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會津八一。美術史家、歌人、書家。雅号、秋艸道人。昨今の日本から絶滅した人種だ。元祖純粋、頑固居士。 明治十四年、新潟市に由緒ある料亭の次男に生まれる。中学時代より『万葉集』に親しむ。正岡子規に傾倒し、句作に熱中、やがて歌作も始める。三十五年、東京専門学校(現、早稲田大学)文科に入学。英文学を講じる坪内逍遙、小泉八雲に師事する。三十九年、早大を卒業、新潟県中頸城郡は片田舎の私立有恒学舎(現、有恒高校)に英語教師として赴任(四年間勤める)。この前後に八一に一世一代の恋愛がある。 渡辺文子。女子美術学校生だった八一の従妹周子の友人。南画家渡辺豊州の一人娘で、長谷川時雨の『美人伝』に「ネルのふみ子」として登場し、鏑木清方の美人画にも描かれた評判の美女。八一は文子にぞっこんになり結婚を考える。だがしかし真実はというと、あまりにも興醒めにすぎる。文子は八一にべつにこれと特別な思いはない。どうやらこれは一人恋愛だったらしい(その経緯は『野の人 會津八一』(工藤美代子)に詳しい)。 大勘違いの人生を決定する大失恋。以後、八一は生涯独身を通す。さらにこのときの痛手もあってだろう。四十一年夏、八一は初めて奈良に旅行。史蹟、古社寺を巡り、万葉調の歌二十首を詠む。 わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり いけ を めぐりぬ かさ さし ながら 傷心の八一は猿沢の池畔を散策する。天皇の寵愛を失って悲しみのあまり、池に身を投じた釆女の伝説が偲ばれてならない。春日野、佐保、秋篠、斑鳩……。熱に浮かされたように歩き廻る。これが奈良美術開眼のはじめ。 大正十三年、数次の奈良(南京)行脚中になった歌他を集めて、歌集『南京新唱』を上梓。昭和六年、早大文学部教授。いよいよ歌作、研究に精進、没頭するのだ。ところで男所帯はなにかと不如意なものだ。身の回りの世話をする誰かが要る。 八年、八一に懇願されて義妹の高橋キイ子(実弟の戒三の娘)が、下落合の秋艸堂に入る。ひとつ屋根の下に住まう。八一は五十二歳、キイ子は二十歳。これよりのち彼女が家事一切を仕切ることになる。 「獨往」、八一が好んで書いた語だ。なにぶん普通ではない。狷介不羈、傍若無人。とにかく気難しいのだ。まったく「瞬間湯沸器」というか。気に入らなければすぐに怒り出す。弟子に破門を命ずる。周囲と軋轢を起こす。誰もよく勤まらない。キイ子は涙を拭い歯を食いしばる。 十四年春、八一は風邪をこじらせ諸病(中耳炎、糖尿病、神経痛)併発し病臥。夏、看病疲れでキイ子が倒れる。十六年、キイ子の病は結核に進み、喀血を見る。八一も健康が優れない。十九年、キイ子を養女とする。二十年四月、米空軍の爆撃により自宅全焼。 わがやど の ちまき の ふみ の ひとまき も ゆるさぬ かみ の こころ さぶし も 千巻の書の全て一巻も遺さず灰燼に帰した。同月末、新潟県北蒲原郡中条町の親戚を頼り疎開。七月三日、キイ子の容態が深刻になる。周囲の人間に伝染の恐れがあり、二人は村の観音堂に移り住む。しかし詮ないか。十日、八一ひとりが看取るなか、キイ子永眠。享年三十三。秋艸堂に来てから十二年あまり、ひたすら八一に献身した一生であった。はたしてその衝撃はいかばかりか。八一は悲しみを歌に託する。一ヶ月後、ここに掲げる一首を含む絶唱「山鳩」がなる。山鳩の啼き響もす庫裏の静けさのなか、おまえはいまもう息を引き取ってゆく、眠り入るように……。 ひとのよ に ひと なき ごとく たかぶれる まづしき われを まもり こし かも いくたび の わが いたづき を まもり こし なれ なかり せば われ あらめ や も 人を恃まず孤高を持し、貧しく学芸の道を歩む自分を、おまえはよく守ってくれた。数度の「いたづき」(大患)の折も、寝食を忘れ看病してくれた、おまえがなければ自分はなかったろう。それにしてもあたら若い日を空しく過ごさせてしまったことか。いまさらながら老い衰えた八一は臍を噛みつづけるのである。なんとも罪深いことを……。 八一とキイ子。夫婦ではなかった、おそらくは、男女のそれでも。 三十一年、秋艸道人長逝。享年七十五。 (『山鳩』昭和二十) *『會津八一全集』(中央公論社)、 『秋艸道人 會津八一の生涯』(植田重雄 恒文社) |