伝説

語り継がれた伝説に満ちた不思議な土地
何気なく訪れた人々の心に、いつしか過去の霊が乗り移る
悲しくも、おかしく、なおかつ怖ーい話の数々
眠れぬ夜の道しるべ

第一話 馬神
 小学生の頃まで身体の弱かった健二は地図を見るのが好きな少年だった。親に買ってもらった世界地図帳や日本地図帳は、その年頃の少年にとっては高価で分厚く詳細なもので、健二はそれを捲るのが楽しくてしょうがなかった。
 ある初冬の昼下がり、熱が出て学校を休んでいた健二は、ゴホゴホと咳をしながらも、いつものように炬燵に入って地図帳を捲っていた。発熱による眠気がほどよい興奮を呼び寄せ、健二はカラフルな地図の向うに幻の輪が広がるのを感じ、緩やかな満足感に浸ることができた。
 谷沿いに鉄道の記号がくねっていく。
 多分・・・いや、絶対に・・・長閑で、人里はなれた針葉樹の山林だ。まだ雪はない。もう十二月になったんだっけ・・・微熱が邪魔して良く思い出せない。汽車が、それも蒸気機関車がいい・・・谷に沿って右に曲がる。登りだから何度も汽笛を鳴らし怪物のような煙を吐くんだ。
 健二は空想の窓辺に身を寄せて、幻の窓の風景に溜息をついた。白い息がガラスに沿って広がり、指先で拭き取ると、彼の思い通りの雪景色に変わった。と言っても、綿雪が羽虫のように舞う程度だが、都会育ちの健二には充分な雪景色だった。窓に顎を当てて山の頂に目を凝らすと、これもいつも通りに藤壺のような雲の渦が見えた。青く澄んだ空は、彼の空想の中には現れない。
 やがて唐突に汽車は速度を減じ、山間に鄙びた駅のホームが墨絵のように現れる。雪は舞えどもホームには積もらない。灰色のホームは曇り空のようだ。弁当売りが人形のように立っていた。健二は周囲を見渡すが、誰も弁当売りには目もくれない。健二だけが空想の狭間で空腹を覚え、窓を開けようとするが、どうしても開けることができない。
 「坊や、弁当かい」
 前の席の紳士がニヤリと笑うが手を貸してくれる気配はない。
 健二の空想はかなり現実的だったが、夢ではないので、彼にはそれが空想だと分かっている。そのくせ、夢のように先の読めない展開になってしまう。いつもそうだった。健二はそれが怖くもあったが、八分がたは楽しんでいた。
 とうとう弁当は買えずに汽車は動き出した。
 ガッタンと大袈裟に揺れたが、その後はスムーズに加速した。
 なんだか頭が重い。午後になって、収まっていた熱がぶりかえしたようだ。健二は地図帳を閉じようとして、最後にもう一度だけ線路沿いに指を滑らしてみた。
 過ぎ行くホームの鉄柱に括りつけられた駅名が見えた。
 馬神・・・
 なんて読むんだろう。
 ば・し・ん・・・不思議な響きだ。
 その時、ほんの一瞬だが、空想を閉じる脳裏の片隅に、なにやら白く大きなものが過ぎったような気がした。
 
 この様な空想と地図上の体験とが入り混じった思い出は幾らでもあった。だが、健二が中学に進み、成長期を迎えるとともに、虚弱な体質がいつのまにか改善され、それまでとは打って変わった活発さを見せるようになると、彼の記憶の中からも狭い片隅に追いやられていった。健二は体育系の部活に夢中になり、唯の紙に過ぎない地図帳には目もくれなくなった。

