俺はまだまどろみの中にいた。
『う……ん…このやわらかい、暖かい感覚は何だろう』
両手で人肌を抱きしめている感覚。そして、女性の甘い香り。しばらく感じていなかったが、今朝はリアルに感じられる。
『たしか……ベットで寝てたんだ・・・・・起きなきゃ』
まだぼんやりする意識を現実世界に引き戻そうとおもいつつも、体に感じられる暖かい感覚に再び睡魔が強くなる。
「あ、あの……先生……。ダ、ダメです。そんな……」
小さな蚊の鳴くような女の声が耳元に聞こえた気がした。まだこのままでいたいという本能的欲求を押し殺し、少し重い感じがする布団をどけるように両腕に指令してみる。反応があった。
「え?」
両手の感じた感触から瞬く間に体全体が目覚めていくような気がした。血圧が上がると同時に体の全神経が全力で触ったものを解析する感覚。手のひらが感じたそれは、布団とは明らかに違う感触。重さは布団のそれをはるかに上回る……というか、布団の重さではなく、それに……髪の毛や人肌の感触が体全体に伝わってくる。
「せ、先生…」
今度こそ、まどろみから脱出……というより、緊急事態発令の警報が体全体に鳴り響いた。両目がこれでもかというくらいはっきりパッチリ目が覚めた。
「………だれ?」
言ってから思わず『俺ってバカ』などとおもったが、後の祭り。目の前にはネムリス女子学園高等部のブレザーを来た子が真っ赤な顔をして俺を覗き込んでいた。
「だれって。……星菜美月ですっ!寝ぼけてないで、いい加減起きてくださいっ!…ていうか、その前にその手をどけてください!」
俺の両手…の片方は美月の右肩、片方は……思わず条件反射的に手が勝手に軽く掴んでしまう。
「あっ…な……」
「うぉぁーーーっ!あっ、いや、え?……なんだなんだ!」
慌てて肩と胸の両方を触っていたとんでもない不謹慎な両手を離した。
「え?…きゃっ!」
俺の手の支えを失った彼女が俺の胸へ飛び込んできた……わけではなく、崩れ落ちた。
「ちょっと先生。何するんですかっ!」
「ああ、ごめんなさいごめんなさい」
みっともないくらいうろたえている俺。ビデオカメラにでも撮ってあったのを見たとしたら、たぶんカメラを破壊してテープを燃やすだろう。彼女は自力で起き上がり、ベットから立ち退くと自分の乱れた服装を治した。
「早く起きてください。先生だって今日学校行くんでしょ?」
「あ、ああ」
「食事の仕度はおばさんがしてくれているから、早く着替えて下に降りてきてくださいね」
「あ、ああ」
そう言うと、くるりの向きを変えて部屋から出て行った。
「………そういえば……あいつ、この家に下宿することになったんだっけ」
昨日の出来事が走馬灯のようによみがえり、目覚ましのベルがなるまで昨日の記憶の整理は続いた。
「うぉあ!ヤバイ!早く着替えなきゃ。背広着るの時間かかるんだっけ」
ほとんどベットから落ちていた掛け布団を拾い上げ、適当に折りたたんだ後、クローゼットから引っ張り出した出勤用の戦闘服、つまり背広やネクタイなどを装備して、顔を洗って食事が待っているであろう1階に降りた。
時間は昨日の午前中にさかのぼる。
『なぜだ?』
車窓を流れるつまらない景色をぼんやり眺めながら、自分に質問した。まだこの近辺は季節の移り変わりで景色が変わるのだが、今の俺にははっきりいってどうでもいい。
俺は久しぶりに背広でビシッと決め、いかにもサラリーマンな格好をして通勤電車に揺られていた。通勤時間帯からは大きく外れ、既に10時近くなので、車両の中は比較的空いている。外回りのサラリーマンや子供連れの親子、世間話に花を咲かせている中年のおばさん達……平和といって差し支えない。電車はJR青梅線の上り列車で、終点の立川に向かっている。普段は自宅から自転車で通える会社に勤めているのだが、今日は違った。
【まもなく、終点「立川」に到着です。どなた様もお忘れ物の無い様ご注意ください。次は終点「立川」お出口は左側です。】
車内放送が終点の立川駅に到着することを告げていた。
『俺でいいのか?ほんとに』
首をかしげながら、ホームに進入する列車のドアに近づいた。
それは1週間前、会社で、新規導入予定のコンピュータソフトのプレゼンテーションが終わった後だった。
「芹沢君、すまんが、後で私のところまで来てくれ」
「はい。わかりました」
会議室からノートパソコンとポータブルプロジェクターを抱えて出てきた俺を、大谷部長が呼び止めた。些細な世間話をすることはあっても、改まって呼出しなどというのはあまり経験が無い。特別何かまずいことをした記憶も無いのだが、ただ飲みに行こうくらいなら、別に改まって呼出されることも無いだろう。少しだけ不安になった。不安は予想の範囲を超えて的中したのだが。
片付け終わって直ぐに部長の席に行くと、部長がノートパソコンのモニターから視線をこちらに向けた。
「ああ、来たな。そこに座ってくれ」
部長はノートパソコンの前から椅子をずらして机の書類が乱雑に置いてある前に移動した。ちょうど俺の正面に座っている状態になる。50代後半だが、見た目は若い。刑事物のテレビドラマの刑事課のボスといった雰囲気が漂う。ただし、見た目と違って性格はおおらかだ。
「急で申し訳ないのだが、来週から出向してもらいたい」
「は?」
部長の意表をついた言葉に、まったく理解不能な状態になった。
『な、なんでだ?どうして?』
なんか疎まれることをしたか、会社に手痛いダメージを…などと考えたが、思い当たるフシは無い。
「理由は?私、何かまずいこと…」
「イヤイヤ、違う違う。誤解するな。この前言った高校の臨時講師の話だ」
記憶の泉を検索してみる。が、そのキーワードが見つからない。
「高校……」
首をかしげていると、部長が苦笑いを浮かべた。
「この前、飲んだときに少しだけ言わなかったか?俺の親友が理事長をやってる高校の臨時講師の話をしたんだが」
