恋歌 恋句 2002‐2003
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荷風ほどに女性に人気のない作家はいない。荷風にとって女はあくまでも女体でしかない。 明治十二年、東京小石川に官吏の長男に生まれる。東京高等商業学校附属外国語学校に入学するも、落語家朝寝坊むらくの弟子になったり、学業を放棄、遊興費捻出のために文筆に精を出す。三十六年より外遊、四十一年帰国。『あめりか物語』『ふらんす物語』で文名を高める。日本の近代への幻滅から、戯作者の姿勢をとって、江戸情趣の残る花柳界に入りびたり、幾多の芸妓や私娼と情交を重ねる。『荷風句集』(昭二十三)にある。 色町や真昼しづかに猫の恋 葉ざくらや人に知られぬ昼あそび 半襟も蔦のもみじや窓の秋 襟まきやしのぶ浮世の裏通 四十五年、放蕩息子は父の厳命により、材木商齋藤政吉の次女ヨネと結婚する。しかしこれは形ばかりのもので、荷風はろくに家に寄りつかず、妾宅に流連けるありさま。 大正二年、父が死去すると、過分な遺産を相続。ヨネと離婚。翌年、愛人の新橋芸妓八重次こと内田ヤイ(のちの舞踊藤蔭流家元、藤蔭静枝)と再婚。翌年、これも離婚。また新橋芸妓米田みよを身受けし囲った後、待合を経営させている、と。ここで『断腸亭日乗』(大正六年から没年までの日記)をみよ。 昭和十一年一月三十日、五十八歳の荷風は「帰朝以来馴染みを重ねたる女」として十六人のリストをあげている。その表の末尾に「此外臨時のもの挙ぐるに遑あらず」と付記しており、『日乗』にその名を明記している者だけでも数十名もいる。その幾人かとの交渉にふれるだけで、荷風にとって女がどんな存在かわかる。つまるところ快楽の道具でしかないと。 うちの誰でもいい。一覧表の十二番、清元秀梅。この女との事におよんで、『日乗』にある。 「大正十一年八月三十日/晴。夜清元秀梅と牛込の田原屋に飲む。秀梅酔態妖艶さながら春本中の女師匠なり。毘沙門祠後の待合岡目に徃きて復び飲む。秀梅欷歔啼泣する事瀕なり。其声半庭の虫語に和す。是亦春本中の光景ならずや」 「欷歔」は、すすり泣くこと。「啼泣」は、涙を流すこと。ここで説明は不粋だろう。もう一人、十六番目の渡邊美代となると表註にこうある。「本名不明、渋谷宮下町に住み、夫婦二人づれにて待合に来り秘戯を見せる、/昭和九年暮より十年秋まで毎月五拾圓をやり、折折出会ひたる女なり、年二十四」 さらに「女ターザン」なる件まである。荷風の住む偏奇館に椎の大木があった。あるとき某女が素っ裸でその木に登りターザンを気どる姿をば、撮影していると仰天、蟻が局所に這い入り大騒ぎしたんだとか。「奇事百出、記すること能はざるを憾しむ」。なんてあらんかぎりの淫乱、漁色をほしいままにしている。 荷風に女は玩具だ。そうなのだが唯一と言っていい例外の女がいるのである。十三番の関根うた。「麹町冨士見町川岸家抱鈴龍、昭和二年九月壱千圓にて身受、飯倉八幡町に囲ひ置きたる後、昭和三年四月頃より冨士見町にて待合幾代といふ店を出させやりたり、昭和六年手を切る」として「日記に詳なればこゝにしるさず」と。そう表註にあるが、『日乗』を通読すると、「手を切る」とは二号関係だけで、うたとの交渉は長期にわたること、荷風はひどくご執心なのである。 「昭和二年九月十七日/……十五六の時身を沈めたりとの事なれど、如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり」 「昭和三年二月五日/……お歌はまだ二十を二ッ三ッ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、……いつも機嫌よく笑うて日を送れり」として綴るのだ。「こゝに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし、人生の行路につかれ果てたる夕、ふと巡礼の女の歌うたふ声に、無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし」 これだけ惚れた仲ではある。しかし男と女である。どれほどかすると二人の間に波風が立つようになっている。六年、うたの病気(病名不詳、ときに荷風の浮気も一因となる)をもって関係は解消している。だがさきに述べたようにその後があるのだ。 「昭和七年十一月三十日/午後お歌、夜具蒲団を仕立て自動車に載せて来る。真情感謝すべし。……冷静なる交情、さながら親戚の娘または真身の妹と相語るが如き心持となるものなり」 ここで言う「冷静……」とは、色気抜きの付き合いの謂。さらにこの後もちょくちょくと会っている。それから時は流れること、ときまさに太平洋戦争たけなわ。 十九年一月十八日。松も過ぎた夕、思はぬ人うたが突然、電話をよこし偏奇館に顔を見せる。『日乗』にある。「その後ふたたび柳橋に出てゐるとて夜も八時過ぎまで何や彼やはなしは尽きざりき、……老後戦乱の世に遭遇し、独り旧廬に呻吟する時、むかしの人の尋ね来るに逢ふは涙ぐまるゝまで嬉しきものなり」と。してここに掲げる句を詠んでいる。いったいあの荷風がこれほどまで手放しになるとは。ほんとうによほど嬉しかったのだろう。「此次はいつまた相逢うて語らふことを得るや。若し空襲来らば互にその行衞を知らざるに至るべし」 空襲下、二人ともに生き延びた。敗戦後、十年を経てまた行き来が始まる。その最後の逢瀬の記述にある。 「昭和三十二年三月六日/晴。関根お歌来話。午後浅草食事」 三十四年四月三十日、稀代の奇人は自宅書斎で布団から身を乗り出しこと切れている。享年七十九。 五十年十月、関根うた、病没。享年六十八。死の年の彼岸にも荷風の墓前に香華を手向けている。うたの思い出にある。「一生家庭を持たなかったわたくしが、振り返ってみて、先生との十年に満たない年月こそ、わたくしにとって一番楽しかった家庭的な時期だったと申せましょう」(岩波『荷風全集』月報20) (『断腸亭日乗』昭和十九年) *『荷風全集』(岩波書店)、『永井荷風傳』(秋庭太郎 春陽堂) |