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漱石研究は汗牛充棟だ。漱石と恋愛。この主題に限っても四人の名前が挙がり所説入り交じる。嫂登世、大塚楠緒子、花柳界出身とおぼしき某女、それに日根野れん(幼少期の養父塩原昌之助の再婚者かつの連れ子)。いずれも漱石の文学を語る上で重要な女性ではある。うちの誰が運命の女なのか。 大塚楠緒子。評者はこの女性こそ本命とみる。以下、楠緒子説を主張する小坂晋『漱石の愛と文学』(非常に面白い大変な労作)ほかに沿って端折ってみよう。 慶応三年、江戸牛込(現、新宿区)に町方名主の家に生まれる。明治二十六年、帝国大学文科大学英文科を卒業、大学院に入学。寄宿舎に入り学部以来の友人小屋保治と同室になる。この保治と漱石の間に楠緒子をめぐり問題が惹起する。 楠緒子は明治八年、東京麹町に富裕な裁判官の長女に生まれる(漱石の八つ下)。少女期から短歌、美文を発表。二十六年、東京師範附属女学校(お茶の水高女の前身)を首席卒業。美貌の文学少女として東大生たちの評判になる。折しも大塚家と交流のあった寄宿舎監がある相談を受ける。どなたか楠緒子に相応しい結婚相手を紹介されたし、娘は文科を望むが、と。ときに舎監が推薦したのが二人の秀才だった。 保治と、漱石と。はたして大塚家はどちらを婿養子とするか(当時、結婚は当人ではなく親の意向次第だ)。学究肌で誠実な保治と、神経質で狷介な漱石と。もちろん大塚家は保治を選んでくる。ぜったい親には逆らえない。そうだが楠緒子の気持は微妙に揺れている。 二十六年八月、保治と楠緒子の見合い。二十八年二月、結納。決定まで一年半、短くないこの期間、漱石はいかばかり煩悶したことだろう。この恋は譲ろう。いっそうのこと友にくれてやってやる。だが苦しい。 二十七年九月、「沸騰せる脳漿」を意識、心身のバランスを欠き、寄宿舎を出る。最初の精神的危機。十二月末、楠緒子への煩悩を超克すべく鎌倉円覚寺の塔頭帰源院に参禅。 二十八年三月、保治と楠緒子の結婚。四月、愛媛県尋常中学校(松山中学)の嘱託講師として赴任。いわゆる松山落ちである。子規宛書簡(明28・12・18)にある。「……小生家族と折合あしき為外に欲しき女があるのにそれが貰へぬ故それですねて居る抔と勘違いをされては甚だ困る」。この際の挙は失恋のゆえでない、そう噂を自ら否定するが、それだけ人の口に上ったのだろう。そして十月末、子規に一句を送る。 淋しいな妻ありてこそ冬籠 十二月末、中根鏡子と見合い。翌六月、結婚。のちに夫人は書いている。ときに漱石は言った。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまっては居られない。それを承知してゐて貰ひたい」。この素っ気なさ。どうしても漱石は楠緒子を忘れられない。この十月作の俳句に「初恋」「逢恋」などと題して恋の連作がある。うちの「忍恋」の一つ。 人に言へぬ願の糸の乱れかな ついに告げ得ず願の糸は乱れ絡んだまま。楠緒子への尽きせぬ想いは漱石の胸のうちに秘められる。このことが漱石文学の重大なテーマである三角関係の問題に影を落としているのは容易にみてとれる。親友と昔の恋人をめぐる葛藤と罪の意識。それは「一夜」以降、「それから」「門」「心」「明暗」等、ほとんどの主要作品の中心的題材として執拗に反復される。 忍恋といえば漱石の側だけでない。楠緒子もその胸中に疼くものがある。楠緒子は詠んでいる。 淡かりし、とばかり春の夢醒めて恋はれし人を今恋ひぞみる 時は過ぎる。三十三年、イギリス留学。三十六年、帰国。保治の尽力で東京帝国大学講師となる。三十八年、「我輩は猫である」を発表、以来紆余曲折はありながらも旺盛な作家活動を展開する。 一方、楠緒子も作家として頭角を現す。二十八年、「暮れゆく秋」、三十年、「しのび音」を発表、樋口一葉を継ぐ才媛として期待される。さらに漱石の依頼で「空薫」前編(四十一年)を「東京朝日新聞」に連載。しかし一年後の続編連載あたりから健康の衰えをおぼえる。 四十三年十一月、楠緒子急逝。享年三十六。このとき漱石は修善寺の大患(胃病悪化から激しく吐血、人事不省となる)の後、胃腸病院で病を養っていた。そこに訃報が入る。日記にある。 「十一月十三日〔日〕 晴。 ○新聞で楠緒子さんの死を知る。九日大磯で死んで、十九日東京で葬式の由。驚く。」 漱石は深い悲しみに捕らえられ、二日後、再び日記を開き、追悼の句を詠む。 「十一月十五日〔火〕 ○晴。床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る 棺には菊抛げ入れよ有らん程 有る程の菊抛げ入れよ棺の中 ○ひたすらに石を除くれば春の水」 ここに掲げる句をみよ。大患の後に接した恋する人の訃報だ。別離の悲しみは想像に余りある。「有る程の」と揚げて、「抛げ入れよ」と命じる、まったくこの悲嘆ばかりは痛切きわまりない。いやこの句の強い訴えをみよ。これは追悼吟として後世に残る一代の秀作だろう。ほんとにいかほど漱石が楠緒子を愛しつづけていたか。いまこの一句をみるだけでも理解できよう。 楠緒子の死後、漱石は胃潰瘍、神経衰弱を繰り返し、心身ともボロボロになりながら「彼岸過迄」「行人」「心」「道草」を精力的に書き継ぐ。大正五年、「明暗」を連載をするも中断。 十二月、永眠。享年四十九。 (『漱石全集』第十七巻) *『漱石全集』(岩波書店)、『夏目漱石事典』(勉誠出版) |