水茶屋お吉捕物帳

芝は神明の門前
水茶屋吉屋の看板娘お吉は
何と町奉行本多生島守より
直々の十手を与る岡っ引き
子分の小判鮫の源吾郎を引き連れ
江戸の町を舞台に大活躍・・・

 文化八年辛未年と記された古地図を見ると、江戸の変遷の様子が良く分かると同時にその当時から大して変わっていないんだなあとの印象も湧き上がってくる。御城は皇居となったけれど、同じ位置に緑をたたえているし、譜代の武家屋敷は明治神宮やら御苑、或は後楽園遊園地、東京大学にその姿を変えている。広大な寺社地は市街地に圧迫され、その数と規模を減じたが、いまだにその場所で繁栄を続けている。不思議な事だ。町人町が市街地とその名を代えてスプロールしただけで、基本的な枠組みは見事なまでに昔のままである。現在の東京の姿は既に文化八年と銘打たれたこの地図の中にある。
 さて捕物帳の舞台となる芝神明の辺りだが、ここでも基本的枠組みは何ら変わっていない。増上寺はホテルやゴルフ練習場、或は東京タワーにその領土を侵食されたが、いまだにその場所に根付いている。コンクリート製の巨大な大門も、御成門さえもちゃんとある。神明宮は人工地盤の上から小さな門前を見下ろしている。駐車場に敷地自体を占拠されながらも、その場所から動かない。嘗てはこの地まで仄かに汐の香りが漂っていた筈なのだが、今は排気ガスの臭いに満ちている。海だけは埋立地の彼方に後退した。
 江戸の文化文政期に庶民の憩いの場所として流行した水茶屋と看板娘の図式も、喫茶店の可愛い女の子目当てに通い詰める僕らの気分の中にちゃんと残っている。
 ある枠組みを残して変わっているからこそ、僕らは江戸を想像出来るし、その時代の人間に懐かしささえ覚えたりする。明治維新はこういう部分を大して変えはしなかったのだと、暮れ行く芝神明の石段に佇んで思った。

昭和六十二年四月  とみた たいじ


参考資料
『時代風俗考証事典』  林美一  河出書房新社
『江戸の町かど』  伊藤好一  平凡社
『江戸の町(上、下)』  内藤昌  草思社
『図説江戸ものしり事典』  別冊歴史読本  新人物往来社
『江戸なんでもランキング』  別冊歴史読本  新人物往来社
『江戸祭縁日地図』  江戸文化研究会編  主婦と生活社
『時代劇を考証する』  稲垣史生  旺文社
『風俗江戸物語』  岡本綺堂  河出書房新社
『江戸あへあへ草子』  淡野史良  河出書房新社
『江戸名物評判記案内』  中野三敏  岩波書店
『江戸の旅』  今野信雄  岩波書店
『文化八年古地図』  古地図史料出版株式会社

第一話 茶屋娘評判記
 「お吉ちゃん、お吉ちゃん、何処にいるんだい。おおい、お吉ぼう」
 芝は神明の門前にある水茶屋吉屋の暖簾越しに威勢のいい若者の声がまだうっすらと闇のしじまが漂っている早朝の店内にこだました。
 「何だい、朝っぱらからうるさいねえ。おや、源さんじゃないかい。どうしたのさ、血相なんか変えて」
 「あ、お種さん。お吉ちゃんはまだ寝てるのかい」
 「馬鹿お言いでないよ。源さんじゃあるまいし。とっくに起きて、今さっき神明様まで朝のお水を頂きに出て行ったばかりさ」
 「そうかい。ありがとよ、お種さん」
 小判鮫の源吾郎の異名を持つこの若者は、鼻先の尖った鮫肌の顔面いっぱいに玉の汗を浮かべて、芝神明の鳥居を潜り閑散とした社内に走り込んで行った。藁葺の端正な社の向うに増上寺の鬱蒼とした緑が見える。
 「あ、お吉ちゃん」
 吉屋と号入りの紺色に染め抜いた前垂れ姿のお吉が水桶を両手で抱えて源吾郎の方に危なっかしい足取りで歩いて来る。年の頃十七、八の撫で肩、富士額の典型的な江戸美人である。少し痩せ気味だが流行の浮世絵風に左右の鬢をふっくらと盛り上げた髪型姿は目を見張る程艶やかだ。
 「お吉ちゃん、おいらに持たせておくれよ」
 源吾郎は強引にお吉の手から水桶を奪い取った。
 「あら、源さん。今日はやけに早いのね」
 「よせやい、お吉ちゃんまで。そりゃ、たまにはお天道さんに先を越される時もあるけどさ」
 源吾郎は額の冷や汗を拭った。
 「そりゃそうと、お吉ちゃん。ちょいとおいらと親方のとこまで来てくんないかい。例の絵師が来てるんだよ」
 「まあ、こんな時刻に・・・」
 例の絵師とは源吾郎の属する町火消、め組の組頭浜松屋善兵衛の娘婿にあたる駆け出しの浮世絵師で、その名を喜多川歌奴と言う。美人絵を得意とし、羽振りの良い浜松屋の後盾もあり最近めきめきと頭角を現してきた。

 「今日はどうしても評判のお吉ちゃんに『うん』と言ってもらうんだって大変な意気込みらしいんだ。お蔭でおいらまで朝も暗いうちに叩き起こされちまって、お吉ちゃんを親方の所まで連れていかなきゃ火消をくびにするってんだから酷いもんさ」
 「源さんにまで迷惑かけてしまって・・・ご免なさいね」
 「いや、いいってことよ。どうせおいらは鳶口も持たせちゃもらえねえ土手組だしよ。お吉ちゃんがいやなら無理に親方に義理立てするこたあねえんだ」
 「だけど源さん、あんなに纏持ちになる事を夢見ていたんだしね」
 「そりゃそうだけどよ」
 「いいわ。私、一緒に行ってあげる」
 「え、本当かい、お吉ちゃん」
 源吾郎は喜びのあまり手にした水桶を振り回し、全身濡れ鼠になり、それでもへへへと笑っていた。実のところ、善兵衛からお吉を説得出来たら鳶口を持たせてやるとのお墨付きを貰っていたのだ。町火消としては一階級昇進で、やっと一人前の平人になれる。源吾郎が喜ぶのも無理はない。
 「おっかさん、ちょっと源さんと出掛けてくるわ」
 敷居越しに茶釜の脇に水桶を置くと、お吉は奥の母親に声を掛けた。そのまま返事を待たずに源吾郎と肩を並べて歩き出した。一人娘のお吉があまり評判になるのを快く思わないお種は話を聞けばどうせ反対するに決まっている。
 浜松屋はその名の通り浜松町の街道筋にある大きな店構えの油問屋である。代々この店の主が、この辺り一帯を取り仕切る町火消め組の組頭を務めることになっている。善兵衛は元々この店の手代だった男で、先代の主に見込まれて一人娘の婿養子となったくらいだから、年の頃四十五、六の文字通り油ののり切った中々のやり手である。それでいて修行時代の苦労のせいか気さくな面もあり、お吉の店にも時折顔を見せる。
 「やあ、お吉ちゃん、よう来てくれた。さあ遠慮なく上がっておくれ」
 当の善兵衛自身が店先まで機嫌よく出迎えてくれた。
 奥座敷に通されたお吉は、そこで善兵衛の娘婿である喜多川歌奴と対面した。鼻の低い丸顔の小男だが目だけは獲物を狙う鷹のようにキラリと光っている。
 「お吉ちゃん、本当によう承知してくれた。こいつがどうしても神明界隈の評判娘を羽子板の図柄にしたいと言うもんでな。なに、手間は取らせない。一日か二日、身体をあけてもらえればいい。じっと座っているだけだから、退屈かも知れないが、気を使う事はない」
 「え、羽子板・・・」
 てっきり浮世絵を描いて貰えるものと思っていたお吉は怪訝そうな表情で善兵衛を見た。
 「私から御説明しましょう」
 歌奴が初めて口を開いた。男にしては随分と調子の高い声だ。お吉は、この若い絵師に何となく生理的に馴染めないものを感じた。
 「浅草寺の境内で今年も新年の羽子板市が開かれるのですが、羽子板問屋の秋田屋さんが昨年手痛い目に会わされた松島屋さんに何とか鼻をあかそうと美人絵を羽子板にする事を思いついたのです。それも普通の美人絵じゃない。先頃流行の水茶屋の評判娘を図柄にして『水茶屋評判三人娘』と銘打って大々的に売ろうというのです。と言いますのは、昨年、商売敵の松島屋さんが役者絵を羽子板にして大評判になったのは御存知ですね。それに対抗しようというのです」
 「でも私なんかが・・・」
 「お吉ちゃん、歌奴に協力してやってくれないか。お吉ちゃんの評判を聞いて若い衆が遠方からお茶を飲みにやってくるんだ。羽子板をそういう連中に売るんだよ。そうすればお吉ちゃんの店ももっと繁盛する。街道沿いに大店を構えるのも夢じゃない」
 そんなわけでお吉は翌日、増上寺の一番鐘が鳴った時刻に、歌奴の差し向けた籠に乗って街道を上野に向かった。不忍池の辺にある料亭を絵描きの場所として歌奴が指定したのだ。羽子板の図柄を描くのに周りの風景がどうして必要なのか、お吉には腑に落ちなかったが絵師とはそういうものなのかも知れない。我が娘が羽子板になると聞いて、あれほど驚いたお種も、わざわざ善兵衛自身が吉屋まで出向いて頼み込んだので、すっかり諦めた様子だった。
 「幾ら評判になったって、生娘に変な虫がついたらしょうがないからねえ」
 お種が言った言葉が気にはなったが、若いお吉は生まれて初めて乗る駕籠の気分に酔っていた。半刻以上もたったのだろうか、漸く上野の山が見えてきた。
 上り口で美しく着飾った娘に出迎えられたお吉は何となく違和感を覚えながらも、気後れと好奇心とでいつもの快活さを逸したまま、二階の座敷に案内されていった。部屋の正面の障子戸が開け放たれて、欄干越しに不忍池が一望の元に見渡せる。お吉はフーと溜息をついた。自分が見知らぬ世界に一歩足を踏み入れたんだという感慨が胸を熱くした。
 「お吉さん・・・」
 歌奴が床の間を背にして座っている。朱塗りの丸盆に銚子が二本のっている。
 「あなた、この辺りは初めてですか」
 「はい」
 実のところ、お吉は今までに二度程お種に連れられて寛永寺にお参りに来た事があるのだが、池のそばまで足を踏み入れたのは確かに初めての事である。
 「それは良かった。どうです、美しい景色でしょう。ここにこうして佇んでいると浮世の憂さがまるで夢の様ではありませんか」
 いつの間にか歌奴はお吉の傍らに並んで立っている。既に何本か銚子を空けているらしい。酒の臭いが歌奴の病的に激しい息遣いに混じっている。
 「絵はいつ描くのですか」
 お吉は本能的に歌奴から身をかわした。
 「ハハハハ・・・・」
 歌奴は甲高い声で意味もなく笑うと、
 「少し飲みませんか。お吉さんの頬が薄紅色に染まった姿を描きたいのです。その方がずっと色っぽい」
 結局その日は昼過ぎまで歌奴の酒宴に付き合わされただけで、八ッ前には芝に戻ってきた。
 「おや、お吉ちゃん、随分と早かったんだねえ」
 丸に「め」の字の火消半纏を粋に羽織った源吾郎が床几に胡座をかいて茶を飲んでいる。
 「あらいやだ。源さん、こんな時刻に女々しくお茶なんか飲んで」
 「御挨拶な事言ってくれるじゃないか。おいら、これでもお吉ちゃんの店の売上に協力してるんでえ。それよか、お吉ちゃん。この半纏見ておくれよ。さっき親方から貰ったんだ。これでおいらも一人前の火消人足ってわけさ」
 「あら良く似合うわねえ。おっかさんは」
 「お種さんなら半刻程前に出掛けたっきりだぜ」
 「まあ、お店をほったらかしにして・・・」
 「そんな事はねえ。おいらがこの通り、ちゃんと店番してるじゃないか」
 「源さんじゃ頼りないわ。何処に行ったのかしら」
 「おいら、良く見ちゃいなかったけど、深網笠のお武家さんと、店の外で二言三言喋って、そのままおいらに店番押し付けて出て行ったんだ」
 お吉は記憶の糸を紐解いて、前にも同じ様な事があったのを思い出した。あの時も相手は侍だった。お吉はまだ小さかったので何も尋ねなかったが、お種自身の顔には何も聞いてくれるなとの強い拒絶の色が浮かんでいた。誰なのだろう。お種は娘の目から見ても年増の良い女である。まだ四十にもなっていないのだ。言い寄る男の一人や二人いてもおかしくない。だがお種はそう言う事にかけては潔癖だった。お吉の父親である前の亭主で失敗して以来、色恋沙汰はとうの昔に卒業したつもりでいる。
 「おっかさん、慌てていたかしら」
 「いや、何だかその侍が来るのを待っていた感じだったぜ」
 やっぱりそうなんだ。お吉は胸騒ぎを覚えた。わざわざお吉が店にいない事を知っていて、その侍はお種を訪ねてきたのだ。
 「どんな人だったの」
 「だから言ったじゃねえか。おいら、何も見ちゃいなかったって。服装でお侍だって分かっただけなんだ」
 「どんな服を着ていたかは憶えているんでしょ」
 「足元と後姿をちらっと見ただけだぜ。そうだな・・・紺色の袴に金が縁取ってあったな。羽織も同じ感じで丸に三本線の紋が入っていたな」
 「そこまで憶えていれば上出来よ」
 一応の手掛かりはある。あとはお種を刺激しない様に出来るだけの事を聞いてみよう。お吉は少し安心して、
 「源さん、美味しいお茶を入れてあげるわね」
 「おっと、そいつはありがてえ。ところでお吉ちゃん。絵はうまく出来上がったのかい」
 「それがねえ・・・」
 お吉は今日の一部始終を源吾郎に話して聞かせた。
 「お吉ちゃん、その料亭ってのは今流行りの待合茶屋ってとこじゃねえのかい」
 「待合茶屋・・・なあにそれ」
 「うん、おいらも行った事はねえから良くは知らないんだけど、最近池之端辺りで繁盛してる料理茶屋の一種で、二階に座敷が設けてあって、男と女が人目を忍んで睦言を交わす場所なんだそうだよ」
 「まあいやだ。私、ちっとも知らなかった」
 「それじゃ、お吉ちゃん、やっぱり・・・」
 源吾郎は疑いの眼でお吉を見詰める。
 「ええ、私が今日、歌奴という絵師に案内された所は確かに源さんの言う通り、待合茶屋と言う処だわ。あの人、絵はちっとも描かずにお酒ばかり飲んでいたのよ」
 「お吉ちゃん、そいつあ危ねえや。絵師とは名ばかり、本当はお吉ちゃんの柔肌が欲しいんじゃねえのか」
 「いやだわ、源さんったら」
 お吉は両頬を真っ赤に染めた。
 「とにかく、お吉ちゃん、その絵師とはもう会わねえ方がいい」
 「そんな訳にはいかないわ、源さん。明日同じ時刻にお迎えが来る事になっているのよ。浜松屋さんの手前もあるし、断れないわ」
 「良し分かった。明日はこのおいらがお吉ちゃんの用心棒として付いて行ってやらあ」
 「まあ本当。そうしてくれると助かるわ。でも源さん、仕事はどうするの」
 「なあに心配するなって。こう見えてもおいらは天下の『め組』の火消人足でい。大工の仕事なんざ二の次さ」
 幾ら火事と喧嘩は江戸の華と言われていても、そうしょっちゅう火事がある訳ではない。町火消達は世話役も含めて皆他に本業を持っている。源吾郎も増上寺の修理場に通う、れっきとした宮大工である。数年前までは親の後を継いで飾職人として女子の簪を彫っていたのだが、生まれつきの不器用でおまけに短気ときている。細かな仕事は性に合わないと、あっさり仕事代えし、大工の見習を始めた。それまでは通いの身ではなかったので、とにかく朝が遅い。後先考えない性分もあって、夜は深酒に賭場通い。大工を首になるのも時間の問題だと誰もが思っている。
 だが愛おしいお吉の事となると話は別だ。翌日、一番鐘の鳴る一刻も前に、源吾郎は街道を上野に向かった。待合茶屋の場所はお吉の話で凡その見当がついている。少し早めに着いて、見張りに手頃な場所を探さねばならない。
 さてお吉の方は、それから一刻の後、増上寺の一番鐘を合図に昨日同様歌奴の差し向けた駕籠に乗って浜松町を出発した。今日も酒の酌だけで終わるのだろうか。浜松屋への義理もあるが、お吉自身、有名な絵師に美しく描かれてみたいとの娘心も、まんざらない訳ではない。それだけに、源吾郎が教えてくれた待合茶屋なる場所がえらく気になるのである。それに・・・昨日暮れ六ッ少し前に戻ったお種の表情がやけに明るかった事も気になっていた。単なる用事なら、あれ程晴れやかな顔になる筈もない。お種ももしや、あの待合茶屋なる処で深網笠の侍と逢瀬を重ねているのでは。お吉の気分は思案すればする程、曇ってくるのであった。
 「やあ、お吉さん、良く来てくれたね」
 歌奴は昨日と同じ部屋で待っていた。やはり酒を飲んでいたらしい。朱塗りの盆に徳利が三本並んでいる。
 「お吉さん、今日は描かしてもらいますよ。先程からあなたの到着が待ち遠しかったくらいに気分が乗っているのです。こんな事は、ここ数年来珍しい」
 また酒を勧められでもしたら、はっきりと断って帰ってしまおうと思っていたお吉は拍子抜けして、ポカンとしたまま歌奴のギラギラ光る目を見詰めていた。
 「さあ、その窓にもたれて、そうその通り・・・じっと池の真ん中辺りを見ていて下さいよ」
 歌奴は紙と筆を取り出すと、部屋の中央に胡座をかいて、サラサラと筆を動かした。気勢をそがれたお吉は言われたままに、じっと身動きもせず窓辺にもたれていた。やはり取り越し苦労だったらしい。絵師は気分が乗らないと無理はしないのだ。そう言うものなんだ。
 ややあって、
 「お吉さん、少し飲むといい。その方が女子は色気が出る。うっすらとした酔いが色気を香りに変えて発散させる。美しさが幾重にも増すのですよ」
 お吉は言われるがままに酒を飲んだ。甘辛い香りが喉元から、一気に身体中に広がった。美しく描かれたいとの娘心がお吉を陶酔させた。
 「お吉さん。今度はこちらを見てごらん。じっと私の目を見て、そう、その様に・・・綺麗な顔だ。雪の様に美しく細やかな肌だ」
 歌奴の声が何だか随分遠くの方から聞こえてくる。とても優しく、広い海原の様に・・・お吉の心を和ませる。眠ってしまいそうだ。
 不忍池の弁天様境内の杉の木のてっぺんに腰掛けて、遠目にこの様子を見ていた源吾郎は慌てて池の向うのお吉に叫びかけた。
 「おーい、お吉ちゃん、何やってんだ。駄目だ、そんなに近づいて。あ、危ない、顔と顔がくっつくぞ・・・や、止めろ」
