好奇心のススメ

 

 偶然は二度続けば、もはや「偶然」ではなく、必然になるという。
果たしてそれが、偶然を装った「必然」だったのかどうか、それは彼にもわからなかった。

 ヒイロ・ユイがこの私立高校に保健医として、平たく言えば、保健の先生として赴任してきたのは、5ヶ月前のことだ。
 最初からそんなことを望んでいたのではなく、ドイツの高名な大学へ研究員として採用されるはずが、どこをどう間違ったのか、送られてきたのは、この高校への赴任命令だった。
上部に問い合わせたところ、データの行き違いがあったようで、その命令は訂正されることになった。しかし、いろいろと面倒なことがあって、申し訳ないが、半年間はそこで勤務してくれ、とのお達しであった。
 かくして、不本意ながら、ヒイロ・ユイは都市部からやや離れたところに立地している、この私立高校の教師となる羽目になった。

 三時間目が始まって間もなく、保健室の扉が開いた。
「ユイ先生。頭、痛いんで、薬貰えますか。」
 ヒイロは医学書に視線を落としたまま、顔を上げもしなかった。
 少年は、いけしゃあしゃあと仮病を名乗りながら、きっちり扉を閉めて、中へ入ってきた。その彼を、ヒイロの冷淡な返答が迎撃する。
「今度は頭痛か。・・・もう長くないな、マックスウェル。」
 この台詞にはわけがある。昨日も一昨日も、そのまた前の日も、彼は腹痛やら吐き気やら、さまざまな症状を訴えては、保健室に入り浸っているのだ。

 そして二つ目の偶然とはまさに、かの少年が、二週間前にこの学校へ転入してきたことだった。
 デュオ・マックスウェル。大きな紫藍の瞳と、長い栗色の三つ編みがトレードマークの陽気な少年だ。
くるくるとよく変わる表情と、じっとしていることなんてできない、といわんばかりに全身を包む躍動感は、いつでも彼を際立たせていた。
彼は、ヒイロがもっとも苦手とするタイプの人間だった。

「そんな冷たいこと言うなよ。仮にも、あんたの生徒なんだから。」
「俺はただの保健医だ。おまえの担任じゃない。」
「でも、うちの先生であることに変わりはないだろ、ユイ先生?」
 デュオは意地悪く笑って、ヒイロの傍までやってくると、手元を見下ろした。
「相変わらず熱心だな。・・・忙しそうだから、おれ、あっちで寝るわ。」
 彼は許可も待たずに、保健室に置いてある2つのベッドのうち、右の方へとカーテンを捲って消えてしまった・・・。

 

◇  ◇  ◇

 

 デュオが初めて保健室へ姿を見せたのは、二週間前、ちょうど彼が転入してきた次の日だった。
何やら廊下が騒がしいと思ったら、どやどやと複数の生徒たちがなだれ込んで来た。
「ユイ先生っ、大変です!」
「どうした。」

 この日も、やはり机で勉強に励んでいたヒイロは、とくに驚いた顔も見せずに振り返った。
目の前にいたのは3人の男子生徒。一人を二人が左右から支えるように立っている。真中の少年は、本校の男子生徒の制服は着ているものの、栗色の髪が長い三つ編みとなって、腰まで伸びていた。

「こいつ、肩が外れたみたいで・・・、救急車呼んだ方がいいでしょうか?」
 左の少年が、怯えた目で訴える。真中の少年は腕を振り払うように身を捩った。
「大袈裟なんだよ、おまえら。いいから、離せって。」
 自らの動きが肩に響いたのか、呻き声をかみ殺しているのがわかった。
 ヒイロは椅子から立ち上がり、その少年の後ろに廻って、庇っている方の肩にそっと手を触れた。
「!」
 敏感に反応した少年が、とっさに身を退こうとするのを押さえて、膝をつかせた。
 確かに脱臼している。これは呼吸するだけでも、相当の激痛を感じているはずだ。
「少し痛いだろうが、我慢しろ。」
 言い終わるなり、ヒイロは少年の左肩と腕の付け根を掴んで、ぐぐっと力をいれて捩じ込んだ。
少し、どころではない。前触れもなく肩から生じた激痛に脳天まで貫かれ、たまらず悲鳴を上げた少年は、そのまま床に崩れ落ちた。

