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一葉が新札の顔に! いったいどんなわけでこの度のお出ましとなったものやら。なんともこれほど残酷かつ皮肉なニュースもない。 一葉はまことに貧乏だった(なにしろ一葉という筆名からして、達磨が芦の葉の舟に乗っている絵から「お銭がない」という洒落と、じしんの窮状をひっかけたものとか)。つくずくお金に縁がないこと、短い生涯に多く、とことんお金に苦しみつづけた。そしてそれがお金だけではない。さらにこの幸い薄かった一葉はまた恋に苦しんだのだ。 明治五年、東京に官吏の家に生まれる。本名、なつ。十一歳で小学高等科第四級終了をもって中途退学。十四歳の年、中島歌子の主宰する歌塾萩の舎に入門、和歌を学ぶ。二十二年、父則義が多額の負債を残し病死。一家の責任が一葉の肩にかかることになり、母と妹の三人暮らしを支えるため、針仕事や洗い張りを引き受けて生計の足しとする。だが暮らしはなんとも苦しい。そんな折、萩の舎の姉弟子田辺龍子(号花圃、三宅雪嶺夫人)が、小説『藪の鶯』を刊行して、評判になる。それに刺激を受けた一葉は文筆で立つ決意を固める。二十四年四月、十八歳の一葉は弟子を志願して小説家半井桃水の門を敲く。ときに桃水は三十一歳、東京朝日新聞の記者で同紙に通俗小説を書いていた。はじめて桃水を訪れた日の日記に一葉は書く。「色いと白くおだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」 それほどまで師桃水は美男子だったらしい。しかも妻を亡くして独身だという。女弟子は初対面で一目惚れ。以後、月に二度、三度、小説の添削を乞う。桃水は一葉の苦しい身の上を察し、じつに心細やかに、暖かい援助の手を惜しまなかった。訪問する日毎にその思慕の情はつのる。一葉は切ない胸の内を筆にしたためる。「切なる恋の心は尊きこと神の如し。風情うかぶべからず。凡眼みるべからず、歌へども及ばず。描けどもならず……」 翌年三月、桃水が創刊した「武蔵野」に処女作「闇桜」を発表する。するうちに二人の仲は周りの知るところとなり、さまざまな雑音が一葉の耳に聞こえてくる。その一つが、半井家に同居していた女学生の鶴田たみ子が出産するのだが、その相手が桃水とされた一件。じつはたみ子の相手は桃水の弟だったのだが、一葉は後々まで、このとき生まれた女児を桃水の子だと思い込みつづけた。 非難と中傷はやまない。やがて萩の舎でその交際が醜聞化し、一葉はみずから心なくも身を引く。その際の手紙に訴う。「私は唯々まことの兄様の心持にていつまでもいつまでも御身にすがり度願ひ御坐候を……」 と、絶交をいいながら未練たっぷりである。別れようといったって別れられるものではない。桃水のもとを去った一葉はこれより後ひどい頭痛に悩まされる。それに相変わらずの金欠つづき(いちじ吉原近くの龍泉寺町で、荒物と駄菓子の小店を開いてもいる)。 おもうに一葉はいまだ古い明治の女であった。こののち数年して「われはつみの子にて候」と、妻子ある師鉄幹のもとに飛び込んでいった與謝野晶子はどうだ。そしてそれはその歌についてもいえる。晶子は直情的だが、萩の舎流の旧派和歌を学んだ、一葉は内向的だ。ここに掲げる一首をみよ。いや切ない。じつにつらくも切ないたらない。一葉は想う人を玉すだれの向こうにして、ただもう胸中の騒ぎを抑え文机に向かうばかり。はてに「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」「たけくらべ」ほかの傑作がなる。これらすべてが死の直前の十四ヶ月に書かれたという。 明治二十九年、まことに貧困と悲恋のきわみ、一葉は栗粒結核で夭逝。享年二十四。その死から三十年後、大正十五年、桃水永眠。いまはもう一葉の影の存在として知られるきり。 (歌稿「戀の哥」明治二十五年) |