 杉の木が一揺れ大きく傾いで、次の瞬間、源吾郎はまっさか様に池の中に墜落した。
 「お吉さん、あなたは何て美しいんだ。そう、絵にも描けない美しさ・・・さあ、静かに目を閉じてごらん。そう、その方がずっと美しい」
 お吉には池の向うの源吾郎の忠告など聞こえる筈はない。頭の中がドンドン軽くなり、抵抗する力さえない。歌奴の荒々しい息が頬を打つが、手を動かす事も出来ない。強い力で抱き締められ、そのまま何処かへ運ばれて行く。唇を誰かの舌が嘗めている。お吉は夢の中で懸命に抵抗するが、力強い男の腕にねじ伏せられて身動き出来ない。そうだ、あの酒だ。酒の中に痺れ薬が入っていたのだ。助けて・・・誰か助けて。お吉は声にならない声で叫んだ。
 「フフフフ、苦しそうな表情だねえ。色っぽい、とても色っぽい。この世のものとは思えない位だよ」
 次の間の夜具の上にお吉を横たわらせた歌奴は好色な笑みを浮かべて舌嘗めずりをした。
 「さあ、おまえの美しい肌を私に見せておくれ。とても綺麗な羽子板が出来そうだねえ、フフフフ」
 歌奴は身体の痺れたお吉の胸元に手を置いた。
 「柔らかい胸だ。羽毛の様だ。おまえのこの淫らな姿を春画に描いてあげようかね。江戸中の人気者になるよ」
 その時、座敷の襖が音もなく開き、白足袋の足が畳の間に踏み入った。歌奴はお吉の無抵抗な身体に夢中で全く気づく気配はない。白足袋はそのままススっと歩を運び、次の間の夜具の前で足を止めた。
 「さあ、着物を脱がしてあげよう。もう少しの辛抱だ。とても良い気持ちにさせてあげるよ」
 白足袋の男は腰に差した刀を抜き放った。歌奴はまだ気づかない。それ程この侵入者の身のこなしは滑らかで隙がない。
 「とても白い肌だね。さあもう少しだ」
 刀が音もなく打ち下ろされた。
 「ひ、ひぇー」
 次の瞬間、歌奴は褌一枚の姿で女の様な悲鳴を上げていた。白足袋の男が斬り込んだ刀の先が、羽織もろとも彼の着物の布一枚をバサリと切り裂いたのだ。それでいて歌奴の肌にはかすり傷の痕跡も残さない。相当な腕前である。
 「な、な、何者・・・」
 歌奴の声はブルブル震えて言葉にならない。侵入者は月代を無宿者の様に長く伸ばし、端正な色白の顔に不敵な薄ら笑いを浮かべている。紺地に赤い糸で打ち寄せる浪の文様を描いた粋な着流しである。
 「生娘に痺れ薬を飲ませ、事を遂げようとは不埒な奴。天に代わって成敗してやる」
 「お、お、おた、おた、お助け・・・」
 歌奴は腰を抜かしたまま、両手をいざりの様に懸命に動かして後ずさる。
 「よいか、娘に金輪際指一本触れるでないぞ。もしや、その時は・・・」
 男は大上段に構えた刀を打ち下ろし空を切った。
 「ひぇー」
 歌奴は悲鳴一声、いざりの格好のまま次の間を抜け出し、座敷の襖に体当たりして、バリバリバリと凄まじい音を響かせ階段を転げ落ちていった。
 「娘さん、大丈夫か」
 男は夜具の上に横たわったままのお吉に、うって変わった優しい声を掛けた。
 「はい・・・」
 お吉は目に涙を浮かべて懸命に頷いた。
 「その様子では、まだ立ち上がれまい。暫く休んでおるがいい」
 男はお吉の着物の乱れを直し、その場を音もなく立ち去った。
 「お吉ちゃん、おーい、お吉坊」
 入れ違いに、濡れ鼠の源吾郎が部屋に飛び込んできた。
 お吉はそのまま、池野屋という名のその待合茶屋で身体の回復を待って、その日の夕刻、源吾郎に付き添われて芝神明に戻ってきた。既に歌奴が手を打ったらしく、吉屋には浜松屋善兵衛が来ており、娘婿の乱心を詫び、団子の包みと一緒に一両小判を置いていった。お吉親子は金だけは返そうとしたが、絵の代金だと言うので貰っておく事にした。浜松屋の表情からして、娘婿の不始末への口止め料だと解釈出来た。
 そんな訳だから、歌奴との間には何事もなかったものと、あのおぞましい日の記憶を半ば忘れかけていたお吉にとって、源吾郎からお吉の美人絵が羽子板になって売り出されたと聞いた時は、びっくりして声も出なかった。正月も過ぎて漸くいつもの人出に戻った神明の境内で息せき切った源吾郎は柄に似合わぬ大きな羽子板を抱えていた。
 「まあ、源さん。どうしたって言うの。羽根突きでもしようってんじゃないでしょうね」
 「しようも糞もねえやな。お吉ちゃん、ようくこの絵を見てごらん」
 「まあ・・・」
 羽子板の表の錦織の図柄を一目見たお吉は顔の火照りを覚えた。櫛巻髪に黄色い簪、踊る絵文字で水茶屋三美人之一と書いてある。
 「これは・・・」
 「何惚けてんだよ。お吉ちゃんじゃないか・・・お吉ちゃんが羽子板になったんだよ」
 水茶屋三美人之一とあるからには他の二人と共に、江戸市中より三美人の一人に選ばれた事になる。名誉な事に違いないが、歌奴があんな不始末の後、まさかお吉を図柄に選ぶなんて考えてもいなかったお吉は呆然としてしまった。どういうつもりなんだろう。そう言えば浜松屋さんは、絵の代金だと言って一両を置いていったけど・・・
 「源さん、この羽子板は何処で売っていたの」
 「おいら、棟梁の用事で今朝浅草寺まで行ってきたんだ。丁度境内で羽子板市の売れ残りを安く売っていたんだ」
 「まあ、売れ残りなの・・・」
 「いや、お吉ちゃんのはこれ一枚しか残っていなかったよ。大変な評判らしい。羽子板は女子供の物と相場が決まっていたけど、この三美人は大店の若旦那衆が競って買い求めたらしいんだ」
 「恥ずかしいわ」
 お吉は羽子板を抱きかかえたまま頬を紅色に染めた。
 さて、お吉とて並みの町娘、自分の似姿が美しく錦に描かれれば悪い気はしない。源吾郎から譲り受けた水茶屋三美人之一の羽子板を大事に吉屋の神棚に飾って、安らかな夢の世界へと寝入っていった。
 翌朝の事である。
 「お吉ちゃん、お吉ちゃん」
 「おや、源さんじゃないかい。随分と早いんだねえ」
 「お種さん、呑気な事言ってる場合じゃねえぜ。お吉ちゃんは」
 「お吉なら、さっき神明様まで朝のお水を頂きに行ったよ」
 「ちぇ、またかい。嫌になっちまうぜ」
 「待ってる間にお茶でも入れようかね」
 「それどころじゃねえぜ、お種さん。今さっき朝火事があって、おいら戻ってきたばかりなんだけどよ。その時、人足仲間から大変な事を聞いちまったのさ」
 「何が大変なの、源さん」
 入口の油障子がガラっと開いて、水桶を持ったお吉が敷居をまたいで入ってきた。
 「あ、お吉ちゃん。丁度いいや。まあ聞いておくれよ」
 そう言いながらも源吾郎はお吉の手から柄杓を奪い取り、大切な神明様の神水を勝手にゴクリと飲み干した。
 「実は、歌奴が殺されたんだ」
 「え、何ですって」
 「浜松屋に住み込んでる人足の話だから確かだと思うんだけど、何でも例の池野屋の座敷で滅多突きにされて死んでいたんだってさ」
 「まあ恐ろしい」
 「それだけじゃないんだ。おいらが昨日お吉ちゃんにあげた羽子板があるだろ。あの水茶屋三美人の羽子板さ。そいつが三枚、歌奴の血まみれの死体の上に置いてあったんだってよ。天罰とはこの事さ。お吉ちゃんは幸い、お侍さんに助けて貰ったけど、大方他の二人は痺れ薬飲まされて手込めにされたんだろうよ。その罰が当たったんだ」
 「でも天罰だなんて・・・」
 お吉は神棚の上の羽子板をじっと見詰めたまま、何かしら腑に落ちない様子だ。
 「ご免よ」
 その時、十手を手にした赤ら顔の御用聞きが入ってきた。野郎芸者の豊次郎と後ろ指差される界隈の嫌われ者である。
 「お吉、絵師喜多川歌奴殺害の容疑で、ちょいと芝口の自身番まで来てくんねえ」
 「な、何だと。出し抜けに挨拶も抜きで、この野郎」
 源吾郎が豊次郎の頭をポカリと叩いた。
 「何するざんす。この十手が目に入らないざんすか」
 「馬鹿野郎、そんな物が目に入る訳ねえだろ」
 源吾郎はなおも豊次郎をポカポカ殴り続ける。この十手持ち、野郎芸者と陰口叩かれるだけあって、腕力はからっきしない。源吾郎のいい餌食になった。
 「控えろ、愚か者めらが」
 おっとり刀で入ってきたのは、狐のように両の目が吊り上がった八丁堀同心、笹木兵部である。こちらはれっきとした幕府お抱えの侍、流石の源吾郎も手が出せない。
 「お吉とはそなたか」
 「はい、吉にございます」
 お吉も神妙に控える。
 「喜多川歌奴を存じておろうな」
 「はい」
 「ちと取り調べる故、芝口の自身番まで同行してくれ」
 「分かりました」
 お吉は大人しく同意したが、お種はそれはもう腰が抜ける程動揺して、
 「お、お役人様、お吉に限って、そんな大それた・・・どうかお見逃しください。後生で御座います」
 と、あたかもお吉が下手人に決まったかの様な慌て方。
 「おっかさん、大丈夫よ。心配しないでお店を守っていてね。少し事情を聞かれるだけだと思うから」
 それでもお吉は野郎芸者の豊次郎に肩先を押されて、引き立てられる様な形で吉屋を出て行った。治まらないのは源吾郎である。
 「あの野郎、お吉ちゃんに何て事を・・・ぶっ殺してやる」
 水桶の柄杓を大上段に振りかぶると、威勢良くお吉の後を追おうとした。
 「待っておくれよ、源さん」
 お種が源吾郎の振り上げた腕に取りすがる。
 「止めないでくれ、お種さん。おいら、お吉ちゃんの為なら死んでもいい」
 「何も今死んじゃうこたあないさ。それよりも、源さん、ちょいと出かけるよ」
 「え、出かけるって・・・何処に」
 「奉行所さ」
 お種と源吾郎は街道を大急ぎで尾張町までやって来た。そこで左に曲がると数奇屋橋御門が目の前にある。
 「これ町人、何処へ参る」
 長い槍を手にした助六みたいな大男が二人の行く手に立ち塞がった。
 「御奉行様にお茶を届に参りました」
 お種は門番の男に紫色の風呂敷包みを手渡した。男は風呂敷に染め抜かれた丸に三本線の紋を目にすると、
 「どうぞ通られい」
 と、やおら丁寧に頭を下げた。源吾郎には何の事だか皆目分からない。が、ともかく二人は南町奉行所の前に来た。ここでも紫色の風呂敷が物を言って、奉行所の中まで入る事が出来た。
 「お種さん、本当にその中にはお茶が入っているのかい」
 「しっ、後で説明するからね。ほら、お殿様が入ってきたよ。源さん、頭を下げて」
 寒さに弱い江戸南町奉行本多生島守は背中を屈める様にして、お種と源吾郎の通された座敷に入ってきた。
 「あっ」
 その姿を目にした源吾郎は思わず声を上げた。お種と吉屋の外で話していた深網笠の武士に間違いない。背格好といい、服装も殆ど変わりない。
 「お種、わざわざ奉行所まで何の用かな。まさか茶を売りに来た訳でもあるまい」
 「お吉の事で参りました」
 「何、お吉の事とな」
 生島守は身を乗り出した。お吉の事を知っているらしい・・・ここで、江戸南町奉行であるこの男の経歴について少し説明すると、生まれは江戸郊外、奥州街道の起点にある千住の宿。旗本本多生島守有基の長子でありながら、飯盛女との間に出来た落し子、十四の年まで千住の宿場で育てられた。男子が生まれなかった本多家に漸く引き取られた時は、垢まみれの無法者だったと言う。しかし、元々頭脳明晰、あっと言う間に武芸百般を学び終え、無事家督を相続し、とうとう町奉行の地位まで出世した。若い頃、町人町で育ったせいで、偉くなった今でも、決して奢り高ぶる事もなく、並みの武士とはちと毛色が違っている。平気で吉原に通うわ、町人町にお忍びで遊びに出るわ、放蕩三昧と言えば聞こえは悪いが、庶民の心を片時も忘れない。本多の屋敷が南町奉行所に近いせいもあり、代々の奉行のような奉行所住いを嫌がり、今でも自邸から徒歩で奉行所に通ってくる。
 「お吉が自身番まで引き立てられました」
 「何、それは真か」
 お種は掻い摘んで今までの経緯を話した。
 「ううむ」
 生島守は腕を組んで考え込んだ。殺人の容疑で自身番に出頭すれば、話を聞くだけで帰してくれる筈はない。容疑が晴れるまで伝馬町の牢に入れられるは必定だ。そうなれば幾ら町奉行とは言え、法を破ってお吉をお白洲の取調べ前に牢から出す訳にはいかない。江戸はれっきとした法治都市なのである。
 しかし、何故これほどまでに生島守、お吉親子の肩を持つのであろうか。単なる噂話の域を出ないが、生島守が家督を相続し、遊び呆けていた折、芝神明の水茶屋に入り浸っていた事がある。そこの看板娘と恋仲になったとの噂が立ち、好ましからず思った本多家の隠居、即ち生島守の父親有基は息子を大阪城代の勘定同心にするべく、時の老中に働きかけ、その甲斐あって生島守は大阪に赴任する事になった。お種がお吉を身篭ったのはそのすぐ後の事だったので、事情通の町雀達は密かに、お吉は生島守の落し種だとまことしやかに囁いた。しかし人の噂も時の流れにかき消され、お種は亭主を貰い、お吉はその娘として育てられた。いや、あくまでも噂は噂に過ぎず、お吉は本当にその亭主の娘なのかも知れない。お種は、お吉が六ッの時に亭主が出奔して以来、仮小屋に過ぎなかった吉屋を本造りにし商売に本腰を入れ始めた。生島守が大阪の永い勤めを終えて江戸に戻ったのは、お吉が十一の時だったが、その日以来、深網笠の侍がお種を時折訪ねる様になった。
 さてお吉はその頃、他の水茶屋三美人と共に伝馬町の牢に入れられていた。自身番では大した取調べも受けずに、籠に乗せられ真っすぐ牢に運ばれた。お上のお裁きをまだ受けてないとは言え、殺人の容疑者である。髪を解かれ、白い襦袢一枚で薄暗い牢に繋がれると流石に恐ろしさが増してくる。他の二人とは護国寺門前青柳町の柳屋お祥、両国は回向院の茜屋お通である。三人、肩寄せ合って女牢の片隅で寒さに震えていた。
 七ッ時の鐘が鳴った頃だった。お吉だけ牢を出され、着物を着せられると、再び籠に乗せられ、とある屋敷の前で降ろされた。地位ある人の武家屋敷の様だ。奥座敷に連れていかれ、そこで髪を結ってもらうと、やっと心が落ち着いた。
 「そなたがお吉か。お種殿に瓜二つじゃなあ」
 人払いの後、身なりの良い侍が入ってきた。
 「南町奉行、本多生島守じゃ」
 お吉はびっくりして頭を畳の縁に擦り付けた。
 「二人だけじゃ。気楽にするが良い」
 生島守は胡座をかいて、恐縮しているお吉の方へ身を乗り出した。
 「お吉、そなたが下手人でない事は分かっておる。しかしながら町奉行とは言え、吟味役の与力の頭ごしに、そちを放免する訳にはいかんのじゃ。そこで、お吉。そなたを見込んで頼みがある。三日間の猶予を与えよう。その間に真犯人を見つけだすのじゃ」
 「え、私がでございますか」
 お吉は目を皿の様に見開いて生島守の顔を見た。
 「わしに出来ることはそれだけじゃ。吉報を待ってるぞ」
 生島守はそう言い残して出ていった。お吉はただ呆然として、その場に暫く座り込んでいた。
 暮れ六ッ時、お吉は一人で吉屋へ戻ってきた。途中、尾行の気配を感じて何度も振り返ってみたが、確かめる事は出来なかった。お吉を出迎えたお種は涙を流し、まるでお祭り騒ぎのはしゃぎ様だったが、お吉はこれからの事を思うと気が重く沈み込んでくるのであった。
 翌朝早く、お吉は中門前町の源吾郎の長屋を訪ねた。ちと頼りないが、今相談する相手は源吾郎しかいない。お種はお吉が放免されたものと思っているので、これ以上心配させる訳にはいかない。
 「わ、お吉ちゃん・・・どうしたんだい。おいら、それはもう心配で一睡も出来なかったんだぜ」
 そう言うわりには、熟睡した者特有の晴れ晴れした顔をしている。
 「源さん、悪いんだけれど、三日間ほど私に付き合ってくれない」
 「え、ほんとにいいのかい」
 源吾郎は鼻の下をデレーっと伸ばし、何やら誤解している。お吉は事の顛末を説明した。
 「そいつぁてえへんだ。分かった。おいら、お吉ちゃんの為なら一肌も二肌も、褌までも脱いでやらあ」
 「いやねえ、源さん」
 やっとお吉の表情に笑みが浮かんだ。
 「それで早速なんだけど、源さん、歌奴が殺された池野屋まで行って、事件の顛末を調べてきて欲しいの。その間に私は、他の羽子板娘の事を調べてみるわ」
 「ほいきた、合点でえ」
 気の短い源吾郎はそう言うが早いか、突風の様に飛び出て行った。お吉ものんびりとはしていられない。脚半に草鞋で身を固め、第一の目的地、両国の回向院に向かった。
 水茶屋茜屋は一ッ目橋のたもとの立川のお堀端、相生町にあった。小さな掛け小屋である。人気のない店内に入ると、所在なげに十二、三の小娘が茶釜の脇に立っている。
 「あの、お茶を飲ませて下さいな」
 声を掛けると、慌てて湯をかき混ぜだした。
 「今日はお一人なんですか」
 「ええ、お通さんが寝込んじゃって」
 この店に間違いない。お吉は何から切り出そうかと迷っていたが、
 「お通さんて、評判の美人なんですってね」
 「はい、それはもう。羽子板になった位ですもの」
 「まあ羽子板に」
 「そうなんですよ。絵師の先生がこの店の馴染で描いてくれたんです」
 「あら、いいわねえ。私も描いて貰おうかしら。その先生はどちらにお住いなの」
 「駿河町だったかしら。明神様のそばだとか言ってましたから」
 「お通さん、その先生に随分感謝していたんでしょうね」
 「それが・・・」
 娘はお吉に麦湯を差し出し、何故か歯切れが悪い。
 「何かあったの」
 「お通さん、絵を描いて貰う前はとても喜んで、それはもう丁寧にお化粧までして・・・上野に出掛けて行ったんですけど。その後、三日ばかりお店を休んで、出てきた時は別人みたいに疲れた顔になって、私が幾ら聞いても何も話してくれないんです」
 娘はお吉を疑う様子もなく、自分の方から聞かれもしない事まで喋ってくれる。
 「いつ頃の事なのかしら」