 再び「馬神」の文字を目にしたのは、高校二年の夏休みに入った、まさにその日だった。
 住み慣れた、それでいて黴の匂いに鼻をつまみたくもなる築七十年になる曽祖父の代からの一軒家を取り壊し、新居を建てるために、近くのアパートに一時的に越すことになり、健二は母親に言われるままに、夏休みの一日目を嫌々ながらも部屋の整理に費やすことになった。
 その偶然の一日がなかったならば、と仮定するのはおよそ詮無きことのように思う。誰の一生も見えぬ糸で複雑ではあるが繋がっているのだ。
 健二は埃を被った書棚の隅から地図帳をさりげなく取り出した。そして半ば無意識のうちにパラパラと捲り、あの山間のページに行き当たり、その瞬間に幼き日の自分に出会ったのである。
 空想を卒業したはずの彼の脳裏に浮かんだのは、のっけから、白く大きなものの姿だった。知識を重ねた健二は、それがペガサスという翼を持つ馬であることを知っていた。ただ、この時に及んで、初めて、幼い日に見た幻惑とペガサスが結びついたのである。
 健二の口から自然に「ばしん」という言葉が忍び寄る気配のように洩れ、彼は矢も盾もたまらず、その地に行ってみたくなった。

 健二は七月いっぱいを時給の高い深夜アルバイトにあて、馬神までの交通費を稼ぎ、ボストンバッグ一つを持って早朝の列車に乗った。親は、特に母親は心配したが、毎日、と言っても二泊三日の旅程だが、必ず夜の八時には電話を入れることで了承を得た。宿は予約していなかったが、いざとなったら民家の軒先でも借りて寝袋にくるまればと、体育会系の部活で培った軽いのりだった。だいいち、旅館はおろか民宿さえあるかどうか覚束ない土地柄に思えた。
 列車が動き出した途端、健二はふと我に返った。
 自分は一体何をしようというのだ。
 見も知らぬ土地に、大昔に心躍らせた地図に幻惑されて・・・尋常じゃない。そう気づいた瞬間、列車は既に加速していた。引き返すことが恐ろしいほどに猛烈な勢いで疾走していたのである。どうかしていたんだ、と目覚めた冷静さが判断をくだしたが、とにかく目的地まで行ってみよう。諦めにも似た気分で、一つ大きな溜息をついた。
 車両は古風ではあるが、お世辞にも居心地が良いものではない。垂直にたった硬い背もたれ・・・座席の布地は擦り切れ、今にも錆びたスプリングが飛び出しそうだ。この季節に冷房さえもない蒸し暑さに、そこかしこの窓が開いている。健二は、向かいの初老の紳士に断って、窓を開こうとしたが枠がガタついて、まるで動かない。紳士も手を貸してくれたが諦めるより仕方なかった。
 「旅行ですか」
 一緒に窓ガラスと格闘した紳士はちょっと顔を和ませて健二に話しかけてきた。
 「ええ・・・」
 なぜかどぎまきした。小学生の頃に見た地図帳の地名に出会いたくて旅にでたことが、甚だ軟弱なことに思えた。多分、次は「どちらまで」とか尋ねてくるに違いない。健二は頭に血が昇るのを感じて、女子高生のように俯いた。
 「もしかして、あなたも?」
 意に反して、紳士は奇妙なことを口にした。健二が目をあげると、紳士は何度も頷きながら更に奇妙なことを言う。
 「いやね、ふと懐かしくなって・・・私が、そうあなたと同じぐらいの歳のことでしたよ。矢も盾も堪らず夜汽車に乗ったのは。と、言っても随分と昔のことですけどね」
 紳士はちょっと不気味な笑みを浮かべた。心の中を見透かされたような居心地の悪さを感じた健二は、車窓に目を転じて、紳士の話になぞ興味がないような振りをしたが、それさえも見透かされてしまった。
 「まだ先は長い。私もうる憶えのことも多くて・・・おいおい思い出すでしょうがね。トンネルを抜けて山が見えてきたら。でも、当分は単調な平野が続きますよ」
 何者だろう。健二は貝のようにだんまりを決め込みながらも、窓ガラスに映る紳士からどうしても目がはなせなかった。
 
