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【zero】 Chapter 5
私は狭い路地を歩いていた。建物の隙間から、所々に赤い夕焼
けが差し込んでいる。
「あたしはアンナ。あんたの名前は?」
先程から私の左腕に取りすがって歩いている女が聞いた。
「ゼロ。」
私は言った。
「ゼロ? ゼロかぁ… 自然界に存在しない数字だね。うん、あんたのような不思議な男には似合いかもね。へへ、これでもあたし、大学で物理学勉強してた
んだ。」
この町で購入した衣服の袖を通して、アンナという女の体温が伝わって来る。人間の女の持つ柔らかくしなやかな感触も、私の触感センサーが捉えていた。
「なぜおれに付いて来る?」
私は聞いた。
「あんたが好きだから。」
アンナが言った。
人間という生物は直感的に、好き嫌いで事象を判断する事が多い。中央演算処理装置で情報を解析し最も効率の良い方法を割り出すより、はるかに短時間での
判断が可能だ。
詳細なデータを基に割り出していないので多くの間違いもあるが、これが蛋白質で作られたプロセッサーのメリットだろうか。
そこには感情という機械に存在しない領域があり、それが全ての思考や行動を最優先で決定しているからだ。
戦闘マシーンである私には、その感情という回路が設定されていない。
「その物理学は、現在役に立っているか?」
私は聞いた。
「微妙ね。わっ、おっきなピストル…」
私の左腋に触れたアンナは、腋のホルスターに納められた10ミリ口径のタクティカル・ピストルをコートの上から触って言った。
「あんたさぁ、いったい何の仕事してるの?」
アンナと言う女は、興味に目を輝かせて私の顔を覗き込む。
「その情報は、お前に必要ではない。」
私は言った。
「ごもっとも。」
アンナはぺろりと舌を出して言った。
私は廃工場の壁に作られた通路を潜った。
アンナも私に付いて通路を潜る。
踏み出した私のブーツの踵の下で、錆びたスパナがぎしりと悲鳴を上げる。
そこはかつて町工場であった空間だった。
巨大な印刷機が数台並んで蹲っていて、周囲には微かにインクと揮発性溶剤の臭気が残留している。
その工場が操業していた頃に倉庫であったと思しき場所に、薄い板で区切られた五個の個室が作られていた。
この工場のオーナーが戦災で工場を畳み、代わりに工場の一部をアパートメントとして安い家賃で貸し出していた。
私は構造上睡眠を取る必要が無いので住居は無用だが、ホームレスは警察組織に目を付けられやすい。目立たないようこの町の住民に成り済ます為にも、居住
地を持つ必要があった。
私は自分が借りている個室のドアに付いた簡素なキーを開き、ドアノブを回しドアを引き開く。
簡易ベッドとテーブルとイスだけの、人間一人が生活する為の必要最低の家具が配置されており、テーブルの上にはジャンク屋で購入したノート型コンピュー
タが置かれている。
揮発性溶剤や機械油の匂いにさえ慣れてしまえば、町工場の倉庫という建築構造上、湿度と温度を一定に保たれるように設計されているせいか、人間にとって
ある程度は快適に違いない。
「うん、結構暖かいじゃない。悪くないよあんたのウチ。」
アンナは部屋に入ると、すぐにコートを脱いで肩の開いたドレス姿になる。
アンナの胸元に、きらりと光るものがあった。
先端に銀のクロスの付いた、首に着ける装飾品だ。
突然アンナは私に抱きついて来て、私の顔に自分の顔を近づけて私の音声を出力する口腔部の先に自分の唇を押し当てて来た。