 「そうですねえ。二ッ月になるかしら。それから、そうそう、もっと変なのは、お通さんたら、自分の羽子板が売り出されても買おうともしないんですよ。私が浅草寺で買ってきて、お通さんに渡そうとしたんだけど・・・物凄く嫌がるんです」
 「お通さんて、この近所に住んでいるんでしょ」
 「ええ、二ッ目橋のとこです」
 「お茶のお代、ここに置いてくわ。どうもありがとう」
 お吉は茜屋を出て、お堀端沿いに二ッ目橋までやってきた。「蕎麦」の看板を掲げた小造りな表店で尋ねると、お通の家は二軒隣の裏店ということだ。主が胡散臭い眼差しをお吉に向けたところを見ると、ここいらの住人はお通が捕まった事を知っているのかも知れない。
 木戸を潜り、木溝沿いに裏長屋の奥まで入ると、井戸端で年増の女が大根を刻んでいた。
 「お通さんのお家はこちらですか」
 女は朝の侵入者に警戒の一瞥を投げたあと、
 「あんた、誰だい」
 「お通さんの身内の者ですが」
 「あの娘なら、昨日番屋にしょっぴかれてったよ。嘘だと思ったら自身番で聞いてごらん」
 と、素っ気ない返事。後は何を聞かれても知らぬ存ぜぬ、愛想が悪い。お吉は諦めて長屋を出た。
 「ちょいと姐さん、待ちねえ」
 木戸を出た処で見知らぬ男に腕を掴まれた。
 「何をするんです」
 「それはこっちが聞きてえ台詞だぜ。おめえ、お通の事を先程から嗅ぎ廻ってる様だけど、何処の回し者だ」
 「放してください。人を呼びますよ」
 「ハハハ、気の強え女だ。黙って俺の質問に答えろ。何処のどいつだ、おめえは」
 「お通さんの身内の者です」
 「それだけじゃ分からねえ」
 「昔、お通さんと明神様の水茶屋で一緒に働いていたんです」
 「フン、まあいいや。お通は殺人の大罪で極門は免れねえ。変な真似をすると、おめえもしょっぴくぞ」
 「お通さんが人を殺めたんですか」
 お吉もなかなかしぶとい。
 「ああ、証拠の出刃も出てきたんだ。おまけにあの女、『殺してやる』って大声で喚いていたのさ。長屋の連中の証言も取ってある。さあ、分かっただろ。今の内ならほっといてやる。とっとと失せろ」
 捨て台詞と共に唾を堀に吐き捨て、傲慢な目明しは踏ん反り返った歩き方で去って行った。
 お吉は悔しかったが、これ以上関わり合う余裕はない。その足で両国橋、柳橋と渡り、川沿いに神田に向かった。正平橋の袂で右に折れ、湯島の聖堂と明神様の間を抜けると本郷町、その手前の坂を登りつめた処が駿河町である。
 もう芝を出てから二刻程経過している。流石に足が痛む。だがお吉には残された時間は僅かだ。その間に身の潔白を証明しなければ、人殺しの汚名に甘んじ、更に死罪は免れない。歌奴が殺された状況は源吾郎の調べを待たなければ何とも言えないが、どっちみち夜中の事だとしたら、お吉の居所を証言出来るのはお種しかいない。あの目明しの話だと、お通は歌奴に殺意を抱いていたらしい。証拠の品もあると言う。だとしたら・・・とにかく動き回るしかない。自分の足で、真相を解明するしかない。
 歌奴の住いは表通りに面した割合しっかりした造りの絵草子屋だ。当然ながら店は閉まって誰も出てこない。近所の人間は皆、歌奴の死を知ってはいたが詳しい事情は分からないらしい。かえってお吉の方が質問される羽目になる。ただ収穫と言えたのは、この絵草子屋の前に林屋という水茶屋があり、そこの看板娘、お長が大変な美人との話。残念ながらお長は留守だったので、お吉は自分の目で確かめる事が出来なかったが、林屋の娘達は何故歌奴がお長を三美人に選ばなかったのか腑に落ちない様子。事実、歌奴はこの店の常連だったのである。
 お吉は林屋で四半刻程休憩し、伝通院を抜け護国寺へと足を伸ばした。
 柳屋は文字通り門前の大きな水茶屋だ。茶ばかりでなく団子や汁粉など甘味も用意している。お祥の事を尋ねると、皆一様に口を閉ざす。それでも店の娘にそっと銭を握らすと、
 「あの人が三美人だなんてお笑い草だね。この店は綺麗な娘を置いてるけど、あの娘は前のお八重さんが辞めたんで、次の娘が見つかるまでの繋ぎで雇ったんだよ。お客さんの間でも評判悪かったんだよ」
 そう言えば・・・牢内でお祥を見た時、正直言って美しい娘だとは思わなかった。お通は流石に三美人と言える器量だったが・・・お吉はこの時、他の二人の羽子板を今まで見ていなかった事に気がついた。それとなく尋ねたが柳屋には置いてなかった。
 お吉は来た道を引き返し浅草寺に向かったが、筋かい橋を越えた辺りで遂に脚の痛みに耐えかねて座り込んでしまった。
 「お吉ちゃんじゃないか」
 その時屈み込んだお吉の背中を手荒く叩く者がいた。振り向くと源吾郎が、何やら両手に荷物を抱えて立っている。
 「まあ源さん、どうしたのその荷物」
 「うん、池野屋にあった羽子板を分けて貰ってきたんだ」
 「まあ、何て手回しのいい」
 お吉は足の痛みも忘れて、源吾郎の手から油紙に包まれた羽子板を受け取った。早速その場で開けてみると、お祥もお通もこの世の者とは思えぬ妖艶さ。お通は物憂げな眼差しが細長い顔に溶け合って、伝馬町の牢で見た悲しげな表情にそっくりである。だが、お祥の顔は、
 「違う。この顔はお祥さんじゃないわ」
 お吉には自分の顔の事は良く分からない。しかし源吾郎の言によると羽子板の顔は正しくお吉だと言う。お吉とお通は似顔絵になっているが、お祥の絵は本人と違っている。何か秘密がありそうだ。
 お吉は源吾郎に半ば抱きかかえられる様にして、暮れ六ッの鐘が鳴る頃に芝神明の前に戻ってきた。お吉にとって、これ程歩き詰めたのは生まれて初めての経験である。だが休んでいる暇はない。お吉は源吾郎を急かせて、その日の成果を聞き出した。
 喜多川歌奴は前々日の夕刻、頬かむりをした女と連れ立って上野の池野屋に現れた。いつも通りの不忍池を見下ろす二階の座敷に入り、酒と料理を注文した。暫くして、やはり頬かむりの女二人がやってきて、歌奴の部屋に入った。事件が発覚したのは、それから二刻半程たった夜中の事である。用足しに出た泊まりの客が、座敷から漏れ出る灯りを不審に思い、襖を開き歌奴の血まみれの死体を発見し大騒ぎになった。メッタ突きにされ、床の間の掛軸に鮮血が飛び散っていた。死体の上には水茶屋三美人の羽子板が、夫々の似顔絵を表に向けて、歌奴を嘲笑うかの様に微笑んでいた。取調べの役人に、池野屋の女中が羽子板の一つを指さし、歌奴と最初に店に上がった女だと証言した。
 「それが、このお祥って女の羽子板なんだ」
 「あとの二人の顔を見た人はいないのね」
 「それが最初の女中がそんな事を言ったものだから、他の奴等まで、あとの二人も羽子板の女達らしいと言い出したんだ」
 「まあ・・・」
 源吾郎の報告によると、いよいよもってお吉の立場は悪くなる。お祥は顔を見られているし、お通は恐らく卑劣な手段で手込めにされた恨みであろう、殺してやるという言葉を聞かれている。
 「その他に何か分かった事あって」
 「ああ、歌奴って野郎、この池野屋の常連で月に何度も女を連れて店に来ていたんだ。その度に薬を使っていたらしくて、銚子の底が濁ってたって主人がぼやいていたぜ。あ、それから、女中が顔を見たって言うお祥って女、前にも何度か歌奴と一緒の処を見た事があるって話だ」
 「どうにかその・・・お祥を騙った女を見つけ出さなくちゃね・・・ところで、源さん。この羽子板だけど・・・池野屋から分けて貰ったって言ったわね」
 「歌奴の荷物ん中にあったんだ。いらねえってんで貰ってきた」
 「そう・・・ところで源さん、江戸の地図、手に入らないかしら」
 「地図・・・浜松屋の親方ん処で見た事あるけど」
 その夜、お吉はまんじりともせぬ時を過ごした。あと二日・・・他の二美人達、どんなにか心細い気持ちで牢に入っている事だろう。是が非でも下手人を見つけなくては。
 翌朝、六ッの鐘と共に、お吉は源吾郎と連れ立って神田に向かった。林屋のお長の事が気になったからである。足の痛みはまだ残っていたが、そんな事は言っていられない。途中、源吾郎が浜松屋に立ち寄って地図を借りてきたので、駿河町に着いたのは五ッ時を過ぎていた。
 林屋の店先で前垂れ姿の娘が通りに水を撒いている。お吉と同じ櫛巻髪である。
 「源さん、私はここで待っているから、あの娘の顔を良く見てきてくれない」
 「合点でい」
 源吾郎は娘に何やら話し掛けた。娘は後れ毛を気にしながら顔を上げた。羽子板に描かれたお祥に間違いない。木戸の陰でお吉は確信した。つまり、水茶屋三美人に錦織されたお祥は林屋お長だったのである。
 「お吉ちゃん、どうする。あいつが下手人に決まってるぜ。痛い目に会わせて吐かしちまおうか」
 「ちょっと待ってよ、源さん。まずお茶でも飲んでいきましょうよ」
 「お吉ちゃん、何呑気な事言ってんだい」
 「いいこと、源さん。もしあの娘が下手人なら、水茶屋三美人に罪をなすりつけようとした張本人だから、私の顔を見て気がつく筈よ。吉屋のお吉だって事が」
 「あの羽子板はお吉ちゃんに良く似ているもんなあ」
 お吉と源吾郎は林屋の暖簾をくぐった。
 「ご免よ」
 源吾郎が呼び掛けると、折り良く先程まで路端に水を撒いていたお長が中に入ってきた。夫々団子と汁粉を注文すると、お長は愛想良く応対する。お吉はわざとお長に話し掛けた。
 「私も芝で水茶屋をやってるから、そちらに来た時は立ち寄って下さいね」
 お長は何か答えようとしたが、驚愕の表情を浮かべたまま口ごもった。慌てて奥に引き返し、注文した団子と汁粉は別の娘が運んできた。
 「源さん、行きましょう」
 「え、まだ食い終わっっちゃいねえぜ」
 団子を頬張ったままの源吾郎を引き立てる様にして、お吉は店を出た。駿河町の木戸口で見張っていると、お長が裏店の木戸から出てきた。
 「跡をつけるのよ」
 「それよか自身番に突き出した方が良かねえかい。直ぐに口を割るぜ、あのあま」
 「馬鹿ね、共犯がいるのよ。二人の娘が後から歌奴の部屋に入ったって言ったじゃない。あの人が捕まっても、放免されるのは身代わりのお祥さんだけよ」
 「それもそうだな。一網打尽って訳だ」
 お長は傍目にも何かに酷く怯えている様子で、御家人屋敷の坂を下って行く。不忍池の方角だ。池野屋に向かうのではと思っていると、ふいに組屋敷の中に消えた。
 「しまった。侍の屋敷に入っちまった」
 「屋根伝いに行けば中の様子が分かるんじゃないかしら」
 「冗談じゃねえぜ。見つかったら只じゃ済まねえや」
 「分かったわ。それじゃ私をあの塀の上まで押し上げてちょうだい。身軽な方だからどうにかなると思うわ」
 「ちぇ、お吉ちゃんには敵わなねえや」
 「三美人の命が掛っているのよ」
 「よし、おいらに任せとけ。め組の源吾郎とはおいらの事でい。屋根歩きには慣れてらあ。お吉ちゃんはここにいて、辻番所の奴等が見回りに来ないか見張ってっておくれ」
 源吾郎は板塀の羽目に手を掛けると、忍者の様な身軽さで長屋の屋根に跳び上がった。そのまま三、四間棟沿いに走り、向い合う屋敷の屋根に跳び移った。お吉は怪しまれない様に、組屋敷の端にある銀杏の大木の陰に身を隠した。
 それから四半刻もたたない内に、源五郎は屋根瓦の上に顔を出した。左右を見渡して、軽やかに地上に跳び降りたつもりが、着地に失敗して顔面をしたたか打った。ひどく狼狽している。
 「お吉ちゃん、逃げるんだ」
 源吾郎はお吉の手を引いて、坂道を下り不忍池の辺まで走って、漸く立ち止まり肩で大きく息をした。息を切らしたのはお吉とて同様だ。二人してハーハーと言葉も出ない。
 「大変だ。お長が殺された」
 「え、何ですって」
 「おいら、この目で見たんだ。そりゃもうぶったまげたの何のって。座敷を見下ろす丁度手頃な木があったんで、その枝陰から見ていたら、最初二人の侍が入ってきて、その後ろに従っていたお長を振り向きざま一刀両断だ。真っ赤な血が襖に飛び散って・・・ああ、くわばら、くわばら」
 お吉の表情に絶望の色が拡がった。せっかく辿り着いた容疑者がいとも容易く殺されてしまったなんて。こんな事なら源吾郎の言う通り、あの時点で自身番に駆け込んでおくんだった。
 「お吉ちゃん、こうなったらもう仕方ない。おいらと一緒に逃げよう。上州に行けばおいらの又従兄弟が百姓してるんだ」
 「まだ日にちはあるわ。源さん、あのお屋敷の事を調べてくれない。私は護国寺に行ってお祥さんの事もう少し調べてみるわ。あの人が何故お長さんと入れ替わって三美人に選ばれたかを」
 その夜、いつまで待ってもお吉は帰ってこなかった。源吾郎とお種は吉屋でとうとう一睡もしなかった。暮れ六ッを過ぎると木戸が閉まってしまうので、おいそれと探しに出る事も出来ない。
 翌朝・・・本多生島守から与えられた最後の一日、吉屋の戸板を小坊主が激しく叩いて、うたた寝をしていた源吾郎の目を覚ました。小坊主は岩附道に面した吉祥寺の寺男の息子で、お吉に頼まれ源吾郎をこれから寺まで案内すると言う。
 小坊主は只の案内役で事情は知らされてないらしい。何を尋ねても黙り込んでいる。源吾郎ははやる気持ちを押えて、加賀百万石の上屋敷を越えて、岩附道に入った。やがて左右に寺社地が拡がり、吉祥寺の境内に入った。
 「お吉ちゃん」
 源吾郎の声は心労のあまり擦れている。それに引き換え、お吉は清清しい笑顔でお堂の前に立っている。
 「お吉ちゃん、無事だったんだね。おいら、どんなにか心配したか」
 「ご免なさいね、源さん。連絡が取れなかったのよ。昨夜はお寺に泊めてもらったの」
 「でも一体全体・・・」
 「兎に角、ちょっと裏山まで来て欲しいの」
 「裏山だって」
 「そう茜山よ」
 「茜山・・・」
 事情の呑み込めない源吾郎は、お吉の言葉を繰り返すのがやっとだ。
 「吉祥寺の裏手の茜山・・・お吉に、お祥、そして茜屋のお通さん・・・分かったでしょ、あの水茶屋三美人は暗号だったのよ。それでどうしても珍しい名前のお祥さんが必要だった訳」
 「そ、それで歌奴殺しの下手人は」
 「源さんが忍び込んだ組屋敷に、小坊主さんに頼んで、源さんを迎えに行く途中でお土産を届けて貰ったわ」
 「え、お土産」
 「水茶屋三美人の羽子板よ。もしあの屋敷の人達が歌奴を殺したのなら、必ずこの寺にやって来るわ」
 「お吉ちゃん、良くそれだけの事が分かったね」
 「源さんが浜松屋さんから借りてきてくれた地図のお蔭よ。芝神明と護国寺、それに回向院を地図に落としてみると、まるで計算された様に将軍様の御城が中心に入るのよ。その時、これは何かの陰謀を示す暗号じゃないかって閃いたの。その次に三美人の名前を並べてみて、このお寺に行き着いたの。地図がなかったら吉祥寺なんてお寺、知りもしないから分からなかった筈ね」
 茜山は小さな丘で頂上に朽ちかけた祠が建っている。
 「何だか物騒だな。大丈夫かい、お吉ちゃん」
 源吾郎はお吉の後に廻って、何とも頼りない。
 「さあ、私達はこの木陰に隠れて捕物を見学するのよ」
 ややあって、ヒタヒタと足音を忍ばせて侍姿の男が二人、茜山の坂を登って祠の前に来た。その内の一人が祠の観音開き戸の錠前に鍵を入れ扉を開いた。それを合図に、何処に潜んでいたのか二、三十人もの武士の集団が祠の前に踊り出た。二人の侍は驚愕の体で刀の鞘に手を掛けたが、一団の武士の頭領が差し出した紫色の鉄扇を目にするや、刀を捨てその場に座り込んでしまった。
 「お吉、あっぱれな手柄じゃ」
 一団の中から本多生島守がお吉達の方に歩を進めた。
 「こちらにおられるのが幕府大目付の松平安房守様じゃ」
 お吉と源吾郎は慌てて地べたに平伏した。
 「無宿浪人の謀反を事前に察知したそちの働き見事であるぞ。追って恩賞を遣わす故、公儀よりの沙汰を待つが良い」
 松平安房守はそう言い残すと、武士の一団を引き連れ山を降りていった。
 「お吉、そちの推理、わしに聞かせて貰えんか」
 生島守だけはその場に留まり、お吉の方に人懐こそうな笑みを投げ掛けた。
 「恐れ入ります」
 「ハハハハ、もう堅苦しい奴等は行ってしまったから気を楽にせい。わしは田舎者だから礼儀もへちまもないぞ。さあ祠の前の板敷にでも腰掛けて手柄話を聞こうぞ」
 以下はお吉の話である。
      **
 私は源吾郎さんと別れて護国寺の方へ歩いていたのですが、お長さんの殺され方が歌奴の最期に似ている事に気がつきました。もし池野屋の人達の証言通り滅多突きの挙句殺されたのなら、床の間にまで血飛沫が飛んでいくでしょうか。私はあの部屋の様子は良く知っていますが、床の間はかなり奥の方にあり、それこそ鋭利な刃で一刀両断の下に斬り裂かれでもしない限り、一気に血飛沫は飛ばないものではないかと思いました。だとすると、歌奴はお長さん同様にあの二人の侍に殺されたに違いない。叫び声も上げられなかったから、池野屋の他の客にも気付かれなかったのです。丁度二人という事実が、池野屋に現れた二人の女と一致します。私は池野屋までとって返し、その事を確認しました。背の高い女達で、一言も口をきかなかったそうです。あの手の茶店は忍びの客が多いので誰も気に止めなかったのです。
 歌奴を殺した侍達は水茶屋三美人に罪をなすりつける為に、死体を滅多突きにして三美人の怨恨に見せかけ、丁度歌奴が持っていた羽子板を、これ幸いと死体に被せ、お長さんには恐らく、他言すれば同じ目に会うとか言って脅した後放免したのでしょう。
