home
恋歌 恋句 2002‐2003




5. 芥川龍之介

たまきはるわが現し身ぞおのづからなる。
赤らひく肌をわれの思はずと言はめや。


 芥川龍之介は自意識人間だ。佐藤春夫の「彼は窮屈なチョッキを着てゐる」という龍之介評は有名である。
 明治二十五年、東京は京橋に生まれる。生後九ヶ月にして母が狂死、叔父夫婦の養子となる。この出生の秘密が人格の形成に影落とす。彼は幼くして暗く閉ざした。はたしてこの人にチョッキを脱ぐような恋があったか。
 大正十三年夏、軽井沢、旅館「つるや」。龍之介と偶然同宿した聡明な名家の未亡人。二人はここに夢のような時をともにする。歌人、翻訳家の片山広子(筆名松村みね子)。亡き夫は日本銀行理事。大森の邸宅は文学サロンをなし、憧れる作家や詩人が多く集った。その無口でまた清楚なこと、フアンの室生犀星や龍之介は彼女を「くちなし夫人」と呼んでもいる(龍之介の弟子堀辰雄は『聖家族』『物語の女』で美しい広子を描いた)。
 このとき広子は四十五歳で年頃の二人の子持ち。いっぽう龍之介は三十一歳で二児の父親だ。相寄るにふさわしい相手とはみえない。それがこの一ヶ月の間ひそかに愛が芽生えている。あるとき二人は宿の主人の案内で追分に遊んでいる。広子の歌にある。

 かげもなくしろき路かな信濃なる追分のみちのわかれめに立つ

 あるいはときに二人は運命の「わかれめに立つ」想いに駆られたろうか。龍之介は友人宛てに書く。「もう一度二十五歳になつたやうに興奮している。事によると時候のせゐかも知れない。事によると、何か書けるかも知れない」。さらに広子はこうまで心熱くする。「わたしたちはおつきあひができないものでせうか」
 だがしかし悲しいかな。年齢、世間、家庭……。あまりにも難しすぎる。翌十四年十一月、広子の手紙。「たつた一年のあひだに、一世紀もとし老いたやうな気がしました。知るといふ事ほど、人をとしよらせるものはありませんね」
 この訴えにどう応える。それがここにおよび彼は暗く閉ざそうとするばかり。そしてその胸の内を歌に託しはじめる。それも詩形上からもじゅうぶん技巧的にして。『或る阿呆の一生』の「三十七 越し人」にある。「彼は彼と才能の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の叙情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した」。これが万葉時代の歌体旋頭歌(五七五・五七五と片歌を反復する)形式を典雅にも駆使した相聞歌「越びと」二十五首連作である。ここに掲げる一首をみよ。
 「たまきはる」は「わが現し身」の「わ(吾)」にかかる枕詞。「赤らひく」は明るく光る、赤みを帯びる意で「肌」にかかる枕詞。一首は「わたしとて生身の男であるものならば/なんであなたの肉体を想わないでいられよう」というところか。しかしこれはあくまでも歌のなかだけのできこと。つよく心は通じあっているものの、ついに体の交わりにはいたらない。
 恋愛という危機からの脱出……。それほどまで彼は窮屈なチョッキを脱いでいない。昭和二年七月二十四日、劇薬「ベロナール」「ヂエアール」等を多量服用して自殺。享年三十五。枕元に遺書とともに残された「ある旧友へ送る手記」と題した原稿にあった。「……僕の知つてゐる女人は僕と一緒に死なうとしたが、それは僕等のためには出来ない相談になつて終わつた……」。
 三十年後の三十二年、病苦と孤独のうちに、広子永眠。享年七十九。

(「明星」大正14・3)



contents library contents home