ブブブブブブ…
心地よい高周波サウンドが私のすぐ後ろから聞こえていた。
海の中以外では経験したこともないような超スピードの中、心地よい風が私の頬の表皮をソニックウェーブで少しずつ切り刻んでいた。
「寒くないかい?」
私を優しく抱きかかえる愛しい彼の声が右の耳元で囁いた。
私は少し無理をして笑顔を作ってみせた。
「ううん、平気。ちょっとウロコが剥げちゃったけど」
そんな私に彼、サムソンはすまなそうに言った。
「辛いだろうけど、もう少しガマンしてくれ。ここはまだ危険なんだ」
サムソンはそう言って、少しでも私に直接風が当たらないようにさりげなく自分の腕を風防の代わりにしながらサルコマンドの都市上空を超音速で飛び越えた。
ハスターに仕えるバイアクヘー、それに激しく対立するクトゥルーに仕えるディープワンズ、この二人の愛を許してくれる場所は、そう簡単には見つかるはずもありません。
ここ夢幻郷にあってさえも。
「ピンキーちゃん!ピンキーちゃん!?」
人間ならば胸を悪くするような金切り声が沈んだ難破船の船内に響いた。
ここは私の家の避暑地、難破船リヴァイアサン号の船内だ。
「ピンキーちゃん、どこにいるの?返事をなさい!?」
「ここよ、ママ」
私はママの呼び声に応えた。
私の声にママは慌ただしく私のいる操舵室に泳いできた。
ガラスの割れた窓はママの太った体が潜り抜けるにはちょっと狭かったけれど、ママは意に介さずと言った感じで無理やり進入してくる。
窓枠に引っかかっていたステキな白骨死体の骨が、ママの起した激しい水流によって音もなく崩れ、暗い深海の底へと沈んでいく。
「まぁ、こんなところにいたのね、ピンキーちゃん」
ママは、そう言いながら急々と何かを取り出した。
「あのね、ママね、今日はピンキーちゃんに見てもらいたいものがあるの」
そう言ってママが私の眼前に開いて見せたのは、お見合い写真だった。
そこには、どことなくダゴン様に似た面影のある好青年のディープワンズが映っていた。
「ステキな方でしょう?お名前はジェイムス・マーシュっていうの。ちょっと人間の血も濃いんだけど良家のぼっちゃんなのよ」
私は、その写真にちらりと視線を送ってから、ママの嬉々とした顔に視線を移した。
「それで、その魚妖がどうしたの?」
私の空々しい問いかけにも、ママは私の気持ちに気がつかないといった感じでごぼごぼと機嫌良さそうに喉を鳴らして言った。
「決まってるじゃないの、縁談よ、縁談。この前のダゴン祭の時にジェイムズさんがピンキーちゃんを見かけて一目惚れしちゃったんですって。インスマウス出身の方でね、まだお若いのに、漁業なんかを手広くやっているやり手の実業家なのよ」
「…」
「この前、家に執事の方がいらしてね『若様が御家の御子女様に結婚を申し込みたいとおっしゃられました』なんて言ってきたのよ。もう、パパもママも驚いちゃってね…」
「…めて」
イワシの大群のようなママの言葉をウツボのように陰鬱な私のくぐもった声が遮った。
「何?」
聞き返すママに私は海底火山の噴火のごとくに言葉の爆弾を浴びせかけた。
「やめてって言ったの!そんな話し聞きたくない!私は結婚なんかしないの!しないんだから!」
そんな私をママが愕然としたように見た。
「あなた、まだあんなコウモリ野郎のことを…」
「そうよ、サムソンを愛しているの!たとえ離れても私は彼を、彼だけを愛しているのよ!そんな私に縁談なんか持ってきてもムダよ!!」
ママは何かを言いかけて…止めた。
きっと、逆上した今の私に何を言ってもムダだと悟ったのだろう。
「そう…わかったわ。でも、ゆっくり考えてみてね。こんないい話は滅多にないの。あなたの思い描く愚劣な幻想と、今ある輝かしい現実。どちらがあなたを幸せにできるのか…」
「出てって!一人にさせて!」
ママは私の言葉に素直に従った。
そっとその場にダゴン様に似た顔だちの好青年が映っているお見合い写真を残して。
「私は、あなたに幸せになってもらいたいのよ、ピンキーちゃん」
そこは愛し合う二人にとって楽園だった。
凍てついた大地、沈まない太陽、時折吹き抜ける雪混じりの悲鳴のような風。