 次は動機です。先程源吾郎さんには話したのですが、羽子板に描かれた三美人そのものが暗号になっていて、吉祥寺の茜山にあるこの祠を指していたのです。私は祠の扉を住職様に開けてもらい、御法度の鉄砲、弾薬が隠されている事を発見し、お寺を通してお上に届け出て貰いました。本多様達は夜遅く到着されましたので、私は芝まで戻ることが出来ませんでした。その折一計を思いつかれたのは本多様で、羽子板を例の侍達に送り届け、出て来た処を謀反のかどで捕まえようという事になりました。
 歌奴が死んでしまったので、彼がどうして浪人達の謀反の秘密を握ったのか想像の域を出ないのですが、恐らく、あの池野屋が侍達の密会の場になっていて、常連の歌奴に秘密を知られたのではないでしょうか。歌奴は卑劣な男なので、きっと侍達をゆすったのではないかと思います。もしかしたら自分の事は表に出さないで、馴染のお長さんでも使ったのかも知れません。でも侍達が取り合わないので、羽子板に託して陰謀を顕にしてしまいました。勿論、暗号が解かれる気遣いはなく、単なる脅しのつもりだったのでしょう。しかし侍達の方が一枚上手。三美人に罪をなすりつける一計の下に歌奴を殺害しました。歌奴が絵を描く名目で数多くの娘達を手込めにした事実を知っていたのでしょう。それで怨恨に見せかけたのだと思います。
      **
 お吉の推理は殆ど間違っていなかった。その後のお上の調べで、謀反を企てたのは元甲賀組の浪人達で、御法度の鉄砲を江戸に集め、同時に全国の無宿浪人を終結させ、一気に江戸城を攻める計画だった。当然幕府方にも加担する者がおり、江戸の諜報役の二人の浪人は、事もあろうに鉄砲組頭に属する与力組屋敷に匿われていたのである。池野屋は同志の密会に使われた。二人の浪人は目元優しく、元甲賀者だっただけあって、小柄な体躯に女装が良く似合い、あたかも男女の逢引に見せかけ、江戸市中に散らばった同志等と密会した。歌奴が彼らに宛てた脅迫の文書も見付かった。やはりお長を使って組屋敷に文を届けた様だ。
 無宿浪人二十名が捕まり、鉄砲二百三十丁が押収された未曾有の事件のほとぼりも冷めた、久し振りに暖かな日差しの昼過ぎ、吉屋に深編笠の武士が立ち寄った。
 「まあ、本多様」
 お吉親子は、ほぼ同時に声をあげた。
 「しっ、お忍びじゃ。静かに」
 生島守は辺りを見回して他に誰もいない事を確認すると、笠を脱ぎ床几に腰を下ろした。
 「今日はお吉に用があって参った」
 「え、私にですか」
 「実はこれを与ってもらいたい」
 生島守が懐から取り出したのは赤い房の美しい銀色に輝く十手であった。
 「これは・・・御用聞きが持っている十手ではありませんか」
 「その通り、これをお吉に与ける」
 「え、でも・・・どういう事でしょう」
 「江戸の町の治安の為に、このわしに手を貸して欲しいのじゃ」
 生島守は何とお吉に岡引になってくれと言っているのだ。お吉親子は固く辞退したが、生島守はどうしても諦めない。仕方ないので、ほんの暫くの間という約束で十手を与る事にした。
 「お吉、おまえがいると、このわしも心強いぞ」
 そう言うと生島守は高笑いを残して、茶も飲まずに店を出ていった。
 この日より、江戸の町に類を見ない女岡引が誕生した。八百八町を舞台に大活躍、水茶屋お吉捕物帳の幕が開く。
第二話 富籤小僧

 新橋の出雲町寄りにちょっとした火除け地があり、いつもながらの瓦版売りが立っている。道行く人は「富籤小僧」と言う、最近江戸の町を賑わしている新手の怪盗の名を耳にして、ふと立ち止まり瓦版屋の口上に聞き耳を立てている。
 「お吉ではないか」
 目にも鮮やかな錦織の紫頭巾を頭に被った恰幅の良い武士が、瓦版売りの口上を聞いている前垂れ姿の町娘に声を掛けた。
 「まあ、本多様」
 身なりの良いお忍び姿の侍は、何を隠そう今をときめく江戸南町奉行本多生島守その人であった。非番の月はこうして顔を隠し、町中を巡回するのを何よりの楽しみにしている変り者である。
 「どうじゃ、そろそろ十手姿も板についた頃であろう」
 「滅相もありません。私みたいな小娘が。いつお返ししようかと、そればかり考えております」
 「ハハハ、そなたに似合わず気の弱い事を」
 「まあ、本多様ったらお人の悪い。それじゃ私がまるで気が強いみたいじゃありませんか」
 「そうではなかったのかな」
 「もう、知りません」
 お吉はプイとすねて生島守に背を向けた。
 「うなじが美しいのお。お種殿そっくりじゃ」
 「大嫌い」
 他人が生島守の身分を知っていたなら、二人のあまりに親しげな会話を耳にして目を見張るに違いない。
 「許せ、許せ。お吉があんまり可愛いもので、つい戯言を申してしまった。実は上等の茶が手に入ったので、お吉に美味しく飲ませて貰おうと思ってな」
 「まあ嬉しい。それじゃお店の方に御出でになるのですね。おっかさんも喜びます」
 二人は行き交う町人達の好奇の視線を浴びて、神明町の方に歩いていった。神明殿の境内ではもう梅の花が咲いているのだろうか。得もいえぬ甘い香りが門前の通りにまで漂っている。
 「おっかさん、本多様がいらしたわよ」
 昼過ぎの店内は空いている。お種が一人で熱い麦湯を飲んでいる。
 「ま、本多様。良くいらっしゃいました」
 お種は湯飲を手にしたまま慌てて立ち上がった。
 「お種殿、構わんでくれ。今日はお吉に用があって来たのじゃ」
 「え、私に・・・今すぐお茶をお入れします」
 お吉は生島守から茶袋を受け取ると、茶釜の前で煮立った湯をかき回しながら、
 「本多様・・・」
 「ん、何じゃ、お吉」
 「もしかして、富籤小僧の事じゃないんですか」
 「ハハハ、流石はお吉じゃ。察しが良いのう。伊達に十手を握ってはおらん」
 「十手は袋に入れておっかさんに預けてあります・・・私、怖いんです。段々普通の生き方が出来なくなっていく様で」
 「お吉」
 生島守の穏やかな眼が頭巾越しにキラリと光った。幕府の要職にある生島守はこうして茶屋で寛いでいる一時でさえ、錦織の紫頭巾を脱ぐ事は決してない。
 「そなた、本当に普通の生き方を望んでおるのか。お種殿の事を心配して言っておるのではないか。自分に正直になってみるが良い。そなたの活き活きとした眼は充分に派手な立ち回りを望んでおる様に見えるが、どうじゃ」
 自分に正直に・・・確かに生島守の言う通りなのかも知れない。
 「明日富籤の抽選が神明宮で行われます」
 「うむ、流石に察しが良い」
 「それで、私は何をすれば良いのですか」
 「まあ、そう急くでない」
 生島守は美味しそうに、たった今お吉が入れたばかりの茶をゆっくりと飲み干した。
 「お吉、富籤小僧の謂れは存じておろうな」
 お吉にはそんな問いを発する生島守の真意が分からなかった。名の謂れなぞ、年端もいかない洟垂れ小僧でさえ知っている。
 「寺社で行われる富籤に当たった者が襲われ、賞金が奪われるからです」
 「その通り。流石じゃ」
 「いやですわ。そんな事、おっかさんでも知ってます」
 「何の話だい。私がどうかしたのかい」
 遠慮して上り框の奥に引っ込んでいたお種が、油障子を開いて顔を見せた。
 「いや何でもない、お種殿」
 何故か生島守の表情が突然厳しくなった。
 「そこで今回の神明宮の富籤の賞金じゃが、如何程か存じておるか」
 「さあ、この富籤小僧の事件以来、さっぱり籤の売れ行きが落ちて・・・この前の天神様の賞金も大した事がなかったとか」
 「明日の賞金は五百両じゃ」
 「え、五百両」
 お吉は思わず大きな声を出した。油障子の奥のお種がドスンと腰を抜かす音がした。
 「そ、そんな大金が・・・でもおかしいわ。先日も宮司様にお会いしたけど、籤の売上が悪いと嘆いていたのに」
 「富籤小僧はどうするかな」
 「それが本当なら、籤に当たった人は災難ですね」
 「お吉、おまえが当たったならどうする」
 「ホホホ、いやですわ、本多様。私は富札さえ持ってないんですから」
 「富札ならここにある」
 そう言うと生島守は徐に懐から一枚の木札を取り出した。表に「いの壱百五拾八番」と絵文字で書かれてある。
 「お吉、これをそなたに進ぜよう。抽選は昼の九ッじゃから、くれぐれも遅れぬ様にな」
 「本多様、まさか」
 「ハハハ、流石にお吉、察しが早い。その通り、この札は当たり籤じゃ」
 「私が囮になるのですね」
 油障子が開いて、心痛な表情のお種が顔をこちらに向けている。
 「お種殿、心配しなくとも良い。ちゃんと用心棒をつけておくからな」
 「でも、本多様」
 お種が上り框から転げる様に出てきた。
 「噂によると、富籤小僧とか言う怪盗、酷く残虐だと言うじゃありませんか。富籤の賞金を盗むだけじゃ気が済まないで、男は喉を掻き切られ、年増を問わず女は手込めにされた挙句、髪の毛を剃られて丸坊主にされるとか。いやですよ、私はともかく、お吉にそんな災難が降りかかるなんて」
 「だから用心棒をつけると言っておる」
 「この前の回向院の時だって、籤に当たったのは大店の若旦那、無宿者を何人も雇って、店を幾重にも取り囲んで用心した挙句、若旦那は喉元をバッサリ、御新造さんは手込めの果てに丸坊主・・・ああ、考えただけで身の毛がよだつ」
 「おっかさん、私やってみる」
 何を血迷ったか、お吉は口を真一文字に引き締めてスクっと立ち上がった。
 「お吉、おまえ何て事を」
 お種が悲鳴を上げて床几の上に座り込んだ。
 「このままほって置く訳にはいかないわ。誰かが勇気を持って立ち向かわなければ、いつまでたっても解決しないのよ」
 「良くぞ申した、お吉。あっ晴れな心意気じゃ」
 「本多様、全てお任せしますので宜しくお願い申します」
 「うむ・・・と言う事で、喉が渇いた。お吉、茶でも飲みに行こうぞ」
 「あら、お茶なら今すぐ入れますけど」
 「ここの茶は不味い。葵屋の茶が飲みたい」
 「どうせそうでしょうとも」
 お種が不貞腐れてプイと横を向いた。
 「ハハハ、お種殿、冗談じゃ。ちょっと葵屋に用事があるだけよ」
 「行ってらっしゃいませ。もう私ゃ腹を括りましたよ。手込めにされて丸坊主になりゃいいんでしょ。殺される事はないんだから。その代わり本多様。お吉が生娘でなくなったら、嫁入りの面倒は責任持ってくださいよ」
 「ハハハ、お吉は兎も角、そなたの坊主頭は是非とも見てみたい」
 「いやですよ。縁起でもない。本当に大丈夫なんでしょうね」
 葵屋は吉屋から三軒、街道寄りにある同業の水茶屋である。お吉の店と違うところは、看板娘がいないので、その分簡単な料理も出している。そうしなければ吉屋に客を取られてしまう。主はお種の幼馴染で常吉といい、女房のお信が病弱なせいもあり、男手一つで店を切り盛りしている。いたって気の良い中年男である。
 「ごめんよ」
 本多生島守は丸に葵の字を染め抜いた幅広の暖簾を粋に掻き分けて中へ入った。
 「へい、らっしゃいませ」
 見慣れぬ町人姿の若者が前垂れに手を掛けたまま、生島守とお吉を出迎えた。
 「ハハハ、真吾、なかなか板についているではないか」
 「恐れ入ります、お殿様」
 真吾と呼ばれた若者は生島守に丁寧に頭を下げた。
 「お吉、紹介しよう。この男が・・・ん、どうした、お吉」
 お吉は真吾を見た途端、両の目を見開いたまま暫くの間、驚きの声さえ出てこなかった。忘れもしない、上野の待合茶屋で危うい処を助けて貰った、着流し姿の若侍に瓜二つなのだ、この若者。
 「あなたは・・・」
 それだけ口にするのが精一杯だった。
 「お吉さん・・・あの時は失礼しました」
 「それでは、やっぱりあの時の・・・まあ、すっかり見違えてしまいました」
 「何だ。お前達、顔見知りだったのか」
 生島守は拍子抜けの体で、床几の上に腕組をしたままドッカと座り込んだ。
 「お吉さんが十手を与るきっかけとなった羽子板事件の折、私もあの店に居合わせたのですよ」
 「池野屋か・・・おぬし、また良からぬ事でも」
 「ハハハ、本多様じゃあるまいし」
 男同士の会話はどうも良く分からない。お吉は小首を傾げながらも、
 「その節は、本当にありがとうございました」
 お吉は頬を真っ赤に染めて一礼した。
 「おいおい穏やかじゃないな。真吾、お吉に何をした」
 「歌奴に手込めにされそうになった時に、真吾様に助けて頂いたのです」
 お吉は少々憮然とした口調で真吾を弁護した。
 「お吉さん、改めて名を名乗らせて貰いますよ。私は・・・ええと」
 真吾は店内をくるりと見渡し、丸に葵の暖簾に目を止めると、
 「本多様の配下の者で、葵・・・真吾と申す。まあ、この店にいる間は葵屋の真吉とでも呼んで下さい」
 葵真吾・・・実の姓名は当の本多生島守でさえ知らない。旗本である生島守の屋敷は御堀町の先、数奇屋橋御門の内にある。南町奉行所とは目と鼻の先である。その本多屋敷の御庭番、つまり江戸市中の情報収集の任にあたる、言うならば隠密役、それが真吾の仕事である。複雑な業務柄、並みの家柄の武士には荷が重い。素性の知れない者も数多くいた。真吾もそんな御庭番の一人。彼の過去を知る者はいない。
 「それでは本多様が用心棒と言ったのは真吾様の事なのですね」
 今の今まで緊張していたお吉の表情がパっと明るくなった。真吾に護衛して貰えるならば富籤小僧なんか怖くない。
 「その通りじゃ。だがくれぐれも富籤小僧に悟られてはならぬぞ。奴は裏の裏をかいて、まるで陽炎の様に足音もなく近づいてくる。決して油断してはならぬ。お吉、おまえとて手込めの挙句、丸坊主にはなりたくあるまい」
 「ええ、それはもう」
 お吉は身震いしながら、最近始めた水茶屋娘の間で流行の櫛巻髪に手をあてた。
 「本日より六日の間、常吉親子は江ノ島の弁天参りに出掛けておる。この店の貸切賃でわしが世話したのじゃ。真吾、いや・・・真吉は常吉の弟という事になっておるので、そのつもりでな。お種殿にも、わしから良く言っておく」
 お吉にとって、まんじりともせぬ夜が明けて、神明殿の富籤抽選の日がやってきた。朝早くから境内には処狭しと縁日の出店が立ち並び、前景気をかきたてる。一等五百両の噂はあっと言う間に広がって、誰もが富籤小僧の出現を待ちわびている様にさえ思われる。それもその筈、芝神明の富籤は一札五十文、一般庶民には高嶺の花、買うのは商売繁盛の御利益を願う大店の商人達だ。殆どの庶民には、間違っても当たる怖れはない。大店の主達は富籤小僧の噂に震え上がってはいたが、何しろ神明様の復興維持の為の富籤である、札を買わない訳にはいかない。当たったら災難と諦めるしかない。それよりも、門前町の守り神、神明様の祟りの方がよっぽど恐ろしい。
 お吉は例年通り、葵屋と合同で境内に水茶屋の出店を張った。
 「お吉さん、随分な人出じゃありませんか」
 「フフフ・・・真吾様ったら、格好は町人でもやっぱりお武家様の様な口の利き方ですね」
 「しっ、私は真吉ですよ。これだけの人出、何処に富籤小僧が潜んでいるかわかりませんよ。用心、用心」
 その時、真昼間だというのにもう顔を朱に染めた小判鮫の源吾郎が千鳥足でお吉達の店へ入ってきた。
 「いよう、お吉ちゃん。御精が出るねえ、ちょいとおいらにも美味しいお茶を入れておくれよ」
 「まあ源さん、今日も仕事をさぼったの。仕様のない人だこと」
 「馬鹿言っちゃいけないよ。こちとら天下の『め組』の鳶人足でえ。お天とうさんを拝みながらお寺の修理なんて、糞可笑しくてやってられねえやな」
 「おや、鳶口持たせて貰ったばかりだと言うのに威勢のいいこと。纏持ちならまだしも、下っ端は火消だけじゃ食べていけないのよ。棟梁に怒られても知らないから」
 「フン、棟梁が怖くてお茶が飲めるかってんだ。お吉ちゃん、早くお茶を入れておくれ」
 源吾郎は訳の分からない事を喚いて、ドッカと緋毛氈敷の床几の上に腰を下ろした。
 「おや、常吉さんは」
 源吾郎は不審気な眼差しを葵真吾に送った。
 「常吉さんは江ノ島まで弁天様詣に行ってるのよ。こちらは、常吉さんの弟で、真吉さん。葵屋さんの留守を与ってるの」
 「へえ、常吉さんに弟がいたなんて初耳だなあ。それにしても、えらくいい男じゃねえか・・・気に入らねえなあ」
 「これ源さん。何てこと言うの。真吉さんに失礼じゃない」
 「ハハハ、いいんだよ、お吉さん。源さんとやら、葵屋を与ります真吉と申します。以後お見知りおきを」
 「上品な口をきくじゃねえか。益々気に入らねえや。それにこちとら、源さんなんて気楽に呼んで貰いたかねえや。おいらには泣く子も黙る小判鮫の源吾郎と言うれっきとした名前があるんでえ」
 源吾郎は踏ん反り返ると、印半纏を引きずり下ろし、もろ肌脱いだ・・・と言っても、まだ春先の梅の咲き始め、貧弱な鮫肌が鳥肌に変わった。
 「泣く子も笑うんじゃないの」
 お吉が呆れた表情で痛烈に皮肉った。
 「そ、それはないよ、お吉ちゃん」
 味方をしてくれるものとばかり思っていたお吉に釘を刺された源吾郎はしょぼんとしてしまった。元々気の小さい男なのである。
 「源さんは麦湯でいいわね」
 葵真吾と二人っきりで店を張った事でいつになく娘心を時めかしていたお吉は少し機嫌を害した。源吾郎が嫌な訳ではない。ただ、梅の匂いも手伝って、自分とは身分も境遇も遠く隔たった真吾に、憧れにも似た仄かな恋心を感じていたのだ。このまま時の流れが止まってしまいそうな、ちょっとした怖れを伴った快さ。そんなお吉の夢気分を知ってか知らぬでか、源吾郎は無残にも打ち破り、お吉を現実に連れ戻す。
 「ああ・・・熱いやつを」
 源吾郎の方も気詰まりな気分は隠せない。
 「お吉さん、私はお水を汲んできますよ。釜の中が少し熱い様だ」
