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恋歌 恋句 2002‐2003




26. 塩谷温

君帰れ、海の中には鬼多し、とくとく来れわが懐に


 恋は劇だ。古希をこえた漢学者がその昔旅先で書き残した色紙。それが縁結びとなり、うら若く美しい女性とロマンスが、なんて劇的にすぎる。それはさて恋は劇以上の何かであるか。
 「“古希の恋”実る塩谷温博士」「年齢こえた愛情で薄幸な元芸者と再婚」。昭和二十四年十二月二十一日、「朝日新聞」夕刊、そこに劇以上の出来事があった。
 明治十一年、東京に漢学を家学とする名門に生まれる。号は節山。三十五年、東京帝大漢学科卒業。大正九年、東京帝大教授。十三年、退官し同大名誉教授。中国近世の小説・戯曲の研究、紹介に先鞭をつけ、また詩文を善くして朗吟に長じた。
 こんな象牙の堅物が何故にまた? ここにその感涙スクープを、ちょっと端折ってみよう。
 昭和十七年、博士は新潟県長岡市に講演旅行に出掛ける。その折、宴席で詩吟を歌った当地の芸者きく乃(本名、長谷川菊乃)に、即興の漢詩を色紙に書いて与えている。
 酔余のそれから十七年。この間、きく乃は結婚するも、夫に裏切られ(のちに離婚なるが)、辛酸を舐める。困窮したきく乃は身の回りの物を売り払い出郷をおもう。だけどあの夜の色紙だけは手放さなかった。そして着のみ着のまま一枚の色紙を手に上京、東京駅近くの料理屋の住込み女中となる。その店の座敷できく乃は懐かしい博士の書に出会う。同店の改装を祝い博士が贈った漢詩だ。
 博士の色紙を持つ女中。その噂が当の博士の耳に入る。二人の感激の再会。この日、博士は想い出の色紙の裏に「十有七春秋云々」と長恨歌を綴りきく乃の純な心に答えた。
 それから三ケ月、博士はきく乃の不幸な半生に涙し、きく乃は昨年一月に夫人を亡くした博士を慰めた。するうちに二人の間に愛が芽生えている。もはや隠せない。博士は妻の墓前に一切を報告した後、意を決して結婚を申し込む。きく乃は肯った。だが自分のような女が妻として入籍すれば名門に傷がつく。きく乃は固く辞するが、博士の愛は変わらない。親族、旧知、門下の誰彼もみな、ひたむきな愛情に気圧されるばかり……。
 おそらくこの師走の美談にふれた読者は心熱くしたろう。だってこんな話はそんじょそこらに転がっていない。なにしろあの偏奇館主人、永井荷風が『断腸亭日乗』にこうも記している。
「十二月廿一日。寒雨午後に歇む。新聞記事に塩谷温氏七十二歳にて卅七歳の後妻を迎ふと云。老健羨むべし」
 荷風は博士の一歳下。「老健羨むべし」とはまた実感こもっている。このときに一大の漁色家も性欲衰え色事もとんとだ。それにしても荷風散人ならずも心底羨ましいかぎり。
 ところでいま博士について語ろうにも余りにも資料がなさすぎる。漢学者となるとまるきり雲上人とでもいうしかない。そんななかで偶然、出会したものがある。博士は東京帝大大学院に学んだ後、いっとき学習院大学教授を務めていた。その折、学習院高等科生志賀直哉、武者小路実篤らの演説会に招かれて講話をやっている。それを若い直哉が留めている。
 「蹈破る雲山万里の程(塩谷先生)
 妙な題だがこれは先生の詩にある句ださうで中々勇ましいものだ、……/先生は初めに、此度の修学旅行中の事を述べられた……終りに、先生は最初蹈破る雲山万里の程といふ覚悟で、堅忍持久の主義を以て旅せられたから遂に一度の失敗もなかつたと結ばれ、人生の行路も亦同じ事である」(「学習院輔仁会雑誌」明治三八年六月)云々、と。
 ここで博士は生徒の旅行に同行した経験にふれ、じしんの平生の態度におよび、さらに今後の人生の行路を示唆する。堅忍持久。これが博士の人となりを現す言葉だろう。蹈破る雲山万里の程。ひたすら学問に専念してきた。そうして老いを迎え良き縁を招き幸せを得ることに……。

 だがしかし、なんという。これはもう劇以上ではないか。なんとこの感涙のそれから一年半かそこらで突然なのである。いったいぜんたい何があったというのか。まったくいかなる懊悩、はたまた、齟齬があったものやら。
 二十六年七月二十日、「朝日新聞」を開いた読者は目を疑った。翌日分も含め一部転載する。

 塩谷夫人自殺か 散歩中急に消ゆ
【小田原発】小田原市十字二ノ二六〇室田さん方、東大名誉教授塩谷温博士(七三)と夫人菊乃さん(三七)は数日前同市荒久海岸を散歩中、菊乃さんが行方不明となり関係者が内々で行方を捜査、小田原市署でも調べている。……菊乃さんの遺書も発見されたといわれ、自殺したのではないかとみられている。 昭26・7・20
【小田原発】……十四日伊東海岸で発見された身元不明の水死者が菊乃さんであると十九日夕確認された。自殺か、過失死かハッキリしないが、日ごろ仲むつまじい間柄だっただけに、関係者は過失死と見ている。

 自殺と医師語る
【伊東発】菊乃夫人の死体を検視した高安医師は次のように語った。
 ポケットに石ころが三つ入っていたところから自殺と思う。 昭26・7・21(夕)

 博士、心境を詠む
【伊東発】塩谷博士は廿日伊東で夫人菊乃さんの死体を火葬にしたが、博士は棺の中に前夜手写した心経を納め「君帰れ、海の中には鬼多し、とくとく来れわが懐に」とその心境をよんでいた。 昭26・7・21

 ここに掲げる歌をみよ。まことに理解がいかず悲痛なあまり胸塞ぐばかり。なにも言葉はない。
 三十七年、死去。享年八十四。

(『朝日新聞一〇〇年の記事にみる@恋愛と結婚』朝日新聞社)



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