言われてから思い当たるフシが1つ見つかった。この前の飲み会の席で、生ビール2杯に角切りりんごサワー1杯に…まあ、何飲んだかはどうでもいい。とにかく会の後半に部長と話をした覚えがある。そのときに、少しだけ高校がどうとか言っていた気がする。なんで記憶がうる覚えだったかといえば……実は俺は酔うと眠くなってしまうのだ。それで、上の空で聞いていたらしい。
「ああ、そういえば、そのような事言ってらっしゃいましたね」
「覚えていてくれたとは嬉しいよ」
『いや、ほとんど覚えてないんだけど』
なにやら部長はご機嫌なので、それは胸のうちにしまっておくことにした。
「それで、期間はとりあえず1ヶ月、試験採用で、その後は試験採用中の実績で、多少長くなるかもしれん。仕事の内容はコンピュータ関係の教育全般だ。コンピュータの基礎、主要ソフトウェアの使い方から、簡単なソフトの作り方まで…まあ、カリキュラムの内容はそんなに細かく指定されてないから。今の仕事よりは…楽とは言わないが、やりがいはあるだろう?」
「はあ」
いきなり同意を求められても困るというものだ。
「では、急なことで業務の引継ぎが大変だとは思うが、よろしく頼む。いかんせん…私も親友の頼みでな。むげに断れなかったんだ。若干の割増手当ても払うし、悪い話ではないと思うんだ」
「でも、確か『情報』の科目は教員免許がいるはずですが…」
平成15年に高校に新設された『情報』の科目は、確か教えるのに免許がいるはずだった。
「ああ、心配いらん。君の仕事は、教員免許を持っている担当教員のサポートと、学校の情報システムの改善提案をすることだから。科目の授業より実践的なソフトやハードの操作についての教育に重点を置いてくれ。まあ、最終的には教員免許をとって全て任されてくれてもかまわんが」
「決定事項ですよね?」
一応聞いてみた。
「まあ、どうしてもイヤだというなら他の者をまわすしかないが。……ああ、そうそう、ここが……君の行く学校だ」
学校案内のようなものを目の前の机に広げた。フルカラーの豪華なパンフレットで、設備の紹介やカリキュラム、理事長の挨拶や部活の案内など、かなり内容充実といった雰囲気のものだった。
「私立……ネムリス女子学園………女子高…ですか?」
「そうだよ。男くさい男子校じゃなくて女子高だ!いいだろう!?」
いつもの笑顔に磨きがかかっている。
『良いかと聞かれても困るぞ。そりゃ、聞き分けの無い汗臭い男子学生よりはいいだろうが』
実際には拒否権など無いといっていい。が、別に嫌がる理由は無い。積極的な肯定というよりは消去法的な選択だったが、今はやってみるしかないようだ。
「……わかりました。がんばります」
「なんかその”間”が気になるが…まあ、がんばってくれ。話は以上だ」
「はい、失礼します」
軽く頭を下げ、辞令の内容を理解しようと、自席へと戻った。
それから1週間はあっという間だった。後輩や同僚に業務の引継ぎをするのに残業まみれにならざる終えなかった。しんどかったが、出向先ではこんな残業は多分無いだろう。そ う自分をなだめてひたすら耐えた。
「先輩!女子高の先生なんていいなー」
何も知らない後輩はうらやましがったが、当事者になればそんな悠長なことは言ってられないということに気づくだろう。もっとも、今はそんなことまで気を回している余裕は無かった。全ての業務を奇跡的に1週間で引き継ぎ(といっても100%は無理なので、多少業務も抱えざるおえないようだ)、いよいよ今日から新しい勤務先での生活が始まる。
この1週間が走馬灯のように頭をよぎったが、あまりぼけっとはしてられない。今日から、曲がりなりにも”先生”なのだから。おかしな話だが、先週末に業務の引継ぎが完了した段階で始めて「俺に先生なんて出来るのか?」という考えが浮かんだ。俺は専門学校卒で、選考していたコンピュータ関係の仕事をしてきたのだが、当然教育実習もしていなければ教員免許も持っていない。今回の場合は本来の授業からは離れた内容のようなので教員免許はいらないらしいが、社内でOA関係の教育をたまにしていた程度の俺に今回の大役が 務まるのか疑問がある。が、30過ぎて「やれるかわからないから他の人に代わってくれ」などといえるわけもなく、今こうして電車に揺られてきた。
立川駅のホームに降り立つ。ここは今乗ってきた青梅線と南武線、中央線、多摩都市モノレールの集まる、都下では比較的大きな駅だ。2つ隣のホームの中央線の下り線に乗り換え、ここから10分少々の『七瀬川公園』駅が目的地だ。車で行くことも考えなくはなかったが、
電車で来るようにとのお達しだったので電車にしたわけだ。通勤ラッシュは学生のころで懲りているので、もしかしたら自動車通勤に変えるかもしれないが。
ちなみに、ホームの8両目あたりが、七瀬川公園で降りた場合に、直ぐにホームから移動できる場所なのだ。そこに向かってホームの後ろのほうへと歩いていた。
【まもなく、7番線に高尾…行き、下り列車がまいります。黄色い線の内側に下がってお待ちください。】
コンピュータの合成する間の抜けた案内と共に、列車がホームに進入してくることを継げるメッセージが行き先表示板に流れた。黄色い点字ブロックの内側を進む。8両目の辺りは人が結構いたので、少し後ろにずれることにした。そのまま、列車の最後尾である10両目の一番前のドアが来る部分に並んだ。さすがにこの辺りは人もまばらだ。
「ん?」
列車が進入してくる方を見ていると、一人の女子高生が立っていた。制服に見覚えがあった。それもそのはず。これから行くネムリス学園の制服だった。思わず嬉しくなって声をかけてみようかなどと頭をよぎった。が、さすがに第1印象でナンパ君などと思われたくないので、背広の襟を正して自重するよう、自分に言い聞かせた。
「え?」
