|
|
釋迢空=折口信夫。詩人・歌人=国文学者。詩歌と学問と。二つを一身にし未踏の領域を拓いた。この人は巨大な謎だ。あらゆる意味で尋常ではない。いわんや恋の道はなおだ。 明治二十年、大阪府西成郡(現、大阪市浪速区)に医家の五男に生まれる。幼時より勉学に秀で、文才を示す。大阪府第五中学時代に同級生辰馬桂二を思慕、作歌に多くする。この間、自殺未遂三回。 男をし恋ふればかなし十年へばあへなからむといひし日も来ぬ 男と男の愛は難しい。美しい少年もみな十年もなく詰まらぬ大人になってしまう。 四十三年、國學院大學国文科卒業。大阪府立今宮中学の教師として着任。ここで生涯を通じて師弟の関係を結んだ多くの生徒を得ている。ところで迢空の理想とする「師弟」とはこれが厳しいものだ。なにしろ「師弟というものはそこ(同性愛)までゆかないと、完全でないのだ」(『わが師 折口信夫』加藤守雄)とされる。そして同性愛こそ男女の愛情よりも純粋であり、これを変態とみるのは常識論にすぎぬという。 四十五年夏、迢空は志摩・熊野を旅する。この旅について記す。「伊勢清志・上野清一といふ、心の美しい生徒を二人連れて出た」(「自歌自註」)。うちの前者が姿も美しい恋慕する少年(後者はいわば教育的配慮からの同行)。迢空はこの清志少年に身も世もなくなる。大正八年、國學院大學講師に就任。清志への想いは同年の連作「蒜の葉」他に詠まれる。この頃、清志は鹿児島の高校に学んでいる。 叱ることありて後 薩摩より、汝がふみ来到(キタ)る。ふみの上に、涙おとして喜ぶ。われは 蒜の葉 雪間にかゞふ蒜の葉 若ければ、我にそむき行く心はも 同年夏、迢空は清志の高校卒業時に鹿児島を訪ねる。だがそれを鬱陶しく感じた清志が身を隠して会わずじまい。やがて妻を娶り背いていく。 すると今度はやはり教え子の一人、鈴木金太郎のお召しとなる。迢空はこの金太郎とは、清志去って四年後、大正三年以来、二十一年間にわたり同居する。工業高校から建築会社社員となった金太郎とは、清志とは違って感情の起伏が少ないか。恋よりも暮らしの歌が多くなる。 家の子よ。今日もゆふげは 早く来よ。きそも をとゝひも 飯(イヒ)冷えて居し そして藤井春洋である。春洋は石川県能登羽咋の生まれ。昭和二年、國學院三年生の春洋は師の家に同居。三年目の六年、召集で金沢歩兵連隊に入隊。師が面会に訪れた際の春洋の「別れ来て」と題する歌にある。 師のみ言(コト)を 心にもちて、ひとゝ居るわれのしぐさの 堪へがたきかも 「師のみ言」とは凄い。師と離れてあることは一刻とて「堪へがたき」ともいう。 十八年、春洋は再度の召集で金沢へ行く。さきに引いた『わが師……』の加藤は書く。「日用品の出し入れも、朝晩の食事の献立も、すべて春洋さんがしていた。その春洋さんが居なくなれば、折口先生の生活は半身不随だ」。そしてその折に春洋は洩らしたとか。これはどういう意味の発言ではあるのか。「ぼくは、どうせ先生の犠牲だから」 春洋の後釜に加藤が同居。すると師は囁くのだ。「君が家に来てくれてよかった。春洋は、ぼくの好きなひとを良く知っている。だから、君に頼んだんだね」と。加藤は逃げる。すると師はこう返したと。「森蘭丸は織田信長に愛されたということで、歴史に名が残った。君だって、折口信夫に愛された男として、名前が残ればいいではないか」。しかし加藤は頑是ない。 一九年六月、春洋の硫黄島行きが決まった。春洋は出航の直前、駐留する千葉柏から迢空の家に戻り、師と数時間を過ごす。ここに掲げる歌はのちに、このときの別れを思い詠んだもの。あしたもう遠い戦地へ行ってしまう。交わす言葉も途切れ涙になる。それにしても「子を愛で痴れ」とあるが、春洋はこのとき藤井春洋であってまだ折口姓になっていない。してみるとこれは親子のではなく恋人らのそれを想起させないだろうか。しかし辛すぎる。七月、春洋を養嗣子に入籍。 二十年三月三十一日、大本営から硫黄島全員玉砕発表。春洋、散華。享年三十八。迢空は「竟に還らず」と題して詠む。 愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。あまり惨(ムゴ)く 死にしわが子ぞ 二十八年、迢空、死の床で春洋の名を呼び、永眠。享年六十六。すでに生前(昭24・7)能登一の宮に自らの手で春洋との父子墓が墓碑銘ともども建立されていた。 もつとも苦しき/たゝかひに/最くるしみ/死にたる/むかしの陸軍中尉/折口春洋/ならびにその/父 信夫/の墓 さらに遺稿にある。じつに謎めくこの歌をどう解しよう。 人間を深く愛する神ありて もしもの言はゞ、われの如けむ (『倭をぐな』昭和三十) *『折口信夫全集』(中央公論社)、『釋迢空ノート』(富岡多惠子 岩波書店) |