灘岡ボクシング「増井ジム」 竹下 力
雨がサーサー降って庭の紫陽花が揺れていた。
水滴が紫色の花弁に伝って水溜りに羽根みたいに落ちていった。
水溜りは王冠みたいにサッと弾けて水滴に小躍りしてた。
朝の灰色の水にリビングのテレビの光がキラキラしてた。
ボクシングのフェザー級の試合結果のニュースが聞こえた。
判定勝ちで世界チャンピオンは世界チャンピオンになった。
2度目の防衛成功のギリシャ人の入れ墨をしたボクサーだった。
月桂樹の輪っかを頭につけてベルトを腰にまいて小躍りしてた。
挑戦者の父さんは顔中が腫れあがって左目がとくにひどかった。
コーナーでうな垂れてじっとチャンピオンをじっとみてた。
顔の半分は左目みたいになっていた。瞼が切れて血がでていた。
ガードを下げる癖があったから。スウェーもおざなりだった。
突っ込むことしかしらないで無闇やたらの滅多打ちだった。
でも殴られることをなかったことにするフリは得意だった。
なんにもなかったことにするのは得意だった。
12ラウンドまでの判定まではなんとかやっていけた。
でもこれからのことなんてもうわからない。
引退だってニュースの声がいっていた。
聞きたくなくても聞いちゃうのは
網膜剥離で引退寸前の僕の父さんが玄関口にいたから。
僕や父さんや母さんは押し黙ったまま遅い夕食をした。
父さんは唇がはれてご飯をポロポロとこぼした。
なんにもみえやしないなと愚痴をこぼした。
あるいは父さんをなんにもみてないじゃないかと愚痴をこぼしてた。
汗だくで12キロ減量した。ガリガリの助骨がみえた。
ウィンドブレーカーのせいで汗疹ができて
ひどい赤い湿疹だらけになって真っ赤になっていた。
見た目は公害の鮒の皮膚みたいにブクブクだった。
父さんは試合前に体に化粧をしていったものだった。
あまりにおぞましいものだったからだ。
それでも2時間はシャドーボクシングをした。
縄跳びを2000回はしてスパーリングを15ラウンドこなした。
そんな練習を10年つづけた。
感覚だけが皺だらけに干からびることもあった。
練習のあとの父さんはそんなかれたしわがれた声だった。
それは母さんみたいな声でもあった。
毎朝のことのように父さんと母さんは大声でいい争っていた。
5キロのランニングに行く前とか試合の前とか。
あるいはもっともっと別なこと。
父さんの体にベッチョリ化粧をつけたくってクスクス笑ってた。
チンチンの裏側にパフをこすってあげたりすることもあった。
いい争った後にいちゃついたりした夜。
午前2時の眠ってる僕の足首を父さんはギュッと握っていた。
しばらく握ったままで僕はじっとしていた。
チャンピオンはひどいもんだったなあと父さんはいった。
判定にもちこもうなんてなあ。
そんなのないよなあ。
母さんがもうお終いだっていったんだよ。
さっきリビングでニュースをみながらいったんだ。
こんな日にだよといった。
そんなのないじゃないか。
たしかにそりゃひどいことをやったさ。
協会からは奥さんをぶん殴るなって脅された。
たしかに殴ったさ。
殴ったよたしかにね。
殴っちゃわるいのかい。
でも2度だけだぜ。
チャンピオンの防衛回数ぐらいだった。
母さんはもっと殴ったもんだった。
父さんの胸をドンドンと叩いて好きにしてとかね。
このままじゃやっていけないとかね。
それで会長はおいろくでなしっていうんだ。
試合にでられなくなるぞって。
母さんもこんなろくでもないことは続けられないっていうんだ。
落ち目だし引退だしローンだってのこってる。
子供だってろくでもないことなんてしたくないのとかな。
あなたはもうろくでもない。
体に化粧してかなくちゃいけない糞ったれのボクサーよってね。
父さんは悪臭放つできものだらけのボクサーだ。
膿だらけの左目を抱えたゴミみたいなくそったれだ。
もう父さんはなんにもなかったことにしたい。
母さんを殴って父さんも首を括ってなんにもなかったことにしたい。
でも顔中が腫れてどうしようもないのさ。
左目がなーんもみえない。
顔中が目になったみたいといっても信じられないだろうね。
これだってなかったことにしたいもんだ。
なんだってなかったことにしたい。
なんだってなかったことになってた。今までは。
父さんはギュッと僕を握るけれど
握力がなくなってひどく弱いものだった。
グイグイと僕の足首をさすってた。
指がプルプル震えてた。
僕の腰はノックダウンして下半身不随みたいになった。
父さんの声や父さんの湿った指の感覚。
僕はベッドで眠ってるフリをしてた。
もうなーんも聞きたくなかった。
もうなーんも感じたくなかった。
もうずーっと眠っているって思っていた。
僕にできることなんてそんなこと。
いまだってなんにも聞きたくない。
この朝に起こってることなんて聞きたくもみたくもない。
今だってそうしてるんだ。
これからだってそういうフリをする。
いつだってそういうフリをするのは得意。
なんにもなかったことにすることなら。
僕だってなんにもなかったことにする。
でも母さんはギュウギュウと僕の足首を締めつけてる。
父さんよりも強くギュウっと。
起きなさいといっている。僕は眠ってるフリをする。
起きなさい。僕はゴソゴソとする。起きなさい。
雨が降って紫陽花に水滴が伝わって落ち続けてる。
水溜りに王冠ができつづけてる。
そんな王冠をかぶってるフリをしたい。
世界チャンピオンになった対戦相手のギリシャ人のフリをしたい。
ローマ皇帝みたいなどうしようもないぐらいの王様になりたい。
マルクス・アウレリウス・アントニヌスは
我王冠をあたうべからざる王だとかなんとかいって
王冠を大理石の床に叩きつけこなごなにして
ローマの王様になったんだって。
100万人の歓声がいまにも僕に響いてきそうだった。
3000人の灘岡ダイヤモンドホールの観客の前でそうしたかった。
テレビのボクシングのニュースが野球のニュースに変った。
母さんは起きなさいと僕の足をギュウギュウ握る。
いまにもこの瞬間
もっともっとなにもかもだめになっちゃいそう。
だっていまにもこの瞬間
雨の音がザーザー強くなっていく。
説明……汗疹だらけの糞ったれのボクサーがでてくるなんて全然わからなかったのですが、やっているうちに父さんがろくでなしのボクサーになってました。もっとひどいことが起こっているはずなのに、もっとひどいことを起こすはずなのに、いつのまにか父さんはどこかにいってしまうんです。僕は探すけれど、ここにはない父さんが僕の中でフットワーク軽くピョンピョンと跳ねている白ウサギで、猟銃で撃ち殺した父さんが両耳をもってニッコリ笑ってる写真だってなくしてしまいました。灘岡の真っ白な雪に血が垂れていました。いまみえるのは母さんが月経のときにすてたタンポンだけで、便器の床でキラキラしてる(母さんはそういうことをするんだ)、そのにおいやそのいろ。僕はウンザリなのに、便所の窓からは、今日の青空もとっても素敵でした。積雲やらもうなにもかも。
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