何度も何度もなすりつけるように私の口を吸い、アンナは顔を離して私の視覚センサーを覗き込む。
「ねぇ… しよ。もう我慢できないのよ。」
アンナの体温の変化がサーモグラフィーからも読めた。
生物が子孫を残す為の行為に繋がる本能、さかりと呼ばれる状態だ。
これにも感情というものが大きく関与している。欲情という性行為へのスイッチだ。
生憎と言うか、当然だが、私には生殖機能というものが存在しない。
私の体表を覆う、半有機性流体金属で構成された擬似生体組織を利用しての性交渉は可能だ。だがこれは、潜入作戦の為に付加された機能である。
「いいから帰れ。」
私は言った。
「んもう!つれないんだからぁ。でもそんなところがいいな…」
アンナは私のコートを脱がす。私といえばコートの下には、半袖のシャツ一枚にハンドガンを吊ったホルスターのみだった。これらは全てこの町で入手したも
ので、擬似生体組織によって偽装したものではない。
アンナは私の腕の盛り上がった、半有機性流体金属で構成された筋肉を掴んで小さな悲鳴を上げる。私の上腕の円周は、アンナの腿よりも大きいだろう。
抱きついた私をベッドに押し倒し、アンナはドレスを脱いだ。
ドレスの下には何も着けていない。美しく均整の取れた裸体が露わになった。
アンナはベッドに仰向けになった私の、コンクリート迷彩のズボンのチャックを開き中身を探っている。
アンナは再び小さな悲鳴を上げた。
「ああ、凄い… でもまだね。いいわ。」
アンナは私を跨ぐようにして上乗りになる。
そのしなやかな体を私に押し当て、何度も私の顔に唇を這わしていた。
私といえば、廃工場の天井を見つめぼんやりと思考していた。
これが人間の営みなのか。
その気になればこのアンナを抱くことも可能だが、その行為には全く意味は無い。
アンナは後ろ手に、私の股間に作られた偽装の生殖器を掴む。
セックスの為の用意は出来ていないし、私にその行為をする必要も無かった。
「んもう、頑固なオトコね。それともアレなの?」
アンナは私の胸に体を落とし、耳元で囁く。
「あれとは何だ?」
私は聞いた。
「インポテンツ。」
アンナは言った。
「かも知らんな。あきらめて帰れ。」
私の言った事に、アンナはくすりと笑った。
「冷たいヒトね。でも、そんなの大好きよ。」
アンナは私との性交を諦めたのか、私の隣に寄り添うようにして横になった。
「暖かい… いいの、こうしてじっとしてて…」
私に抱きついたアンナは言った。
私は人間と同じように、体温を発散するように造られている。心拍や脈拍も存在する。
アンナは目を閉じ、私の体から何かを吸収しているかのように私に取りすがっていた。
私は裸体のアンナが唯一身に着けている、胸元の装飾品を手に取る。
アンナは目を開き、そのクロスを摘んだ私の指先を見つめていた。
「ああ、それ。お母さんの形見。」
アンナは言った。
「形見?お前を造った親は消滅したのか?」
私は聞いた。
アンナはぷっと吹き出した。
「変な言い方。そう、一年前の政府軍の爆撃でね。大学に行っていたあたしが帰ってきたら、もうウチは粉々。お父さんとお母さんの死体も見つからなかった
のよ。」
アンナは目を伏せてそう言った。
「あたしが子供の頃、お母さんがこれをくれたの。これにはね、神さまがいるんだって。これを信じていれば、どんなに辛くて苦しい時でも、きっと神さまが
あたしを助けてくれるんだって。」
アンナは言葉を続けた。先程までの町の売春婦とは、何か違う内容のアンナがいた。
神… 神とは何だ?