 

 少年が自失していたのは、ほんの数秒だった。
「・・・・う・・」
 肩を押さえながら体を起こした。
「ってェ・・・、何しやがんだよ!?」
 睨み上げた両の瞳は、綺麗で、猛った紫の強い藍だった。
「治療だ。」
「どこの世界に、外れた肩をムリヤリ戻す医者がいるんだ!」
 あれだけの激痛を味わわせておいて、眉一つ動かさず、当然のように答える保健医に少年は本気で腹を立てていた。

 ヒイロは両手を白衣に突っ込んで、
「脱臼した肩の治療は、はめ直すことだけだ。」
「だからって、いきなりやるか?」
「ちゃんと宣言しただろう。人の話は聞いておけ。」
 あまりな返答にすぐには答えられないでいる少年を放って、ヒイロは付き添いの二人に向き直った。事情を聞かなければならない。

 少年の受けた荒療治に胸の内で合掌しながら、彼らはヒイロの質問に答えた。曰く・・・
 彼、デュオ・マックスウェルは、教室の窓から乗り出していて転落しそうになった生徒を助けようとして腕を差し出し、なんとか落ちて行く体を引き止めたものの、勢いと体重に耐え切れずに支えていた左肩が脱臼してしまった、ということらしい。

「馬鹿だな。」
 これがヒイロの述べた感想だった。

 そして、デュオ・マックスウェルが保健室に出入りするようになったのは、その翌々日からである。

 

◇  ◇  ◇

 

 窓際に座っているデュオに、男子生徒が声をかけてきた。
「どうだ、肩の具合?」
「ああ、平気。」
 そう応えて、その相手が、自分が記憶している数少ないクラスメート、昨日、保健室まで連れて行ってくれた本人であることに気づいた。これ幸い、とデュオは当り散らすことに決めた。
「しっかしよ、なんなんだ、あの先生は?俺たちとそう歳も違わねーだろうに、態度はエラそーだし、扱いは乱暴だし。俺、死ぬかと思ったぜ。」
 機関銃のように鬱憤を吐き出すデュオを、彼は苦笑いと共に聞いていた。
「ユイ先生は、いつでもああだよ。君だけじゃない。おかげで皆、怪我をしないように注意するようになった。保健室へ行けば、まず間違いなく、泣きをみることになるからね。」
「とんでもない先生だな。」
「あの人は薬とかなんとかは、キライなんだ。人間の体は自然と回復するようになっているから、 余計なことはするな、って考えてるみたいだね。」
「だったら、保健医になんてなるなよな。いー迷惑だぜ。」

 椅子にのけぞってため息を吐く。
実際、あれは呼吸が止まるほど痛かった。今思い出してもぞっとする。

 苦虫をまとめて1ダースほど噛み砕いた表情を刻んだデュオを眺めて、彼は同情をこめて忠告した。
「だから、君も今後は気をつけた方がいいよ。」
「言われなくたって、二度とあんなとこに行くか。」
 デュオは腕を組んで唸った。

 

 その放課後。
鞄を引っ提げて校門へと歩いていたデュオは、偶然、それを見てしまった。
 白衣のほっそりした人影が、人の通らない校舎の裏側に佇んでいるのを。
 よく考えてみれば、そこは魔の保健室のある校舎で、非常口から出たすぐのところだった。
そのまま視線を外して歩き続ければよかったのだが、白衣のポケットから煙草を取り出してくわえたのを見て、なんとなくその場に足を止めてしまった。

 ヒイロはゆっくりと煙草を吸い、紫煙はひっそりと立ち昇って行く。
水平よりも、やや上を向いている視線は、何を捕らえるでもなく、ただ目に映るものを追っている、そんな感じで、彼はただ黙々と煙草を吸い続けた。
 やがて一本を吸い終わったヒイロは、それを握り消した。中に戻ってから捨てるつもりなのだろう。その場で捨てないところはさすがだ。
 戻りかけたヒイロが、なにか足元に気を取られた。すい、としゃがみ込む。
デュオのいるところからは、彼自身の影になって、何をしているのは見えない。いくらもせずに立ち上がり、彼は校舎の中に戻って行った。

