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なんとも艶っぽい句でないか。これがあの大監督のものとは。 明治三十六年、東京深川万年町に生まれる。今年(平成一五)は生誕百年。サイレント期の出世作「生まれてはみたけれど」(昭和七)から、遺作「秋刀魚の味」(昭和三七)まで、名匠小津のフィルモグラフィーはまさに名作目白押し。しかしここでは映画にはおよばない。意外だろうけど俳句にふれてみよう。 小津と俳句は如何。俳句に通じた映画人は少なくない。有名なのは五所平之助だろう。だけど五所の松竹蒲田での仲間、小津がまた優れた俳句の作り手であったことは余り知られていない。ちなみに小津の大船時代の後輩、川島雄三も句作をよくした。 『全日記 小津安二郎』(フイルムアート社 平成五)。昭和八年から三十八年にかけて、日記を記した手帳三十二冊を全収録した大冊。このうち戦前、八、九、十、三年分に載る句歌の数は百を超える。これがまあ良ろしいのだ。 「晩春」「麦秋」「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」。まずはその歳時記風タイトル。むろんその映画的結構は言わずもがな。小津の俳句への造詣は大抵でない。 青梅も色づくまゝに酒旗の風 旅人宿のぼんぼん時計や日のさかり 鯛の骨のどに立てたる夜長かな 寒鯉やたらひの中に昼の月 この上品でほのぼのとした仕上がり。どこかさきに挙げた名作の一シーンが浮かぶおもむき。小津はなるほど俳句においても小津。いたずらに情感に流れたりしない。清澄で静謐。じゅうぶんに抑制を利かせている。小津は酔うとよく言ったそうな。「ぼかあ、一生涯かかって、ほんとうにうまいトウフをつくりたいんですよ」 句もまたうまいトウフの味。それはそれで結構このうえない。だがいまこちらの関心はどういうか。もうちょびっと生臭いところにある。なにしろ有名監督ではある。まわりに美女軍団がはべる。これは戦後のだが、こんな記述もある。「このところ 原節子との結婚の噂しきりなり。」(昭26・11・17)。 堅物でない、洒脱である。いやさぞやモテモテだったろう。みるとなかに散見される艶っぽい断片がちらばる。でそこに華やぎを見せる句があると。それが誰かと思いきや、相手はというと銀幕のスターならず、これが知る人ぞしる。 小田原は灯りそめをり夕心 明けそめし鐘かぞへつゝ二人かな 小田原は紅灯の街宮小路、清風楼の芸者、栄女(千丸)。二人は昭和十年に出会った。ときに男三十一歳、女十九歳。男は「嫁のはなしなどあり不愉快なり/若ぼけになりたくないからなあ」「殻を背負つた蝸牛は/あのなめくじをどんなに羨ましく思つているか/その殻を持たない点に於いて/動物学的にみてその優劣は僕は知らない」と記す。縁談は舞いこむ、世間の目はある、仕事は忙しい。だがそこをおして栄女のもとに日参するぞっこんぶり。 いやまあお熱いことったら。ここに掲げる句は「口づけをうつつに知るや春の雨」と対をなすが。じつにいい絵になっている。 栄女がどんな女人だったか。シャイなこの人は洩らしていない。しかしなにやら面白おかしいことに。小田原在の「物置小屋」の作家、小津の恋敵(?)、川崎長太郎が二人の恋の行く末を虚実半ば作品にしている。「裸木」「恋の果」「捨猫」等々。栄女は横浜は山手の棟割り長屋に私生児として生まれ、賃仕事で細々暮らす母の手ひとつで育てられ、小学校を出る早々、当地の芸者屋に売られてきた。美貌で気っ風がよく、評判の売れっ子だとか。 十二年、小津応召につき、一時疎遠になる。だけど戦後も二人の往来は絶えない。周囲も夫婦になるものとにらみ、当人も満更でもなかったようだ。それがついに結ばれないのだ。どうして何があって。男は「人とちぎるなら浅くちぎりて末までとげよ」「恋とは人生を極めて小さく区切るファインダーだ/シャッターをさう簡単に切ることをやめたまへ」と記す。どうやらそこらに真実があるとおぼしい。つくづく男と女は難しいよな。 君が忘れし舞扇ひらきてみつ閉ざしてはみつ 生涯独身。小津は母と晩年を過ごし、母を看取った翌年、三十八年十二月、六十歳の誕生日に永眠。墓碑銘は「無」。栄女、生没不詳。 千丸の洗髪こそ侘びしけれ |