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研修のカリキュラム


人徳の研究

「人望」こそ、人間評価最大の条件
 「ダメだな、あの男は人望がないから」・・・。
 日本社会では、この一言でその人の前途は断たれる。その人がいかに有能であってもダメ。
この言葉には反論の余地がない。また、落選した代議士が理由を聞かれ、「まことに私の不徳の致すところ」などと言ったりする。
 一体、徳や人徳とは何なのか。それと人望とは、どのような関係にあるのか。
     * * *
 人類史において、何らかの形のリーダーがいなかった社会は、これまで存在したことがない。
 違う点があれば、それはリーダーの選出の要件ある。腕力・武力、血統、金権、階級等々、何
 に基づくかは様々だった。
 では、今日のような平等社会ではどうなるのか。社会が平等、また平和であるほど、リーダー
選出の要件として、「人望」が絶対化していく。
 それがどんな状態かを予測するため、現代で最も平等化が進んだ集団、イスラエルの"キブツ"
を見てみると・・
 キブツは、私有財産を否定する、共有制共同体である。成員は能力に応じて働き、必要に応じて支給される。経営がうまくいけば共有財産は増え、病院や老人ホーム、学校などの施設になっていく。
 キブツでは当然、総リーダーや管理職などが必要になる。総リーダーは、独立採算制を維持して収益を上げる経営者の役目と、生活共同体を運営しつつ、その共有財産である施設の管理・運営を計るという役目を兼ねるから、大変な職務である。
 しかも、全員平等だから、各人のリーダーに対する批判には遠慮がない。
 では、リーダーに要請されるものは何かといえば、基本的にはやはり人望だ。何しろ平等社会では、血縁も血統も階級も身分も問題にされない。そうなると、残るものは人望だけになってしまう。
 キブツのリーダーたちを見ていると、人望の質は、各民族によって相当に違うとはいえ、基本的には共通するものがあると思わざるを得ない。
 その要件を簡単にいえば、朱子が『近思録』で「九徳最も好し」と言った、その「九徳」を備えているということである。
 人望の条件では、儒教とユダヤ教の違いを越えた、ある種の共通点があるようだ。

「徳」に達するための道とは?
 徳川時代には栄子学が絶対であったが、普通の 人が読むのは、その入門書といえる『近思録』だった。明治の指導者の、若き日の読書に必ずこれが入っている。知識階級の必読書だったのだろう。
 大正・昭和と読み継がれたが、戦後、この書は忘れられてしまった。そのため、「徳」とはどのようなものか、誰にもわからなくなった。
 この徳について、『近思録』(湯浅幸孫訳)では、次のように定義されている。
「徳は、天よりわが身に稟けて生まれついた理で、仁義礼知信をいう。愛することを仁といい、      事を決して宜しきを義といい、道筋を立てることを礼といい、是非邪正に通暁することを知といい、実を守ってたがわぬことを信という。これらの道理を天に得たるままに保全し、勉めず励まさず、自ら行なうことのできるものを聖人という」
 では、徳に達するにはどうすればよいのか?

●「克伐怨欲」を抑え 己に克ちて礼に復る
まず、人間は皆聖人ではないから、ごく自然にすればそれが全て徳にかなっている、などという
ことはあり得ない。従って「自己制御」が、徳の基本である仁に至る道である。
『近思録』には、「人にして克伐怨欲なきは、惟だ仁者のみ之を能くす・・」という記述がある。
「克」は、他人を押しのけ、自分が出て行くことを好む傾向のこと。「伐」は、「オレが、オレが」
という自己主張を指す。「怨」は、うらむこと。「欲」は、私欲・食欲のことである。
 平等社会では、こうした傾向はさらに進むであろう。そして、そこで「オレが、オレが」をすれば、必ず自ら壁を作る。では、どうすればよいのか。
 その原則が、「克己復礼」、すなわち「己に克ちて礼に復る」である。
 克を己に向けて、礼、すなわち正しい生活規範と社会のルールに戻り、それを通じて自己の意志を行って初めて、社会に働きかけることができる。
 だが、たとえ「克伐怨欲」を抑えても、人間には喜・怒・哀・憾・愛・悪・欲の「七情」がある。
 これを抑えずに野放しにしておくと、人間の本性が傷つけられる。そこで"覚者"は、七情を抑制して自らの心を正し、その本性を養い全うする。
 ところが"愚者"は、七情にまかせて行動し、本性をしばって、ついにはこれを亡ぼしてしまう。本性が亡ぼされれば、まさに「人徳がない」人間になってしまう。従って、徳のある人を目指すなら、ここが学びの第一歩になる。
 人間は誰でも不知不識のうちに、自らを「自分は別だ」といった位置に置く。こうなると自己抑制はできず、自分を棚上げして他を批評する。
 これが『近思録』に記された、「上を責め下を責め、中か己れを恕す」である。この状態に陥ると、完全に人望を喪失させても不思議ではない。
 もちろん、誰にでも「於(自負心)」はある。あって当然だが、それは克伐怨欲の「伐」に関連するから、しばしばその人を盲目にして「向進」(徳への進歩向上)を阻む。
 そして、それ以上に向進の障害となるのは、「欲」である。人間がいかに欲に弱いかは、詐欺師が常に存在することで明らかだ。被害者は相手に騙されるのでなく、自らの欲に騙される。その証拠に、無欲の人は詐欺にかからない。

