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恋歌 恋句 2002‐2003                                              




27. 西村恕葉

つけ髪が落ちるから待ってよ愛撫


 西村恕葉。いまだその名前は広く一般に知られていない。元旅芸人という異色の経歴をもつ川柳作家である。
 大正十三年、山形県に生まれる。本名、文子。数え年四歳、両親の樺太行きのため札幌の祖母に預けられ、五年後親元へ。しかし家族との折り合いが悪く、親に二度にわたり売られる羽目になる。高等小学校二年で子守に雇われ家を離れる。

  泣いて済まぬ事を他人は泣いてくれ

 十六歳冬、僻地の造林事務所の手伝いに(ここで川柳をやる人がいて手解きを受ける)。春、下山して極寒地の珍内炭坑へ。このとき親は百円という大金を手にしながら、オーバーの一つも送ってこない。なんとさらにもう一度、また百円でだ、身売りされんとすること。

  孤児一人加えて一座町を発ち

 昭和十七年、十八歳の年、札幌にあって「相沢正とその一座」なる剣劇一座に飛び込む。ほどなく「曾我廼家勝蝶一座」へ。ここに大先輩の芳太郎がいた。先輩は根っからの役者で、京都で山田五十鈴と同じ一座にいたり、東京で水谷八重子の舞台にも立ったが、流れ流れて最果ての旅の一座にいた。

  純情か手管か心知れぬ宵

 はじめは役者の身の回りの世話をしていて、やがてちょい役で舞台に上がるようになる。恕葉は芳太郎から役者のイロハから心構え万端を教わる。それから深間になるまで時間はいらない。

  あっと言わせて齢の差へ嫁ぎ

 恕葉二十歳、芳太郎五十三歳。まさに周囲をあっと言わせる結婚だった。旅に疲れた男と、愛に飢えた娘と。ときに三十三歳の年齢差もない。恕葉は夫から受けた恩を思い、これを「恩愛結婚」として、必ず連れ合いの死に水を取ると誓った。やがておめでた。このときの夫の喜びようったら。芳太郎は恕葉を抱きつつ囁いたとか。「お前を抱くんやない。子供を抱くんや」

  子といたいばかりに流転に生きた母

 翌年、男児出生。門付け、猿回し、テキ屋、サーカス団……。これは旅の途上で出会した多くの、芸人の母と子をいうだけでなく、恕葉の身の上のことでもあった。

  雪の日の不入りへやけな呼び太鼓

 旅暮らしは苦労つづきだ。三,四家族十数名が一座で興行を打つ。役の張り合い、賭け事の争い、痴話喧嘩、子育て問題、やくざとの取り込みもある。

  やくざ死す故郷の空の青も見ず

 旅の一座と土地の筋者。腐れ縁である、蠅と糞みたい。ともにアウトローなのだ。恕葉も身体を張り修羅場を渡ってきた。なんだって終戦の日、一座は函館にいて、玉音放送も知らず博打に興じていたと。この他国で果てるやくざは、また自分らの姿でもあるだろう。

  数々を欺して古りし牡丹刷毛

 二十九年、恕葉は子供の入学を迎え、十二年余の旅役者渡世に終止符を打って、旭川に居を構える。一方、夫は八十歳まで旅役者をつづける。子育ての悩み、家計のやり繰り。

  女とは所詮かなしき添寝する

 いきおい妻は夫に当たる。毎度馴染みの痴話喧嘩。そして後の暗い景である。するうちに溺愛した子供も成人し巣立ってゆく。
 ここに掲げる句をみよ。いまは寡婦のようにある恕葉である。それでも芯が疼きもする。これはその昔に夫と、切なく睦み合った、想いを詠んだものか。舞台裏か、化粧室か。いましもつけ髪をつけたまま忙しくおよぼう……。としばし現実に戻り自分に返っている。

  白髪を染めながらおんなを閉じてゆく

 五十五年、芳太郎死去。享年八十九。死に水は取った。
 平成二年、川柳歴五十年記念大会。恕葉はいまも最果ての地にあって川柳を作りつづける。恕葉なかなか酒豪ならしい。一度縁あれば、一献傾けたい。

  寝酒よし運が来ようと逃げようと

「川柳あさひ」昭和四十一年十月)

*『現代川柳の鑑賞』(たいまつ社)、「西村恕葉」北川弘子(『日本の名随筆 別巻53 川柳』作品社)




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