 ヒイロが立ち去ってから、デュオは動いた。彼が何をしていたのかが気になった。
同じ場所に立って、足元を見下ろす。
「・・・・・」
 誰かの置いたベコニアの植木鉢が、何かの弾みで倒れたのだろう。色の違う土が灰色の地面にこぼれていた。ヒイロはそれを起こして、こぼれて減った土を戻してやったようだ。
「へんな奴。」

 人間にはあんなに荒っぽいくせに、花にはすいぶん優しいじゃないか、ユイ先生。
少し背中を丸めて火を点ける、その仕草が心に引っかかっていた。
 翌日から、デュオは理由をつけて、保健室に顔を出すようになった。

 

◇  ◇  ◇

 

 1時間が過ぎた頃、デュオがベッドから出てきた。
 時刻は4時限目がとっくに始まっている。
「わかってると思うが、マックスウェル。3、4時限を欠席しているぞ。」
「いいんだ。美術だから。」
 今日は皆、学校中に散らばってスケッチをしている。誰がどこにいるかなんて、わかるわけがない。その点はデュオも一応、考えているのだ。

「コーヒー、もらうぜ。」
 保健室にはポットが置いてある。ティーバックの紅茶とインスタントコーヒーなら、いつでも飲める。
 ヒイロはなんとも言わなかった。この辺のやり取りはもう、最初の頃にやり尽くしている。
 デュオはカップを手に、窓から外を眺めた。正面に立派な木がそびえていて、目に入るものといえば、ごつい幹と枝葉、その隙間からのぞくまばらな景色だけだったが、結構気に入っていた。

「あんたさ、ドイツに行く予定だったんだってな。」
 コーヒーを一口飲んで、窓から室内へと視線を戻した。
「なんでこんなとこに来たんだ?」
「単なる手違いだ。」
「ふーん、手違いね。」

 デュオはまた、ずずっとコーヒーをすすった。ヒイロは相変わらず、分厚い専門書を読んでいる。一応、返事はするが、顔を上げることはない。横から見ているとよくわかるのだが、男にしては長い睫が時折降りる他は、形のいい眉も精巧に整った造作も、ほとんど動くことがない。

 ここへ毎日顔を出し始めて二週間近くになるが、いつ来てみても、この保健医は同じ姿勢で同じことをしている。
そこへ時折、生徒がやってきて、例えば、転んで膝が抉れた言えば、
「洗って、消毒をしておけ。砂も全部洗い流さないと、あとで後悔するぞ。」
 頭痛がするからと訴えれば、
「運動不足だ。昼休みに10kmほど走れば、治る。」

 まだ、脱臼した生徒は見ていないが、きっと、デュオがされたと同じ処置をすることは間違いなかった。

 デュオは一つ、肩を竦めた。
「わかんねえな、あんた。いくら見てても、さっぱりだ。」
 独り言のような台詞に、ヒイロが珍しく顔を上げた。
「わからないのは、こっちの方だ。毎日毎日、用もないのにやって来て、どういうつもりだ?」

 今までの例でいくと、一度自分の手当てを受けた者は、二度と、ここへは足を踏み入れない、または、そのように最大限の努力をする。彼にした手当ては、その中でもかなり荒療治だったはずだが、懲りた様子はない。
 デュオは、大きな瞳を瞬かせた。
「別に。ただ、気になるんだよ。こっそりと煙草を吸ってるあんたと、無表情にここに座ってるユイ先生と。どっちが本当なのか・・・。どっちも本当なのか・・・。」

 ヒイロがわずかに顔色を変えた。だが、一瞬でもとの無表情に戻る。
デュオの口振りは、珍しく真面目なものだった。
「好奇心って言った方が、正しいかもしれないな。たぶん飛び級バンバンやって、大学も卒業したんだろうけど、それでも俺たちと同年代だろ?だから、気になるんだ。」
 ヒイロの蒼い瞳が、まっすぐデュオを捕らえる。
「俺は迷惑だ。おまえにうろちょろされると、気が散る。」
「へえ、一応、視界には入ってんだ?目にも留まってないと思ってたケド。」
「・・・とにかく、目障りだ。用がないなら来るな。」
 ヒイロはきっぱりと宣告した。
 そうだ、邪魔以外のなにものでもない。
 デュオは言葉を返さなかった。