 真吾が水桶を持って出て行った。真吾という男、無神経なのは彼の方かも知れない。お吉の気持ちに満更気付かない訳でもなかろうに、わざわざ源吾郎に気兼ねして必要でもない水を汲みに行ってしまった。
 「ねえ、お吉ちゃん。五百両あったら街道筋に大店を出せるよねえ」
 現金なもので、真吾がいなくなった途端、源吾郎はお吉の方に向き直って話し掛けてきた。
 「富籤の賞金のこと」
 お吉は内心ドキっとして源吾郎の顔を見た。
 「うん、おいら、有り金はたいて札を買ったんだ。ねえ、お吉ちゃん、もし、もしもだよ・・・五百両当たったら、おいらと所帯持ってくれるかい」
 「でも・・・また何だってお札なんか」
 「うん、例の富籤小僧のお蔭で札の売れ行きはさっぱりだ。てことは、それだけ当たる率も高いって算段さ」
 「呆れた・・・もしも源さんの言う通り、当たったりでもしたら只じゃ済まないことよ」
 「なあに、あんな盗人野郎。おいらが首根っ子掴まえて、手足もぎ取って、それから・・・つまり天に代わって成敗してやる。そうすりゃ、お上から御褒美が出らあな。五百両が千両に増えるかも知れねえ」
 「喉首欠き切られて死んでしまうわよ。富籤小僧はとても強いのよ」
 「鳶口持って応戦するから大丈夫でい。そんな事より、お吉ちゃん、約束してくれるだろ。もしおいらが五百両当たったら夫婦になってくれるだろ」
 「ええ、いいわ」
 どうせ賞金は自分に当たる事になっている。お吉は軽い気持ちで頷いた。
 「ほ、本当かい。お吉ちゃん。お、おいら絶対に当ててみせるぜ。な、絶対だよ、お吉ちゃん。おいらは何て幸せ者なんだ」
 単純な源吾郎は既に富籤に当たったかの様なはしゃぎよう。
 「でも当たる筈ないわよ」
 少々気の毒になったお吉は源吾郎に釘を刺した。
 「いいんだ。おいら、お吉ちゃんの本当の気持ちを聞けただけで・・・それでいいんだ」
 困った・・・源吾郎は都合のいい様に誤解している。
 「もうそろそろ抽選の始まる時刻だぜ。お吉ちゃん、行ってみよう」
 葵真吾ならぬ葵屋の真吉が水桶を持って戻って来たのを見て、源吾郎はお吉の袖を引いた。
 本殿に行ってみると、既にやんやの人だかり。いつもは富籤人気で、札を買った連中が一攫千金を夢見て押すな押すなの大盛況なのだが、この日はうって変わった富籤小僧人気。実際に札を買った連中は、どうぞ一番にだけはなりませんようにと、本殿を遠巻きにしてビクビク顔。それに比べて札を買う程の銭を持たない貧乏人は気楽なもの。本殿前の木柵をそれこそ押すな押すなで群がっている。中には楽天的な奴もいて「なあに二番に当たればいい。富籤小僧が襲うのは一番札の幸福者と決まってる」と、野次馬連中に混じってはしゃいでいる。
 ほうら、どいた、どいた。小判鮫の源吾郎様のお通りでい。道をあけろってんだ、この野郎」
 源吾郎は酒の勢いもあって、やけに態度がでかい。
 「源さん、行儀が悪いわよ。ここらでいいじゃない。充分、向うが見えるわ」
 「おい、そこの木偶の坊、どうせ富札持たねえ野次馬だろう。さあ、どいた、どいた」
 源吾郎はお吉の袖を引いて、とうとう木柵の前まで割り込んでしまった。
 「強引ね、源さん」
 既に大きな抽選箱が木柵のすぐ前に持ち込まれ、裃姿の世話役連が厳しい顔付きで侍っている。程なく神明宮の神主が二人、揃いの烏帽子姿で現れると、本殿を幾重にも取巻いた野次馬連中、ドーっと地鳴りのごとく手足を鳴らす。
 「おいら興奮してきたぜ」
 源吾郎はそう言うと、人込みに紛れてそっとお吉の手を握った。
 「いやだ源さん、何するのよ」
 「でも五百両が・・・」
 「まだ当たった訳じゃないでしょ」
 正直言うと、先程からお吉は張り店に残してきた真吾の事が気になり、源吾郎が幾らか鬱陶しかったのだ。
 拍子木が打ち鳴らされ、神主が二人恭しく立ち上がった。一人は長い槍の様な物を持っている。先端が錐になっており、これで抽選箱の中の木札を突くのである。
 「お吉ちゃん、始まったぜ」
 源吾郎は袖の下から富札を取り出した。
 「気が早いわね、源さん。当たり札は百番まであるのよ」
 「お吉ちゃん、さっきの話だけど、百両じゃ駄目かな」
 「当たり前でしょ。富籤小僧をお縄にかけるんじゃなくちゃ駄目よ」
 「そ、そうかい。な、何だかおいら、武者震いがしてきたぜ」
 源吾郎が手にした富札がガタガタ震えている。
 「だらしないわね、源さん。五百両は当たりっこないのよ」
 その時、裃姿の男が甲高い声で百番札を読み上げた。ドドーっとどよめきの声。ややあって、富札を頭上に掲げて走り寄る有頂天の男。何しろ二番までは富籤小僧の災難に遭う怖れはない。単純に身の幸運を喜べばいいのだ。
 「お吉ちゃん、おいら何だか怖くなってきたよ」
 五十番まで当たり籤が読み上げられた処で源吾郎の顔が青ざめてきた。
 「馬鹿ね、取り越し苦労よ」
 幸運の札は次々と読み上げられる。最後の一枚を除いての幸運の札。お吉達の隣に陣取った若い娘が思わず羨望の溜息を漏らした。
 「五百両当たったら死んでもいいわ」
 「娘さん、あんたも富札買ったのかい」
 女好きの源吾郎が即座に声を掛けた。
 「え、そ、そんな」
 娘は何故か酷くうろたえて、群衆を掻き分け柵から遠ざかってしまった。
 「ちぇ、何でい。愛想の悪い娘だぜ」
 十番札、九番札、八番札・・・読み上げる男の声も一段と甲高く緊張に震えてくる。
 「お吉ちゃん、約束忘れちゃ嫌だぜ」
 そう言う源吾郎の声は緊張に擦れて良く聞き取れない。五番札、四番札、三番札・・・お吉は懐に手を入れて生島守から与った富札を取り出そうとしたが・・・
 「ないわ」
 思わず悲鳴にも似た叫び声を上げた。
 「お吉ちゃん、どうしたんだい」
 「あの娘だわ。あの娘が私の富札を盗んだのよ」
 「え、お吉ちゃん、富札を買ったのかい」
 「源さん、今の娘を捕まえて。まだ間に合うわ」
 「ほいきた、合点でい」
 源吾郎は「どいた、どいた」の掛け声も勇ましく野次馬を掻き分けた。背後でドーっと歓声の響き。一番札が読み上げられたらしい。早く娘を捕まえなくては。
 だが時既に遅し。お吉の懐から富札を抜き取った娘は、本殿の脇から身軽な動作で富札を手に晴れやかな笑顔で抽選場の中に進み出ていた。こうなったら下手に手出しは出来ない。
 「源さん、いいこと。あの娘を見張っているのよ」
 「でもお吉ちゃん、一体どうなってるんだい」
 「事件よ。詳しい事情は後で説明するわ」
 葵真吾は張り店の中で悠々と麦湯を飲んでいた。抽選も佳境に入ると店内の客足はパタっと途切れる。真吾は本殿の方のざわめきを耳にしながら、予定通り事が運んだものと悦に入っていただけに、お吉の報告を聞くと流石にびっくりした様子だったが、直に気を取り直し、
 「なあに案ずる事はないよ、お吉さん。要は富籤小僧を誘き寄せればいいんだ。お吉さんの話に寄れば、その娘、あまり裕福ではなさそうだ。却って邪魔者なしに見張りが出来そうじゃないか」
 五百両をまんまと手にした娘は、金杉橋を越えて、魚町の二階建ての裕福な旅籠の裏に、病身の母親と一緒に住んでいた。元は網元の家柄だったが、父親が死んでからは身代が傾き、遂には母屋を借金の肩に旅籠に取られ、たった一つ残った貧相な板葺の一軒家に母娘肩を寄せ合って寂しく暮らしている。
 真吾の言う通り、富籤小僧の魔の手から母娘を護るにはもってこいの場所だ。一軒家の裏はすぐ海だし、旅籠の屋根にでも潜んで見張っていれば、丁度満月の季節、雲でも出ない限り娘の家は一望の元だ。幾ら富籤小僧でも、五百両を人目を忍んで盗み出すのは難しい。しかも町奉行本多生島守の懐刀葵真吾がついている。
 「飛んで火に入る夏の虫とはこの事ですね。却ってあの富札、娘に盗まれて良かったのかも知れない」
 葵真吾はさも愉快そうに笑った。
 「今度こそは、さしもの富籤小僧も逃げ場がない」
 お仙と言う名の娘の家には、その日の内に神明宮より五百両箱が届けられた。真吾の計らいでお吉と源吾郎の為に、旅籠の海側の二階が用意された。幸いにも夕暮れまでに雲は出てこない。富籤小僧が現れるのは夜中の筈だから、六ッ過ぎに、源吾郎が海側の石垣の下、真吾が旅籠の屋根の上、お吉が同じく旅籠の部屋の窓、更には八丁堀同心の小泉弥平と言う侍が賞金護衛の名目でお仙母娘の部屋に入る手筈になった。
 水の漏れ出る隙間もない。それどころが入り込む隙間もないのだ。これだけの厳重なる警護の最中、果たして怪盗富籤小僧は現れるのであろうか。
 「お吉ちゃん、おいらこうしてお吉ちゃんと同じ部屋に泊まれるなんて夢にも思わなかったよ」
 「それは宿帳の上だけ・・・源さん、少しお酒飲んでおいたら。海風は冷たいわよ」
 「ちぇ、おいらが折角夫婦気分に浸ってるのに、捕物の話は御法度だぜ」
 「そんな事言ったって、もうすぐ六ッになるのよ」
 「おっと、そいつあいけねえや。見張りに出るとしよう・・・ねえ、お吉ちゃん」
 「何なの、源さん」
 「今度、この旅籠に泊まる時は夫婦になっていようよ。宿帳に記帳しただけで一緒に泊まれないなんて寂しいやな」
 「馬鹿な事言わないで、源さん」
 「ば、馬鹿な事だなんて・・・」
 「さあもう六ッの拍子木が鳴ったわ」
 梅の季節ではあったが、日が沈むと海べりは流石に冷える。源吾郎は綿入りの半纏を頭からスッポリ被り、お仙親子の一軒家を通り過ぎ、石垣の下の狭い砂浜に跳び下りた。満月は中天に達し白い光を投げ掛けている。おお寒い・・・源吾郎は石垣を背に座り込むと、両手をこすり合わせながらボンヤリと寄せ来る波を見詰めていた。
 「おや、あれは何だろう」
 源吾郎は思わず独り言を吐いた。すぐ目の前の波間にコケシの様な物が浮いている。
 同じ頃、葵真吾は渋茶色の装束に身を包み、旅籠の漆喰固めの屋根の上に貼り付いていた。切り妻の端にある大きな鬼瓦を抱く様に潜んでいれば、満月に照らされても人影は映らない。真吾にとって一刻や二刻の間、身動き一つしない事など長年の訓練で造作もない事だ。それに動かないでいれば色んな事を考える時間が出来る。国元に残してきた年老いた母や妻子の事、何不自由なく過ごした幼年時代の麗らかな思い出、二度と巡ってこない春を思う真吾の心に感傷はない。ただそうして何度も過去を反芻するのが良い時間潰しにもなるし、楽しいのだ。
 お吉は一人取り残された旅籠の部屋の中で灯りを消し、窓辺の障子の隙間越しにお仙の一軒家を見下ろしていた。静かに何事もなく日が暮れていくに従い、いつもの眠気と入れ違いに頭が冴え渡ってくるのであった。ちょっとした出来心で五百両を手に入れ、同時に江戸の市中を騒がせた富籤小僧に狙われる羽目になったお仙という娘・・・年の頃はお吉と大して変わらない。それだけに他人事とは思えない。母娘二人っきりの暮らしぶりも同じだし、住いもそんなに離れていない。この事件が無事に解決すれば良い友達になれそうな気がした。
 時刻は九ッ半をとおに過ぎていた。何事も起こらない。起こる気配すらない。どうもおかしい・・・真吾は旅籠の屋根の上で苛立ってきた。こちらの出方を窺っているのかも知れない。だとしたら迂闊には動けない。お仙の家からは不寝番の同心の灯した明かりがボンヤリと光っている。もう暫く様子を見よう・・・と思った真吾の目に、その灯りが二、三度揺らめき、スーっと消えていくのが見えた。同心の奴、居眠りでも・・・いや待てよ。真吾は素早い動作で屋根を駆け下り、音も立てずにお仙の家の前に忍び寄った。
 板壁に耳を当てると、微かなうめき声が聞こえてくる。
 真吾は板戸に手を掛けたが、つっかい棒が下りている。一刻の猶予もならぬ。真吾は旅籠のお吉に手で合図を送り、足で戸板を蹴破った。
 室内に月明かりを浴びて侵入した真吾は「あっ」と声を上げ、その場に立ち尽くした。
 真吾が驚くのも無理はない。彼が踏み込んだ薄縁敷の土間は血に染まり、喉元を欠き切られた八丁堀同心小泉弥平が仰向けに断絶間の壮絶な形相で横たわり、その傍らでは丸坊主姿のお仙母娘が着物の裾を無残に引き千切られ、股の奥も露わに虚空を見詰めていた。勿論、五百両の入った木箱は消え失せている。
 何と言う恐るべき怪盗であろうか。富籤小僧は、これ程までに厳重に見張られた一軒家に何処からともなく忍び寄り、予定通りの残虐非道の末まんまと五百両を手にし、再び何処へともなく雲のごとくかき消えてしまったのである。
 お仙母娘はあまりの事に口もきけない状態なので、二人の身柄を魚町の自身番に託し、お吉達はしょんぼりと芝神明町に引き上げてきた。裏をかかれたならまだしも、こうも正面から堂々と犯行に及ばれたのではグーの音も出ない。流石の真吾もまるで元気がない。本多生島守に言い訳がたたないのだ。
 「真吾様、どうか元気を出して下さいまし。今おっかさんに美味しいお茶を入れて貰いますから」
 「かたじけない、お吉さん」
 「葵の旦那、くよくよするこたあねえですぜ。あの娘、他人の富札を盗んだ天罰が下ったんだ」
 源吾郎は一晩中海風に当たって機嫌が悪い。先程から鼻を真っ赤にして何かと真吾に食ってかかる。
 「大体がお侍のくせしてだらしがねえやな。大方屋根の上で居眠りでもしてたんじゃねえんですかい」
 「これ源さん、真吾様に向かって何て事を。源さんこそ、誰も見てないのをいい事に、砂浜に横になって鼻提灯膨らませてたんでしょ」
 憧れの真吾の悪口を言われたのでは、お吉も黙っていない。
 「何でえお吉ちゃんたら、昨日から真吾様、真吾様って・・・おいらが一睡もしないで浜の番してる間に、愛しの真吾様に恋文でも書いていたんじゃねえのかい」
 「言ったわね」
 お吉の平手打ちが源吾郎の頬を打った。
 「痛え」
 源吾郎の袂からコケシの様な物が茶店の土間に落ちた。赤黒い色をして目鼻もない奇妙なコケシだ。
 「まあ、これは張形じゃないのかい」
 お種が素っ頓狂な声を上げた・・・それは正しく、男性自身を精巧に型取った柘の張形だった。大奥女中が独り寝の手慰みに用いるとの事で昨今有名である。
 「源さん、何でこんな物を持っているんだい。さてはあんた、変態だね」
 「じょ、冗談じゃねえや。拾ったんだ。見張りの最中に波間にプカプカ浮いていたもんで・・・」
 源吾郎は額に脂汗をじっとり滲ませて懸命に言い訳をした。
 その日の夕刻、葵真吾は青ざめた顔で南町奉行所から戻ってきた。本多生島守から相当油を絞られた模様である。事実、市井の事件に真吾の様な隠密役の侍が関与するのは非常に稀である。それだけに生島守がこの富籤小僧捕獲にかける意気込みと意地が窺われる。尚更の事、二度までも失態を演じた真吾の立場はない。
 「殿様は非常に御立腹であった。お吉さん、どうか私に協力してはくれまいか。富籤小僧を早急に捕獲出来なくば、殿様の立場も難しくなるんだ」
 「まあ本多様の立場まで・・・」
 「うむ、今度の事は殿様の一存で画策されたので、寺社奉行からかなりお咎めがあったらしい」
 「分かりました。出来るだけの事をしてみます」
 翌日、お吉は小判鮫の源吾郎を伴って魚町に向かった。
 富籤小僧出現の噂は既に町人の姦しい会話の縁々にまで浸透し、町辻には身振りも豊かな都雀達、声を潜めて「あら恐ろしや」と話している。旅籠の裏の一軒家では怯えきったお仙母娘が戸締りをして、そんな町人達の好奇の視線にじっと耐えていた。
 お吉が戸の隙間から十手を見せると漸く中へ入れてくれた。
 「まあ、あなた方は・・・」
 坊主頭を頭巾で覆ったお仙は、お吉と源吾郎の姿を目にしかなり驚いた様子。慌てて土間の薄縁に頭をこすりつけ、
 「お許し下さい。御用聞きの方とは存ぜずに富札を失敬してしまいました。どうか放免して下さいませ」
 「心配しなくていいのよ。今日はその件で来たんじゃないから。おっかさん共々、富籤小僧の事で少し話を聞きたいの」
 お仙の蒼白な顔に怯えが走った。
 お仙の供述によると、富籤小僧が現れたのは真夜中の九ッ頃。五百両を手に入れたまでは良かったが、急に富籤小僧が恐ろしくなり、護衛役の小泉弥平と茶を酌み交し、不寝番で母娘とも起きていた。その時分になると小泉弥平ともすっかり打ち解け、四方山の話をしていると、天井裏でゴソゴソ鼠の動き回る音がする。弥平が不審に思い立ち上がった瞬間、天井板を跳ね上げて渋茶色の装束に身を固めた男が踊り出て、一刀の元に弥平の喉を斬り裂いた。更に、腰が抜けて声も出ないお仙母娘を次々に犯し、大事な髪を剃り落し、五百両箱を天井裏に押し上げ、身軽な動作で跳び上がった。
 「じゃあ、富籤小僧は天井裏に潜んでいたのね。そして五百両と一緒に再び天井裏に逃げたのね・・・お仙さん、富籤小僧の顔は見なかったの」
 「ええ、衣服と同じ色の頭巾で顔を覆っていましたので。背が高く、痩せ形の身軽な男でした・・・それと」
 お仙は顔中朱に染めて口の中で何やらボソボソ言っている。
 「え、何なの・・・聞こえないわ」
 「あの・・・あそこがとても大きくて」
 「あそこって・・・まあ、いやだ」
 漸く事情を察したお吉も両頬を真っ赤に染めた。
 とにかく富籤小僧は屋根裏に潜んでいたらしい。お吉は源吾郎に頼んで屋根裏を探ってもらった。
 「お吉ちゃん、ちょっと上がってきておくれよ」
 ややあって源吾郎が天井裏からお吉を呼ぶ。何か手掛かりを見つけたらしい。お吉はお仙に手伝って貰って天井裏に這い上がった。
 「お吉ちゃん、やっぱり富籤小僧はここに隠れていたんだよ。ほら埃の溜まった天井板に足跡がはっきりと見えるだろ」
 源吾郎がお吉の目の前に蝋燭の灯りを近づけた。