● 徳を獲得するための学びの道とは

 では、徳を獲得するにはどうすればよいか?
 その基本は、まず「無欲則静虚動直」である。
これは、「無欲になると心が静虚になるから、外物に対して心が正しく対応して動く。また、心が静虚なら知が明らかになり、知が明らかだと理に通じうる。動直だと私心が生ぜず、私心がなければ事に周く心が及ぶ」ということだ。
 ではここで、克伐怨欲を棄て、衿を去り、七情を制したと仮定しよう。次に何をすればよいのか。
『近思録』は記す。「然らば学びの道は、必ず先ず諸を心に明らかにし、往く所を知り、然して後、力行して以て至らんことを求む。(中略)これを誠にするの道は、道を信ずること篤きに在り。道を信ずること篤ければ、則ち之を行なうこと果、之を行なうこと果なれば、則ち守ること固し」。
 つまり、徳への学びの道は、まず以上のことを明確に自覚し、その目的地を知って、その次に努力してそこに至ろうと努めることである。
 そして、「誠」になる方法は、篤く道を信じることだ。篤く信じれば、果断にこれを行い、固くそれを守って実践していくことができる。

人望の条件・・・「九徳」
 先述のように、『近思録』には「九徳最も好し」とある。九徳とは、次のように、行為に現れる9つの徳目を表したものである。
@ 寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
A 柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
H 怒にして恭(まじめだが、丁寧で、つっけんどんでない)
C 乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
D 擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
E 直にして温(正直・率直だが、温和)
F 簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
G 剛にして塞(剛健だが、内も充実)
H 彊にして義(強勇だが、義しい)
 それぞれの2つの言葉には相反する要素があるから、その1つが欠けると不徳になる。
 例えば@の場合、「寛大だが、しまりがない」では不徳。全部がそうなれば「九不徳」になる。
この両方がないと、「こせこせうるさいくせに、しまりがない」となり、「十八不徳」になる。
 幕末・明治の指導者階級であった者は皆、幼少時から『近思録』を叩き込まれてきた。我々も、
この九徳を自己のものとしなければならない。
『近思録』によると、その方法は次のようになる。
 まず、九徳を暗記し、これを目標と定めたら、果断にそれを実践していく。すると、仁義忠信の理は、慌しい時でも心から離れず、出処進退も、語るも黙するも、ここで行うようになる。
 このように長い間、道を離れることがなければ、そこに居ることが安住した状態になり、立ち
居、振る舞いが皆自然に礼にかない、邪心は自然に起こらなくなる。
 つまり、常に九徳を頭に置き、「焉に復る」ことを心掛けていれば、いつかそれが当たり前になる。
 日常においても、何か事件が起こった時に、自分はそれを九徳の原則通りに行っているかを、絶えず自ら検討する。こういう練習のことを、古人は「修養」と言った。
「修養なんて古くさいことはマッピラだ」というのは個人の自由だが、それで十八不徳になれば、
周囲の人間がたまらない。結局は、「そんな十八不徳人間はマッピラだ」ということになる。
 それが本人には、社会の壁とうつる。すると、克伐怨欲の固まりとなり、七情を爆発させるから、ますますそうなるという悪循環を起こす。

「徳」・・・西欧と東洋の相似点
 前述の通り、九徳などを活用できることが人望の条件で、逆の「克伐怨欲・七情激発・十八不徳」などが人望を失う条件であることは、日本の実社会を見ている人には、恐らく異論がないだろう。
 だが、この基準は、果たして世界に通用する普遍的な基準なのだろうか?
 儒教は「克己復礼」、すなわち「克つ」を他に向けずに自己に向けて、まず自らを統御し、「礼」
というルールに基づいて、他にも自らにも働きかける、という考え方をする。
 一方、旧約聖書の場合は、己れに克ちて神に復る,もしくは神との契約に復るということが、自己抑制・自己統御の基本になっている。そして、それを可能にするものが「知恵」であり、この知恵もまた、神により創造されたと考えられた。
 面白いことに、この知恵の原意は「たしなみ、つつしみ」といったもので、ある点では「礼」
「躾」と共通性を持つ言葉である。
 知恵がある以上、当然に「賢者」がいる。そして、賢者という概念があれば、当然に「愚者」という概念がある。
 この場合、賢者、愚者という2種類の人間がいるというのではなく、人はどちらにでもなれる、そして、それを決定するのは教育だと考えられた。
 この点は、『論語』の「有教無類」(人間は、生まれながらの類別があるわけではなく、教育に
よって善にも悪にもなる)に似ている。
 ここで、旧約聖書の「知恵ある者」「愚かなる者」の分類を、『近思録』の「覚者」「愚者」と対比してみると・・・
覚者(知恵ある者)は自己抑制・自己統御のできる者、愚者(愚かなる者)は、それができずに
激発させる者である。こうなると、知恵ある者と愚かなる者を分ける点は、自己抑制・自己統御ができるか否かということになる。
 この考え方にも、儒学と旧約聖書は共通性を持つ。さらに、七情を激発させる克伐怨欲を克服せよ、という点も同じである。
 旧約聖書の「知恵文学」の1つである『蔵言』では、「克」「伐」のような性向、すなわち、他人を打倒して「オレが、オレが」と出て行きたがる「高ぶり」は、知恵のない愚か者の行為とされる。
 そして、「高ぶりが来れば恥もまた来る/高ぶりは滅びに先立ち、誇る心は倒れに先立つ」等々
の状態のものは、最終的には「神に倒され/亡ぼされる」としている。
 七情、すなわち「喜怒哀憾愛悪欲」となると、その中のあるものに対しては、『蔵言』の否定の仕方の方が激しい。特に「怒り」には否定的で、知恵なき愚かな者は「気短かで/怒りやすく/すぐ怒りを表わし/争いを起こす」という。
 そして「知恵は人に怒りをしのばせる/怒りを遅くする者は大いなる知恵がある」のだが、これは万人にとって相当に難しいことと認め、「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻めとる者にまさる」としている。
 いわば「自分の心を治めること」ができるのが、知恵ある着である証拠なのだ。
山本七平著(祥伝社)