 

◇  ◇  ◇

 

 翌日から、デュオ・マックスウェルは本当に姿を現さなくなった。
ほっとすると同時に、消費者が減ったわりには、倍になっているコーヒーの消費量に気付かぬ振りをしていた。
 やはり机に専門書を開きながら、ヒイロの視線は窓の外に伸びていた。
 時折、その視線が勝手に浮遊して、扉の辺りをさまよっては、戻って来る。

 おかしなものだ。
うるさくて仕方のなかった少年が、いざ、まったく目にしないとなると、どういうわけか逆に気になってくる。
静かな学校生活を取り戻したというのに、ちっとも落ち着かない。

 彼が最後にやってきたのは、一週間前だ。丸々一週間、彼の顔を見ていないし、声も聞いていない。
 ヒイロは本を閉じて廊下に出た。ちょうど休み時間で、生徒たちの教室のある校舎に近づくと、教室を移動する生徒たちとすれ違うようになった。

 ヒイロは17歳である。
先だって、デュオが指摘した通り、幼い頃からの英才教育で飛び級に飛び級を重ね、大学はマスターを3つ取得している。ドクターも取るつもりだが、同じところでというのも芸がない。こちらはドイツで取るつもりだった。

 自分と同年の少年少女たちが、談笑しながら行き過ぎるのを、今までとは違った目で眺めた。
羨ましいとは思わない。
ただ、無意味だとも思わなかった。こういうのも、いいかも知れない。

 そのとき、前方に栗色の髪が現われた。
「あれ、珍しいな、センセ。あんたが自分の城から出てくるなんて。」
 屈託のない笑顔で軽く手を上げて近づいてくる、三つ編みの少年。
 その顔をまじまじと見つめて、ヒイロは言った。
「少し痩せたんじゃないか、マックスウェル?顔色も悪い。」
「・・・・わかる?ここ一週間ばかり、寝てないんだ。忙しくてね。」
 デュオは苦笑いを浮かべた。

 そういう問題じゃない。目の下にくまが出来ている。それに、口調にも張りがない。
ヒイロはそのまま、射殺しそうな目でデュオを見つめたが、彼の方はさらりとかわした。
「次、体育なんだ。じゃあな、センセ。」
 三つ編みだけは相変わらずで、ゆっくりと大股で歩き去る背中に揺れていた。


 保健室に戻ったヒイロは、遠くから風に乗って流れてくる、生徒たちの歓声を聞いていた。
グラウンドで試合をしているのだろう。ひときわ、声が高くなる時がある。

 顔色が・・・、冗談ではなく、悪かった。
忙しかったと言っていたが、姿を見せなかった一週間は、彼は「学校も」休んでいたとわかった。
そのことに、ほんの少し、安堵している。理由は、わからないが・・・。

「自宅にいて、何がそんなに忙しかったんだ。」
 考えてみると、自分は彼のことを何一つ、知らなかった。知っているのは、彼の名前だけ。
「デュオ・マックスウェル、か・・・」



「先生っ、ユイ先生!」
 突然開かれた扉。ヒイロは窓から手を離して、振り返った。
「どうし・・・」

 既視感。

 短いトレーニングパンツと半袖のTシャツ、つまりここの体操着姿の男子生徒が、別の少年を両腕に落っことしそうに抱きかかえていた。こぼれているのは、長い編み髪。
「サッカーの試合中に生徒同士がぶつかっちゃって、相手の方はなんともなかったんですけど、 打ち所が悪かったらしくて、目、覚まさないんです。」

 もっと詳しい状況を聞こうと思っているのに、声が出てこなかった。
「あの・・・、ユイ先生?」
「・・・ああ、わかった。あとは俺がするから、おまえは授業に戻れ。」
 彼から意識のない身体を受け取り、ほっとしたような彼が保健室を出て行くのを見送った。

 腕の中の彼は、意外なほど軽かった。これなら、彼が運んでこれたのも肯ける。
「デュオ・・・」
 呼んでみるが反応はない。ヒイロは、彼がよく仮病で使っていたベッドに、その身体を横たえた。

 