 西に向かう列車はじきに丘陵地帯に入った。既に幾つもの駅に停車したが、車内は相変わらず混みもしなければ、空くこともなかった。健二は席を移ることも考えたが、景色が良い北の窓際は例の紳士の向かい側しか空いてなかった。
 車窓の風景は変わったが、まだ山岳地帯へのトンネルは抜けていない。向かい側の席を占領して居眠りをしている紳士は・・・もしかして・・・いや、そんなはずはない。健二は苦笑いを浮かべ首を振った。だいいち、あれは空想の中のことだ。
 「坊や、弁当かい」
 そう尋ねた紳士・・・小学生の想像が生み出したもの。実在するはずはないのだ。他人の空似って言葉自体もそぐわない。
 健二にとっての日常である平野を脱したからだろうか。健二の健全に成長したはずのこころに、徐々にではあるが、小学生時代の空想癖の残り香がその密度を濃くしていった。もちろん、本人にその自覚などあるはずもない。トンネルには・・・まだ距離がある。
 健二はボストンバッグを膝の上に置き、上目使いに紳士を見やりながら、バッグの一番上に置いた地図帳を開いてみた。山間の小さな駅、馬神の駅名を確認すると、なぜかどっと汗が噴出した。だが、その汗も紳士の言葉で一気に引いてしまった。
 「まだ地図を見るには早いよ、坊や」
 この時ばかりは、健二はその紳士から目を逸らすことができなかった。
 坊や・・・だって。
 完全に空想上の紳士と、この初老の紳士が重なった瞬間だった。
 「おじさん・・・」
 こうなったからには、やり過ごすわけにはいかない。健二は腹をくくった。
 「どっかで会ったよね」
 「私は数多くの人と会っているから、いちいち憶えちゃいない」
 ぞんざいな返事だったが、そのほうがこの紳士には似つかわしい。
 「おじさんは何処まで行くんだい」
 健二もぞんざいな言い方を心がけた。
 「トンネルの向うさ」
 「それじゃ分からないよ。それに、僕は坊やじゃない。高校生なんだ」
 こうして自分のほうから話しかけると、嘘のように不安が消えていった。
 「ねえ、おじさんは僕の行き先を知っているような口ぶりだったじゃないか。いや、さっき、もしかして、あなたも?って言ったよね」
 「トンネルを過ぎたら話してあげよう」
 「トンネルって言っても、これから幾つもあるんでしょ」
 「トンネルは一つだけだよ」
 「え・・・」
 紳士はちょっとおかしいのかもしれない。そう思うことで、健二は多少冷静になれた。

 トンネルに入ると、開いた窓から突風が吹き込んできた。初老の紳士の白髪が蛇のように蠢いた。強い音と微かな音とが重なってゴーゴーと厚みのある音が聞こえてくる。誰も窓を閉めようとはしない。昼に近くなり車内は混んでくるはずなのに、少しずつ空いてきているような気がする。健二は閉じたままの窓に凭れたまま紳士を見ていた。もう気後れは感じなかった。それにしても長いトンネルだ。
 その道程で二度ほど電気が切れ、短い間だが車内が真っ暗になった。異常な出来事と言ったら、それぐらいだ。
 唐突に真夏の陽光が車内を満たすと、風景が一変し、無人の森林地帯が高い山に向かって何処までも広がっている。目の前の紳士が健二に目配せを送ってよこした。空気に植物の匂いが充満し、旅の雰囲気が盛り上がってくる。

 「目的地までは同じ景色が続いているんだ。何処もかしこも山と森と谷だよ」
 紳士は少年のような笑顔を浮かべていた。健二はこの風変わりな紳士に、初めて友情のようなものを覚えた。
 「おじさんは、今、目的地と言ったよね。僕の目的地が何処なのか分かるのかい」
 「歳を重ねると、ほぼ分かるようになるんだ。それよりも腹がすかないか、坊や」
 「坊やは勘弁しておくれよ、健二って言うんだ」
 紳士への警戒心は極限にまで薄れていた。
 「それじゃ、健二くん、次の駅でうまい釜飯を売ってるんだ。きみさえ良かったら、買ってきてくれないか。ほら、君のぶんも」
 自己紹介したら、当然紳士のほうからも名乗ってくれると思っていた健二は当てが外れたが「おじさん」のほうが親しみがあって良いと気持ちを切り替えた。

