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ハンセン病。かつて癩病と呼ばれ患者はつらく厳しい人生を強いられた。病状が進行すると、眉毛が抜け顔面や四肢が変形を呈する。それが遺伝病と誤解された。そのことから古来、「天刑病」「業病」とも忌み嫌われ差別や偏見を生むことになった。古俳諧にある。 名にもさへ忌れし癩か死出の旅 明石海人、ハンセン病歌人である(ために長らく姓名、生年、本籍は不明だった)。本名、野田勝太郎。明治三十四年、静岡県沼津市に農家の三男として生まれる。大正七年、静岡師範学校本科第二部(現、静岡大学教育学部)に進学。二年後、教員免許を下付され、県内の小学校の教師となる。十一年、富士郡須津尋常高等小学校(現、富士市立須津小学校)に転勤、同僚の教師古郡浅子と出会い、恋に落ちる。翌年、結婚。二女を恵まれる。若い夫婦はつましくも幸せいっぱいの日々を送っている。 十五年初め、ある夜のこと。風呂上がりの夫の右肘に二センチほどの赤い斑点があるのを妻が見つけた。しばらくして今度は太股に三センチ大の斑点があらわれる。これがすべての始まりである。 同年春、東大病院の門をくぐる。「病名を癩と聞きつつ暫しは己が上とも覚えず」と詞書きする「診断の日」にある。 言もなく昇汞水に手を洗ふ医師のけはひに眼あげがたし 診断を今はうたがはず春まひる癩に堕ちし身の影をぞ踏む 癩の宣告は即、現世からの追放を意味する。昭和二年六月、明石第二楽生病院に入院。「二人の子を抱く妻の姿。事後十余年、運命は最悪にめぐつた。凡ての凶兆は悉く適中した」(「出郷」) さらばとてむづかる吾子をあやしつつつくる笑顔に妻を泣かしむ 鉄橋へかかる車室のとどろきに憚らず呼ぶ妻子がその名は 海人は治療に励む。三年春、楽生病院に一人の女性患者が入院してくる。泉陽子、二十四歳で夫と一児があった。ちょっと書きにくい。ここは海人と病友でその生涯と歌の顕彰に献身した松村好之著『慟哭の歌人』から引く。「アレは七月の初旬であったろうか。……物凄い雷鳴が轟いて土砂降りの雨となった。/都会育ちの陽子は恐ろしさに震え上がり、夢中で海人の部屋へ逃げ込んだ」 二人は男女の仲になり、人目を忍ぶ日々を送る。やがてことが浅子に露見するにいたる。なんとも罪深いことを! ここに掲げる歌をみよ。それがいかばかり贖いがたいことであるか。現実に会えない妻に夢で会えた、なのにその夢のなかでも救いなく諍うしかないとは。 この一件の深手もあり、しかも病状は悪化する。ひどい焦燥のなか、ほどなく新薬治療をたのみ和歌山県打田の佐野病院に転院。この間、次女が亡くなる。しかし報せを受けたのは葬儀の後だった。 ながらへて癩の我や己が子の死しゆくをだに肯はむとす 世の常の父子なりせばこころゆく歎きあらむかかる際にも 転院先でも効果はない。六年、楽生病院へ再入院。前掲書にある。「一瞬私はハッとした。二年ぶりに見た海人の姿は余りにも変わり過ぎていた。/あのふさふさとした頭髪や、秀麗だった眉毛はどこへ行ってしまったのであろう。どんよりとうるんだ目、だんごをつくねたようになってしまった鼻、指は脱肉して湾曲しはじめ、……」 七年、国立癩療養所・長島愛生園に移動。この前後、精神に異常をきたす。翌三月、浅子面会に来るも、反応なし。自殺未遂。松村の迅速な判断で一命を取り留める。この事件を機に、精神がすみやかに快復、猛然と俳句、短歌を作り諸誌に投稿し始める。十一年、失明。 眼も鼻も潰え失せたる身の果にしみつきて鳴くはなにの蟲ぞも ひとりなる思ひに耽る眼のあらば妻への便はものさむ夜を 十二年、当時の大手出版社改造社が全国から投稿を募り『新萬葉集』を企画。四十万首近く集まったなかから、なんと海人の歌が十一首も採られるのだ。癩歌人海人の名前は一躍有名になる。しかし酷すぎる。そのさき残された時はもうない。十三年、気管支切開、失声。 十四年二月、歌集『白描』が刊行される。その「前書」にある。 「癩は天刑である。……癩は天啓でもあった」 同年六月、永眠。享年三十七。 *『海人全集』(皓星社)、『よみがえる“万葉歌人”明石海人』(荒波力 新潮社) |