正面に向き直ろうとしたときだった。彼女はふらふらと前に進み始めた。黄色い点字ブロックの線を越えてそのまま減速せずに進む。そして、そのまま線路に飛び降りた。彼女は倒れなかったが、そのまま列車が入ってくるほうを意思の無いような無表情で見つめていた。 いわゆる飛び降り自殺……
「バ…バカやろ……」
事態を認識した後の行動はほとんど自動的だった。俺は自分の荷物をその場に投げ捨てて全速力で走って線路に飛び降りた。列車はもう視界に入っていた。急ブレーキの音とともに警笛がけたたましく鳴らされる。俺は走りづらい枕木の間を奇跡的に転ばずに走り、そして、次第に大きくなっていく電車の正面の映像に恐怖する暇もなく、線路に立ち尽くす彼女を後ろから抱きかかえて 横にジャンプしてホームと反対側の線路へ飛び移った。
「きゃ!」
「うっ!」
彼女の悲鳴と、倒れこんだ隣のレールに打ち付けた左腕の苦痛にうめいた自分の声を聞いた。次の瞬間、電車は彼女が立っていたところを通過した。それでも停車せず、金属のこすれる不快な音を派手に撒き散らし、車両2両分進んでからようやく停車した。列車が停車してからやっと自分の身が五体満足であるのか心配になり、両手両足の先を見てみる。そこには無事自分の手足があった。ほっとため息をつく。そして、俺が抱えている女子高生が擦り傷ぐらいで済んでいそうなこともわかった。
「君、大丈夫か?」
意思がないように呆然としている彼女の肩を揺すりながら尋ねる。彼女はまだ状況を理解していないらしい。
「お客様!大丈夫ですか!」
駅員が飛んできた。俺は彼女を抱きかかえるように起こす。
「俺は大丈夫、ちょっと腕を打ったくらい。彼女は…おい!しっかりしろ!」
「え?」
やっと彼女が我に帰った。目を丸くして俺を見ている。
「飛び込みなんかしやがって!何考えてやがる!」
やさしい言葉をかけてやるなんて考えは微塵も浮かんでこなかった。
「え?え?……あたし……死んでない」
「あたりまえだ!俺の目の前で自殺なんかするな!」
さらにまくし立てると、駅員が俺の肩を叩いた。
「と、とりあえず、ここは危険なので、一度ホームにあがってください」
俺の剣幕に引いてしまっているのか、かなり遠巻きに駅員が言った。
「あ、すいません。さあ……どこも怪我してないか?」
「…多分」
「よし」
力なくその場に崩れそうになった彼女を支え、抱き上げた。さっき抱えて跳んだのは火事場の馬鹿力だったのか、もう一度彼女を抱えたら今度は重かった。まあ、重いといっても、俺は普段は1歳になる姪を抱っこするくらいがせいぜいなので 、それに比べてという感じだ。彼女自体が太っているわけではない。むしろ、スレンダーというか……今はそういうことを考えるのは止めよう。抱えられている間、彼女はじっと俺の顔を不思議そうに見ていた。彼女を抱えたままホームの一番端の階段にたどり着いた。
「さあ、ここからは自分で上がれ。抱えてこの急な階段を上がるのは無理だ」
彼女をその場に下ろして立たせた。ホームの端の階段は、普段は駅員や工事をする人が上がるための非常用の階段だ。ほぼ直角のハシゴみたいなものだ。
「あ、はい」
彼女は素直に従った。ホームに上がると、鉄道警察官が俺と彼女の荷物を持って渋い顔をしていた。そして、その隣に温和そうな小太りの駅員がなにやら小声でホームにいた駅員と話をしてた。そして、にこりと微笑んだ。
「えっと……救助のご協力ありがとうございました。私、ここの駅長です。人身事故防止のための警備はしていたのですが、長いホーム全てを完全に警備するのは至難の業でして。本当にありがとうございました」
駅長は深々と頭を下げた。
「いえ、私はあたりまえの事をしただけですから」
恥ずかしくなってそう言うと、今度は鉄道警察官が一歩前に出た。
「申し訳ございませんが、少し、事情聴取にお付き合いいただけませんでしょうか?」
「は、はあ」
かなり余裕をもって家を出てきたのだが、時間を取られるようだと学校に行く約束の時間に遅れる。正直なところできれば遠慮したかった。
「短時間で済みますよ。列車も動き始めましたし」
イヤといって拒否できるものではないのだろうと考えていると、それを察したのか、いくらか表情を和らげて付け加えた。話をしている間に電車は発着をはじめていた。
「わかりました」
渋々だが、事情聴取に付き合うことにした。自分はこのまま出勤できるかもしれないが、彼女は原因の当事者なので直ぐには開放されないだろう。彼女のことをこのままほったらかしにして学校に行くわけにも行かないという、先生魂に目覚めてしまったのかもしれない。
鉄道警察の事務所の奥に通された。
「お名前は?」
警察官がノートのようなものを開き、事情聴取を始めた。
「星菜…美月…です」
「家に連絡しますから。ご両親は?」
「父は4年前に、母は…………先週亡くなりました」
事情聴取をしていた鉄道警察官も隣で聞いていた俺も息を飲んだ。警察官のボールペンが止まり、何か深刻そうな顔をして、なにやら考え込んでいる。
「なあ、君、ひょっとして…両親の後を追おうとしたのか?」
俺が代わりに聞いてみた。
「………わかりません」
たとえ自覚が無かったとしても、多分そういうことなのだろう。両親がいなくなってしまった空白を埋めることが出来ず、発作的に飛び込んでしまったのではないだろうか。
警察官がボールペンを置き、両手を組んだ。
「そうすると…ちょっと直ぐに返すわけにもいかないな……。言いたくは無いんだけどまた同じ事をしないとも限らないし」
さっきのような威圧的な態度はすっかり消えうせ、同情の眼差しが感じられた。
「家には誰もいないんだろ?」
「はい」
こくりと力なく頷いた。
「じゃあ、学校の先生にでも来てもらおう。今は一人で帰すわけにはいかないから」
「え?………」
警察官の言葉に少し動揺したようだった。
「でも、一人で帰すのはちょっと……君だってわかるだろう?学生証を見せなさい」
「……でも」
やはり、自殺未遂なんか学校には知られたくないのだろう。
