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恋歌 恋句 2002‐2003




22. 尾崎放哉

わかれを云ひて幌おろす白いゆびさき


 漂泊の俳人放哉。いったいなにがあって彼は世を捨てるにいたったものか。そこに一人の女性の存在がある。
 明治十八年、鳥取県邑美郡吉方町(現、鳥取市)に裁判所書記の二男に生まれる。鳥取弟一中学校時代に俳句を作る。中学四年のとき、従妹沢芳衛(明治十九?〜昭和三十八)が、鳥取女学校三年に編入してくる。二人の出会いだ。三十五年、第一高等学校入学。翌年、一年上級の萩原井泉水が起こした一高俳句会に入る。この年、芳衛が日本女子大学国文科に入学。このときとばかり放哉は上京したての彼女の面倒をみたのだろう。いつとなし二人は心を打ち明ける仲になっている。
 三十八年、東京帝国大学法学部入学。放哉は勇を鼓して結婚を申し込む。しかし横槍が入った。東大の医科学生だった芳衛の兄静夫が、優生学上の見地から従兄妹の結婚に強固に反対。たしかに優生学上好ましくない面はあるだろう。しかし法律では四親等である従兄妹同士の結婚は認められている。法学部で学ぶ放哉が知らないわけがない。ときに二人は湘南は江ノ島に遊び夜通し語り明かした。放哉は芳衛に葉書を書く。「病気は如何にや、/諾、/我過まてり。」(明治38・10・18)
 ふつうこれぐらいで引き下がったりしない。だけどここまで順風満帆できたのである。それだけにこの一事はエリート学校秀才にはショック以上だったろう。いやなんだって小心翼々たるやからなのだ。これからただもう酒に溺れるようになる。
 ちなみに俳号の表記ははじめは芳衛から芳哉。この一件後、放哉とする。このとき彼は生涯ただ一度の恋を放下したのだ(芳衛は大学卒業後、縁あって結婚するが、間もなく兄の病院に戻り、その後は独身を通した)。
 四十二年、東大卒業。日本通信社に入社するが、一ヶ月で退社。翌年、板根馨と結婚。東洋生命保険株式会社に入社。大阪支社次長、東京本社契約課長に昇進するも、勤務態度はすこぶる悪し。大正九年、辞職。
 十一年、朝鮮火災海上保険株式会社の支配人の職を得て、「死に場所と定めて」京城に赴任。入社条件の禁酒誓約が守れず、一年で免職。「満州デ一働キ」せんと長春まで流れるが、肋膜炎を患い内地に引き揚げる。
 十二年秋、西田天香が京都鹿ケ谷に開いた修養施設一燈園に入園。以来、妻と別居(いったいぜんたい妻なる存在とは何であったのだろう)。一燈園では、早朝の読経、掃除に始まり、托鉢と呼ばれる奉仕行に出掛け、掃除、店番、看病など何でもやり、食事は施しで済ませる。病躯には過酷だ。放哉は休みがち、また泥酔しては、俺は帝大出だ、会社重役だと、くだまくこともしばしば。

  落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事

 十三年三月、托鉢で出向いた知恩院の塔頭、常称院の寺男に。しかし井泉水の訪問を受けた折、またしても酔い潰れ、寺を追い出される。
 六月、神戸須磨の須磨寺、太子堂の堂守に。ここに掲げる句はこの地でなった。いわば回想句である。「わかれを云ひて」幌のうちに消えたその顔。あるいは最後の江ノ島に遊んだ日の景が去来したろうか。瞼のうらの消えない「白いゆびさき」。
 十四年五月、福井県小浜の常高寺へ。何処にも安住の地を見出せない。放哉は井泉水に書く。「寂シイ処デモヨイカラ、番人ガシタイ。小サイ庵デヨイ。ソレカラ スグ、ソバニ海ガアルト、尤ヨイ」。ほどなく格好の場所がみつかる。

  海が少し見える小さい窓一つもつ

 八月、小豆島土庄町は西光寺の南郷庵に入る。「庵は六畳にお太子様をまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです。其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、……唯、これだけでありますが、一人の生活としては勿体ないと思ふ程であります」(「入庵雑記」)まずは食うこと。放哉は焼き米と焼き豆を主食に、井戸水をがぶ飲みし、空腹を満たす「新生活様式」を考案、お遍路さんのわずかな喜捨を支えにする。

  入れものが無い両手で受ける

 この句にはお遍路さんから両手を出して豆をもらう姿が重なる。だが遍路の季節が過ぎると苦しい。たよりは島の人の施しや「裏のばあさん」(南堀のシゲさん)のお裾分けだけ。そこで放哉は井泉水や「層雲」の仲間にせっせと無心の手紙を書く。
 空腹に堪え、句作に励む。しかしながら身体が言うことをきかない。朝鮮時代に患った肋膜炎が完治していなかった。「風邪、ナヲラズ、痰、咳……エライ事也……死ヌ哉、呵々」(「日記」大正14・10・17)。「火ヲ、オコシテクレル人モナシ、オ茶一杯クレル人モナシ、一人ノ病気ハ、全ク死ンダト同様也」(同10・23)

  せきをしてもひとり

 井泉水や友人たちは京都への出養生をすすめる。しかし病人は拒否する。もはやここでの死を決めていたのだろう。そしてなお俳句三昧に入るのだ。さながら自分から墓に入った心境なのやら。

  墓のうらに廻る

 十五年四月、結核に喉まで冒される。衰弱はなはだしい。井泉水宛てにある。「島はぬくうなりましたが腰がぬけましたよ、呵々」(4・4)。「中々、マダ死ニマセンヨ」(4・5)。四月七日、死去。枕元に「春の山」の句があった。さらば恋人よ……、さらば人生よ……。すべてみな烟のごとしか。

  春の山のうしろから烟が出だした


*『尾崎放哉全集』(弥生書房)、『放哉漂泊の彼方』(上田都史 講談社)



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