home
尾形亀之助 『障子のある家』 私註



『障子のある家』 第八日 〔07・03・07〕 


8. 印





 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ樋をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飲み歩きたがる習癖を、今年は銭がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭団をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も私に話かけてゐたのではない。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと気がついて、自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事実であれば自分といふものが何処にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。
 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが来年か明後年かのことに就てゞあつても、机の上の時計位ひはわざわざネジを巻くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた。私はつまらなくなつてゐた。気がつくと、私は尾形といふ印を両方の掌に押してゐた。ちり紙を舐めてこすると、そこは赤くなつた。


 
  いったいここでは何からまたどう語りだしたら。これはかなり恐い詩ではないのか? そのように思わせぶりにして先にすすんでみる。
 でまずもって恐いところは、やはりこの出だしのあたり。
庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で 糊がへげて落ちてゐた。
 いっけんなんでもなさそうではある。だがこの「造花の椿」の存在は何かとなる? とするとことありげにみえてこないか。
 「庭の椿」。これは再度の登場である。はじめ「三月の日」にある。「陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる」と。ところでなぜ造花のそれを「枝にくゝりつけて置いた」ものなのやら。それは容易に「酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリン」(「秋冷」)を連想させる。
 しかしながらふたつは同じものではないだろう。ひょっとしてこれも酔った余りのことであるか。そうかどうかはさておいて、なんという底意というのか、のようなものがありそうだ。だとしたらいかような戯れ心があったものやら。わたしはそこにひめた思いのほどをみたいのだ。
 ところでこの日もいつもと変わったふうはない。これはあるいは北国の生まれだろうからか。なんだろう「雪が降ると街中を飲み歩きたがる習癖を」お持ちなのだが、あいにく「今年は銭がちつともないといふ」もの悲しげなようす。でいたしかたなく「障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭団をつゝいて坐つてゐたのだ」というぐあいだと。そいでいつもと同じように塞いでいるのらしい。
 つづきここから行の運びといったらいいか。どういうかどうも心の動きがへんなのだ。
 「私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も私に話かけてゐたのではない」。それはそうだろうに。「それなのになんといふ迂濶なことだ」。とはまたどういう。
 それはいったい何ではあるのだろう。なんだかこのとき詩人に「なかなか容易ならぬこと」が惹起しているのである。ふつうならあり得ないようなことが。
私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、
 「新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人」
 おわかりだろう。それはもちろん雲上のやんごとない、天皇・皇族、でおありなこと下々であるはずない。そうなのである。
 それがこともあろうにもだ。ほんとうに畏れ多くもである。なんというかかんというか。
「ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは」
 などとなにをまた不敬も大不敬かたじけないったら。わけのわからない、ぜったい、あってはならない。いやとんでもない間違いも大間違いなことをだろう。
 そうだけどなんだかこの「私」のすっとぼけぶりといったら。なんだって「自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり」というようす。まったくこんなふうにぶっ飛んでしまっているのである。
そんなことが事実であれば自分といふものが何処にもゐないことになつてしまつたりするので、
 おわかりいただけるかしら。これはかなり恐い詩ではないのか? とそのように頭に振ってはじめた。それはこういうことである。
 いまここであわてて忘れないまえに書いておくならばそうである。「造花の椿」と、それは「糊がへげて落ちてゐた」のだが、「幅の広い写真などの出る人」と。つまるところふたつは同じものとして考えられているらしいこと。
 あえていうならばである。すなわちともに、何にも誰にも替わり得よう物、ということわり。そういうことではなくて。
 とはだがこれはそれぐらい。とたん話の腰はぽきんと折れるのだ。ここでいつもの突然の改行、しかもまたしても「三十一」問題にかこつけるようにして、進路の変更とあいなるのだ。そんな聞き分けのない子みたいに。こんなことをのたまうのだ。
 「何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、……机の上の時計位ひはわざわざネジを巻くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか」
 まったくなんとも是非もないとはこのこと。それにしても「わざわざネジを巻くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいでは」なんて我を通すことったら。なんやまあこんな難癖をつけるようなしまつ。
 「人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう」
 いわんとすることは、わからないでもない。しかしこんなことを、いわれてもなあである。
 つづき「――だが」なんて。以下いささかおかしい脱臼したみたいな接続のしかたでつづける。こんなふうなぐあいに。
 「今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた」
 そしてさいご。「自分にも自分が不用な日」。そのおしまい。
気がつくと、私は尾形といふ印を両方の掌に押してゐた。ちり紙を舐めてこすると、そこは赤くなつた。
 これはまたなんのことなのやら。それより「印」とは何かを問うてみよ。「印」とは自己の同一性を証明する具。「尾形といふ印」。それこそ詩人がその人であると照合するもの。しかるにその「印を両方の掌に押して」「ちり紙を舐めてこする」ようにもする。といことは戯れであれ消してしまうと。そんなあまりぞーっとしない。
 はたしてこの憑かれたような行為はどういうことか。そしてそれが意味するところは何なのであるのやら。
 これはかなり恐い詩ではないのか?





contents library contents home