「でもな…こういう場合は、やっぱりちゃんと面倒見てくれる人に引き渡さないと……」
「あの…」
俺は手を上げた。
「え、あの…何か?」
「私……私が学校まで送っていきます」
「は?いや、しかし…」
警察官が慌て始めた。次に値踏みをするような顔でこちらを見ている。彼女も不思議そうに見ている。
「私…こう見えても、彼女の通う学校の先生ですから……来週から」
語尾だけ聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「……ほんとに?」
信用されていなかった。慌ててまだ一度も使ったことの無い新品の身分証明カードを鞄から引っ張り出して警官に見せた。手にしてじっくり穴でもあけるかのごとく眺め、戻した。
「……本当らしいですね。………じゃあ、あなたが保護者ということでよろしいですね?」
「ええ、かまいません」
彼女は目をいっそう丸くして二人のやり取りを見ていた。列車の運行スケジュールにはほんのわずかしか影響が無かったので、今後こういうことはしませんという念書をとられ、開放された。
「ふう…早く学校いかなきゃ。さ、行くぞ」
「あ、あの…………はい」
俺の後に続いて彼女も歩き始めた。
今度は来た電車に飛び込むのではなく、乗り込んだ。列車はいつもより早めにドアを閉め、即発車した。多分ダイヤの遅れを取り戻すために停車時間を短めにしたのだろう。
中央線の車両はもう導入が始まって結構立つ。相変わらず静かでもなく揺れもそこそこある。そろそろ新型車両にしてほしいものだ。車内でドアの前で向かい合って黙っているのも変なので話し掛けることにした。
「ああ、俺、芹沢 雅也。来週からコンピュータ関係の臨時講師で、今日は準備で学校に行くんだ。これからよろしくな」
「……は、はあ」
今は思いつめたような表情はなくなったが、いつまた戻るかわからない。
彼女は俺より少し背が低いくらい。俺もそんなに高いほうではないが、その俺より5センチくらい低いだろうか。健康的というより少し病弱なんじゃないかというくらいのどちらかといえば美人…美少女といった雰囲気だ。肩より少し長めの黒髪は、光に反射して手入れが行き届いていることをしめしている。さっきは気づかなかったが、腕も、指も首も細い。男から見れば守ってあげたい雰囲気の女性だ。
「で、君の名前は?」
「わ、私は……ほしな みつき です。お星さまの”星”になっぱの”菜” ”美”しいにお月様の”月”です。ネムリス学園2年A組…です」
恥ずかしそうに俯いた。
「そうか。よろしくな。美月ちゃん」
「…こちらこそ、よろしくお願いします。でも、”ちゃん”付けはちょっと…」
出来るだけやさしい笑みを浮かべて言うと、さらに照れながら頭を下げた。
「あっ、ごめん。そうだね。えっと…星菜さん」
「いえ、美月でいいです」
「わかった。で、本題。……なんで自殺なんか……」
彼女の顔が急に強張った。言った後になって、我ながらストレートすぎたかと後悔したが、いまさら後の祭りだ。彼女が素直に話してくれることを祈った。
「本当に発作的だったんですが………母が亡くなったのはさっき言ったとおりです」
「ああ」
彼女は視線を車窓に向けた。
「お葬式とか事務手続きとかいろいろあって、その間は張り詰めていたので、何ともなかったんですが……みんな終わって急にいつもの学校に行くってなったら……なんか……もういいやって気持ちになっちゃって」
「そうか……」
なんて声をかければ良いのかわからなかった。学校の先生初日でいきなりこんな重大な問題を押し付けられるとは正直思ってもみなかった。
「今まで、お母さんを楽させてあげたいと思って、奨学金もらえるように勉強がんばったし、学校卒業したらお母さんを楽にしてあげられるようにいいお給料のもらえる仕事……たとえば、弁護士とか税理士とかそういった仕事について今まで苦労かけていた分を何倍にもして返そうと思ってきた。………なのに…」
少しづつ言葉が途切れ、最後には彼女の瞳からはぽろぽろ大粒の涙があふれていた。肩を震わせ、雨に濡れた子猫のようだった。
「……もう…………私には…何も、何も残っていないんです」
彼女がわずかな電車の揺れにあわせるようにドアに寄りかかった。そのまま崩れてしまいそうだった。
「何も無いなんて言うな。君を必要としている人は君のお母さんだけじゃないはずだ」
「いいえ、私にはお母さんしか。お父さん死んじゃったし、親戚はいないし、それに……あの人も……」
彼女はむきになって否定した。『あの人』が気になったが、前後の話からそれを問いただすことはやってはならないことのような気がした。
「友達は?先生は?君は必ず一人じゃないはずだ」
「!……」
彼女ははっと息を飲んだ、が、それもほんのわずかだった。
「でも……私の最後の心の支えは……お母さんだった。お母さんだったんだよ!わーーーーーん」
俺の胸に顔をなすりつけて大泣きをはじめた。俺は彼女の背中に腕を回し、引き寄せ、頭をゆっくり撫でてやった。周りのお客からは変な目で見られていたが、不思議とあまり気にならなかった。
「大丈夫。大丈夫だから。君は一人じゃないから」
髪を撫でながら、耳元で囁くように諭す。肩を震わせ、しゃくりあげている彼女をしっかり抱きしめる。どのくらい経っただろう。次第に、泣き声は小さくなっていった。やがて、わずかに呼吸が感じられるだけになった。
「なあ、美月……あのさ、だったら俺の力になってくれないかな?」
「え?」
今の彼女には誰か、彼女の生きる力の支えになる人がいるんじゃないか…そう思った。突拍子もない考えだとは思った。が、今の俺にはこの程度の答えが限界だった。 その答えに賭けてみる。
「俺さ、これから教師になるんだけど、えっと、コンピュータの専門知識を教える教師なんだけど。 そもそも、俺が先生なんてほんとにできるのかなって。ちょっと不安でね。力になってはくれないかな? もし、君が生きていくのに力の源になれるのなら、俺を少しでもいいから応援してほしい」