 脳震盪を起こしたらしい。
ヒイロは、意識のないデュオを、くまなく観察して、大事なし、と結論を下した。
打ち所が悪かったから、脳震盪を起こしたのだろうが、傷害になるほどひどかったわけでもない。これは、睡眠不足だ。
 タオルを水で冷やしてきて、額に乗せてやりながらも、ヒイロは少し呆れていた。
一週間、寝てないというのは、本当のようだ。

 衝撃で意識が飛んだ後、疲労と睡眠不足が溜りに溜まった身体が、持ち主の意志も都合も裏切って、爆睡モードに切り替わったのだ。
「わからない奴だな、おまえは。」
 心配ない、と判明した途端、いつもの皮肉な態度が戻って来る。
 今やデュオは、枕を抱えるように、横向きになって、文字通り熟睡していた。
 これは、なかなか起きそうにない。
 どうしたものか?
 ヒイロは、ずいぶん長い時間、幸せに眠り続ける寝顔を見つめて、おもむろに立ちあがった。
「世話のかかる奴だ。」

 

◇  ◇  ◇

 

「・・・・・ん・・・」
 寝返りを打って、天井を見上げた。
いつもと違う。自分の部屋じゃない。
「・・・・・・あれ・・?」
 デュオは目をぱちくりさせて、身体を起こした。
どこだ、ここ?
 カーテンをひいて、やっと自分が保健室のベッドで寝ていたことに気付いた。
「え・・・と・・・?」
 自分自身に視線を落とし、体操着を見て思い出した。そうだ。試合中に敵チームの選手のタックルを受けて、派手に跳ね飛ばされたのだ。その後からの記憶がごっそり抜けている。
くわえて、かなり気分がすっきりしている。重くだるかった全身も、嘘のように軽い。
 ずいぶん寝てしまったらしい。壁の時計を見て、さすがに慌てた。
「やば。」
 ベッドから滑り降りた。保健室は薄暗く、当然いるはずの人がいない。
「もう帰っちまったのかな。」
 それも無理はない。だが、戸締りもしないで、帰ったりするだろうか?あの先生は、そんなことはしないだろう。


 デュオは保健室を出て、廊下の端の裏口から戸外へ出た。半袖と短パンから剥き出しの素肌に、夜気が冷たかった。
 彼は壁に凭れて空を仰ぎながら、煙草を吸っていた。
 デュオはゆっくり近づいていった。
「起こしてくれればよかったのに。もう、9時廻ってんぜ?」
「起こしても起きなかったんだ。」
 ヒイロはちら、と横目でデュオを確認し、また元の姿勢に返った。
デュオはくすり、と人の悪い笑みを浮かべた。
 この先生なら、本気で起こすつもりなら、殴ってでも、叩き起こすだろうに。
「お、いい月だな。」
 隣に並んで、同じように空を見上げる。申し分のない満月が、ちょうど正面にかかっていた。

「ずいぶん睡眠不足が溜まってたようだが、何をしていたんだ。」
 前方を向いたまま、ヒイロが訊いてきた。
「ちょいと仕事がたて込んでてね。お陰で学校にも来れなかった。」
 デュオは何のてらいもなく答えた。だが、これでは結局、なにも答えてないのと同じだ。ヒイロは再び問いを発した。
「何の仕事だ?それにどうしておまえが・・・」
「俺、勤労学生なんだよ。親いないから、自分で稼いで生活してんの。エライだろ?」

 驚いた。
とてもそうは見えない。
兄弟が3人ほどいて、それも年下の兄弟ばかりになつかれている長男ではないか、と漠然と想像していたのだ。そうでなければ、年のやや離れた姉や兄のいる、気侭な末っ子のイメージだった。
「コンビニとかのバイトだと、時間ばっかり取られて、割りに合わないから、プログラミングで稼いでるんだ。ネットのみで契約して、仕事の依頼も納品もメールのみ。・・で、調整ミスったもんだから、納期が2つ重なっちまってさ。もう大変だったんだぜ。」
 なんとか間に合わせたケド、と、彼は笑った。

 デュオは、ヒイロの指の間に挟まってるままの煙草に手を伸ばした。
「・・・・けっこうキツイの吸ってるな、センセ。」
 一吸いして眉を寄せた。その割には満足げに煙を吐き出した。
「ひと眠りしたあとの一服は、また、カクベツだな。」
 もう一吸いしてから、ヒイロに返した。
「サンキュ、先生。」
 返された煙草は、再びヒイロの指に納まって、いたずらに灰になっていく。