私は全身の器官をスリープ状態に置き、センサーのみを働かせていた。
エネルギーの無駄な消費を避け、全身の器官にメンテナンスを施す為の大事な時間だ。
私のボディには外部からの状況に対応した調整機能と、更に自己修復機能が備わっており、これによって私は半永久的に活動が可能に造られている。
私の横ですやすやと寝息を立てていたアンナが、突然目を覚ました。
睡眠状態に入ってから、3時間12分42秒経過したところだ。
私のベッドから体を起こし、手早くドレスを身に着けバックから鏡を取り出し化粧と髪型を直し、コートを羽織る。
「帰るのか?」
「あら?!起きてたの?」
私が声を掛けた事に驚いて反応し、私のほうを振り返る。
「うん。お腹空いたから、何か買ってこようかなぁって思って。ねえゼロ、何か欲しいものは?」
「必要ない。」
「んもう、可愛く無いったら。何か食べなきゃ体に悪いわよ。勝手に買って来るからね。」
アンナはそう言い残すと、私の部屋を出て行った。
私の部屋を静寂が押し包む。
廃工場のアパートメントの隣人たちも、まだ帰って来ていない様子だった。
私はベッドから身を起こし、ベッドに座ったままの姿勢で腕を伸ばしテーブルを引き寄せた。
ベッドの上のノート型コンピュータを端にずらし、私は左腋に吊っていたタクティカル・ピストルを抜き出すとテーブルの上に置いた。
ベッドの下から工具箱を取り出し、タクティカル・ピストルの分解を始める。
マガジン・キャッチを押さえマガジンを抜き、スライドを少し引いてスライド・ストップの軸にスライドのノッチを合わせた状態から、スライド・ストップの
軸を反対方向からドライバーの先端で押して、少し突き出したスライド・ストップを引き抜く。
今度はスライドを前進させ、フレームから外す。さらに外したスライドから、リコイル・スプリングとガイドを引き抜きバレルを外した。
ポリゴナル・バレルのライフリングも丹念にブラシで洗浄し、フレームのトリガー部からスライドのハンマー機構まで十分にオイルをくれてやる。
私がタクティカル・ピストルのメンテナンスを終え、再び元の形に組み上げた時には22分と32秒が経過していた。
廃工場の通路を、人間が歩く音が接近してくる。
足の運び方から発する足音でアンナのものだと判った。
だが、足音はアンナ一人のものではなく、複数の足音が背後から迫っていた。
それらは足音を消そうと努力して歩いているが、私の聴覚センサーは鮮明に捉えている。
視覚センサーをサーモグラフィーに切り替えると、部屋の薄い仕切り板を通して幾つもの人影が感知できた。
部屋のドアに一番近い影がアンナのものだ。背後に五人の全て体格的に男の影があり、それらは金属反応のある器物を携えている。
部屋のドアが開き、見覚えのあるアンナの顔が覗いた。
「ゼロ…」
アンナは蒼白になった顔で、私を見据えていた。
「どうした?その顔は…」
私はアンナの美しい顔の左頬に青痣と、唇の裂傷を確認した。
「逃げて!ゼロ!」
アンナが悲痛な表情でそう叫んだ次の瞬間、廃工場を揺さぶるような轟音が響いた。
私の目の前で、薄い戸板とアンナの細い体が粉々になって吹き飛ぶ。
一瞬で原型を留めない程に破壊されたアンナの背後から聞こえた銃声で、空冷のベルト給弾式の7.62ミリの汎用機関銃であると確認できた。
アンナの体を貫通した弾頭が、幾つも私の体にめり込んで来る。
私は着弾の衝撃で後方に吹き飛び、更に追い打ちをかけるように7.62ミリの弾頭が飛来し、廃工場の壁を破壊し尽くした。
私の体の上に、重量のある崩壊した壁のコンクリートが覆い被さり、一瞬身動きが取れなくなった。
機関銃の掃射が止まった。
「殺ったか?…」
「ああ。いくらバケモンみてぇに強いからってなぁ、こいつを食らえば間違いなくオダブツだぜ。」
男達の興奮した声がした。
「ははっ!俺らをナメたらどうなるか教えてやったまでよ。さてと帰ろうぜ。女は上玉だったんで、ちょいとばかし勿体なかったけどなぁ。」
数人の笑い声が響く。
仰向けに倒れた私は崩壊したコンクリートの下敷きになった状態で、全身のダメージの状況をサーチする。
センサーや器官に損傷は無い。運動機能にも全く影響は無い。
7.62ミリの被甲弾が、右側の額に1発、左頬に1発、胸部に3発、右肩に2発、左脇腹に2発、右大腿に1発。全て半有機性流体金属で構成された擬似生
体組織に留弾している。
被弾を除き、全て正常。
私はコンクリートの廃工場の壁の残骸を押しのけ、ゆっくりと体を起こした。
「えっ?」
五人の男達は、コンクリートの立てる音に振り向き、私の姿を見た瞬間硬直していた。
私の擬似生体組織に留弾していた7.62ミリ弾頭が排出され、瓦礫の上に音を立てて落ちる。
私は目の前の瓦礫の中に光る物を発見し、そっと拾い上げた。
それはアンナが首に掛けていた、銀色のクロスだった。
そのアンナのクロスが、私の手の平の中で小さく光る。
私を襲撃しアンナを射殺した5人の男達に、私はゆっくりと顔を上げた。
神… 神とは何だ?
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