「……」
黙ったまま無表情で俺を見上げている。潤んだ瞳に吸い込まれそうになる。
「や、やっぱ……ダメか。そ、そうだよな。うん………俺なんかじゃお母さんの代わりにはならないよな。まあ、ダメで元々だったから、別に気にしてないから。そっちも、俺が今言ったたわごとは忘れてくれ」
彼女の態度が良くわからなかったが、大きな後悔の念がこみ上げてきた。いきなり会って間もない教え子になるかもしれない高校生に俺は何言ってるんだ。とりあえず口にしたことは冗談か 何かで笑い飛ばしてもらうことにした。が、いつのまにか彼女は真剣な眼差しで俺を見つめていた。
「あ、あの…」
彼女が真っ赤な顔をして見つめている。
「は、はい…」
なんかこっちまで恥ずかしくなってしまった。
「いいですよ」
ポツリとそう言った。
「ああ、ごめんね…ほんと、バカだったよね。俺。……………って…はいぃ?」
最初は彼女の言った返事の意味が理解できず、そのまま1度聞き流しかけてから、事の重大さに気づいた。
「え、それって……」
「だから、お母さんに恩返しをしようとがんばっていた分を、芹沢先生がこれから立派な先生になれるようにがんばって応援してあげる」
彼女の顔に笑みがこぼれた。そして、俺の手を握り締めた。
「え?ほんと?…ほんとに?」
「本当です。でも、このことは二人だけの秘密ですよ」
「うん。わかった。約束する」
念を押してみても答えは変わらなかった。そして、彼女の表情は、電車に飛び込んだあの顔とはまったくの別人だった。年相応のかわいらしい笑みであふれていた。もう彼女は心配要らない。そう思える素敵な笑みだった。
『七瀬川公園』駅のホームに降り立つと、大学生風の一団と数人の若い女性、そして、公園に行くのであろう小学生の団体が降りた。混雑に巻き込まれないように直ぐに改札へとエスカレータを上がり始める。彼女も後ろからついてきた。
「あのさ、俺、まだ一度も学校行ったことないから、案内してくれる?」
「ええ、もちろんです」
自動改札に切符代わりのICカードを接触させ外に出ようとした。
《ガタン…ピンポーン》
自動改札機のドアが閉まってしまった。
「あれ?」
自動改札機の画面を見ると、『残高不足』の文字が表示されていた。ICカードに現金を入金しておくと、改札機のセンサーにかざせばその都度お金を払ったり券を買わなくて済むのだが、残金が不足していたら当然改札は開かない。
どうやら、カードに現金を補充するのをすっかり忘れていたらしい。本当なら定期券が支給されるのだが、それは今日学校で支給されるのだ。
同じように通過しようとした後ろの女性と目があった。健康そうな陸上でもやっていそうな女の子にスーツを無理やり着せたような違和感があった彼女は、呆れるわけでもなくやさしい笑みを返してきた。
「すいません」
反射的に謝ってしまった。
「ああ、どうぞ気にしないでください」
笑みを浮かべた女性は笑顔を崩さずにそう言った。が、彼女の後ろに続いていた女性は俺と前の彼女を交互に見てから呆れたような表情で肩を落とした。
「残高チェックぐらいはしておきなさいよ」
もっともなご意見ではあったが、人間誰でもミスするのだ。そこまで嫌味言わなくてもいいじゃないか…などと思ってしまった。 が、そんなことを口にしたらアホなガキになってしまう。
「すいません」
そもそも正論だったので、反論する気も起きなかった。形式的に謝る。
「ちょっと、千草先輩。そんなこと言っちゃだめですよ」
「いいのよ。別に人格を攻撃しているわけではないんだから」
キャリアウーマン…か女医さんといった雰囲気のサバサバした彼女は隣の改札機に移っていく。
「あ、待ってください。…あ、気にしないでくださいね。先輩も別に悪気は無いんで」
「ああ」
彼女は慌てて先輩さんの後を追って隣の改札から出て行った。俺のほうは仕方なく自動清算機の方へと移動した。何人か並んでいたので、その最後尾に並んだ。ふと気になって美月を探すと既に改札の外に出ていて、微笑みながら手を振っていた。
「いきなり情けないな…まったく」
自分に呆れながら財布から5千円札を出し、自動清算機にカードをセットして入金手続きをして、今度こそ自動改札を無事通過した。
「お待たせ」
「はい。待たされました」
鞄を後ろに両手で抱えて楽しそうにしている。
「そんなに楽しそうにするなよ。恥ずかしかったんだから」
「まあまあ、いいじゃないですか。そのくらい。…さ、行きましょ」
「はいはい」
さっき自殺しようとした人と同一人物とは思えない態度に困惑しつつも、軽快なリズムで歩き始めた彼女の後を追った。
駅から学校までは10分ぐらいだが、緩やかな上り坂になっている。坂を登りきったところに学校があるのだ。学校までの道のり は比較的車の通りも少なく、歩道も整備されていて歩きやすかった。駅の近くはこじんまりとした商店がいくつかあったものの、後は桜の並木道の両側に学生向けのアパートなどがある新興住宅街といった感じだった。残念ながら桜は だいぶ前に散ってしまって葉が増え始めていた。駅の反対側には七瀬川自然公園がある。サイクリングコース、池、植物園などもあるかなり大きな自然公園だ。ただ、小川みたいな人口の川はあるが、川に面しているわけではない。 七瀬川というのはこの辺りに昔住んでいた人の名前だと聞いたことがある。
ここが発展するようになったのは、ネムリス学園が今の形になってからといって差し支えが無い。学校は小学、中学、高校、大学、短大がいっしょになった総合学園で、施設も充実している。 ちなみに完全な女子学園だ。丘陵地帯の広い土地に各施設が点在している。パンフレットには女子中高生向けには寮もあると書いてあった。
「先生!」
「……あ、俺?」
美月が歩くのを止め、ほっぺたを膨らませて抗議した。
