大正十二年九月、関東大震災。この際の白色テロルは凄惨であった。震災の混乱のなか、大杉栄・伊藤野枝夫婦の虐殺事件があり、朝鮮人の大量虐殺もあった(「朝鮮人が井戸に毒を入れる」というデマで、二千六百余名もが殺害される)。このとき皇太子(後の昭和天皇)爆殺謀議をでっち上げられ、大逆罪に問われたカップルがある。世に言う「朴烈・金子文子事件」だ。
明治三十七年(?)、文子は山梨県に生まれる。生年に(?)を付すのは、出生届が出されぬ「無籍者」のまま両親が離別したため。九歳で朝鮮に住む祖母と叔母に引き取られる。しかし祖母と叔母は辛くあたり、文子は自殺まで試みている。その後、日本に戻ってからも、母の実家や親戚を転々とする。やがて上京、新聞売り、夜店、女中奉公など、受験勉強をつづける。するうちに文子はステイルナー、ニイチエの思想に触れ、キリスト教救世軍に入ったり、社会主義者と交わるうちに、朴烈とめぐり合う。
朴烈(パク・ヨル。本名、朴準植)。一九〇二(韓・光武六)年、韓国慶尚北道生まれ。京城高等普通学校を中退して来日。祖国独立運動から無政府主義に接近。十一年、文子と朴烈は同棲。「殆ド私ト同様ニ権力ニ叛逆シテ生物ノ絶滅ヲ期スル思想ノ持主」二人が「主義ニ於テモ同志デアリ協力者トシテ一緒ニ」(『調書』)なり「不逞社」を組織して「太い鮮人」を発行。反権力と虚無思想において一致する同志的愛情で強く結ばれ、ともども民族独立と階級全廃の運動に立ち上がる。なぜまた皇太子を爆殺しようとしたか。「私ハ予テ人間ノ平等ト云フ事ヲ深ク考ヘテ居リマス」として、文子は述べている。「天皇、皇太子ハ少数特権階級者ガ私服ヲ肥ヤス目的ノ下ニ財源タル一般民衆ヲ欺瞞スル為メニ操ツテ居ル一個ノ操人形デアリ愚ナ傀儡ニ過ギ無イ事ヲ現ニ搾取サレツツアル一般大衆ニ明ニ」(第一二回調書1924・5・14)するためだ、と。
十五年、死刑判決(のち無期懲役)。その折に手渡された「特赦状」なるものを、文子は「人の命を勝手に殺したり生かしたりして玩具にしておきながら、何が特赦なものか。私の命は、あんたたちの勝手になんかさせるものか」と叫び、破り捨てたとか。
ここに掲げる一首は「獄舎に想ふ」と題する一連にみえる。「誰がために」は、愛する人、朴烈。「コスモスの花」は、死を決めた、文子。
手足まで不自由なりとも死ぬといふ
只意志あらば
死は自由なり
大正十五年七月二十三日払暁、獄中に繋がれること三年、宇都宮刑務所にあって縊死。享年二十二?
ギロチンに斃れし人の魂か
庭に躑躅の
赤きまなざし
ときに鉄格子に麻糸を結わえ縊れた文子は「赤きまなざし」に何を視たろう。いっぽう、『獄中手記 何が私をかうさせたか』(昭六)に「私は朴を知つている。朴を愛している」「死ぬなら一緒に死にませう。私達は共に生き共に死にませう」と呼びかける愛しい人は?
昭和二十年、朴烈は二十二年余の獄中生活から解放され、のち出国。朝鮮戦争中に北朝鮮に連行される。四十九年、死去。享年七十七。
(『金子文子歌集』昭五十一)
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