このときたまたま武郎と席を近くした秋子は、機会を逸さず思い入れたっぷりの手紙をしたためる。これから二人の行き来ができ年を越して急速に親しくなる。
 秋子の美貌は有名だ。情死事件を報じる新聞に寄せて山田耕筰は言う。「妖婦的な感じのするあの黒い大きな眼で見据ゑられると大抵の男はすくんでしまう」。子供の頃から「臆病者で、言ひたいことも言はずにすますやうな質」(「一房の葡萄」)の武郎である。あるいはどここかで、すくんでしまったか。
 六月五日、武郎と秋子は結ばれる。「姦通罪」があった時代である。これがすぐに夫春房の知るところとなる。じつはこの夫君がとかく評判の宜しくない問題の少なくない人士なのである。春房は武郎を呼び付ける。そこでこんな問答をしている。「秋子は已に十一年間も妻として扶養したし、その前にも三四年間引取つて教育したのだから、ただでは引渡せない。代金をよこせ」。「自分が生命がけで愛してゐる女を、僕は金に換算する屈辱に忍び得ない」「それでは警視庁へ同行しろ」「同行しませう」(以下、武郎の親友足助素一「淋しい事実」による)。こうなっては埒があかない。
 ところで相手はどんな女性であるか。秋子は武郎の十三歳下。実業家林某と新橋の芸者の間に生まれたとか。十八歳の頃、波多野の英語塾に通っていて、その美貌と才色を見初められて結婚。はじめは夫の庇護のもとにあったが、やがて「婦人公論」で仕事するにおよび、社会的に目覚め「新しい女」の道を歩み出す。するうちに夫の存在が疎ましくなる。そんなときに武郎と出会い深間になるのだ。
 七日、秋子が武郎に春房の要求を伝える。春房は金を強要しつづける。監獄に送り込もうとはしない。武郎は金を支払うつもりはない。監獄へ行くと言いはる
 八日午前、素一が武郎を訪ね、死を思い止まらせる。「子供達を考へて呉れ、お母さんを考へて呉れ。」だが武郎は言う。「情死者の心理に、かういふ世界が一つあることを解つて呉れ。……はじめから、ちやんと計画され、愛が飽満された時に死ぬといふ境地を。死を享楽するといふ境地を。……僕等二人は、今、次第に、この心境に進みつゝあるのだ。」として告げる。「これが僕の一期の頼みだ。よ、決して邪魔をして呉れるな……」。となるともう詮ないのである。午後、母親に挨拶をして家を出る。夕刻、二人は示し合わせて金沢行きの急行に乗り、深夜に土砂降りの軽井沢駅に着いた。
 それにしても何があってまた? ほんとうのことは二人の胸内にあるばかりだろう。がだが一編の詩を引用したい。死の半年前、三月十日作の詩「死を」である。

  ……死を。
  生の焼点なる死を、
  ……(中略)……
  その黒い焔の中に親をも子をも焼きつくす死を、
  ……おゝ生を容赦なく踏みにじるその不思議な生命よ

 これをどう読んだらいい。ここに転回がある。死こそを「不思議な生命」とする、生のこちら側にある者にはよく考えられない、逆倒した信念。ここに掲げる歌をみよ。自宅の書斎に遺されていた歌稿のはじめの一首。辞世である。歌意はいささか明快さにかける。だがかくも「生の焼点なる死」への希求が強くあるとは。
 しかしながら了解がいかない。弟妹に宛てた「遺書」にある。「私のあなた方に告げ得る喜びは死が外界の圧迫によつて寸毫も従はされてゐないといふことです、私達は最も自由に歓喜して死を迎へるのです、軽井沢に列車が到着せんとする今も私達は笑ひながら楽く語り合つてゐます、どうか暫く私達を世の習慣から引き離して考へて下さい。」と。そして後事を託すのだ。「たゞ母上と三児との上を思ふとき涙ぐみます、」
 九日未明、愛宕山山麓は有島別荘淨月庵で縊死。武郎、享年四十五。秋子、享年三十二。七月七日、発見。遺体には瀧のように蛆がわき腐乱していた。

( [泉」 大正十二 )

*『有島武郎全集』別巻(筑摩書房)、『新潮日本文学アルバム 有島武郎』(新潮社)



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