 「どうやらその様ね・・・でも、五百両箱はとっても重いわ」
 天井裏から戻ったお吉は、次に一軒家の裏側に行ってみた。幅一尺程の空地を残して石垣になっている。汐が満ちて来たのでその下はすぐ海だ。
 「お吉ちゃん、同情しておくれよ。おいら、こんな処で一晩あかしたんだぜ」
 「源さん、ちょっと日本橋まで行ってくれないかしら」
 「え・・・」
 「小田原町伊勢屋が回向院の富籤に当たり、富籤小僧の毒牙にあったのが一ヶ月前。その時の様子を調べてきて欲しいのよ」
 「そうか、富籤小僧の手口を比較してみようってんだね。流石お吉ちゃん、伊達に十手は握ってないや」
 「いやね源さんまで、この事件の方がついたら、私、本当に十手を本多様にお返しするつもりなのよ」
 源吾郎を日本橋に送り出したお吉は、もう暫くお仙の話を聞くことにした。
 お仙、十九歳。お吉よりも二つばかり年上である。母親の名はお葉、既に五十の坂を越えている。父親は嘗てこの地域を取り仕切った網元で権造と言った。十年程昔、肺の病に冒され他界している。今、同じ病の床にお葉も伏せっている。薬代がかかり、土地持ちだったお仙母娘の身代も徐々に傾いていった事情は既に話した。お仙は男達に混じって舟に乗った事もあるが、最近はお葉の病状が悪化した為、一軒家に籠もりっきりの日々を送っている。富籤小僧の陰謀を顧みず、当り札を盗んだのは単純に薬代の為である。しかし非道の富籤小僧、病身のお葉まで手込めにした。お仙は涙ながらに、自分の事はともかく母親を辱めた富籤小僧を一日も早く捕縛して欲しいとお吉に頼み込むのであった。
 さて源吾郎の方は、なかなか手際良く情報を掻き集めてきた。伊勢屋が襲われた状況は今回の事件に酷似していた。同一人の犯行であることは明白だ。やはり天井裏に潜んだ富籤小僧は伊勢屋の若旦那の喉を切り裂き、御新造を手込めの上丸坊主にしてしまった。渋茶色の装束に身を固めた精悍な男で、これは源吾郎が言った言葉だが「立派な一物」を持っていたと言う。
 「それで・・・伊勢屋の場合、賞金は幾らだったの」
 「ああ、確か五十両」
 「そう・・・小脇に抱えられるわね」
 「え・・・」
 お吉は目を宙に泳がせて何やら思案顔。
 「なあ、お吉ちゃん。葵真吾ってお侍、何だか怪しくねえかい。あの夜の渋茶色の装束、背が高くて身軽、おまけに優男だが動きは精悍だ。問題はあそこの大きさだが」
 「源さん、何馬鹿な事言ってるのよ」
 「だって考えてもみなよ、お吉ちゃん。最初に現場を発見したのは、あの侍だぜ。自分で五百両盗み出しといて、悠々とさも驚いた風を装っておいら達を呼んだんじゃねえのかい」
 「もう一度同じ事を言ってごらんなさい。本当に叩くわよ」
 お吉はそう啖呵を切りながらも一抹の不安を隠しきれなかった。確かに源吾郎の言う通り、全ての材料を吟味すればする程、真吾は富籤小僧に良く一致してしまう。
 その日の夕刻、本多生島守がお吉の店に現れた。丁度客の多い時分だったので、生島守はお吉を誘って葵屋に入った。と言っても茶を飲む為ではない。常吉は江ノ島詣でに出掛けたっきりだし、肝心の葵真吾は昨夜来何処へともなく姿を眩ませている。
 「お吉、其後の捜索状況はいかがじゃ」
 「はい、申し訳ありません。あの時私が富札を盗まれたりしなければ、こんな事にはならなかったのです」
 「済んだ事は良い。其の後の状況を聞いておるのじゃ」
 お吉はその日の収穫を包み隠さず生島守に話した。
 「ううむ、頭巾で覆った顔を除いての人相描きでも作れば、富籤小僧とやら真吾に生き写しだと申すのだな」
 「本多様・・・」
 「う、何じゃ、お吉」
 「真吾様は何処へ行かれたのですか」
 「それがわしにも分からぬ。大方千両箱でも担いで街道を歩いておるのではないかな、ハハハ」
 「まあ本多様ったら・・・今、千両とおっしゃいましたね」
 「うむ、流石は耳が早い。先日の五百両と合わせて、富籤小僧が今までに手に入れた小判は丁度千両になる」
 「そうなんですか」
 お吉はじっと宙を見据え何事かを考えていた。
 「さて岡っ引きお吉、次の手は」
 「千両箱を見つけ出します。それを持っているのが富籤小僧ですから」
 「うむ、吉報を待っておるぞ」
 生島守が徐に咳払い一つして出て行くと、お吉はその足で中門前町の源吾郎の長屋にやって来た。喧嘩別れの腹いせに手酌で酒を飲んでいた源吾郎は、思ってもいないお吉の出現に慌てふためきゲゲゲと酒を吐き出した。
 「嫌だ源さん、汚らしい」
 「あ、い、いや、お吉ちゃん、すぐ掃除するから、まあ汚い処だけど、さあ、ずずっと奥へ」
 「一間しかないくせに何言ってるの。それにしても本当に汚いのね」
 「ああ、どうせおいらの家は汚えよ。顔も汚けりゃ根性も汚えや。葵の旦那とは大違げえさ。ほっといてくれ」
 「何すねてるのよ。ねえ源さん、お願いがあるんだけど」
 「何、お願い。そうかい、そうかい。お吉ちゃんのたっての願いとありゃ、おいらも一肌脱がねばなるめえ」
 今度は源吾郎、もろ肌脱いで見得を切った。どうも芝居じみた性格直りそうもない。
 「実は舟を出して欲しいの」
 「え、舟だって」
 と言う訳で翌日の明け六ッ、源吾郎は旅籠から借りた小さな舟で大海原の沖合に漕ぎ出した。お吉は旅籠の一室でのんびりと例の一軒家を正面から見張っている。どう考えたって源吾郎の分が悪い。この季節の炎天下ならまだしも、小雨混じりで波も荒い。下手すると舟が転覆、土左衛門になりかねない。
 それにしてもお吉は何でこんな事を思いついたのだろう。富籤小僧があの廃屋同然の一軒家に戻って来るとでも言うのだろうか。源吾郎の舟は沖合遠く、お仙の家と旅籠の二階とを同時に見渡せる。何か異変があったら、その時は昼間なら赤い旗を振って、夜間ならば提灯に火を灯し、旅籠のお吉に知らせる手筈になっているが、源吾郎には異変の中身が皆目分からない。富籤小僧が海に向かって赤んべえでもするのだろうか。源吾郎は必死の形相で寒さに耐えた。お吉は居眠りを心配していたが、それどころではない。
 長い一日が漸く暮れ、もっと寒い夜が来た。源吾郎は漆黒の闇を縫って舟を岸辺に近づけた。月明かりもない闇夜、これならば石垣のすぐ側まで近づいても誰にも気付かれまい。
 お吉とても決して楽ではない。事件の夜と同じ二階の海側の部屋に陣取り、お仙の家をじっと見張っている。座っていればいいのだが、それも長時間ともなれば大変だ。何度も脚を組替えるが痺れが酷くなる一方。おまけに眠くなる。茶を何杯も飲む。厠に立つ回数が増えるが、それも出来るだけ我慢しなくては。
 とうとう夜が明けた。雨も上がって暖かな日の出だった。源吾郎は再び舟を沖合いに進めた。
 お仙が旅籠の裏まで水を汲みに来たが特別変わった様子はない。
 お吉は朝食の汁を啜りながら、このまま何も起こらなかったとしたら源吾郎に何と言って詫びようかと思った。さぞかし腹を空かしているだろう。沖合にポツンとその舟が見えるが源吾郎の表情までは捉えられない。
 時の鐘が遠くで昼の八ッを告げている。源吾郎は昨日とうって変わった小春日和、大海原で身体いっぱいに春の陽を浴びて何度もうたた寝を繰り返していた。
 水面から幾筋もの陽炎が立ち昇り、気分的にも長閑さを盛り上げる。ああ、もう我慢出来ない・・・一眠りするか。源吾郎は大きな欠伸をして舟内に横になった。お吉のいる旅籠に向かって、申し訳ないって仕草で手を合わせようとした、空ろな眼が一瞬まばたき、源吾郎はガバっと起き上がった。
 「何だ、あれは」
 目を皿の様にして良く見ると、お仙の一軒家の石垣の下に何か箱の様な物が見える。汐が曳いた砂浜に半分埋もれているが、確かに昨夜まではそこになかった物だ。源吾郎は櫂を漕いで石垣に近づいた。
 「大変だ。小判の箱だ。おいらが神明様で目にした富籤の賞金を納めた小判の箱に間違いねえ」
 源吾郎は仁王立ちになって、旅籠のお吉に向かい夢中で小旗を振った。
 「やっぱりそうだわ。石垣の下の砂浜に千両箱を埋めていたのね。何度も汐の満ち干きを繰り返すうちに周りの砂が流れてしまったんだわ」
 源吾郎の合図を見て旅籠から駆け付けてきたお吉が開口一番に確信ありげな台詞を吐いた。
 「それじゃあお吉ちゃんは此処に小判が埋めてあるのを知っていたのかい」
 「砂浜の中だとは気付かなかったけど、この近所に必ず隠してあると思ったわ」
 「取り敢えず、お仙の家に運び上げようぜ」
 「このままにしておいた方がいいわ。それよりも源さん、すぐに自身番に知らせてちょうだい。富籤小僧が見付かったって」
 「え、何だって」
 「早く、源さん」
 「・・・分かった。おいら行ってくるよ」
 源吾郎は一目散に走り出した。後を見送ったお吉は千両箱の上に腰を下ろし、ほっと安堵の溜息をついた。
 だがその時、お仙の一軒家の屋根から渋茶色の装束の男が音もなくお吉の背後に跳び下りた。
 富籤小僧は石垣の上で陽光にきらめく真剣を大上段に振り上げた。お吉危うし。
 ヒュー、唸りをあげて白刃が振り下ろされる。お吉の櫛巻髪の頂きにあと一寸、突如何処からともなく飛んできた石つぶてが刃先を打ち砕いた。
 お吉は思わず二、三尺も跳び上がり、肩先から砂浜に墜落し「アレー」と悲鳴を上げた。
 砂を含んだ目で石垣の上を見れば、二人の富籤小僧が同じ渋茶色の装束で揉み合っている。と思いきや、一方の富籤小僧が目にも留まらぬ素早さでお仙の家の屋根に跳び上がった。もう一人もすかさず後を追う。板葺の屋根がガタガタ音をたて、組み合ったまま二人とも石垣の向こう側に落下した。お吉は慌てて砂を払い石垣を登った。
 旅籠の裏庭に廻ると、既に決着がつき、一方がもう一方の富籤小僧を馬乗りになり組み付けている。
 「お吉ちゃん」
 丁度その時、自身番の番人達を引き連れた源吾郎が息せき切って戻ってきた。
 「やや富籤小僧が二人いる・・・どういう事だい、お吉ちゃん」
 「源さん、何を愚図愚図してるんだ。早く富籤小僧に縄をかけるんだ」
 馬乗りになった男はそう言うと渋茶色の頭巾を投げ捨てた。
 「真吾様・・・」
 お吉が安堵の声を上げる。
 「うあ、や、やっぱり、てめえが富籤小僧だったんだな。ご、御用」
 源吾郎は地べたに尻餅をつき、ガタガタ震えながらも威勢だけはいい。
 「何言ってるの、源さん。富籤小僧は真吾様が取り押さえているじゃないの。もう一人の方が富籤小僧よ」
 「え・・・」
 源吾郎は恐る恐る真吾の側に近寄り、取り押さえられている富籤小僧の頭巾を剥がした。
 「や、お、おめえは・・・お仙じゃねえか」
 何と言う事だろう。被害者の筈のお仙が富籤小僧の装束で、すっかり観念した様子でうなだれている。
 「お願いで御座います。お縄になる前に、一目おっかさんに会わせて下さいませ」
 お仙は富籤小僧とは思えぬか細い声で哀願した。
 「良かろう。外で見張っている故、存分に別れを惜しんでくるが良い」
 真吾が組み付けていた手を放すと、お仙は皆に一礼し一軒家の中に入っていった。
 「い、一体どういう事なんだい。おいらには皆目分からねえ。説明しておくれよ、お吉ちゃん」
 源吾郎が苛立たし気にお吉の袖を引っ張った。
 「私も今の今まで本当にお仙さんが富籤小僧なのか確信がなかったの」
 「って事は、ある程度までは・・・」
 「源さんが砂浜で見つけた張形を見て、そうじゃないかと」
 「張形だって」
 「張形を使えば男でなくても女を犯せるんじゃないかと思ったの。富籤小僧の手口は残忍で、男は喉元を斬られ、女は手込めの挙句、髪を剃られてるんだけど・・・それはわざわざ非道の男の犯罪に見せかける為じゃないかと。男の目は誤魔化せないから息の根を絶ち、女は怯えているので張形を使い、いかにも男に手込めにされた様に信じさせるのは訳なかったのよ。そうしておけば証人にもなってくれるし、まさか富籤小僧が女だったなんて誰も思わないわ」
 「そうだったのか」
 源吾郎はいっぱしの岡っ引き気取りで腕を組み偉そうに頷いた。
 「手込めの後に、女の命の黒髪まで剃ってしまうのが、いかにも女らしい執念深さの現れだと思うわ」
 「そうだな。男だったら手込めにするだけで充分だもんな」
 「まあ、源さんったら嫌らしい」
 「何だよ。お吉ちゃんがそう言ったんじゃないか」
 お吉とて若い身空の生娘、肝心な部分の謎解きにはどうしても頬を染めてしまう。
 「源さんと天井裏に潜った時に足跡があったわね。足袋の跡だったけれど、男の足にしては小さ過ぎると思ったの。それに、小判の入った箱を天井に押し上げたって言ったけど、それまでの五十両箱とか百両箱ならまだしも、今回の五百両箱を一人で持ち上げるのは無理だと思うの。その時・・・お仙さんの事を疑ったわ。もしお仙さんが犯人なら、小判は必ずこの近くに隠してある筈だとね」
 「それでお仙の家を見張っていたんだね」
 「ええ、源さんにはご苦労な事だったわね」
 「なあに構わねえって事よ。おいら、お吉ちゃんの為なら火の中だろうが水の中だろうがでえじょうぶだ」
 源吾郎は再び偉そうに胸を張る。
 「でも、お仙は何だってこんな大それた事をしでかしたんだろう」
 「あの人は千両貯めようとしていたの」
 「千両だって」
 「そうよ、今度の神明様の賞金五百両を入れて丁度千両になるわ」
 「だけど、どうしてそんな大金が・・・」
 「私から説明しよう」
 今まで黙ってお吉と源吾郎の会話を聞いていた葵真吾が徐に口を開いた。だが・・・その時、お仙と母親が娑婆の別れを惜しんでいる筈の一軒家の中から鈍いうめき声が聞こえてきた。
 「しまった」
 顔色を失った真吾は素早く身を翻し家の中へ入った。お吉と源吾郎、番屋の番人達も「それ」っと後に続いた。
 「まあ・・・」
 「やや・・・」
 夫々の驚きの声。それもその筈、お仙母娘の土間は再び血に染まり、その中で当の二人が互いの喉を突き刺して絶命していたのである。
 「とんだ親孝行があったものだ」
 真吾はお吉の肩を叩き外へ出た。
 「真吾様、教えてください。何故こんな事に・・・」
 お吉は真吾の後を追い、遥か海を見下ろす石段の上に立った。
 「私、お仙の身元を洗う為に三島まで行っていたのです」
 「え、三島まで・・・真吾様が急にいなくなってしまったので心配しておりました」
 「お仙という娘、お葉の実の子ではないのです」
 「まあ・・・本当ですの」
 「網元の権造が旅芸人の娘に産ませた子で、七つになるまで軽業などを仕込まれ諸国を行脚していたのですが、権造夫婦に子供がないので引き取られたのです。それから直ぐに権造は肺の病で死に、お葉と二人取り残されたのです」
 海の面に光が舞い金細工のように美しい。今さっき起きた惨劇が嘘の様に思えるお吉であった。
 「軽業をやっていたなら、天井裏に潜んで音も無く襲い掛かるのは容易い事だったのでしょうね」
 「その事を確かめに行ってきたのです。三島にお仙の実の母親が住んでいるのです」
 「まあそんな事まで、どうやってお知りになったのです」
 真吾の素性を知らないお吉は畏敬の目で真吾の横顔を見た。
 「お仙の実親は三扇と言って神がかった女です。旅芸人に混じって諸国を巡るうちに各地の寺社に詳しくなり、晩年は三島に籠もり祈祷師になったのです。二、三年前からお仙の家にも時たま出入していた様です。そしてお葉の病をいい事に、お仙を取り上げられた埋め合わせをしようとでもしたのでしょうか。金一千両を三島の権現に貢げば、肺の病はたちまちにして退散するとお仙に告げたのです」
 「まあ、それで・・・」
 「三扇は半ば気のふれた女で、お仙も権造の嫁であるお葉こそ実の母と慕っていた様です」
 「でもそれだけの理由で富籤を狙うなんて」
 「恐らく三扇の入れ知恵でしょう。実の親である事を嵩にきた恐ろしい女です。お仙の軽業の腕を知っていたので、うまく唆したのです」
 「お葉さんの病は本当に酷かったのですか」
 「ここ一、二年の命だった様です」
 海の向うが少し時化てきたようだ。白波が渦を巻いて陸地に向かってくる。
 「真吾様・・・」
 「何です、お吉さん」
 「真吾様はああなる事が分かっていて、お仙さんに最後の別れをさせてやったのではないですか」
 葵真吾は海の彼方に視線を泳がせたまま何も答えなかった。
 「お吉ちゃん」
 源吾郎の声がする。
 「本多の御奉行様がおいでだ」
 「お吉、そこにおったのか。またしても見事な手柄、あっ晴れであるぞ」
 江戸南町奉行本多生島守が満面に笑みを浮かべ、忙しそうに扇子をパタパタさせながらおっとり刀で歩いてきた。
 「まあ本多様」
 お吉は裾を払って立ち上がった。
 「流石はお吉じゃ、十手姿も益々板についてきた様じゃ、ハハハ」
 「とんでも御座いません。今回の事は全て、真吾様の・・・」
 そう言いかけたお吉は、周囲を見渡して、何処にも真吾の姿が見えない事に気がつき唖然とした。
 「それにしてもお仙が私の当り籤を盗んだのは、只の偶然だったのでしょうか。もし私が予定通り五百両を手に入れていたなら、少なくともお葉さんは死ななくて済んだのではと今更ながら自分の不注意が悔やまれるのです」
 吉屋に戻ったお吉は、床几の上にゆったりと腰を下ろした生島守に打ち明けた。
 「血の繋がりがないとは言え仲の良かった母娘、一緒に死ねてせめてもの本望であろう」
 生島守はお吉とお種の顔を見比べながら何度も頷いていた。その一抹の寂しさを帯びた横顔を見ていると、生島守は噂どおりお吉の実の父親で、血の繋がりがありながら、父娘と呼び合えぬ自らの不甲斐なさを、お仙母娘の非業の死になぞらえているかの様にさえ思える。