「話し聞いてました?」
「……たぶん」
実は途中からぜんぜん聞いていなかった。周りの景色と考え事に気をとられていたのだ。
「しっかりしてくださいよ。先生は先生しかいないでしょ?!」
「…そうだった」
先生といわれても、まだピンと来ないのだ。
「大丈夫ですか?」
「…たぶんな」
美月は呆れたそぶりを見せ、また歩き始めた。慌てて後を追う。
「だって仕方がないだろう。まだ正式には先生でないんだから」
「そんなことじゃ、先が思いやられます。生徒になめられますよ」
「そ、そうだな…」
既になめられている気がする。すっかり尻に敷かれているような感じだった。これではほぼ一回り彼女より年上だというのにどっちが年上だかわかったものじゃない。確かに彼女は高2というには少し大人びているが、それは多分 たくさん苦労してきたからなのだろう…そのときにはそう思っていた。
「なあ、俺いくつか知ってる?」
別に本当に歳を当てろというのではなく、俺は一応年上なんだけど、判ってる?…と聞いてみたかっただけだ。別に年上風を吹かすつもりはないのだが、とりあえず、彼女からみて俺がいくつくらいに見えるのか聞いてみることにした。
「……24ぐらいですか?」
『…喜ぶべきなのか悲しむべきなのか…それが問題だ』
若く見えると理解して良いのか、ガキに見えると思って悲しむべきなのか、なんともいえなかった。
「大ハズレだ。俺は今年で32だ」
「…うそー、サバ読んでるでしょ?」
抑揚無く感情を込めずに言うと、彼女は目を丸くして驚いた。
「何故に?!…そこまで驚くことかよ。…大体、サバ読んで何の得がある?」
「………ゴールドのクレジットカード作れるとか…」
苦し紛れに訳の判らないことを言い出した。
「……そんなの年齢詐称したってすぐばれるだろうが。ゴールドカードは普通に持ってる」
「えー、お金持ちなんだ」
「何故に!?」
この短時間に、実は彼女はある種の常識が欠落しているか、周りの友達がアホばかりなのではないかという気がしてきた。
「だって、年収500万以上でないと、作れないんでしょ?」
確かにゴールドカードの申し込みの基準にそういう記述があった。彼女は変なところで妙に現実的だった。
「年収500万のどこが金持ちなんだ」
金持ちといったらやっぱり年収1000万以上は最低条件だろう。
「……私は年収30万いかないよ」
不満げに言った。
「そりゃ、高校生のバイトだろーが。俺は一応勤続10年以上のサラリーマンなの」
サラリーマンは税金だの厚生年金だの失業保険だのいろいろひかれるとか言ってみたかったが、各項目の説明が面倒になりそうなので思いとどまった。
「…でも30過ぎっていうのは……嘘みたい」
まだ信じていない雰囲気だった。 確かに勤め始めた当時に映画を見に行ったときに、何も言わずに映画のタイトルだけを言ったら中学生料金を請求されたことはあるが…。
「わかったわかった。じゃあ、それは好意的に受け取っとく」
「じゃあ、私から質問!どこに住んでるんです?」
「昭島」
「えー!そうなんですか!?私もです。私も。駅も昭島ですか?」
「ああ、そうだよ。生まれてからずっと」
昭島市。青梅線沿線にある立川の隣の新興住宅街といっていい町だ。駅の周りに団地やマンションが林立し、市民の平均年齢はおそらくこの辺りでは低いほうだろう。幼稚園や保育園は定員いっぱいで大変だそうだ。 子供がいる妹が言っていた。
「昭島のどの辺りです?」
話を聞いていくと、やたらに共通点が見つかり、最終的にはうちの近所ということが判明した。
「そっか、じゃあ、何かあったら電話すればすぐとんで来てくれますね」
「そうだな」
「ゴキブリが出たから退治してくれとか、テレビで面白いのやってるから一緒に見ようとか」
「………常識的な内容にしておいてくれ」
「シクシク」
美月が泣きまねをしている。本当にさっきまでの自殺を考えるほど落ちこんだ彼女とは別人のようだった。これが、無理をしているのだとすれば、後で一人になったときに、その反動がくるかもしれない。近所に住んでいるというのは本当に彼女にとっても俺にとっても幸運だったかもしれない。
「あ、そうだ、お呼び出ししたくても電話番号わからないとだめだよな。俺の携帯は…」
名刺入れから自分の会社の名刺を取り出し、裏に携帯と家の電話と自室の電話の3つの電話番号を書いた。とりあえず、どれかにはつながると思う。
「あ、ありがとう…ございます」
彼女は受け取った名刺を大事そうに胸元に抱きしめた。柔らかい表情でその名刺を持った自分の手を見つめている。
「そ、そんな大そうなもんじゃないから。さっさとしまえ。落とすなよ」
「もちろんです」
彼女は定期入れの中にそれをしまいこんだ。そして、手を出した。
「何?」
わけがわからず尋ねた。
「名刺とか持っていないんで、とりあえず、先生の携帯電話に家の電話番号入れておくから」
「あ、そういうことか」
自分のズボンのポケットから取り出した携帯電話を彼女に手渡した。俺よりはましな手つきで電話番号を登録した。
「はい。さびしくなったらここにかけてね」
彼女が自分の入力した項目を画面に表示させて俺に返した。画面には美月の名前はない。
「…お客様サービスセンター?…なんで?」
「だって、私の名前が先生の携帯に入ってたら、もしも先生が落としたり机に放置していて中を見られたりしたとき、先生大変でしょ?」
「なるほど。お前、頭いいな」
そんな知恵はまったく思いつかなかった。
「なんか……秘密の関係って感じでドキドキしちゃう」
「いや、そういうのとは違うと思うが…」
「いいからいいから」
そんな話をしていると、学校の正門は直ぐそこだった。
学校の門は開いていて、守衛のおじさん…もうおじいさんといっても差し支えない歳のようだが…がニコニコしながらこちらを見ていた。
「おはようございます」
美月が軽く会釈をしながら笑顔で挨拶をした。
