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尾形亀之助 『障子のある家』 私註



『障子のある家』 第五日 〔07・02・20〕 


5. ひよつとこ面




 納豆と豆腐の味噌汁の朝飯を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん、畳のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ台にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中縁側は湿つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな気持になつて坐つてゐた。そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。



 まずはこの作品の初出について。さらにまた当初の構想におよび。
 「障子のある家〈仮題〉――自叙転落する一九二九年のヘボ詩人』其七」(文芸月刊 昭和五年二月)。
 これが原題である。しかも「其七」とある。ところが同題作はほかに一篇「詩人の骨」の初出形「詩人の骨〈仮題〉――転落する一九二九年のヘボ詩人の一部」があるきり。あとこれ以外には見当たらない。さらにまた「自叙」なるくだり、これは「自分としては、九月に出版する短篇集(註、未刊)のために……」(「さびしい人生興奮」詩と詩論第四冊 昭和四年六月)という。
 そこらの記述からして、そもそもこの一群はというと「自叙」伝風めいた連作短篇として当初着手された、らしいと推理されよう。くわえてほかにも手稿があれこれとあって、しぜんにのちの『障子の……』になったのやら(仔細不明)。
 ここから一集のすべて、いずれもが散文詩型であるのも、これまた理解できよう。ついては詩人のこんな言葉をみたい。「……散文にも詩があり得る。小説、戯曲、音楽、建築にも詩はあり得る。いわゆる詩型によつてかかれたものにも詩はあり得る」(「傷ましき月評」詩神 昭和四年七月)
 これからも詩人がいかに詩を自由に捉えていたか理解されようか。でもことはなにも詩作のみにかぎらない。個人、世界、諸事、全般。なんであれどんな局面においてもである。いうならば詩人はつねに偽の思考に疑いをもって詩作してきたと。
 とはそれはまたとしてである。さきのサブタイトルの「転落する……」などとはどうだ。そして一集としてそれを上梓しよう。そのときに「ひよつとこ面」と突き放してみせたところ。これなどじつにいみじくないか。
そこでこの一篇であるが。とどめる風景はというとさきの三作とほぼまるっきり変更はなしだ。するとこの箇所であろう。
自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。
 「自分が間もなく三十一」。詩人は一九〇〇(明治三三)年生まれ。だから当年、三〇(昭和五)年、数え年で三十一歳になる。これはこのあとの作品でも幾度となく言及されるのだが。なぜまたその年齢へそれほどまで固執するのだろう。
 ついてはまず時代の空気におよぶべきだ。なにしろ人生五十年だというのだ。往時は二十歳で立派な大人。なのにもう齢三十一になんならん。とはさすがに詩人も重圧をおぼえただろう。
 そしてそれだけが理由ではなさそうだ。そこにきてどうやら親子のあいだに内密にするある交渉があったとおぼしい(むろんのことそれは子が親から多く金をせしめんがためだが)。このことがなお負担になったのやも。
 これについては後述するだろうから、ここではつぎの引用にとどめることにする。「私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ……そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて来たのですが」(「後記――父と母へ」)
 ここらからわかるのである。いささか唐突すぎる「俺の楽隊は何処へ行つた」という詩句について。どういうことをいうのか。するとこれはたぶん、いつまでも児戯に耽っているような自分を嗤っている、そんなようすらしい。
 そうであるとする。ならばなんでこんな夢をみるにいたったのか。それもわかるのでは。
今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。
 「親父をなぐつた夢」。あまりにもフロイト的あまりにもである。ところでこのダメ息子はというと現実にはついに一度たりとも親父をなぐってはいない。それどころか彼は終生その庇護の下にあるしかだ。ここが彼のアキレスの腱(?)だろう。
 それはさてである。「床を出た」。でどうしていよう。これがまたまたそのさきの風景をなぞるようなぐあい、ことさらあらたにする変化などのぞむべくもない。それでもあえて事件といえばひとつ。
 「酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた」
 それぐらいだか。あとはこれとすべき何もないらしく、ただもうただチンと坐っているだけ。するとどこからか。
 「時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた」
 しとしとと雨が降っている。まあこの電車の音これが、なんとも哀切に響くこと。あたりはじょじょに薄暗くなりつつある。ところでこの表現がよほどお気に入りやらべつの一文にもこうある。
 「……壁に雨がしみてきた。雨の中に電車の走つてゐる音が時おりする」(「早春雑記」全詩人聯合 昭和三年四月)
 それはさてこのとき主は何をしているだろう。やはりいつもと同じようなぐあい。だけどなんとなし気が紛れなさげなようす。
夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな気持になつて坐つてゐた。
  いやそうこの箇所についてである。ぜんたいこの物言いはどうだろう。およそこれまで詩人はいかなる社会的、政治的たぐいの言辞もしないできた。それどころかそのてとは一切、そんなどこ吹く風よとばかり、無縁なままありつづけてきた。そうであるだけに「自分が日本人であるのが……」ともおよぼうとは。
 いったいこの、突然の日本人嫌悪の吐露、それはなんで? 
 わかることはひとつ、そこには時代の重苦しさが色濃く反映している、だろうということ。ここでちょっと昭和二〜五年にかけての年譜の項目をひろってみよう。金融恐慌、芥川龍之介自殺、共産党員大検挙、治安維持法改正、金解禁、世界恐慌……。ごらんのとおり時代の色調はというとどんどんと灰白の未来へむかうばかり。
 ここでこういおう。いうならばさながら「俺の楽隊」のごとくあった、大正デモクラシーの青天は遠く去ってしまったのだ。そしていつか賑やかな鳴り物の音がかき消えてかれこれ。ほんともうすぐそこに軍靴の音もざっくざっくと、昭和ファシズムの暗雲が影を落としているというのだ。そういうことなのだ。
 さらにまたこのことを詩作の問題としてみればそう。『色ガラスの街』(大正一四)から、『障子のある家』(昭和五)へと。まよいたどりついた道筋と見合っているはずである。
 いまあえてそのことを強調したらどうだろう。「色ガラス」であり「街」なのだ。往来の喧噪の、それがガラッともだ、蟄居と沈黙の。「障子」であり、「家」となる。いったいなんという暗転であるだろうかこれは。
 わからなくはない。こうなればいくら無用の無為の詩人なりといえどもも、いやそうであるだけになおのこと、ひしひしとその閉塞と強圧の恐怖をおぼえるというもの。そうではないだろうか。
 だからといってしかし詩人は何をかするわけでもない。ただもう「転落する一九二九年のヘボ詩人」たること。ひとりチンとしてずっと自身を噛むようにするだけだ。
 見事だわ。いやなんとも嬉しいのったら。ときにへらへらと腹のかわをくぼませては、おどけて「ひよつとこ面」なんかするぐあい。こうひよっと口をすぼめたり。羨望する。
そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。




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