第三話 大奥芝居小屋

 川端の柳が静まりかえった夜風に震えている。夜中の九ッ時と言えば、闇の静寂を打ち破るものは遠く間欠的に響き渡る野犬の鳴声でしかない。場所は新橋と汐留橋の中頃の武家屋敷の前、今しがた野犬の声に混じって鋭い金属音が闇を裂いた。バサっと何かが倒れる音、引き続いて水の音がポシャと跳ねた。その後は以前にも増してシンとした静寂に覆われた。一人の虚無僧姿の男がゆったりとした足取りで、武家屋敷の板塀に沿って浜御殿に向かう汐の香りを含んだ闇の中に消えていった。
 浜御殿と堀を接する松平政千代守の上屋敷から火の手が上がったのは九ッ半、折からの東風に煽られた火の粉は宇田川町の町人町に飛び火し、街道沿いに浜松町にまで燃え広がった。
 中門前町にある裏長屋で熟睡していた小判鮫の源吾郎はジャンジャンと鳴り響く半鐘の音で叩き起こされた。
 「てえへんだ。てえへんだ」
 源吾郎は長屋中に轟き渡る大声で一騒ぎした後、慌てて火消半纏を裏返しに羽織ったまま鳶口を手に浜松屋に急いだ。
 「源吾郎、何もたもたしてやがんでえ」
 浜松屋に着くと、大店に隣接した火の見櫓の下の人足小屋から幟纏を先頭に威勢のいい火消人足達が跳び出してきた。
 「尾張屋が燃えてるんだ、急げ」
 尾張屋は浜松屋から五店程神明町寄りの薬問屋である。源吾郎は鳶口を前向きに突き出したまま、真っ赤に燃え盛る尾張屋目指して走り出した。
 「馬鹿野郎、纏より先に走る奴があるか」
 後から源吾郎を罵る声がするが、何構うことはない・・・おいらが一番乗りしてみせる。源吾郎は韋駄天のごとく走った。目の前が昼間の様に真っ赤だ。
 明け方になって漸く火の手は収まった。煤に塗れた源吾郎は肩で大きく息をしながら新橋の辺に座り込んでいた。途中で南風に変わったお蔭で、権助町を越え芝口町まで走り抜けてきたのだ。
 それにしても今日のおいらは大活躍だったな・・・さぞかし親方も誉めてくれるに違いない。源吾郎は満足感に浸り切って独りでニヤついた。そうだ、お吉坊もおいらを見直すだろう。更に顔中でニヤついた。
 「よいこらしょっと」
 漸く息遣いを整えた源吾郎は橋の欄干に凭れたまま、掛け声をかけて立ち上がった。東の海の方がうっすらと明るくなっている。源吾郎は大きな欠伸をすると何気なく橋の下に目をやり「ウヒャー」と悲鳴を上げた。そしてそのままドスンと尻餅をついた。
 「て、てえへんだ。ど、土座衛門だ」
 紅葉を彩った目にも鮮やかな着物姿の女が髷の解けた黒髪を川の流れにくゆらせて仰向けに浮かんでいる。虚空を見詰めるその顔は雪山の様に白い。乱れも苦しみもない穏やかな表情だが眼の色だけが明らかに死んでいる。
 火事には強い源吾郎だが生身の死体にはめっぽう弱い。橋の上で何度も転げ回った末、やっとの思いで起き上がると、尻餅をついた拍子に痛めた右脚を引きずりながら走り出した。だが流石に韋駄天とまではいかない。どうにかお吉の店に辿り着いた頃には夜が明けていた。
 「て、てえへんだ。お吉ちゃん、何処にいるんだい。お吉坊」
 「何だい、うるさいねえ。おや、源さんじゃないかい」
 「あ、お種さん、は、早くお吉ちゃんを起こしておくれよ」
 「お吉なら神明様まで朝のお水を貰いに行ったところだよ」
 「ひぇー、こ、こんな時刻にかい」
 「あの火事騒ぎじゃ寝てる訳にはいかないよ。それはそうと源さん、ちゃんとお勤めは済ませてきたのかい」
 「よせやい、お種さん。おいらは火消の源吾郎だぜ。仕事には遅れても火事場にゃ遅れはしねえさ。おっと無駄口叩いてる場合じゃねえや。失敬するぜ、お種さん」
 源吾郎はびっこを引きながら神明宮の境内に入って行った。増上寺の池の辺でお吉が水を汲んでいるのが見える。ここの神水を使わせて貰っているのはお吉の水茶屋だけである。
 「おおい、お吉ちゃん」
 「あら源さん」
 遠くの方からお吉の名を呼びながら汗だくで、やっと池の辺までやって来た源吾郎を、お吉は涼しい顔で出迎えた。
 「一体どうしたっていうの。とっくに火事は収まっているのに」
 「そ、そんなんじゃねえや」
 源吾郎はお吉の手から柄杓を奪い取り、池の水をゴクリと飲み干した。少し気分が落ち着いた。
 「お吉ちゃん、すぐにおいらと来ておくれ。人が死んでいるんだ。それも飛びっきりの美人が仰向けに空を見て」
 「え、何処で」
 「新橋の川の中だよ」
 源吾郎は脚を引きずるのも忘れて、お吉の手を抱きかかえる様にして、遥々新橋の袂まで引き返した。
 「人だかりがしてるわね」
 お吉はハーハーと犬の様な息を吐きながら源吾郎の耳元で囁いた。
 「いけねえ、常廻りの奴等に先を越されちまった」
 源吾郎はお吉の手を固く握りしめたまま、人込みを掻き分けて中へ入った。
 「何者じゃ、下がっておれ・・・何だ、おまえらか」
 狐の様に両の目が吊り上がった常回り同心、笹木兵部がしゃがみ込んで土座衛門を検分している最中だった。すぐ脇には芝口町の岡っ引き、通称野郎芸者の豊次郎がにやついた顔で立っている。狐と野郎芸者じゃ性格も良かろう筈はない。この二人、町奉行本多生島守に可愛がられているお吉と源吾郎を何かというと目の仇にしている。
 「ホホホ、お二人さん。ちょっと遅かったようじゃござんせんかい。この通り、笹木様のお改めも済んじゃっちゃ出番はござんせんよ」
 野郎芸者はお吉達を出し抜いた事でえらく機嫌がいい。もっともこの男、機嫌の良い時ほど薄気味悪い。誰にも好かれない嫌な性格である。
 「刀で斬られたのですね」
 目敏く、うつ伏せに寝かされた女の切り裂かれた着物の跡を見付けたお吉が一歩前に出た。
 「うむ、一刀両断だ」
 「私にも見せて下さいな」
 「それは構わぬが十手は持っておるだろうな」
 お吉はハっとして立ち止まった。兵部の魂胆は見え透いている。お吉が世間に知れ渡るのを嫌がって、普段十手を持ち歩かない事を百も承知で言っているのである。本多生島守から与った赤い房のついた十手は、桐の箱に入れてお種に保管して貰っている。お吉が岡っ引きである事は一部の常回り同心、その配下の岡っ引き仲間しか知らないのだ。
 「何だ、十手も持たずに仏の検分をしようなどと大それた事を申すのか。いたいけない町娘だと思って下でに出ておるのに、お上を愚弄する所存か」
 「そ、そんな。滅相もございません」
 悔しいが兵部の言う事は正論である。反論の余地がない。
 「ホホホ、か弱い娘が目にする様な代物じゃござんせんよ。さあ、下がって、下がって。早くお家に帰って、おっかさんのお乳でも吸っていなさいよ」
 野郎芸者まで一緒になって実に憎たらしい事を言う。
 「この野郎。黙って聞いてりゃ好い気になりやがって。この芸なしの太鼓持ちめ」
 源吾郎がついに堪え切れずに野郎芸者に掴みかかった。
 「な、何するざんす」
 芸者と陰口叩かれるだけあって、性格は悪いが力はからっきしない。豊次郎は女の様な悲鳴を上げた。
 「何をしておる。控えおろう。お上の十手が目に入らぬか」
 笹木兵部は帯に差した十手を取り出し、まるで相撲の行司の様な格好で取っ組み合う二人の周囲をくるくる回りだした。
 「どけどけ」
 その時、源吾郎と豊次郎の喧嘩にやんやの喝采を送っていた野次馬を乱暴に蹴散らして武士の一団が割り込んできた。
 「そなたが奉行所の同心殿か」
 最も年上と思しき侍が、依然として十手を差し上げている行司姿の兵部の手を掴んだ。
 「い、いかにも」
 笹木兵部は相手の出で立ちに大慌てで身繕いを整えた。
 「我々は松平政千代守の門下の者。故あって、その女子の亡骸を譲り受けるが御異存なかろうな」
 年の頃は四十五、六であろうか。満面に自信と尊大さが溢れている。一目見て笹木兵部が太刀打ち出来る相手でない事は誰の目にも明らかだ。
 「し、しかしながら・・・この女子は御覧の様に背中から一刀の元に、き、斬られておる。自身番まで運んで身元を洗わねば」
 「身元ははっきりしておる。我らが屋敷の使用人だ。連れていくぞ」
 侍達は、あっけに取られている兵部達を尻目に、女の遺骸を持ち上げ悠々と堀沿いに武家屋敷の方へ立ち去った。
 「何でえ、格好つけやがって」
 源吾郎がやり場のない怒りを豊次郎にぶつけた。
 「痛、な、何するざんす」
 「二人ともいい加減にしろ。行くぞ豊次郎」
 兵部はどうにかして失われた威厳を取り戻そうと、颯爽と胸を張って歩き出した。
 「ま、待っておくんなさいまし、旦那」
 野郎芸者の豊次郎は源吾郎に赤んべえをして、そそくさと兵部の後に従った。町奉行の管轄はその名の通り、町人町にしか及ばない。江戸の大半を占める武家屋敷、寺社地、幕府直轄地は勢力範囲外なのである。例え死体が町人町で見つかろうとも、武家屋敷の者が屋敷内の出来事だと言い張れば手出しは出来ない。しかも今回は相手が悪い。松平政千代守と言えば幕府開闢以来の親藩大名である。御三家の次に格が高く、幕府の要職にもついている。触らぬ神に祟り無しとはこの事である。
 「お吉ちゃん、とんだ無駄足踏ませたね。おいら達も帰ろうや。美味しいお茶でも飲みたくなったぜ」
 「ちょいと待ってよ、源さん。私、あの女の人に心当たりがあるわ」
 「え、何だって」
 「黙ってて、今思い出しそうなんだから。あのお侍さん達が女の人を持ち上げた時に、チラっと顔を見たんだけど・・・そうだわ、間違いない。真吾様に芝居を見に連れていってもらった時に」
 「え、お吉ちゃん、あの野郎と・・・ちくしょう」
 「確か演目は『梅屋敷秘伝』、初日だったので大奥の御女中衆も大勢見に来ていて、その中に・・・」
 「それじゃ、あの女子は大奥の・・・道理で美人だと思った」
 「こうしちゃいられないわ、源さん。一緒に来て」
 「え、何処に行くんだい、お吉ちゃん」
 「真吾様の処に決まっているじゃない。ねえ、源さん。今のお侍さん達は、松平政千代守様の屋敷の使用人だって言ったけど、真っ赤な大嘘。あの女の人は大奥の御殿衆の一人なのよ。芝居を見ている時の服装でも相当な地位の人だと思うわ」
 「それなら、お吉ちゃん。尚更の事、変に騒ぎ立てない方がいいんじゃねえか。おいら達には関係ない事だぜ」
 「源さんの意気地なし。いいわ、私一人で行ってくるわ」
 「ま、待っておくれよ。おいらも一緒に連れてっておくれよ」
 てな訳で、お吉と小判鮫の源吾郎は初夏の町を小走りに、片門前町の入口にまでやってきた。
 片門前町はその名の通り、増上寺の大門から正ケン橋までの間、道の片側だけに町屋が並んでいる。反対側は増上寺の築地塀が続いている。
 さて葵真吾は富籤小僧の事件の折、町人姿に身を宿し神明門前の七富町で水茶屋の真似事をしたお蔭で、すっかりこの界隈が気に入り、着流し姿のまま、源吾郎の裏長屋とは目と鼻の先、万屋という名の小間物屋の裏長屋に住み着いてしまったのである。
 お吉と源吾郎は裏木戸を潜り真吾の家の板戸を叩いた。
 「真吾様、もし、真吾様」
 「浪人さんなら増上寺に出掛けたよ」
 隣の店から職人風の男が顔を出した。真吾はこの長屋では浪人者で通っている。面倒見が良く、暇な折には裏店の子供達に読み書きも教えたりするので、自然にそう思われているのだ。
 「まあ、そうなんですか」
 お吉達は増上寺まで行ってみる事にした。広大な境内の中、果たして真吾と会えるかどうか心もとないが、会えなければ又長屋まで戻ってくればいい。源吾郎にとっても、そろそろ修理場に出掛ける時刻だから、なおのこと都合がいい。
 大門を潜ると新芽の緑が目に眩しい。鳥の声も一段と威勢がいい。
 「なんて清々しいんでしょう。ねえ源さん、修理場はどの辺にあるの」
 「おいらの仕事場なんぞ、糞食らえさ。それよりか、お吉ちゃん。御仏殿の方まで行ってみないか。おいらと一緒だと三門のずっと奥まで入っていけるんだ」
 三門に向かって暫く歩くと、右手の広場の奥よりエイヤと掛け声が聞こえてきた。
 「あら、真吾様の声だわ」
 「御成門の方じゃねえのかい」
 「行ってみましょう」
 お吉は源吾郎を残してドンドン歩き出した。
 「お吉ちゃん、ちょいと待っておくれよ。おいら今日はどうしても手が放せねえ仕事が残ってるんだ。夕方には必ず店の方に顔を出すからさ」
 源吾郎の魂胆は見え透いている。真吾に会いたくないのだ。お吉の前ではどうしても真吾に歯が立たないもんで、何かと口実を見つけては避けているのだ。
 「あら・・・今日は随分と真面目に仕事に精を出すのね」
 「よせやい。おいらだってそうそう遊び呆けてちゃ御飯の食い上げさ」
 お吉は源吾郎を見送ると一人で御成門の方へ歩を進めた。真吾の気合は鋭く厳しい。森閑とした境内の空気を縦横に切り裂いて響き渡る。
 「真吾さ・・・」
 真吾の姿を見つけたお吉は声を掛けようとして思わず息を呑んだ。額に汗を浮かべて真剣を振り下ろす真吾の目には今まで見たこともない怖さがあった。両の目に炎が宿って仁王の様に光っている。見る者を圧倒する迫力だ・・・この人は、私の知らない世界を持っている。覗き見る事さえ叶わぬ別世界・・・お吉はその場に佇んだまま、じっと真吾の朝の鍛錬姿に見入っていた。
 「お吉さん」
 ややあって真吾はお吉の方を振り向いた。既にいつもの穏やかな微笑を浮かべている。
 「お恥ずかしい処を見られてしまいましたね」
 「とんでもありません。私の方こそ御修行の邪魔をしてしまいました」
 お吉は丁寧に頭を下げた。
 「ハハハ、いつものお吉さんらしくもない。恐縮してしまうじゃありませんか。ところで・・・何かあったのですか」
 お吉はかいつまんで今朝の出来事を話した。聞いている内に真吾の表情が曇るのが分かる。
 「お吉さん、あなたの言う事が事実なら、それは大変な事だ」
 「私はただ・・・あの人が大奥の」
 「お吉さん、確かにその人は紫色の打掛を羽織っていたのですね」
 「はい、二階席の一番前に座られて、最も艶やかな着物を着ていたので良く憶えているのです」
 「そして、その人が今朝新橋の川の中で死んでいた・・・こうしちゃいられない。お吉さん、私は今直ぐに本多様の屋敷に行ってくる」
 「私も参ります」
 そう言ってしまってから、お吉はハっとして我に返った。何と大それた事を・・・呼ばれもしないのに旗本の屋敷に町娘が出向こうなどと。
 「そうしてくれるかい。私は新橋の袂で待っているから、家に戻って十手を持ってくるがいい」
 「え、それじゃ・・・連れて行ってくださるのですか」
 「ああ、お殿様はもうじき御登城だから急いだ方がいい」
 お吉は慌てて吉屋に戻り、ブツブツ文句を言うお種を急かせて桐の箱から赤い房飾りのついた十手を出してもらい、新橋の袂に急いだ。
 「おや、お吉じゃないか。おまえさん、まだ性懲りもなくこの辺りをうろついているんざんすか」
 嫌な奴に出くわしてしまった。野郎芸者の豊次郎である。
 「あら、親分さんこそ。又なにかの事件ですか」
 お吉は胸元から赤房十手をチラっと覗かせた。
 「フンだ。勝手にするざんす・・・どっちにしろ、この辺りはあっしの縄張りざんすからね。下手な真似は慎んでおくんなさいよ」
 豊次郎は捨て台詞を残して、肩で風を切り颯爽と立ち去ろうとして、橋の真ん中で立往生してしまった。芝口町の方から土煙も勇ましく早馬が、豊次郎が突っ立っている新橋目がけて駆けてくるのだ。臆病な野郎芸者は目玉を剥いて立ち竦んだ。
 「お吉さん」
 早馬は新橋の手前で、嘶きの声も荒々しく立ち止まると、馬上から真吾がお吉に手を差し伸べている。
 「真吾様・・・」
 お吉は力強い手で馬上に引きずり上げられた。早馬は今一度荒々しく嘶くと、橋の真ん中で腰を抜かした豊次郎の傍らを走り抜けた。
 「馬をお持ちだったんですね」
 すっかり動転したお吉は場違いな事を聞いてしまった様な気がして、真吾の手綱を取る腕の中で独り赤面した。
 「いざという時の為に増上寺の境内で馬を預かってもらっているのですよ。お吉さん、随分驚かれた事でしょうね。殿様の屋敷までは目と鼻の先なのですが、その後ちょっと千住の宿まで足を伸ばさなければならないのです」
 「千住まで・・・それでお馬を」
 「ええ、歩いていたんじゃ日が暮れてしまいますからね」
 そう喋っている間にも、馬は数寄屋橋御門を駆け抜け、南町奉行所と道一つ隔てた本多生島守の屋敷に到着した。
 長屋門の中で十手を見せると、お吉も丁重に屋敷の中まで案内された。真吾が十手を持ってこいと言った訳が今分かった。火急の用事と取り次いだからであろう、生島守は直ぐに現れた。登城前なので裃姿の正装だ。
 「真吾、無礼であるぞ。登城前にわしを呼び出すとは・・・や、お吉。そなたも参っておったのか。久し振りではないか。どうじゃ、種は元気か」
 お吉の顔を見た途端、生島守は相好を崩した。
 「殿様、三島の方が殺されました。お吉が目撃しております」
 「な、何と申す」
 「真相が判明するまでの間、何分御内密に。私はこれからお吉と共に、千住の八重様の安否を確かめてまいります」
 「待て、殺されたのは三島の方ではないのか」
 「何分、目撃したのみで・・・」
 「そうか」
 生島守は何やらひどく気懸かりな様子だったが、登城を急かされて渋々部屋を出て行った。事情を知らされてないお吉には、皆目二人の話の前後が掴めない。
 「さあ、お吉さん。我々も出発しましょう」
 「千住にですか・・・あの方、三島と言うのですね」
 「ええ、詳しい話は道中で」
 真吾とお吉は再び馬上の人となり、街道を突き進んだ。
