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女は強い。齋藤茂吉と妻輝子。二人のありようをみるにつけその思いはいやましほとんど確信にちかいものになる。柿本人麿以来の大歌人茂吉。まったくこの人物にして「をさな妻」をまえに男として夫として形無しなのである。女は怖い。 明治十五年、山形県南村山郡(現、上山市)に農家の三男として生まれる。二十九年、上京し縁戚の浅草病院(齋藤喜一郎、のち紀一)に寄宿。三十七年、正岡子規の「竹の里歌」を読み、模倣歌を作る。以後、歌作に精進する。翌三十八年、齋藤家の次女輝子の婿養子として入籍。九年後の大正三年、結婚。ときに茂吉三十二歳、輝子十八歳。書生の分際が富裕の令嬢と。これぞ逆玉である。さぞや茂吉は幸せの絶頂だったろう。 ここに掲げる歌をみよ。これは結婚の四年前、東京帝国大学医科大学を卒業した年の歌稿「をさな妻」の一首である。あるいは病臥した折の詠草だろうか(前年、茂吉は腸チフスで入院している)。熱に浮かされつつなお未来の妻を身も心も細るまで守り愛しまんという熱い心のほとぼしり。さらにこんな歌もみられる。 をさな妻こころに持ちてあり経れば赤小蜻蛉の飛ぶもかなしき なんともけなげである。なんともいじらしい。さぞや新婚生活は幸福一杯だろう。人もうらやむスイートな日がつづいている。だがしかしなんという。わけがわからない。 詩は現実を裏切る、それにもまして、現実は詩を裏切る。茂吉がみた結婚の現実とは。なんと「妻にそむかれ、くつ下の穴のあいた部分に墨をぬつている」自分の姿だった。 昭和八年十一月八日、新聞にこんな見出しが躍った。 「医博、課長夫人等々 不倫・恋のステップ 銀座ホールの不良教師検挙で 有閑女群の醜行暴露」(東京朝日新聞) 「博士夫人や女師匠 不倫のステップ エデイー・カンター眸の誘惑 ダンス教師の毒牙に」(東京日日新聞) 姦通罪があった御時世である。記事は報じていた。銀座ダンスホールの田村一男なる不良ダンス教師。田村は同ホール常連の有閑マダム、令嬢、女給、清元師匠、芸者等を華客に情痴のかぎりをつくし、目にあまるその不品行に、警視庁不良係も捨ておけず同人を検挙。取り調べると、有閑女群のなかに、青山脳病院長でアララギ派の歌人齋藤茂吉医学博士夫人の名前も……。 いったいぜんたい何でこんなことに? 勝手気ままな御嬢様と、田舎育ちの婿養子。何もかもまるで違いすぎるのだ。二人の長男齋藤茂太さんが「茂吉と輝子」(『回想の父茂吉 母輝子』所収)に書いている。父は「内省的かつ非主導的であり、内向性」、母は「非内省的で主導権をにぎり、外向性」であると分析していう。「基本的には茂吉と輝子は「油と水」の関係である」「これは常識的に会いっこない夫婦である」「両者の最悪の要因はニュアンスは異なるが頑固で融通が利かない点にある。さらに要求水準が高い点も共通している」云々。そしてこう加えている。「輝子への不満が茂吉の文学活動を大きく推進したという考え方も成立する」 なるほどものは考えようである。茂吉は「をさな妻」のために、それこそ心まで細るような思いをしながら、生涯ひたすら歌を太らせていった。 いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも (『つきかげ』) 昭和二十八年、茂吉永眠。享年七十。五十九年、輝子長逝。享年八十七。 (『赤光』大正二) |