ちょっとだけ寒いのが気になったけど、二人で身を寄せ合えば、心までも暖かかった。
氷でできた二人の家。私と…サムソンの二人だけの家。
「ただいまー」
サムソンが、少し震えた声で玄関から入ってきた。
「お帰りなさい」
私は料理中のペンギンを置いて、ペタペタと急いで彼の下へ歩み寄った。
「どうだった?」
私の問いかけにサムソンは、会心の笑みで応えた。
「ばっちりだ。エルダーシングスたちはボクらがここに住むことを快く認めてくれたよ。これでやっと安心して暮らせる場所を手に入れたんだ」
「もう、逃げ回らなくていいのね?」
「ああ、ゆっくり暮らせるんだ。二人でね」
「よかった」
そんな二人にそれ以上の言葉はいらなかった。
アフリカの大地、チベットの山奥、暗黒のクン・ヤンの都…人目を忍びながら各地を点々と渡り歩いてきた私たちは、ついに最果て南極の大地に安息の地を見いだしたのだった。
そこには、かつての仇敵エルダーシングスたちがいたが、ハスター、クトゥルフの両神を冒涜する私たちの行動は、むしろ彼らを喜ばせた。
そして今日、サムソンが彼らの長と話しをし、正式にここに住まうことの許可を得たのだ。
「今日はお祝いだ。ボクら二人の未来を祝って」
「そうね、今日はごちそうを作らなきゃ。新鮮な人肉が手に入ったの。まだ少し生きてるのよ」
「そいつは楽しみだ!」
二人は最高の笑顔で笑いあった。
「しばらくお待ちくださいませ」
丁寧な言葉を残してその老ディープワンズは、その場を去った。
古びた破風の屋根が並ぶ村落、その近くにある切り立った断崖の下にある暗黒の岩屋。
それが、ジェイムズ・マーシュの屋敷だった。
名所、悪魔の暗礁が遠くに見える。
陸上では、人間と我々の仲間が暮らす町から煙が立ち昇っているのが見えた。
理想的に汚染された海水、澱んだ空、そして生暖かい風。
1年前、私がいた極寒の大地とは大違いの穏やかで恵まれた場所だ。
こんな場所に、これほどジメジメとした快適な屋敷を持つジェイムズ・マーシュという人物の資産はどれほどのものなのだろうか。
私には想像することもできなかった。
そんなことを考えているうちに、古びた木製の扉が開いた。
先程の老ディープワンズが、扉を開け先に中に入ると、そそくさと端に寄り、自分の後から訪れる者に向かって頭を垂れた。
「やあ、はじめまして。ジェイムズ・マーシュです」
そう言って現れたのは、ダゴン様によく似た顔だちの好青年、ママが持ってきたあのお見合い写真に映っていたディープワンズだった。
写真よりも実際の方が、より悍ましく、狂気じみていて、その仕草には気品すら感じさせた。
「…リトル・ピンキーです」
私は、ぺこりと頭を下げた。
「招待に応じてくれてありがとう。正直、来てくれないんじゃないかって内心ドキドキしていたんだ」
ジェイムズ・マーシュは、少し照れ臭そうにごぼごぼと喉を鳴らしながら笑った。
幸せな毎日だった。
愛するサムソンとの心通い合う毎日。
邪魔する者は誰もいない、満たされた生活だった。
1年も過ぎたころには、エルダーシングスたちともすっかりと打ち解けあっていた。
つきあってみると、彼らは予想以上に知的で優しい連中ばかりだった。
時には近くの難破船で取れた新鮮な人肉などもおすそ分けしてくれた。
「子供はできそうかい?」なんて冗談も言われる仲になっていた。
だけど、そんな幸せな生活は、突然に終わりを迎えた。
「ウェンディゴが来た!」
エルダーシングスの一人が、慌てふためいて私たちにそう告げに来た。
ウェンディゴ…その姿を見た者とてない恐るべき風の精、黒きハリ湖に眠る腐れ外道に仕える者たちの中でも最も恐れられている者、またの名を「イタカ」。風に乗りて歩む者だ。
ウェンディゴ…イタカは確かに北の寒冷地を彷徨うことが多かったが、こんな極地にまで足を踏み入れることは今まで一度もなかった。
それはつまり、ウェンディゴの狙いが、私たちに他ならないということだ。
私は、背筋が凍る思いがした。
もちろん、よりかかっていた壁の氷が冷たかったわけではない。
「サムソン…」
私は不安げに彼を見た。
彼は、私以上に緊張した面持ちをしていた。