 「寒くはありませんか」
 真吾の前で彼の両腕に支えられているお吉に、真吾は優しい声を掛けた。
 馬は日本橋を抜け大川沿いに今戸橋を越え、日光道に入った。小塚原を抜ければ千住大橋が見えてくる。
 激しく上下に揺れる馬の背で、お吉は真吾の口から思いもよらぬ事実を知らされ気が動転してしまった。
 その内容を掻い摘んで言えば、こういう事である。時の将軍、家斉は子沢山で有名だが、中にはその存在さえ歴史の記録から抹殺された不遇の子も多かったと言う。三島、八重、千代の三姉妹もそんな運命を背負った家斉の娘達であった。母は家斉が飛鳥山に花見に詣でた折に見初めた農家の娘で、お菊と言った。すぐに由緒ある泉井家という公家に養女に出され、そこから大奥に奉公し家斉の側室となった。
 さてこのお菊が家斉の子を身篭ったのが今から二十年程前、お手つきの中郎に過ぎなかったお菊の喜びはひとしおであった。しかし、いかなる運命の巡り合せか、生まれた子供は世にも珍しい三つ子の娘達であった。双子でさえ不吉な前兆として忌み嫌われた事もある時代、ましてや三つ子ともなると天下の将軍の落しだねとして育てる訳にはいかない。夫々生まれを秘して里子に出され、お菊も髪を落とし、いずこかの尼寺に預けられた。
 八重は生島守の父、有基が引き取り、生島守の育ての親である千住の宿の旅籠に里子に出された。有基亡き今では生島守が何かれとなく面倒を見ている。
 千代の行方は知れない。
 問題は三島である。既に述べたが、この三島、れっきとした大奥勤め。いささか説明を要するところである。
 家斉が十一代将軍に就任したのは天明七年、将軍職を辞したのが天保八年、その間実に五十年に及ぶ。三つ子が成人した今でも、家斉は脂の乗り切った将軍の地位にあった。ただ一人、飛鳥山に近いお菊の実家に引き取られた三島は、年月を経て、やはり飛鳥山に花見に詣でた家斉の目に止まった。運命の悪戯であろうか、それともお菊の両親が不遇の娘に成り代わって復讐を企てた結果なのか・・・お菊に良く似た顔立ちの三島が家斉の目に止まらぬ筈はない。お菊同様の手続きを経て、大奥に上がった三島は家斉の寝処に呼ばれ、そこで自分が将軍の娘である事を打ち明けた。驚いた家斉は、今更三島を追い出す訳にもいかず、特別の局を与えたのである。
 その時から三島の大奥における勝手気侭な振舞いが始まった。と言っても娯楽の少ない時代、もっぱら芝居見物に現を抜かし、お付の女中衆を引き連れ、東に西に、掟を無視して出歩く始末。とうとう、大奥の中にまで芝居小屋を造り、贔屓の役者を女と偽って呼び込むまでの傍若無人ぶり。
 その三島が殺された。いや、三島らしき女が殺されているのをお吉が目撃した。さては、あまりの無謀さに、遂に家斉の怒りが爆発したのか。もし、そうならば葵真吾ごときが関与すべき問題ではない。家斉以外の手によって、何か別の怨恨でも生じた果てならば、事は重大である。血気盛んな将軍のこと、どの様な挙に出るや分からない。町奉行の首などいとも簡単に跳んでしまう。
 その三島と八重は驚くほど顔立ちが似ている。同じ腹から生まれた三つ子の二人なのだから当然と言えるのだが、それにしても良く似ている。真吾が直ちに千住まで馬を飛ばす理由はここにある。死んだのは三島なのか、それとも八重が何らかの騒動に巻き込まれて・・・それを確かめるのだ。
 千住大橋を渡ると、街道沿いに旅籠や茶店が並んだ宿場町だ。真吾はその中の一軒の手前で馬を止めた。甲州屋の看板がある。ここの主、即ち本田生島守の育ての親は甲州の出なのである。
 「真吾様じゃございませんか」
 店先で客引きをしていた身体の大きな女が声を掛けてきた。
 「ちょっと厄介になるが、八重さんはいるかい」
 「はあ、お嬢様なら、お部屋の方に」
 「何、おられるのか」
 「ええ、ここ二、三日、風邪をひかれて臥せってるんですが」
 「そうか、それは良かった」
 「はあ・・・」
 「あ、いや・・・それは大層な事で。早速見舞いをしたいので取り次いではくれぬか」
 「はい、ようございますよ。旦那様を呼んで参ります」
 旅籠の一室に通された真吾とお吉のもとに、程なく赤ら顔の甲州屋惣座衛門が入ってきた。かなりの年だが血色も良く、頑健そのものである。
 「これはこれは金沢様、わざわざのお越しで恐れ入ります」
 「え、金沢・・・」
 お吉はハッとして真吾の顔を見た。真吾の方も一瞬困った表情を浮かべたが、すぐにお吉の耳元で、
 「何も心配する事はない。私はここではそう言う名で通っている」
 心配するなとは、どういう事なのだろう。この人の名は、本当に葵真吾なのだろうか・・・お吉は真吾が急に遠い処に行ってしまったかの様な寂しさと不安を覚えた。
 「八重さんが臥せっておられる様ですが・・・」
 「はい、不用心で風邪をひきました」
 「御見舞いの言葉を掛けて差し上げたいのですが」
 「それが・・・」
 惣座衛門の表情に困惑の色が拡がった。
 「どうなされました」
 「気分が悪いと臥せって以来、この私にも会おうとしないのです。よっぽど悪いのかと医者を呼びましたが、それ程でもないとの事・・・気の病ではと、余計心配が募っております」
 「それでは誰とも・・・」
 「いえ、女中には何かと身の回りの事を言いつけておる様ですが」
 「それは、おかしい」
 真吾は腕組みをして、しばしの間、物思いに耽っていた。
 「本多様よりの直々のお言葉を伝えねばならぬのですが」
 「本多様からの・・・分かりました。どうぞ、八重の部屋にお通り下さい」
 真吾とお吉は部屋女中の先導で八重の部屋の前に来た。襖の前で女中を帰すと、
 「八重様、真吾でございます」
 言葉使いを改めた真吾は、静かに襖を開いた。
 「どなた・・・」
 寝具に横たわっていた八重は不審気な声を出した。
 「真吾です。お顔を改めさせていただきます。ご免」
 そう言うと真吾はつかつかと枕元に近づき、八重の顔を真上から見下ろした。
 「無礼な」
 八重の声に一瞬怯んだ真吾は、すぐに居ずまいを正して、
 「失礼つかまつった、八重様」
 と平伏し、
 「三島の方が亡くなられました」
 「何ですって」
 八重は余程驚いたに違いない。寝具を跳ね除けて、襦袢姿のまま半身を起こし、
 「いつの事じゃ、いつの事じゃ」
 と身近にいた真吾にすがりついた。
 「只今御説明しますが、その前に、そちらの事情をお伺い致したい、三島殿」
 「え、三島・・・ですって」
 お吉は思わず大声を上げた。真吾が慌てて口元に一本指を立てた。
 「いかにも、わらわは三島です。取り乱させておいて、相手方の素性を掴むとは、あなたも只者ではなさそうですね」
 「本多生島守配下の真吾とのみ御記憶願いたい」
 「して、そちらの娘は」
 大奥の部屋持ちだけあって横柄な口の訊きかただ。
 「同じく生島守の御息女、お吉殿です」
 「え・・・」
 真吾は今何て言ったのだろう。御息女・・・娘の意だ。何のつもりなのだろう。お吉の胸の中を熱い渦が走った。生島守と母との関係・・・ふと聞きそびれたままになっていた二人の間柄。とりとめもない謎がお吉の小さな顔の中で膨らんでくる。
 「わらわの素性は既に御存知か」
 「はい」
 「お八重の素性もか」
 「はい、御姉妹にござる」
 「それならば話しましょう。わらわが大奥の身分も顧みず、芝居見物の名目で市井を彷徨ったのは、生き別れの妹達を探すのが目的でもあったのです。八重と千代、祖父に聞かされた二人の妹達。母の無念を晴らす為にも、私達はそれ相応の待遇を受けなければならないのです」
 「御母君はいかがなされました」
 「鎌倉の寺で不遇のうちに亡くなりました。私が十五の年、漸く尋ね当てた時は既に冷たい石の下。私は母の名誉回復の為に一命を捧げる覚悟をしました」
 お吉は足の痺れも手伝って居たたまれない気持ちになってきた。この様な大それた秘密を聞いている自分が空恐ろしくなったのである。真吾がわざわざお吉を同伴した真意が分からなかった。どう考えても、町中の十手持ちの出る幕ではない。
 「お八重の居所を掴んだのは五日前の事でした。わらわに良く似た娘を千住で見掛けたと奉公女中が教えてくれたのです。早速駕籠を飛ばして来てみると、まごう事なき我が妹。詳しく詮索するまでもありませんでした。只、お八重は私達姉妹の素性をまるで知らされていなかったので、随分驚いていた様子でした。そこで、わらわが一計を案じ、父親である将軍様との対面を画策したのです。つまり、わらわと入れ替わり、大奥に戻るのです。ご存知の様に私達は親も見間違うばかりの瓜二つ。それが三日前でした。その間、わらわの方は里親である惣座衛門に気付かれない様に、病を装って寝込んでいたのです。明朝、芝居見物の予定があるので、日本橋に出て、そこで元通りに再び入れ替わるつもりだったのです。それが・・・八重が殺されたと言うのは確かですね」
 今度は真吾の番だ。今朝来の出来事を順を追って三島に伝えた。
 「良く分かりました。お吉殿とやら、よもや見間違いという事はありませんね」
 三島は何かを悟ったかの様な鋭い眼光でお吉を見据えた。
 「はい、確かに三島様のお顔でした」
 お吉は喉の渇きを覚え、そう言い切った後に、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
 「何と不憫な妹よ」
 三島の気の強そうな目に涙が溢れた。
 「こうしてはおられぬ。一刻も早く大奥に戻らねば」
 「お待ちくだされ」
 真吾がせっかちな三島を制した。
 「もしも将軍様の御意志が働いていたならば、どうなされます」
 「そんな筈はない。わらわの地位を妬んだ者の狼藉に違いない。妹の仇を討たねば気が鎮まらないのです」
 「それならば一日の猶予を頂きたい。予定通り明朝芝居を見物し、その後の行動は御自由になされば良い」
 どうにか三島を納得させた真吾達は、千住を後に一路新橋の袂まで戻ってきた。
 「お吉さん、事の次第によっては本多様の首が飛ぶ。協力してくれますね」
 「はい・・・」
 お吉はコクリと頷いた。
 「私は殿様の屋敷に行ってくる。お吉さんは松平家に連れ去られた八重さんの死体の事を出来るだけ調べて欲しい。ただし深入りしてはいけないよ。町方としての分をわきまえなければ命が危ない」
 「分かりました・・・あの、真吾様」
 「何か」
 「先程、三島様に私の事を本多様の息女だと紹介されましたよね」
 「ああ、あの事ですか。まさか町方の十手持ちだなんて言ったら、あの人は何も打ち明けてはくれまいと思ったからです。気にしないで下さい」
 そう言い残すと真吾は、再び馬上の人となり、出雲町の方に走り去った。
 独り取り残されたお吉は、一先ず八重の死体が持ち去られた松平政千代守の屋敷の方に歩いていった・・・それにしても、殺されたのは本当に八重なのだろうか。もう一人行方の知れない三つ子の片割れ、千代は何処にいるのだろうか。
 政千代守の屋敷は今朝の火事の火元である割には、比較的被害は少なかった様だ。屋敷を取巻く漆喰塀には殆ど損傷はなく、長屋門に積み上げられた破損品の数も多くない。お吉は、門前でそれらの整理をしていた中間らしき男に声を掛けた。
 「もし、御苦労様です。今朝は本当に大変でしたね」
 「いや、何。発見が早かったんで、直ちに消し止めた。その代わり、町に飛び火しちまって気の毒な事をしたな」
 「さぞかしお疲れでございましょう」
 「うん、まあな。腰元の尼っこがお役ご免の腹いせに火を付けやがって大変な騒ぎさ」
 「え、腰元が・・・」
 「そうよ、中間の一人といい仲になりやがって、それが見付かってお払い箱。そいつを根に持ってこの始末さ。女の恨みは恐ろしいやな」
 「火を付けるとこでも見たんですか」
 お吉は話好きを装って、中間の隣に腰を下ろした。
 「お払い箱になった次の日に、わざわざ門の前に来て、散々悪態をついていったのさ。火を付けてやると何度も大声出しやがった。可愛い顔して、やめた途端に鉄火場の女みたいに豹変しやがった」
 「まあ、恐ろしい。それで、その女、捕まったんですか」
 「ああ、何でも今朝がた、新橋の袂に浮いていたんだってよ。天罰だあな」
 「えっ」
 あまりの展開に、お吉は暫く声も出なかった。
 「その腰元さんの名は、お千代さんて言うんじゃありませんか」
 「ん、おめえさん・・・一体誰なんでぇ。随分と色んな事に興味があるようじゃねえか。ははん、何か嗅ぎ回ってるな」
 「只のお使いですよ。それじゃ、ごめんなさい」
 中間の雲行きがおかしくなって来たのを察したお吉は早々に退散した。
 だがお喋りの中間のお蔭で思わぬ収穫があった。政千代守の屋敷の腰元を洗えば、もう一人の三つ子、千代の消息が掴めるだろう。とすると、八重は無事なのかも知れない。殺されたのは千代で・・・だとしたら、千代には気の毒だが、とんだ人騒がせと言う事になる。
 お吉は焼け跡を歩いて、増上寺の門前までやってきた。仕事中で気が引けるが、どうしても源吾郎に手助けして貰わなければ事が運ばない。お吉は大門を潜り、寺の中に入った。
 「誰だい、おめえさんは・・・え、源吾郎、奴に用があるのかい。ちょっと待ちな」
 気難しそうな棟梁が引っ込むと、入れ違いに源吾郎が、いつもの鮫肌に玉の汗を浮かべて出てきた。
 「いやあ、嬉しいねえ。お吉ちゃんがわざわざおいらを訪ねてくれるなんて。丁度仕事に退屈してたとこなんだ。ちょいとそこまで出ようや」
 源吾郎はそう言いながら、お吉の肩に手を回した。
 「何するのよ。嫌らしいわね」
 お吉は邪険に源吾郎の手を払い除けた。
 「おお怖、おお怖」
 「馬鹿ねえ、ちょっと真面目になってよ」
 お吉は今朝、源吾郎と別れて以来の出来事を話して聞かせた。
 「ふうん、そいつあお吉ちゃんらしくもねえ早とちりだったなあ。たまたま三つ子の一人のお千代が災難に会っただけで、八重も三島もピンピンしてるって訳だ」
 「源さんもそう思う」
 「思うって・・・」
 「だって火付けは大罪よ。それに、今まで消息の知れなかった三つ子達が、偶然にしろ、三人とも一気に出てきちゃうなんて、どうしても腑に落ちないのよ。それに、お千代さんを殺した下手人だって、何処の誰やら」
 お吉はそう言いながら、しばし錯綜した糸を解きほぐそうと何事かを必死に思案している様子だ。
 「それで、おいらは何をすればいいんだい」
 「橋の下に浮いていた女の素性を洗って欲しいの」
 「お千代のことかい」
 「ええ、死体が本当にお千代さんだったのか・・・」
 いったん吉屋に戻ったお吉は、お種に店の事を頼んで、日本橋に向かった。中村座の芝居小屋に葵真吾と懇意な呼び込みの男がいたのを思い出したので、ちょっと会ってみようと考えたのだ。
 芝居小屋の前では、錦の幟が幾本も風に舞い、丁度興行中の中村富三朗の「娘道成寺」の上演景気を盛り立てていた。
 「もし・・・」
 芝居小屋の前で所在なげに突っ立っていた男を目敏く見付けたお吉は、そっと声を掛けた。
 「おや、おめえさんは・・・お吉さん」
 男はお吉の事をちゃんと憶えていた。
 「今日は独りで芝居見物かい」
 「いえ、ちょいと信さんにお話が」
 男は中村座出入の信三と言う。芝居好きの葵真吾とはかなり前から顔見知りで、お吉が真吾に連れられて前回「梅屋敷秘伝」を見に来た時に言葉を交わした事がある。
 「最近、三島様はおいでになりますか」
 「ああ、あの御殿女中かい。明日、この芝居を見に来るって話だけどな」
 信三は「娘道成寺」と染め抜いた大幟を指さしながらお吉に耳打ちした。あまり大っぴらに言う訳にはいかないのだ。
 「信さんは三島様の事を良く知ってるんですか」
 「良く目にするけど、口をきいて貰える身分じゃねえな」
 「印象だけでいいんだけど、どんなお方なのかしら」
 「冷てえ女だって噂だな。つんつんしてて、自分のことをまるでお殿様か何かの様に思ってるらしいぜ。だけど、どうしてそんな事聞くんだい」
 「いえ、随分目につくお方なので興味があったんです」
 「そうかい・・・そう言や、この前の事だが」
 「え、何かあったんですか」
 「う、いや何ね。三島の方が虚無僧姿の男と歩いているのを町中で見掛けた事があるんだけど・・・人違えかも知れねえ」
 「どうして人違いだと思うんですか」
 「いや、お付もつけねえで、おまけに町娘の格好だ。でも、確かに顔は三島の方に違えねえ」
 「どの辺で見たんですか」
 「お吉さん、変だぜ。岡っ引きみてえに詮索するじゃねえか」
 結局、芝居小屋では大した収穫はなかった。お吉は取り敢えず源吾郎との待ち合わせ場所である神明境内へ行ってみることにした。
 源吾郎がやって来たのは既に八ッの鐘を過ぎた時分で、待ち草臥れたお吉は泉池に掛った橋の上で生欠伸を噛み殺していた。
 「お吉ちゃん、待ったかい」
 と言いつつも、待たせた反省の色は更々ない。源吾郎と言う男、長生きする性分に違いない。
 「お千代さんの事、何か分かって」
 「それが・・・」
 源吾郎はちょっと困った表情でお吉の顔を見た。
 「松平家で腰元をしていた女の素性は掴めたんだけど・・・」
 「それで・・・どうしたのよ、源さん」
 「中間部屋に出入の者から聞いたんで確かな筈だけど、その腰元、千住の宿から奉公に上がった女で、八重・・・」
 「え、何ですって」
 「お吉ちゃん、びっくりするじゃねえか。そんな大きな声出して」
 「本当に八重さんなの。そんな筈はないじゃないの」
 「こっ