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| 川島雄三。映画界の異端児。文句なしの鬼才である。「幕末太陽伝」「貸間あり」「雁の寺」「しとやかな獣」……。怪作揃い、目白押し。いまだ未見の向きは「幕末……」の一本でも観るべし。仰天、必至! なかで居残り佐平次演じるフランキー堺がこんな小気味いい啖呵を切るのだ。「へへ、首が飛んでも動いてみせまさア」 さて川島と俳句とは。さきに小津安二郎の恋と俳句におよんだ。ところで小津の松竹大船時代の後輩、川島もまた句作をよくし、こっちも先輩に劣らず恋の佳句を残している。じっさい二人は俳友として、撮影所の同好の士が結成した俳句グループ「花の茶会」で競い合っている。まずはいかにも川島らしい一句からスタート。 炎天に壕舎ならびて燃えゐたり 大正七年、青森県下北郡田名部(現、むつ市)に商家の三男に生まれる。虚弱で不器用で教練では左手と左足を同時に出すような少年だった。中学時代より文学(近松、西鶴、俳句、川柳)に親しみ、映画(映画館が町で唯一の文化施設だ)に入れあげる。明治大学に入学、映画研究部で活動。昭和十三年、松竹入社。 十九年、二十六歳、「還って来た男」(原作・織田作之助)で監督デビュー。“日本軽佻派”を名のる。戦後二十一年、第二作「追ひつ追はれつ」で本邦映画史上初のキス・シーンを撮る。この頃より宿阿の筋萎縮症の病状、徐々に進行し始める。病躯をおして映画黄金時代に社の要請でプログラム・ピクチュアを量産(松竹時代の監督作品は二十四本)。 川島スラップスティック。彼ほど奇人を言われ、逸話の多い監督はない。便所シーンを好んで挿入したこと、そばやの箸袋にコンテを書き撮影に入った……。などなど初めて助監督についた今村昇平は心底驚いている。「僕は荘重深刻なセットで有名な小津組の専属でしたから、川島組で「相惚れトコトン同志」(昭27)などと世にも不思議な写真についた時はびっくりしましたね。世の中には殆ど駄目な監督も居るものだと絶望の余り、一時は世を儚んだものです」。ときに川島はしれっと返答したと。「生活ノタメデス」 二十九年、日活に移籍。この頃、銀座の小料理店「菊川」に働く中村八重司を見初め、その後日活アパートで結婚生活に入る。しかしながら川島は秘密にしつづけ、そしてまた夫人を入籍していない。子供をつくるのも同様にしている。夫人の言葉にある。「雄さんは、僕はどうせ早く死ぬ。子供が出来たら可愛そうだし……若いアイたん(夫人の愛称)はこれからまだ本当のお嫁さんに行かなくちゃいけないんだ……といつも云い続けていました」 口紅のグラスに残るビール哉 三十二年、東京映画に移籍。川島の大酒飲みと馬鹿遊び一流好みは松竹時代から有名だ。それがこの頃からますます凄まじくなる。「贅沢は敵だ」なる戦時中の標語を「贅沢は素敵だ」と言い換える御仁だ。また自分は四十まで生きられないという執拗で絶望的な思い込み。飲まなければいけなかったし、飲みつづけてやまないのだった。川島語録にある。「人間……生きて行くと云う事は悲しいことです。恥ずかしいことです」。こんな戯詩がある。 「雑詩」陶淵明 川島雄三訳 人生無根蔕 にんげんねもなくへたもない 瓢如陌上塵 みちにさまようちりあくた 分散逐風転 ときのながれにみをまかすだけ 此巳非常身 しょせんこのみはつねならず 落地為兄弟 おなじこのよにうまれりゃきょうだい 何必骨肉親 えにしはおやよりふかいのだ 得歓当作楽 うれしいときにはよろこんで 斗酒聚比鄰 ともだちあつめてのもうじゃないか 盛年不重来 わかいときはにどとはこない 一日難再晨 あさがいちにちにどないように 及時当勉励 いきてるうちがはなではないか 歳月不待人 さいげつひとをまたないぜ 川島は猛烈に飲んで、猛烈に映画を作った。するうちにある女性と容易ならざることになる。 三十七年のいつか、迎井千恵子、愛称チコ、以前からバー「おそめ」で顔見知りだった、彼女が独立して開いた店に通いつめ深間になる。チコは明治時代の高官の後裔で、学習院高等部出身の教養豊かな大人の女性だった。川島はその魅力に溺れて狸穴のチコの家に入りびたりになる。ところで川島の女性の好みは「タヌキ型容貌」だったとか。それでいえば前年、「女は二度生まれる」で女優開眼させた若尾文子は典型的なタヌキ顔だろう。一方、八重司夫人は「キツネ型容貌」の美人である。 ここに掲げる句をみよ。キツネと、タヌキと。彼はその間で大いに悩む。思い切れといったって、思い切れるものではない。この「桜桃」だが、おそらく同郷の先輩太宰治の同題の名作を意識しての作句だろう。小説の主人公は夫婦喧嘩をして「酒を飲む場所」に行き、出された「家庭の幸福」の象徴である桜桃を「極めてまづさうに食べては種を吐き、食べては種を吐き」つつうそぶく。「子供より親が大事」 しかし酷すぎる。どちらにしても一年もあるかないか。歳月不待人。まったくもって映画のラストシーン。ほんと嘘みたい。 三十八年、夫人にも気付かれず自宅で急死。死因は肺性心。享年四十五。 「川島映画をさらに面白くした共犯者」シナリオライター柳沢類寿は追悼した。「彼の俳号は「未央」と称した。未だ央ばであるという意味か……。その名に、私は彼の精神的な生命力を強く感じたものだ。川島雄三は、未央にして去った――というのは、故人に酷な墓碑銘だろうか……」(「未央」) 川島が偏愛した、その生涯と作品を象徴する、晩年の一句にある。 背のびしてミューズの蹠をくすぐらむ (『サヨナラだけが人生だ』昭和四十四年) *『花に嵐の映画もあるぞ』(川島雄三 河出書房新社)、『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』(藤本義一 河出書房新社) |