イタカの恐ろしさについては、私以上に彼の方がよりはっきりと理解できていたからだろう。
「ねぇ、サムソン、早く逃げよ?」
だが、私のこの言葉にサムソンは首を横に振った。
「いや、今からではもう間にあわない。勝ち目はないが戦うしかない」
彼はそう言って、私の頬を優しく撫でると、事を伝えに来てくれたエルダーシングスに礼を述べ、すぐに逃げるように言った。
「ボクがここを離れれば、ヤツはボクを追ってここを離れるだろう」
サムソンはそう言ってから、一呼吸置き、そして形容しがたい複雑な思いを込めた視線で私を見た。
「ヤツがボクを追ってここから離れたら君は急いでここを離れろ。ヤツはボクを殺った後、君の命も狙うかもしれない。仲間のところに戻ればいかにイタカでもそう簡単に手出しはできないだろう。ダゴンやヒュドラがいるからね」
彼の言葉は私にはすぐに理解できなかった。
周囲の世界と同じく、私の頭も凍りついてしまったのかもしれない。
「…サム」
言いかけた私の口を彼が優しく指で押さえた。
「ボクらはここでお別れだ。やはり、バイアクヘーとディープワンズが幸せに結ばれるなんて無理な話しだったのかもしれない。でも、ボクは幸せだった」
そう言って、彼は私の横をすり抜け、扉へ向かってひょこひょこと歩いて行った。
「ピンキーちゃん、幸せになってくれ」
彼は、そう言うと勢いよく扉を開けた。
私が言い返す間もなく、彼のコウモリのような羽はぶぶぶぶぶと高周波をあげて激しく羽ばたいた。
そして、それからずっと…それから1年が過ぎた今に至るまで、私は彼の姿を見ることがなかった。
「…だそうです。いや、まったく食屍鬼の考えることは!」
そう言って、ジェイムズ・マーシュはごぼごぼと笑った。
私は彼の話しなど上の空といった感じで、てきとうな生返事を返していた。
そもそも、私がここに来たのは彼の求婚を受けるためではない。
それをきっぱりと断るためだ。
もちろん、そんなことはパパにもママにも言ってはいなかったけど。
そんな私の様子などお構いなしにジェイムズ・マーシュは、話しを続けた。
「そうそう、そういえばこの前、愉快な噂を聞きました。なんでも南極の方でイタカが一匹、死んでいるのが見つかったそうですよ。あそこに住みつくエルダーシングスの連中が殺ったんでしょうが、名状しがたいヤツの下僕はやはり名状しがたい愚か者らしいですね。ショゴスを失ったあんな連中に不覚をとるとは!」
その後のジェイムズ・マーシュの笑い声は、私の雷鳴のごとき声にて吹き飛ばされた。
「その話は本当なの!!!」
物言わぬ屍体のごときおとなしさから、一転してエリック・モーランド・クラパム・リー卿の秘薬にて復活した生ける死者のように、突然の私の態度の変貌に困惑しながら、ジェイムズ・マーシュは頷いた。
「ウチの荷を運んでいた船の船員たちの噂話だよ。真実のほどはわかりかねる」
その言葉を聞きながら、私はすでに席を立っていた。
「ジェイムズさん、ごめんなさい。この話し、なかったことにしてください!」
「ちょっ…!」
何かを言いかけたジェイムズ・マーシュを背に、私は勢いよく海に飛び出した。
もしかしたら…彼が!?
ジェイムズ・マーシュからあの話しを聞いてから、すでに5ヶ月が過ぎていた。
彼は私の失礼な縁談の断りにも気を悪くすることなく、相変わらず私に求婚を続けている。
パパとママは、毎日のように彼と結婚しろとうるさく勧めてくる。
私はと言えば、毎夜、悪魔の暗礁の上に座り、一人南の空を見つめて時を過ごしている。
彼が生きているのか、それとも死んでしまったのか、それは今もわからない。
もしかしたら、あのイタカを殺ったのは、ジェイムズ・マーシュの言う通り、あそこに暮らすエルダーシングスの人たちだったのかもしれない。
彼らが、サムソンの仇をとってくれたのかもしれない。
でも、私は彼が殺ったのだと思いたかった。いや、そう信じている。
きっと彼は生きている。
私に会いに戻って来てくれる。
彼は私に「お別れだ」って言ったけど私は言わなかった。
だからきっと戻ってきてくれるはず。
それまで私はここで待ち続ける。
いつまでも、ずっと。
ごぼごぼごぼごぼ。