 釜飯は暖かくて、とても美味かった。ただ、時々喉の奥をピリリと刺激する奇妙な感触があった。唐辛子とも芥子とも違う・・・何だろう。香辛料と言うよりも随分と無機的な気もするのだが。
 「僕も若い時は矢も盾も堪らず旅に出たものだ」
 紳士は一緒に買ってきたプラスチック容器のお茶を満足そうに飲み干した。
 「健二くんは、いつでもそうして地図帳を持ち歩いているのかい」
 寝ているものと油断してたら、ちゃっかり観察されていたようだ。
 「子供の頃、身体が弱かったもので」
 全然答えになっていないが、健二は正直に答えた。
 紳士は何度も頷きながら、
 「で、その地図帳で空想旅行をするんだね」
 健二はびっくりした。そこまで見透かされているとは思わなかった。
 「小学生までで、今はそんなことはしませんよ」
 「実はね」
 紳士は、そこで妙に生真面目な表情を浮かべた。
 「私も君と同じ趣味があってね・・・そう、地図帳の上で空想旅行をするんだよ。ただ、君と違うのは、私は今でもその趣味を続けてるんだ。あ、いい機会だから、私の地図帳を是非とも君に見せてあげよう」
 紳士は鼻歌を奏でながら、網棚から皮製の小さな手提げ鞄を取り上げた。
 「ほら見てごらん」
 それは手帳ほどの大きさの小ぶりな日本地図帳だった。年季が入っていると言うか、要するにボロボロだ。布地テープで、綻びのひどい表紙周りを補修してあった。
 「随分と昔のものですね」
 健二は紳士から手渡された地図帳をペラペラと捲ってみた。ぷーんと古紙の香りが懐かしさを呼び寄せた。
 この時、健二が今回の旅の目的地である「馬神」の駅名を、紳士の古地図の上でなぞってみたのは極く自然ななりゆきだった。色は褪せてはいたが、現代の地図帳とさほど変わらない記述法のようだ。鉄道の路線も山や平野の位置も良く分かる。
 あった・・・健二の指の先に「馬神」の駅名はあった。驚いたことに、鉛筆で薄く囲ってあった。
 「おじさん・・・ここに行ったことがあるの?」
 「ああ、随分昔のことだけどね。ここが君の目的地ってわけだ」
 「はい」
 健二は短く、それでいてはっきりと断定した。
 「ちょうどいい。トンネルも越えたことだしね。私が話したかったのも、そこへの旅行のことなんだよ。あ、いいのかい。一方的に喋ったりしちゃ迷惑じゃないのかい」
 「いいえ、迷惑だなんて。是非聞かせてください」
 健二は紳士の地図帳を汗ばむほど握り締めて、好奇心を全開にして身を乗り出した。

 南方から復員してきた私は、上野の闇市でこの地図帳を見つけたんだ。なんてことはない学校で使う普通の地図帳に見えたけど、中を捲ってみて私は驚いた。
 表紙を捲ってすぐの裏表紙に墨で私の父の署名があった。
 これだけなら、類まれなる偶然として片付けられるかもしれないが、父は私がまだ子供の頃に「旅行に行く」と言って家を出たきり行方不明になっていた。当時で既に二十年が経過していた。
 君が見ても分かるだろう。とても立派な地図だ。戦争になる前までは、色刷りの紙質もいいものがまだ出回っていたんだね。
 家には父の筆跡が残されていたので間違いはなかった。どうして敗戦の闇市で、生活必需品でもないものが店頭に並んでいたのか甚だ解せないこともあったけど、私は食糧を犠牲にして、父の地図を購入した。ところどころに鉛筆で丸い囲みが記入された跡が残っていたので、父の消息が掴めるんじゃないかと思ったんだ。

 健二は心臓の鼓動が高まるのを感じた。彼が捲った頁には、紳士が言うところの丸い囲みが二箇所認められた。一つは「馬神」駅・・・もう一つは「白滝」と読める。

 余裕が出来ると私は、父が印をつけた囲みの地名を虱潰しに訪ねてみたんだよ。ははは、随分と奇特な旅行だと思っているのかい。確かに・・・常軌を逸しているのかもしれない。でも、そうやって何年も旅をしてくると、当初の目的はすっかり忘れてしまってね、純粋に旅行が楽しくなってきたんだよ。丁度、健二くん、君が地図を見て旅行に出発したようにね。

