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かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる せちがらいご時世つづきである。芸者、踊子、落語家、幇間らを侍らし、大尽遊びのはてに夢うつつ、枕の下をながれる水の音に憂世を浮いた浮いたで過ごす。まことにおおどかな時代にあった吉井勇のような御仁がしのばれてならない。 明治十九年、東京芝高輪に伯爵家の次男に生まれる。三十八年、肋膜炎を病み、療養中に歌書、文学書を耽読し、歌作を始める。与謝野鉄幹・晶子の新詩社に参加、「明星」に相次いで作品を発表。四十一年、北原白秋、木下杢太郎らと新詩社を脱退し、「パンの会」創立に参画。四十二年、石川啄木らと「スバル」創刊。戯曲にも手を染める。 四十三年、処女歌集『酒ほがひ』を上梓。青春放蕩の歌で一躍評判を呼ぶ。表題の「ほがひ」は、寿ぐ、祝う意で、さしずめ「酒礼讃」ぐらいか。だが「ほがひびと」といえば乞食のこと、だから「酒乞食」となるか。 わが胸の鼓のひびきたうたらりたうたうたらり酔へば楽しき たはれめは男の数かぞへつつ君にまさる子なしと言ひける 桜よりうまれしひとに抱かれぬかの歌麿の浮世絵のごと この艶冶たる境地。与謝野晶子は言う。「私は人麿――和泉式部――西行――さうして勇――といふ順序を持つて、日本の歌は大きな飛躍をしたと信じています」(『吉井勇全集』序) 大正四年に『祇園歌集』、五年に『東京紅燈集』を刊行。あかずに勇は艶情の歌をうたう。十年、伯爵柳原義光の次女徳子と結婚。さりながら市井彷徨はやまない。だがしかし「歌麿の浮世絵のごと」という絶頂の青春譜はそこらまで。たちまち宴は果てている。昭和八年、離婚。爵位を返上して隠棲を決意する。勇は追われるように旅に出る。歓楽はてての哀感。このときから別の人生が始まるのである。 九年、『人間経』を刊行。この一集で情痴の世界から一転、人生の悲哀に正面に真向かう。杯を口にしたとて酔えない。好き心もいっこう動かない。バッカスよ、ヴヰナスよ、いまいづこ われまた艶生涯とみづからの伝には書けどさびしわが世は 風雲の児とならばやと思ひたることもむかしの夢なりしかな われとわが野晒し姿まざまざと目にこそうかべ夜半のまぼろし 艶生涯から寒生涯へ。風雲の児が見る野晒し姿。同年、土佐高知は韮生の山峡、猪野々に流れ着き、草庵渓鬼荘を結ぶ。この庵の名をめぐって勇は書く。庵の下が深い渓谷になっていたのと「そのころは「死」ということばかり考えていた」こと、それが結びついての命名という(「渓鬼荘」)。そこはひどく寂しいところだ。 寂しければ火桶をかこみ目を閉ぢて盲法師のごともあり夜を 寂しければ目閉ぢ口閉ぢ涙頬をつたふにまかせ仰寝するかも どうしようもなく寂しくてたまらない。不遇孤独のどん底にある老世之介。ときに遠くから暖かい便りを寄こす女がいた。 十二年、勇は渓鬼荘を出て高知市に移る。これが再婚のため。相手は国松孝子。かつて文士仲間で浅草一の美人と謳われた、仲見世に近い料亭「都」の看板娘だった。孝子は勇の窮状を救うべく高知へ駆け付ける。翌年、二人は京都へ移り住む。のちに勇は綴っている。「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」(「私の履歴書」)。これから終焉の時まで勇は妻孝子を詠う吾妹子歌を夥しく遺している。 ここに掲げる歌をみよ。これは「形影相憐」(形影とは夫と妻。老夫婦が孤独に、愛し、労り合う意)と詞書きする一連にある。説明は不要だ。ただもうただ御伽話の好々爺と好伴侶がいるばかり。 三十五年、永眠。享年七十四。 すやすやと寝息かすかに立つるのみひそけきかもよ妹の夜の閨 (『残夢』昭和二十三) *『吉井勇歌集』(岩波文庫)、 『吉井勇』(小高根二郎 沖積社) |