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恋歌 恋句 2002‐2003




39.竹久夢二

殺すとも
そなたはそなたわれはわれ
ふたつの死骸かゝはりもなし。


 夢二は稀代の美女ハンターだ。たまき、彦乃、お葉……。夢二の生涯はこれら夢二式の美人画の乙女たちとの愛別の絵巻だ。なんでまたそれほどまで愛に飢え愛を求めなければならなかったか。そのひとつに結婚の失敗があるだろう。どうしようもなく死ぬの殺すのとまでになった……。
 明治十七年、岡山県邑久郡に酒屋の長男に生まれる。三十四年、家出して上京。翌年早稲田実業学校に入学。社会主義に触れ、平民社の荒畑寒村らと共同生活を営みながら、新聞、雑誌にコマ絵を投稿。
 三十九年十一月、早稲田鶴巻町に絵はがき屋「つるや」が開店する。お店の奥に通りすがりの青年がはっと足を止めるような美形の女が一人坐る。開店五日目、画稿を携えた長髪の若者が立ち、早慶戦の絵はがきを手にして言う。「これは売れるよ」。たまきと夢二の出会いの図である。
 たまき(岸他万喜)は三歳上の二十五歳。加賀藩士(のちに金沢地方裁判所所長)の娘で、少女時代までは外出の際にはお付きの者がいたというお嬢様育ち。結婚して二児に恵まれたものの、夫(日本画家)に先立たれている。一目惚れだ。「あなたの長髪は嫌いよ」と言われると、夢二は翌日には髪の毛を切ってきた。
 四十年一月、出会いから二ヶ月余り、結婚。この頃から「大いなる眼の殊に美しき」たまきをモデルにした絵が多くなる。翌年、長男虹之助が生まれる。しかし勝手気ままな男である。でもって女は人一倍勝ち気とくる。これじゃ上手くゆかない。夢二は日記に書く。「女よおまへとつれそうてからもう三年になる。/己は、一日として、おまへが己の妻だと感じたことがない。/今日は、はじめて、しみじみとおまへが私につれそふてゐることを知つた。/然し、それを知つた時は、もうおまへに飽きてゐる時だつたのだ。」(明治四十二年一月二十七日)
 四十二年五月、協議離婚。だがこれには裏があって、どうやら嫁と不仲な夢二の父親の意向に従ったまでで、二人はその後も生活をともにする。十二月、最初の画集『夢二画集 春の巻』を刊行、一躍売れっ子になる。その扉裏の献辞にある。「この集を別れたる眼の大きな人におくる」。つかずはなれず不思議な関係はつづいている。
 大正三年十月、日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店。店の人気は凄まじく、夢二フアンの溜まり場になる。なかに笠井彦乃もいた。この頃この恋多い男は二人の女と出会っている。彦乃と、神楽坂の芸者、きく子だ。男も男ならば、女も女である。じつはたまきにも事情があったのである。開店早々の店の手伝いをしていた画家志望の十七歳の少年東郷青児と出来たのだ。「男はその愛する児の口から「かあちやんと東さんとパゝさんのゐないときねたよ」と聞いて「さうかえ」とばかり言つてだまつてしまつた」(『夢二日記』大正3年12月17日)
 ついに問題が惹起する。翌年二月、富山県の泊温泉に滞在中の夢二はたまきを呼び寄せる。そこでいったい何があったものやら。これはどういうことか。「しかし泊の雪の夜、刃の下で言つたことは/「なんにもしないのにそんなことを言つてくやしい」と言つて、かなぐりついた。」(同、大正4年2月4日)。
 ここに掲げる歌をみよ。これはその折のことを詠った「北越行」(二十一首)に載るもの。なんともなんと刃傷沙汰があったという。死ぬの殺すのの繰り返し、男は女を切り付けている。

  なげだせし命なれど/殺しえぬ/憎きそなたは仇か味方か。
  なげだせし/この頸さへ 腕さへ/わがものならず/なんとすべけむ。
  きみ刺さば/われもいかでか死なざらむ/死にゆくものに何の債ぞ。

 ほんとにもう凄まじいかぎり。どれほどの傷だったろう。このとき夢二はたまきを当地に残して帰京したらしい。手紙にある。「キヅ口はうみをもちはせぬかと案じてゐる。人の噂などにはかへられぬ 医者に見てもらふが好いよ」(同年2月8日気付)
 どうやら傷はそんなに深くなかった。だがしかし心のそれは浅くはない。こんなになっては、修復不可能、どうにもならない。五月、昨秋より親交のあった彦乃とついに結ばれる。彦乃は日本橋の紙商の娘で十二歳下の二十歳。夢二の勧めで女子美術学校に通っていた。

  なつかしき娘とばかり思ひしを/いつか悲しき恋人となる。

 たまきとの破局は決定的になった。ところで新しく始まった恋はどうか。幸せなときは長くつづかない。七年夏、彦乃は九州旅行で宿阿で倒れ、二人の仲をいまわしく思っていた彼女の父に奪い返される(大正九年、死去。享年二十五)。
 八年春、本郷菊富士ホテルのアトリエに通いのモデル、十七歳のお葉(永井カ子ヨ)が現れる。九月、同棲。しかしこの恋も長くつづかない。十三年、お葉が家出。だがまだお終いではない。
 十四年春、悪女で名高い『流るゝまゝに』の作者山田順子(徳田秋声の弟子で、秋声と関係があった)と出来てしまう。これはどうやら一年も持たなかったらしい。この醜聞で夢二の名声は急速に堕ちる。だけど懲りない。これからのちもこの稀代の美女ハンターは数多くの乙女たちと浮き名を流しつづけるのである。
 夢二の女狂いは夢二の病気だ。しかしながらたまきとの仲が上手くいっておれば、こんなにまでも遍歴を重ねることはなかったろう。死の床で記す。「男に会いたい人なし。/女はぜったいにうるさし。/ただひとめ逢いたいなぞもなきこそよけれ。」(同、昭和9年5月17日)
 昭和九年九月、永眠。享年四十九歳。
 一方、たまきは二十一年、死去。享年六十三。

(『小夜曲』大正四年)

*『竹久夢二文学館』(日本図書センター)、『夢二日記』T〜V(長田幹雄編 筑摩書房)



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