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冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか 中城ふみ子。戦後の歌壇に突如彗星のように登場し、短くも激しく燃え、鮮烈な光芒を曳いて消えた夭折の歌人。ひたすら死と性を詠った歌は時を経てなお人を捉えて離さない。ふみ子の愛の遍歴を描いた小説、渡辺淳一「冬の花火」は有名。 大正十一年、北海道帯広市に富裕な呉服店の長女として生まれる。背が高くみめかたちが美しく、勝ち気な性格で、幼時より読書に親しむ。昭和十六年、東京家政学院卒業(在学中、短歌会に入会)。 十七年、中城博と見合い結婚。博は北大出の札幌鉄道施設部の技師。三児をもうける。仕合わせを絵に描いたような生活。それが違うのだ。戦後、博は不祥事から閑職に就かされ、闇物資を流すブローカーに手を染める。この件もあり夫婦仲が冷える(やがて別居にいたる)。ふみ子は心の憂さを歌に吐き出す。 背かれてなほ夜はさびし夫を隔つ二つの海が交々に鳴る 二十四年、短歌結社「新墾」に入社。初めて歌会に出る。そこで出会いがある。相手はふみ子の歌を最初に認めた大森卓(「冬の……」では諸岡修平とある)。大森は三つ年上の三十歳。結核を病み療養中の身で、妻はその病院の看護婦をしている。はじめは歌の話に興じるだけだったが、そのうち男と女の仲になっている。 ここに掲げる歌をみよ。そのはじめの「灼きつくす口づけ」にも身をあずけられない。どこかで激情に没入できない。この醒めた鋭い自己客観の目の光り。これは不幸である。 熱き掌のとりことなりし日も杳く二人の距離に雪が降りゐる どれほどか甘い日がつづいた。しかしそこにある「二人の距離」はいかんともしがたい。ふみ子は男に従う女でない。そのうち大森が他の女に手を出す。かくなる上はお終いにする。おさらばするしかない。 ほどなくふみ子に新しい恋が始まっている。今度は帯広畜産大学の学生。年上の女の魅力に若い恋人は溺れる。しばしふみ子は愛の戯れに我を忘れている。そんな折に悲報が入るのだ。 いくたりの胸に顕ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず 二十六年九月、大森卓逝去。ここからは時はギャロップで過ぎるばかり。十月、中城博と離婚。東京での就職を志すも果たさず帰郷。十一月末、左乳房に異常を自覚する。 二十七年二月、左乳腺単純癌と診断される。四月、左乳房切断。五月、退院。するとふみ子はまたいそいそと当時まだ珍しいブラウスを着けて男に会いに行くのである。 陽にすきて流らふ雲は春近し噂の我は「やすやすと堕つ」 相手はというと学生さんではない。手術前に知り合った五つ年下のダンス教師。むろんこの場合も自然にそうなる。噂どおり「やすやすと堕つ」ことに。メスの入った左乳房を晒すざまに。 音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく襲はれてゐる 二十八年十月、右乳房へ転移した癌を手術。十一月、右側胸部を再手術。 二十九年一月、乳癌再発、左側胸部皮膚に転移、再手術のため札幌医大病院に入院。病状の進行につれ、痰や血痰がでる。ここにきてふみ子は死を意識したらしく、おもいたって歌に打ち込むことになる。折しも目にした雑誌「短歌研究」が第一回新人五十首募集に応募。四月、特選一席に「乳房喪失」と題され編集部(編集長中井英夫)選で入選。 失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ 受賞作掲載の同誌四月号が発売されるや、たちまち歌壇をあげての轟々たる反撃にあう。さらに五月、「短歌」六月号の巻頭に「花の原型」の題で五十一首発表。同誌には川端康成の同題の推薦文(ふみ子が直接に歌稿を送り依頼した)が掲載される。いきおいふみ子の名前は広くしられる。 七月一日、処女歌集『乳房喪失』を刊行。六日、時事新報記者、若月彰(「冬の……」では時事新聞記者、高木昌次)は、これを一読して大きく記事にするが、それだけでは物足らなくおぼえ、札幌の病棟へ駆け付ける。病人を励ましたいという強い一念で。 灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽の如くに今は狎らしつ もはや時間はない。なんとも信じられない。このときになんと瀕死の病人と若い記者は男女の仲になったとか。ほんとに考えられない。ちょっと言葉もない。「冬の……」にある。「「ちょうだい、最後にもう一度だけあなたをちょうだい」/そう哀願すると、ふみ子は熱で火のようになった体を、高木の上におおいかぶせてきた」。二十六日、若月が去る。 冷えしきる骸の唇にはさまれしガーゼの白き死を記憶する 八月三日、死去。「死にたくない!」と口にしつつ。享年三十一。 (『乳房喪失』昭和二十九年) *『定本 中城ふみ子歌集』(角川書店)、『増補・黒衣の短歌史』(中井英夫 潮出版社) |