 しばらく、どちらも無言だった。デュオのほつれた髪が、ときおり吹き過ぎる風に舞う。
ちょっと寒いな、と思いながら、デュオは口を開いた。
「今週一杯で、ここ、辞めるんだってな、先生。」
「誰から聞いた。」
「みんな知ってるよ。次に来る先生が、美人で優しいお姉さんであることを、切実に願ってんだぜ。あんた、美人は美人だけど、かなり怖過ぎだからな。」
 ヒイロが複雑な表情になるのを、デュオは面白そうに眺めた。
 夜になって、人もいなくなって、鉄面皮のヒイロがいつもよりも、近づき易いような感じだった。
太陽ほど眩しくない月明かりでしか、照らし出せない表情もあるのだろう。
「ドイツの大学か。よかったじゃないか。そこ行けば、あんたと気の合う秀才が大勢いるんだろ?友達ができるといいな、ユイ先生。」
 デュオは壁から身を離した。本格的に寒くなってきた。それに腹も減った。
「そろそろ、俺、帰るよ。今日は面倒かけて悪かったな。じゃ、また明日。」
「・・・デュオ。」

 デュオは足を止めて振り返った。この人が、自分の名を呼ぶのは初めてだった。
ヒイロがまっすぐ、自分の方を向いていた。残念ながら、満月の光が逆光を作り出して、表情ははっきり見えない。ヒイロはゆっくりと近づいてきた。
 何だろう、と首を傾げながら、待ち受けていたデュオは、彼が目の前に立った途端、壁に押しつけられた。
 コンクリートの冷たさが、背中に直に伝わってくる。その冷気に震えが走った。
「おい・・・」
 温かな息が唇に触れた。そして、もっと熱いものが、驚きのあまり硬直しているデュオの舌をくすぐった。
 また、震えが走る。さっきのとは全然違う震えが、全身に伝わる。
「・・・・・・イ・・ロ・・・」
 わずかに声になったのは、これだけだった。

 

◇  ◇  ◇

 

 荒い息をついて、デュオはヒイロを睨み上げた。
 身体はまだ、ヒイロの作った囲いの中だ。抜け出したくとも、ヒイロがそれを許さず、下手に動こうものなら、その場にへたりこみそうだった。
「おま・・、おまえ・・・、なんの冗談だ!?」
「俺もおまえのことが知りたくなった。」
 ヒイロは、表面だけはいつもとなんら変わらず、淡々と答えた。
 蒼い瞳が覗きこんでくる。
 深い蒼。
 海の、深遠の、遥か彼方へ続く蒼。
・・・ダメだ。引き摺り込まれる。
 デュオは拳を握り締めた。

「おまえ、教師だろうがっ!俺は生徒で、しかも、男だぞー!!」
「そんなことは関係ない。」
「関係ないって・・・・」
 ヒイロはまっすぐにデュオの目を見据え、わずか1ミリメートルも逸らそうとはしなかったし、デュオが希望していたような冗談は1ミリグラムも混じっていなかった。
 ヒイロはさらに声を落とした。
「最初にちょっかいを出してきたのはそっちだろう。」
「別に俺はそんな意味じゃ・・・・・」
 そうだ。自分はあくまで、同い年のくせに、教師の立場で、全然笑ったりしないこいつが気になっただけで、けしてヘンな意味なんかじゃなく、ごく普通に、真っ当に、ノーマルに、ヒイロが気になったのであって・・・・・、キスをしたいなどと思っていたわけでは絶対なくて・・・・・・、でも、気持ち良かった・・・・・

 かあっと、血が昇った。
待て、落ち着け。俺はノーマルだ。こいつは教師だ、ただの保健医だ。


 一人で赤くなっているデュオを見下ろして、ヒイロは笑みを浮かべた。
もう一度引き寄せながら、囁いた。
「いまさら、退けると思っているのか。」

 

 

End


初めてのパラレル1x2.リクエスト用に書いたものですが、管理人の一存で引っ込めました(^^;
せっかくイラストを頂いたので、こっそり置いておきます・・・・・。

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