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恋歌 恋句 2002‐2003 




17. 吉野秀雄

真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ


 短歌の歴史は千年を超える。吉野秀雄は長い歌史上に残る相聞歌人だ。その歌は生の深処を強く照らす。
 明治三十五年、群馬県高崎市の絹織物問屋に生まれる。大正十一年、実業家を夢見て慶応大学経済学部に進学するも、肺結核のために中途退学。文学書、歌書に親しみ、歌作を始める。十五年、會津八一に手紙を書き教えを請い、以後、師事する。同年、学生時代に将来を誓い合った一つ年下の栗林はつと結婚。はつは看護婦代わりを覚悟して病人秀雄の妻となった。

息の根のうちしづめつつ時経たり屁をもらすさへひたごころなる
血をはきて何にすがらむたどきなし冷たき秀処を掴みゐるのみ

 大病なれば放屁だって大事になる。後者の「たどきなし」は、手立てなしの意であれば、ただもうおのが「秀処」を、チンチンをば握るほかないと。結核は死病だ。秀雄は昭和二年、四年、六年とほとんど隔年置きで肺患をぶり返し危篤に陥っている。病身であれば仕事もままならない。はつは人一倍丈夫であった。病人と四人の子供を抱えて頑張る。そこに戦局は逼迫する。秀雄は考えていた、妻子を置いて、自分は逝くかと。
 十九年夏、ほんとなんという。おそらく看病疲れだろう。はつが急に不調を訴える。検査の結果、胃壁に肉腫ができる難病と判明。

古畳を蚤のはねとぶ病室に汝がたまの緒は細りゆくなり
病む妻の足頸にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし

 はつは饅頭を作って子供らに食べさせ、身の回りを整理して入院する。戦時下であれば特効薬どころか、食料さえ満足でない。やがてそのときがきている。
 じつにその前の晩のことである。看護婦が銭湯へ出掛ける。そのとき信じられない。なんといまわのきわの妻が、最後の交情を、夫に迫ったというのである。いま死にのぞみ愛するものを欲する。ひたすらその肉体をむさぼらんと。そしてのち永遠の別れを告げんとする。
 ときにここに掲げる一首を含む「彼岸」八首がなるのだ。

これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹
ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす

 凄い歌だ。秀雄は書く。「……八月二十八日(死の前日の夜)の出来事であつた。看護婦が席をはづしてすぐ、「こんな死ぬばかりのからだになつても……」といひ出した亡妻の真剣必死の声をどうして忘れることができやうか。/彼女の人間愛の最後の大燃焼であり、炎々たる火焔の中に骸となつていつたと観るべきである。事ここに及べば、肉体も精神も糞もない。そんな分別は人間を全体として捉えることのできぬ青瓢箪者流のたわごとに外ならぬのだ――。ただこれだけをいふ。南無阿弥陀仏」(『自注・寒蝉集』)。翌二十九日、はつ死去。享年四十二。
 これに加える何があろう。秀雄は人間の奥深さ、愛情の不可思議にぶちのめされ、恐しくて歌になど詠めなかった。それが五ケ月後やっと、この挽歌をものして、ただ合掌したという。そしてこの歌について言うのである。「わたしは歌よみとしての誇りを感ぜざるを得なかつた」。ほんと絶唱である。なんとも肌に粟を生ずるような。
 四十二歳の病身の男と四人の子供が残された。同年末、秀雄の兄の世話でお手伝いが来る。八木とみ子、四十歳。キリスト教詩人八木重吉の妻であり、夫が三十歳で昇天した後、二人の遺児を育ててきたが、その二人とも病気で亡くしている。二十二年、結婚。席上、誓詞がわりに秀雄は詠んでいる。

これの世に二人の妻と婚ひつれどふたりはわれに一人なるのみ

 はつ、とみ子、二人ともまさに天から賜ったような良妻であった。こののち秀雄は八木の詩業を顕彰することに献身する。晩年、肺患と喘息と糖尿病とリューマチの四重苦に身動きもならない歌人は、歌を詠むことで耐え抜いた。
 四十二年、永眠。享年六十五。没後刊行の『含紅集』にある。

今ははや生も死もなし苦しめる物体一箇宙に釣り下がる


( 『寒蝉集』昭和二十二 )

*『吉野秀雄全集』(筑摩書房)、 『歌人の風景 良寛・會津八一・吉野秀雄・宮柊二の歌と人』(大星光史 恒文社)




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