「はい、おはよう。…でも、今日はえらく社長出勤だな。大丈夫なのかい?……そういえば、ここのところ来ていなかったね」
「ちょっと体の調子が悪かったので」
「おやおや、それはいけないな。無理しちゃダメだよ」
「もう大丈夫です」
そう言って彼女はそのまま門をくぐった。彼女は母親が死んだことを知らせてないのだろうか…などと一瞬考えたが、学園中にその話をしているわけがないので、この人も知らないことなのだと割り切った。
俺は今日が初めてなのだからそのまま挨拶だけして中に入るわけには行かない。ちなみに、同じように駅から歩いてきた人たちはみんな女性だった。たぶん講義の時間が遅い大学生だろう。つまり、そんななかで俺だけ男だと、中に入るだけでも勇気がいりそうだった。
「すいません。今日からこの学校でお世話になる芹沢と申します」
守衛所の前に出ていた美月と挨拶を交わしていた守衛さんに名乗ると、守衛所の窓から別の守衛さんが顔を出した。
「ああ、あなたが芹沢さんですね。お話は伺っております。身分証明書は今日はお持ちになりましたか?」
「はい」
バックの中をあさり、一番奥に移動してしまっていた本日使用2回目の身分証明カードを差し出した。非接触の読取機にそれをかざし、パソコンの画面の情報と照合している。その作業は直ぐに終わった。
「はい。それでは………あの…左の2つ目の建物が高校なので、そこの事務室に行ってください」
守衛が奥に見える4階建てくらいのレンガタイルと大きなガラス窓の建物を指差しながら言った。
「わかりました。ありがとうございます」
カードを確認していた守衛さんと美月と話をしていた守衛にお辞儀をして学園内へと入った。
「先生、じゃあ、一緒に行きましょ。どうせ同じ建物ですし」
「あ、ああ」
俺と美月は並んで歩き始めた。そんな2人の隣を通過していく女子学生が興味深く観察しながら通過していく。が、やましいことをしているわけではないし、ここで離れて歩けなんていうのは余計変に思われるので、つとめて冷静を装って歩きつづけた。
「先生…こうして歩いていると、まるで教師と生徒の禁断の愛を堂々と貫いている恋人同士みたいですね」
『!』
彼女が必要以上にこちらに寄ってきて小声で言った。
「ば、ばか」
「あはははは…照れちゃって…」
そう言って今度は右腕に自分の腕を絡めてきた。
「先生、私…がんばって先生応援するから」
「美月…、あ、いや、応援はいいんだけど…腕組むのはマズイと思うぞ」
別に応援といっても恋人になってくれとかいった覚えはない。そういう意味のことを言ったつもりもない。
「気にしない気にしない」
実はこの子はかなりおおらかな子なのかな…などと考えてしまったが、横を通過していく女子学生がクスクス笑いながら追い越していくのを見るに至って、自分はかなり マズイ状況にいるのではないかという考えにたどり着いた。
「美月、こんなの他の先生や君のクラスメイトに見られたらヤバイからやめてくれ」
「だって、先生公認じゃないですか。それにクラスメイトも先生もこんな時間には登校しません」
あからさまにからかわれているのがわかる態度でますます腕を引っ付けてきた。
「公認してない。…絶対してない。腕組んでいいなんて一言もいってない」
慌てて振り払おうとすると、背後からいやな予感が漂ってきた。
「熱いわ。まだ春だというのに」
聞き覚えのある声が聞こえた。慌てて腕を振り払って振り向くと、あの先輩さんと後輩さん?が立っていた。先輩さんが手の平をひらひらさせている。
「や、やあ、また会ったね。ここの学生さん?大学生…かな?」
多分引きつっているであろう無理やり作った笑みを浮かべながら、かろうじて何事も無かったかのように言ってみた。
「…もしかして、今日からくるコンピュータを教えてくれる芹沢先生って……」
後輩さんが不安げな眼差しを俺に向けた。
「げっ」
一番最悪な人々に見つかった雰囲気だった。俺の名前を知っているということは、少なくとも高校の関係者だ。
「そのリアクションからすると間違いないみたいね。あらら。いきなり問題教師が来たってわけね」
なぜか先輩さんは面白がっているようだった。
「星菜さん。おはよう」
後輩さんが少し不機嫌な表情で美月に声をかけた。
「おはようございます。…あの……今日はちょっと事情がありまして、遅くなりました」
美月がすまなさそうに頭を下げた。
「もう、おはようじゃないでしょ」
「はい。すいません。こんにちは」
「あ、いや、そういう意味じゃない…っていうか、それはどうでもよくて……」
不機嫌だった表情は不安に満ちた表情に変わった。
「あなた…さっき立川駅で…その…」
後輩さんが言いずらそうにしていると、美月も急に顔を強張らせた。
「見てた…んですか…」
美月が肩を落とした。少し震えている。
「あ、別に責めてるわけじゃなくって……その…とにかく無事でよかった」
後輩さんが母親のような表情で美月を見た。そして、その視線が俺に向けられる。
「あの……あの……あの時は、本当にありがとうございました」
彼女が軽く頭を下げた。その瞳は潤んでいた。
「もし、あなたが助けてくれなければ…この子は……」
そう言いながら美月の頭を撫でた。美月は目を閉じて気持ちよさそうな顔をしている。
「でもさぁ、私は後追い自殺でもするのかと思ったわ。それを…まるでドラマでも見てるみたいだったわ」
先輩さんがしれっと言ってのけた。
「ま、まあ…夢中でやっただけだから」
「でもすごいですよ。へたをすればあなたも死んでいたんですから」
そうだった。今ごろになって現実を突きつけられた。間に合わなければ彼女も俺も今ごろ体がバラバラになっていたかも知れない。背筋が寒くなった。
「芹沢先生?」
美月が俺を覗き込んだ。不安げに様子をうかがっている。
「ん?……ああ、なんでもない」
美月が心配しないように出来る限りの笑顔を作って応えた。