 「それで・・・お父さんの手がかりは」
 「そんなことはもうどうでもいいんだよ。父が恐らく訪ねたであろう地名は全国に跨っていて百近くあったかなあ。私は北から始めたから、今回でやっと半分さ。それぞれに穴場と言える思いで深い処だったなあ。どんな旅行案内にも載っていない不思議な場所だったんだ」
 「それで、おじさんは・・・」
 健二は恐る恐る尋ねてみた。
 「実はね、これが最後の旅行なんだ。もう足腰もままならなくなってね。囲みのある地名の丁度半分・・・人間、いつまでも夢を追い続けるのもどうかな」
 健二は紳士の行き先を尋ねたつもりだったが、それには答えてくれない。だが、「白滝」と「馬神」のどちらか、あるいはその両方であることは間違いない気がするのだ。もし「白滝」だとすると、この先のM駅で降りて、別線に乗り換えることになる。
 「もし、君さえ良かったら、この地図帳をあげてもいいんだよ。私には今回の旅行で用なしになるんだから。あ、そうだ。君が持っている日本地図帳と取替えようじゃないか。それがいい」
 紳士は半ば強引にボストンバッグの中から、健二の地図帳を抜き取った。
 「いいよね」
 「はい」
 
 紳士はM駅で唐突に「それじゃ、これで」と、慌しく降りていった。あっけない別れだった。紳士は思わせぶりな事を示唆しながらも、結局は旅にまつわる打ち明け話も残していかなかった。健二の手には交換した紳士の地図帳が残された。あたかも、その地図帳を健二に渡すのが目的だったかのような紳士の登場と退場だった。
 何かを期待していた健二としては拍子抜けの感は拭えないが、目上との会話は予想外に疲れたので、幾分ほっとしたのも事実だ。

 M駅を過ぎると、山は更に高く、谷はそれにも増して深くなった。幾つかの短いトンネルを越えると、人跡未踏の感さえ覚えるほどに、人家は皆目目に入らない。健二の前の席は空いたままだ。M駅で殆んどの乗客が降りてしまい、もはや車内には健二を含めて五人だけ。皆が頑強な山男の風貌だ。その彼らも「馬神」の手前の駅で降りてしまった。そろそろ夕暮れの時刻である。健二は心細さに暑さも忘れた。
 なあに、駅の周囲をちょっと探索して次の列車に乗ってもいいんだ。
 そう考えると多少気も楽になった。紳士の地図をペラペラと捲ってみる。鉛筆による地名の囲みは、ほぼ各地方に満遍なく分散されていた。山奥の閑散とした地域に多いが、都市の中にも僅かだが囲みは見出される。

 その時・・・
 ぶおーっと汽笛がなった。
 待てよ・・・汽笛だって。
 健二はわが耳を疑った。
 ぶおーぶおー
 健二は慌てて、窓の開いた席に移動し、身を乗り出した。
 なんてことだ・・・いつのまにか蒸気機関車に代わっている。そんな馬鹿なと思うのだが、この目で見ているのだから間違えようがない。
 健二の脳裏の芯の辺りが熱くなった。一瞬にして、小学校の頃の空想が青い空に浮かぶ雲のように増殖し、天空を支配した。
 ぶおー。
 真っ黒な煙が身をくねらせて夕焼け空に拡散していく。

