2. 伊藤左千夫 |
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牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる 教科書のこの歌、また落涙小説「野菊の墓」で、知られる伊藤左千夫。まさにこのお人は教科書的、刻苦勉励の塊でこそあった。 元治元年、上総国武射郡殿台村(現、千葉県成東町)の農家に生まれる。小学生にして漢文素読に励む議論好きの少年で、政治家を志す。明治十四年、明治法律学校(現、明治大学)に入学するも、眼疾のために退学。十八年、京浜間の牛乳店に奉公、四年後、独立して牛乳搾取業をはじめる。そのかたわら同業の士の薦めで和歌を学び、作歌に精を出すようになる。折しも短歌革新の熱に燃える正岡子規が新聞「日本」紙上に「歌よみに与ふる書」を発表、これに心服した左千夫は子規の門を敲く。ときに師子規は三十二歳、新弟子は三十五歳、もちろん門下の最長である。しかし努力家である。なんとこの牛飼いは歌の道に励んで倦まないこと、ほどなく幾多の俊英に長じて、しまいには師没後の根岸派を宰領するにいたる。 「馬酔木」(明三十六)の創刊、さらには「アララギ」(明四十二)の発行。左千夫は歌作、歌論をよくし、後進の育成に努め、「新しき歌大いにおこ」すことに大いに寄与した。なるほど歌の道では名を得るにいたった。しかしその生活はおよそ安寧とはほど遠いものだった。四十三年前後、左千夫は沈痛な事態に見舞われる。度重なる水害と不景気による窮乏、また愛児の水死や近親の不幸が相次ぐ。そんな折もおりに、ちょっと考えられない。 いったい何がどう違ったやら、この人が不惑も半ば、がぜん女にとち狂ったのだ。惚れた腫れたもなんと、お三方のご婦人と、死ぬの生きるのとくる。 一人目は戸村ふじ。ふじは左千夫家の住み込み女中。左千夫は歌っている。 紫の藤の名はうれし玉の緒にかけてかなしき人の名故に いやまあ「うれし」げなこと。だけどこのお手つきを奥方が見のがすはずがない。でもって家に居づらく、左千夫は本所に間借り生活をする。そこで今度は、その同じ下宿に住んでいた十九歳の娘、岡本チカに身も世もなくなる。チカは左千夫を「爺つさん」と呼んでいたとか。チカが新潟は黒姫山麓の村に帰郷する。すると左千夫はいそいそと出掛けてゆく。 まちまちて得てし汝が文手にとると吾手をののく心もどろに だけどこの恋はチカの病のために終わっている。左千夫の手紙にある。「おまへもからだをたいせつにはやくたつしやにおなんな(さ)い さよなら かしく」(明45・5・29) しかし懲りない。この前後、左千夫はまたもや、近所のうら若い寡婦、本田ふくと深間になっている。ときに左千夫はここに掲げるような熱く胸のうちを歌っているのだ。 このしだいは「年寄の冷みづ」(長塚節)のすることか。なんだってまた教科書的、刻苦勉励の人のこの期に及んでの情痴小説風、多情多恨ぶりときたら。左千夫の語録にある。「真の恋は天恵である。発見である。さうして人間最大の芸術である」「世の中に恋の満足程完全無垢のものはない」 大正二年、後半生恋狂いし恋の歌夥しく遺し左千夫死去。享年四十九。そしてその相方の三人、ふじ、チカ、ふく、消息を子細にしない。ただともにその花のかんばせ、『野菊の墓』の民子を偲ばせる女人であったと伝わる。 (「アララギ」明治45・1) |