「あ、自己紹介がまだでしたね。私、2年A組担任で現国と古文を教えています 高坂静香と申します。こっちが、先輩で保険医兼スクールカウンセラーの双葉千草先生です」
「ああ、ご丁寧に。私は今日からこの学校でコンピュータ関連の授業を受け持つことになりました芹沢です。よろしくお願いします」
「私のことは千草先生でいいわ。双葉先生って2人いるから。先生も生徒もみんな名前で読んでるから問題ないから」
双葉先生改め千草先生が言った。
「お父様から聞いております。…あなたが……」
高坂先生は言っちゃ悪いかもしれないが、リクルートスーツに身を固めた女子学生という雰囲気だ。実際、今の服装がなんとなくそんな状態だ。背は160センチ弱ぐらい、スタイルは可もなく不可もなくといったところか。おっとり系のお嬢様といった雰囲気だ。対して双葉千草先生は、言われてみれば女医を絵に描いたような雰囲気だ。純情な青年をやさしく導いてくれそうな雰囲気というか…ようするに、大き目のバストといい、ヒップといい、男を虜にしそうな目といい、まさしく大人の女性だ。どちらもお近づきになりたいといえるかもしれないが、結婚するなら高坂先生、愛人にするなら双葉千草先生ってところか。いや、別に本気でそう思っているわけではなくて、あくまでもののたとえだ。
なんか高坂先生がなめまわすように俺を見ている…というか品定めされているみたいだ。それは後ろの双葉千草先生も同様だ。居たたまれなくなって次の会話を考えた。
「……お父さん?」
「はい。父はこの学園の理事長なのですが、おととい…優秀なエンジニアの方を紹介してもらったから、ちゃんとした格好で学校に来なさいと言われました」
理事長はうちの部長の親友だと聞いている。だから、事前に俺の話はしてあったみたいだ。でも『優秀』なんて形容はプレッシャーになるだけだからあまりつけてほしくなかった。もちろん、ダメエンジニアとか言われたら、最初から来ない方がいいぞという状況だっただろうが。にしても…
「…ちゃんとした格好って?」
「お化粧もちゃんとしなさいといわれました」
「……なんでです?」
「…さあ…」
『さあって…質問したの俺なんだけど』
質問の答えはかわいらしく小首をかしげることだった。すると、千草先生が一歩前に出た。
「わかんないかなぁ?あんた意外と鈍感ね。理事長は見合いさせるつもりなんでしょ」
突拍子もない仮説だ。
「「はあぁ?どうしてそうなるんです(のよ)?!」」
俺と高坂先生がハモって抗議した。
「私に聞かないでよっ」
たしかに男の教員が来るからいい服を着ろだの、化粧をしろだのというのは…。
「ダメです。高坂先生には芹沢先生は渡しません」
美月が俺の前に立ちはだかって、背筋が寒くなることをきっぱりと言った。言った後にらみつけて威嚇しているみたいだ。高坂先生が目を丸くしている。
「ちょっとちょっと!いきなりあなた達そんな関係なわけ?自殺って原因は男女関係のもつれ?」
千草先生が意外にも慌てている。が、それは俺も同じだ。
「ち、ちがいますよー!さっき駅で会ったばかりです」
「そう!会ったばかり。でも、私は芹沢先生のために生きることにしたの!」
美月が再びきっぱりと言い切った。
「「えええーーー!?」」
二人そろって目を丸くしている。そして、しばらくするとその視線が俺に疑念のオーラと共に向けられた。
「私の教え子に何したんですか!」
高坂先生が顔を真っ赤にして叫んだ。美月が言ったことが恥ずかしかったのか、それとも本当に大事な生徒に手を出したとでも思っているのか、とにかく真っ赤だ。
「してない、してない!大体、立川からここまでいっしょに来ただけなんだから。わかるでしょ?改札でいっしょだったんだから同じ電車に乗っていたんだろうし」
慌てて弁解する。が、信じているかどうかは疑わしいところだ。
「高坂先生、千草先生、私たちはそんな不純な関係じゃありません。変な目で見ないでください」
誤解を与えるようなことを口走った本人が胸を張って言った。
「そ、そうです。変な勘ぐりしないでください。…俺…私は、自殺なんかしないで、もっと他の人を頼れって言っただけです」
俺も誤解を解こうと必死だ。美月が俺の言葉に一瞬不機嫌になりかけたようだが、俺の言ったのが事実だ。美月がなんか誤解しているかもしれないという考えは、とりあえず胸の奥底にしまっておくことにする。
「じゃあ、先生、私は次の授業から出席しますので。失礼しまーす」
「放置かよっ!こら!」
「あっ、そうそう、帰りいっしょに帰りましょうね。じゃー、また後でねー」
美月はかわいらしく頭を下げると、誤解を解くのに必死な俺と、ほとんど硬直してしまってる先生2人を置いて、長いさらさらの髪をなびかせながら校舎のほうへと走っていってしまった。
「あ、おい!放っときかよっ!こら!」
もはや聞こえるわけがない。恐る恐る背後の2人に視線を移してみる。硬直していないようで一安心…出来る状況ではなく、再び追及の矛先が俺に向けられていた。
◆ あとがき ◆
やっと日の目を見ることになりました。
実はかなり前から書いていたのですが、オリジナルの場合はキャラクターのイメージが版権物のパロディと違い、共有できないので、人物のイラストは絶対必要かな…などと考えると、小説だけ出来ても発表に踏み切れないでいました。
もちろん、一般的な小説はそれがなくても問題ないはずなんですが、今は、特に若い人向けは挿絵が当たり前の世の中ですから。
本当は、少なくとも今回登場する二人のヒロインと主人公、双葉千草先生ぐらいはデザインを発表したかったのですが、結局間に合わず、二人のヒロインのみ公開からのスタートとなってしまいました。 (主人公はもうまもなく(^^;)
続きを読んでみたいと思ってくれる方が一人でもいてくださればと思います。
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