 馬神は無人駅で無機的なホームが一本あるだけの殺風景な処だった。利用客も少ないらしく、健二がボストンバックをぶら下げてホームに降り立つと、後部車両から慌てて車掌が走ってきた。
 切符を手渡しながら、
 「泊まるところはありますか」と聞いてみる。
 「ないなあ、ご覧の通りだから。山登りなら一つ前の駅で降りなくちゃ。いいのかい」
 健二が列車に戻る気配を見せないので車掌は戸惑った素振りで念を押した。
 「ええ、いいんです。ここで降ります」
 「二時間後に次の列車が来るからね」
 車掌は諦めたのか苦笑しながら健二の切符を受け取った。
 とまあ、ここまでは辺鄙な駅でのエピソードで別段変わったことがあったわけではない。
 健二は古風な蒸気機関車を見送ると、とぼとぼとホームの端まで歩いていった。そちらに畦道に毛が生えた程度の無舗装の道がとりついているのが見えたからだ。それに瓦葺きの傾いた民家がポツンと建っている。
 民家の前には、これまた古風な郵便ポストが場違いな赤さで立っている。誰かが最近塗り替えたようだ。周囲を見渡しても、かなり遠くに森に囲まれた集落らしきものが窺えるのみで、ホームのそばではこの民家だけがポツリと貧しげに佇んでいる。他は、森と原っぱ・・・小さな川が線路沿いに流れている。
 車掌さんが心配するのも無理ないな・・・健二はこれほどの辺鄙を目の辺りにして、かの車掌同様の苦笑を浮かべた。
 時計を見ると五時ちょっと前・・・次の列車は七時。夏だからまだ明るいだろう。
 健二は民家の閉じた引き戸を叩いて「すいません」と声を掛けてみたが返事は返ってこない。更に大声を上げてみるがシンと静まり返っている。戸を引いてみると、多少がたついてはいるが難なく開いた。奥の浅い土間の向うに板張りの部屋がある。何か集会所のようなものだろうか。それとも嘗ては、駅舎で今はほったらかしなんだろうか。でも手入れだけは行き届いているようだ。板張りの床には埃が溜まっていない。
 いざとなったら、ここに泊まれるかもしれない。問題は水と食糧だが半日ぐらいなら我慢できる。二時間後の列車を気にするのもつまらない。
 健二は板の間の框に腰をおろし、紳士の地図を拡げてみた。
 馬神の駅から西の方に集落らしき絵が描かれていた。健二の地図帳にはこんなものは描かれていなかったはずだ。コンパクトだが、こっちのほうが詳細だ。交換して正解だった。
 その時、健二は誰かにじっと見られているような気がした。
 こっそり周囲に視線を泳がせてみたが、人の気配はない。それでいて見られている・・・なんともいやな気分だ。
 健二は立ち上がって「誰かいますか」と大声を張り上げた。不安を隠すために、もう一度声を張り上げ、わざと物音を立てながら、靴を脱ぎ板張りの上に上がり、どすどすと歩き回った。
 次の間に何やら仏像のようなものが鎮座している。窓も電気もない薄暗い空気の中に気配だけが生き物のように呼吸している・・・そんな感じ。眼が順応すると漸く正体が分かった。
 純白の馬の彫刻だった。無骨な羽が生えている。
 「ペガサスだ」
 健二はほっとすると同時に、やはり「馬神」に来て良かったと思った。小学生の頃、幻と意識もせず見たもの・・・網膜に光のように映ったもの・・・あれはやっぱりペガサスだったんだ。
 健二はペガサスに手を伸ばし、そっと撫でてみた。思った以上に柔らかい・・・木彫だろうか、それとも石。指先ではじいてみたが確認できなかった。まさか・・・本物。健二はそう思った自分が馬鹿らしくなって声を上げて笑った。
 ペガサスの間の向うにうっすらと光が差している。それに気づいて、健二は探索を開始した。と言っても、そこはもう一つの土間で行き止まりになっている。台所のようだ。昔の農家の趣で、竈と流しがあった。蛇口をひねるとちょろちょろと水が出てきた。思い切って口に含んでみると、信じられないほど美味かった。竈に火が起こせれば自炊も可能だ。でもガスはきていない。薪が健二の背丈ほどまで積み上げてある。やっぱり人が住んでるようだ・・・少なくとも定期的には訪れてくる人が・・・
 狭い板戸を開けるとトイレと石造りの風呂桶があった。
 野宿を考えれば快適なものだ。
 どこかにマッチでもあれば・・・それと肝心の食糧。
 
