『障子のある家』 第四日 〔07・02・13〕
4. 秋令
「三月の日」は早春、「五月」は初夏。そして「秋冷」はというと晩秋である。それにしても遅い秋とはいえなんたる冷え冷えとしたさま。
寝床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた何時からとなくつゞいて、紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顔も洗らはずにゐるのだつた。
なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。
「五月」はまだしもだ。昼日中ながら起きて「雨戸を開け」そいで「筍を煮て」もいる。押売も来た、綿屋も来た。「秋冷」はしかしどうだ。
やっぱり「寝床は敷いたまゝ」であって、また「雨戸も一日中一枚しか開け」なく、やっぱり「顔も洗らはずにゐる」というのだ。それにつけても「紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋」とはムサくるしい。ついてはこのころ書かれた小文にほぼ同じようにこうある。「九月、十月、それから十一月とはなつた。隣家の門にからんだ蔦が這つて来て庭の一間ほどの竹垣で海老茶に枯れてゐる。雨が降る度に天井と畳と障子がぬれる」(「身辺雑記」前出)
いったいどうしてまた、こんなていたらくに、なってしまったのやら。ここで年譜の昭和四年の記述をみる。「生家が財政難になり、仕送りが減った。しかし送金があると一夜のうちに浪費してしまうありさまで、電気代も滞納し、電灯をとめられた」
どうやら生家の財政難は金融恐慌の大波が端緒となった。そして東北地方の凶作つづきによる農村疲弊の打撃がくる。さらには歴代当主の蕩尽と放漫な財産管理が拍車をかける。
いっぽうその浪費はこんなぐあい。「万年床を敷き、枕もとに四斗樽がデンと据えてあった。万年床に寝たままで目がさめると四斗樽の栓をぬいてガブガブ飲み、来客にも飲ませていた」(岡本潤『罰当りは生きている』昭和四〇年)
いまひとつ逼迫については。草野心平の回想「尾形亀之助」(詩神 昭和五年九月)、そこに引用されている詩人の手紙にこんな言葉がみえる。「今日は盆の十六日だ。米ビツが空になつて四日目、何かして食つてゐるから妙なものだ。……相変らずローソクだ」(昭和5・7・16)
いつか春から秋へと変わった。月日は過ぎ、季節は移る。しかし私は何も変わらない。
まったく変わらない。みるとこれは「三月の日」とまるで、そっくり同工の作といっていい。ぜんぜん何もかもが。
いやはやほんと愕くほかないよな。まったくこの不感無覚ぶりはどうだ。なんかちょっと凄くなくはないか。
ところでこのころには床を何時ごろ出られるものなのやら。してそれからずっと日がな一日どう何をされておられよう。
なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐる……
まったくなんだって、こういうぐあいだと。またもや「なんといふわけもなく」であるが、そんなわけもなく頭痛をおぼえるそうな。でしようことなしに「鋏で髯を一本づゝ」つんでいたり、そうかとこんどは「二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐる」なんてありさま。
でもってぼんやりと目をやってみると、あたりはすっかり枯れきわまるばかり。「庭も風もよそよそしい姿になつてゐた」
そしてまた手洗い、まえの詩で「この家では便所が一番に明るい」とした、ご不浄なのである。
私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。
どんなものだろう。この「澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた」とは。いったい「朝の小便」というと、それこそ健康の証しなのでは。だがしかし私にはそれすらうとましい限りなのだろう。そんなふうではないか。
どうやら私はというと、眠ったり起きたり、それすらも止めたくなった。ずっーと眠りづめに、もうこれっきり起きていたくなく、ずーっと眠りつづける。
しかしどうして彼はかくなったろう。わたしはこのように書いたことがある。
「まったくもって起きるほどのことが何もないのであれば、この男はこんなふうに仰向けに水平になったまま臥して、ずっとこのまま死んだもののように目をさますべくもない。
そうして眠っていて眠っていなく、やくたいなくも正しく当たりきなことを、ぼうっと思うとなく思っている」(「詩人の死6 尾形亀之介」「表現者」平成一八年五月号)
というところで筆がはたっとばかり止まってしまった。これぐらいにして、ひとまず三作はしまい、とするのはどうか。がここでやはり註のようなものが要ありではとなった。
もっとも以下のようなことは、害あって、益なしの、まあどうでもいい知識なのだが。じつはこのとき詩人はというと、いやそこは年譜にあたってみよう。昭和三年のこと、二月である。「この月、妻タケと別居」とあり、つぎのような記述がみられる。
「妻タケは酒と怠惰に耽溺する夫を理解できず、ひそかに大鹿卓(註、金子光晴実弟)と心を通わせ離別を決意。……二人の子供を自分が引きとること、大鹿卓と正式に結婚することを条件にタケとの離婚(註、五月に正式に協議離婚)に同意」。さらに同十二月にある。「この月、かねて知り合いの詩友、好本潤(芳本優)(十八才)と同棲。優は年若い女流詩人で、詩集〈酒場の扉〉があり、……」
というとそうだ、このとき詩人はこの『障子のある家』(世田谷駒沢上馬五七九番地)で年若い愛人と二人の子供と一緒だった、はずなのである。しかしながらいわずもがな、いつどこでどのように誰といようと、詩を書く者は、ぜったいに私ひとりであること、ここまでみてきたとおりだ。
つまるところ詩は眠る私の夢のようなもの。そういっていいだろう。ならばどうしたらいいか。これよりこの眠り男の夢へと入ってゆくとは。
「やくたいなくも正しく当たりきなこと」。というそれは何なのか探ることにしよう。