 地図にも載っている森に囲まれた細長い集落。あそこまで足を伸ばせば食糧ぐらいもらえるかもしれない。いざとなったら売ってもらおう。それにマッチかライター。この家を二泊ぐらいさせてもらう許可も得たほうがいい。最終の列車の時刻さえ気にしなければ急ぐこともないが、日没前には着きたい。
 健二はボストンバッグをペガサスの像の前に置き、紳士と交換した地図だけを手にして、太陽が赤く染まった西に向かって歩き出した。
 なんだろう・・・健二は歩きながら周囲を見回し小首を傾げた。ただの原っぱの中の獣道のようにも見えるが、植栽は揃っているし、人工的に植えられた見も知らぬ植物・・・やはり意味のある畑なのかもしれない。
 その時・・・健二はあの民家の中で感じた気配にどきっとし、振り返ってみた。誰かに見られている。誰かがつけてきている。しかし・・・気配は感じても眼に入る不審者はいない。気のせいだ・・・健二は無理矢理口元に笑みを浮かべ、気楽を装うために威勢の良いマーチを口ずさんでみた。
 もう十分は歩いた。集落は意外と遠い。地図の縮尺から割り出すと一キロ近くあった。それにしても・・・一向に近づいた気がしないのは何故だろう。蜃気楼・・・そんなはずはない。ちゃんと地図にも載っているんだから。背後の気配も気になったが、逆光に照らされた前方の集落はもっと気になる。
 二十分経った。ようやく集落の入口らしき鳥居状の門が目に入った。蜃気楼じゃなかった。確実に近づいている。正面の山の端に太陽が落ちてきた。もうすぐ夕焼けだ。
 鳥居に見えたものは・・・なんと言ったらいいのだろう。健二は今だかってこんなものは見たことがなかった。柱が二本、その上部に差し渡した梁が一本・・・確かに外形は鳥居の形状なのだが、印象がまるっきり違う。所狭しと馬の彫り物で覆われているのだ。その隙間から翼がランダムに突出している。それが真っ白く塗られている。日本的な感じはしないし、土着的なんて言えるものでもない。ギリシャやローマの構築物ほど洗練されてもいない。第一、古いものなのか新しいものかさえ判別できない。白い塗料が定期的に塗り替えられているらしく、そのせいで新しくも時代がかっても見えるようだ。
 健二はしばし、その場違いな「門」に見とれていたが、あまりいい感じはしない。他所人を拒絶しているのだ。決して招き入れる為のものではない。
 門の向うは真っ直ぐな道で両脇に人家が立ち並んでいる。こちらは極く普通の田舎屋だが、どれも藁葺きだった。
 馬神、駅前のペガサス像、そしてこの門・・・全てが符号している。いや、あまりにもしつっこく符号している。健二は再び背後に見られている気配を感じて振り返った。
 「誰もいない」
 はっきりと声に出して確認しないと不安が新芽のように贓物の中から生え出してくるように思えた。
 さてどうしようかと逡巡していると、集落側の一本道の向うから埃を立てて子供の集団が駆けてくるのが目に入った。
 幾分ほっとする光景だ。
 子供たちは手に手に風車を持っている。赤や青や黄のセルロイドの羽がクルクル回っている。しかし奇妙な違和感は拭えない。その理由が分かっても違和感は依然として拭えなかった。
 子供たちは、この時代にそぐわない丈の短い絣の着物を着ていて、足は裸足、頭は坊主だった。女の子も混ざっていて、こちらはおかっぱ頭。風に髪がそよいでいる。
 健二に気づいた先頭の子供が立ち止まった。後ろの子供たちも次々と立ち止まる。
 どうしたらいいんだろう。にこやかに笑いかけて「やあ」とでも言えばいいのか・・・だが、そんな気には到底なれない。子供達の目は明らかな敵意に焚き火のようにメラメラと燃えていたのだ。たかが十歳前後の子供・・・それが一人や二人ならば、決して恐ろしいなどとは思わなかったはずだ。しかし子供の数は多かった。次から次へと湧いてくるような気さえした。
 気がついたら、健二は子供の群に取り囲まれて身動きさえままならなかった。
 「ごめん、道に迷ったんだ。駅に戻るから、そこを開けてくれないか」
 健二は子供達を跳ね除けるように、来た方向へと振り返った。そして声にならない声で叫び声を上げた。
 いつの間に現れたのか、痩せた大男が、これも燃え上がる敵意の表情で健二を見ていた。色が白く、茶色の長い髪をなびかせているが、外国人ではない。それにしても背が高い。門のてっぺんに届かんばかりの・・・雲を突く大男だ。背筋に幾筋もの汗が流れた。
 だが大男は、一瞬にして敵意を大人の愛想笑いで覆い隠した。
 「汽車はもう来ん。泊まってけばよかろう」
 子供達も大男の真似をして、ぎこちない笑顔を浮かべて「それがよか、それがよか」と合唱する。
 「いえ・・・駅前の家で泊まりますから」
 「遠慮するな」
 大男の顔に敵意が戻ったが、すぐに笑顔を作った。